雨の調

Knavery@語り部

喫茶『レイン』

「ごめん、急に予約入っちゃったんだよ、いやー助かった!」
 時刻は11時前。開店直前のお店に僕が着くと、マスターは慌しく、料理の下準備をしていた。
 僕の働く店は、『レイン』と言う名前の古き良き、近所の方々の憩いの場と言う感じの喫茶店だ。雨の日に、大学の最寄りの駅から一つ歩いてみようと一人で散歩をしているときに見付け、店の雰囲気も気に入ってバイトをさせてもらっている。前のバイト先は店長が苦手だったので即行でやめてしまった。
 土曜日となると、時たま子供会の会合などの場になるので、慌しくなるが、基本的にはそこまで忙しくはない。今日はその忙しい日だ。ちなみ月曜日と木曜日が定休日。
「急だったなら断ればよかったじゃないですか……」
僕は呆れながら開店の準備を進める。店内の装飾品を拭き、入り口を掃き、店内の椅子を並べ、入り口の札をオープンへと変える。今日は一般的にはあいにく(僕的には折角)の雨なので、開店早々からお客さんはやっては来ないだろうが、それでもきちんと時間までに店内は整えておくべきである。これ、僕が来なかったらどうしていたのだろうか?
「昨日の夜に決まったらしくてね? ほら、近所の囲碁教室。なんか久しぶりに食事会でもって言っていたのを覚えていたけど確証はなかったからさ」
「ああ、佐々木さんとか、武田さんとかですね」
 僕はこの店の常連客の顔を連想しながら頷いた。店長は人がいいので、断れないと思ったのだろう。そうでなかったとしても、この店は個人経営なので、貴重な収入源である常連さんのお願いは断り辛い。
「人数は多いけど、幸いカレーとサンドイッチでいいらしいからさ。いいかなって」
 それ、一人で作って、一人で運ぼうとしてたのか、この人……。
「僕が暇じゃなければどうしてたんですか……」
「そしたら……お隣さんから人借りてたかな? あ、サンドイッチの下準備もしておくから、カレー鍋お願いできる?」
「……お隣さんの営業は夜からですよ。まあ、ママさんはいるだろうけど、寝ているんじゃないですか?」
 僕は呆れながらカレー鍋をかき混ぜる手を動かし続ける。
 この店の隣はスナックとキャバクラを混ぜたような小ぢんまりとした風俗店で、僕も何度か回覧板を届けるときに中にお邪魔したことがある。……あれ? 女性との接点あるじゃん。とも一瞬思ったが、隣さんの店員さんたちはお姉さんよりもやや年上で、正直恋愛の守備範囲から外れているので、ご近所さんと言う感覚なのだろうと自分で勝手に納得した。
「ホント、君がこの店にバイトに来てくれて助かってるよ。最近、女房は子供のお世話で忙しくてお店に出れないからね。雨様様だね! 『レイン』って名前にして良かったよ。こうして僕以外の雨好きの変わり者と出会えたんだから」
「自分で変わり者って言ったよ、この人」
 僕の方も、自分が変わり者なのを認めているが、この人も大概である。天然なのだ。こうして無自覚に思った言葉を口にしてしまう。僕や常連さんのようになれている人ならいいが、普通のお客さんには失礼な言葉を口に出さないか、正直はらはらする場面もある(初見のお客さんにはしっかりしているが、通い始めるとボロが出る)。だからだろう、僕がこのお店でバイトしたいと言った時、奥さんに手を取って喜ばれた。
 正直、この人、本当になんでこの店経営できているのだろうかと最初は思ったが、こうして一緒に働いていると、不思議な安心感や居心地の良さというものをこの人から感じるのだ。人を落ち着かせる才能……カリスマの一種とも言えばいいのだろうか、マスターにはそれがあるのがよくわかる。お店に通っている人々も、マスターの人柄を好いている人がほとんどだ。あと、時たま来るマスターの息子さんも大人気である。
 そして、僕がこのお店でバイトをしようとした理由はもう一つある。
「あと、あの絵……ですかね」
 僕はちらりと、店の奥に飾られている。‘雨とアジサイが描かれている黒板’を見た。僕がこの店でバイトをしようと思った最も大きな理由である絵。
「あのチョークアート、見事だよね。僕もあまり詳しくはないんだけどさ、あれは一目で気に入っちゃって、お隣さんにお願いして頂戴しちゃったよ」
 アジサイのチョークアートは、元々お隣さんの店に飾ってあったものの一つだそうだ。回覧板を届けた際に、ジュースをいただいたことがあるのだが、隣の店には他にもひまわりやバラなど、花の描かれたチョークアートが数種類飾ってあったのを覚えている。
「元店員さんの娘さんがそう言うの得意だったらしくて、その娘さんの作品なんだって、凄いよね」
 お隣から頂いたとは聞いていたが、それは始めて聞いた。飾ってあった絵は、どれもとても綺麗だったので、ママさんが買い集めているのかと思っていた。
「そうだったんですね、プロの方なんですか?」
「聞いてみたけど、違うんじゃないかな? 当時高校生とかだったらしいし。けど、もしかしたら今はアーティストとして活躍しているかもね」
 僕はあのような綺麗な絵を描けないので、いったいあれを書いた人はどのような人で、どのような世界(自分)を持っているのだろうと、思いながら、カレー鍋をかき混ぜ続けるのだった。

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