雨の調

Knavery@語り部

久々の香り

 翌日、地面に雨粒が当たる音をBGMに目を覚ました。……今日も雨だ!
 そして、覚醒しだした僕の鼻が吸い込んだのは、何かの焼けたような、優しい香りだった。この匂いは何だろうか? 朝にの匂いをかぐことなど久しくなかったので、何の匂いかが出てこないが……とても、懐かしい……。
 上半身を起こし、テーブルを見ると、そこにあったのはハムエッグと少しのレタス。そして、コーヒー。完璧なモーニングセットだった。匂いの元は、トースター(買ったはいいが久しく使っていない)。その前に立ってお姉さんがパンの焼き上がりを待っていた。パンなんて本当に久しく食べていなかったので、わからなかった……。商店街にパン屋はあるらしいのだが、今朝はその前を通らないし、帰りも遅いことが多く、商店街よりも駅前のデパートを利用しているので、めったに行かないから本当に久しく焼けたパンの香りをかいでいなかったのだ。。
 一回体を伸ばして、立ち上がる。それと同時に、ちょうどトースターからパンを取り出していたお姉さんが此方に気付いた。
「おはよう。ちょうど起こそうかと思っていたところだ」
 早かったかと、少し遠慮がちに付け足して訪ねたお姉さんの言葉で、僕は壁に掛けてある時計を確認した。普段起きている時間と同じくらいだったので首を横に振り、いつもこの時間には起きていると伝えると、お姉さんは「そうか」と、一つ息をついた。
「簡単なものですまないが、朝食を用意したから食べよう。朝食は大切だ。食べると一日元気でいられる……とは言っても、私も久々に食べるのだがね」
 テーブルにパンを置いて、もうひと往復。まだ何か用意してくれているようだ。
「さあ、今のうちに顔を洗ってきたまえ。さっぱりするぞ」
 僕は言われるがままに、顔を洗いに行くのだった。
そして、戻ってきたテーブルの上には、ヨーグルトが追加されていた。
「ありがとうございます。けど、こんな材料冷蔵庫にありました?」
 訪ねながら、僕はお姉さんの対面に座る。今更だが、一人暮らしなのになぜテーブルがあるかというと、これは僕の前にこの部屋に住んでいた方の物だ。大家さん曰く、その方は大家さんの親戚だったらしく、このテーブルの処分を大家さんに押し付けたそうだ。大家さんも最初は捨ててしまおうと考えていたが、このテーブルがまるで新品のように綺麗だったので捨てるには勿体ないと、僕にそのまま使わないかと尋ねてくれたのだ。
引っ越しには費用もかかるし、家具を買うのも、組み立てるのもめんどくさいと考えていた僕はありがたくこのテーブルを譲り受けたのだ。
……まあ、トースターと同じく、実は引っ越してきてのこの二カ月の間にこのテーブルが活躍することはあまりなかったのだが……(現に、テーブルの端にはお姉さんが除けたであろう郵便物や教科書が綺麗に置きなおしてあった)。まあ、こうして活躍の場ができたので、無問題だ。こうして今はお姉さんが用意してくれた朝食が並んで活躍しているのだから。
「先ほど買ってきた。一晩一宿の恩をこれ位で返せるとは思わないが、よければ食べて欲しい」
 そう言って微笑むお姉さん。だが、うん……絶対聞き間違えではない。きっと、素で間違えている……。
「……一宿一飯じゃ?」
 僕の指摘にお姉さんの顔が赤くなる。
「そ、そうだったな、一宿一晩だな。間違えてしまった」
 また間違えているが、それを指摘する前に、「そんなことより食べよう」と、パンの載ったお皿をテーブルに置き、お姉さんは手を合わせる。実は少し天然さんなのだろうか?
「いただきます」
「いただきます」
 僕も手を合わせ、パンへと手を伸ばし、そして、改めてその香りをかぐ。うん、久しぶりにかぐ香りだ。実家にいたときは母か家政婦さんが朝食を用意してくれていたが、此方に来てからは朝には食事を抜くことが当たり前になっていたので、この当たり前だった香りがとても懐かしく感じた。そして、その香りをかいでいる内に、僕の御腹が小さくなりそうになったので、パンをかじる。
「……おいしいです。とても……」
 本心だった。ただ焼かれただけのはずのパンが、とてもおいしく感じる。久しく味わってなかったこの素朴な味が、口の中に広がった瞬間に、なんていうか、とても懐かしくなった。ハムエッグも口に運ぶ。……うん、おいしい。
「そうか、そういってもらえると用意した甲斐があった」
 お姉さんは静かに微笑む。その笑顔は、昨日見た笑顔とはどこか違う気がした。
「本当に朝食を久しぶりに食べたので、なんていうか……懐かしいと言うか……あたたかいっていえばいいんですかね?」
「それは最高の誉め言葉だな。しかし、少年は朝食を抜く人だったか――――なら、余計な真似をしてしまったか?」
 僕は慌てて首を横に振る。
「そんなことはないですよ。実家にいた時は用意をしてくれていたのできちんと食べていたので。もっとも、一人暮らしをしてしまうと、どうもめんどくさくて……こういうところは親のありがたみを感じます」
「ならよかった。最近はそういう理由で朝食を抜く人も多いらしいな。私は母親の影響で働いていたころは必ず食べていたな……」
 そういって窓の外を見る。何かを懐かしむような表情のお姉さんの瞳は、昨日見た、寂しそうな瞳だった。僕はまた、何もいえなかった。
 そして、無言のまま朝食を食べ終えた。
 その後、食器を洗いながらお姉さんは僕に今日は何かあるのかと聞いてきた。ちなみに食器洗いも、恩返しの一環だと言われたのでお言葉に甘えた。
「いえ、何もないはず――――」
 と思ったが、そう言えばと、昨日着ていた上着からスマホを取り出した。昨日の夜に、今日は人手が足りないと、マスターに言われていた(昨日も少し残業したのに……)。案の定、僕のスマホには、マスターからヘルプとの助けを求めるメッセージが入っていた。……昨日の時点で出勤して欲しいならそう言えばいいのに……。
 僕はため息をついた。どうせ人がいいマスターのことだ、ギリギリまで自分で頑張り、やはりどうしようもないとなったのだろう。気持ちは嬉しく思うが、経営者としては失格ではないだろうか……。
「僕はバイトになってしまったので……」
「お出かけか、この雨の中大変……いや、君は雨が好きなのだったな。私だったら、この雨の中出かけるのは避けたいものだがね」
「流石にバイトの時は話が別ですかね……接客業なので濡れたままお客さんの対応するわけにはいきませんし」
「確かにびしょ濡れの店員は嫌だな」
 お姉さんはクスリとほほ笑むと、僕に何のバイトをしているのか尋ねてきた。
「喫茶店のパッとしない店員さんです」
「喫茶店か……そういえば、昔母が働いていたお店の横が喫茶店だったな……何度かそこで食事もしたが、ホットケーキが絶品だった。もうつぶれたがね。今は何になっているのだろうか」
 懐かしむお姉さん。お姉さんの、思い出の味だったのだろう。どんなお店だったか気になったが、つぶれてしまったのならば仕方がない。
「それは残念……あ、あった。これ、スペアキーです」
 僕は鞄からキーケースを取り出し、そこから鍵を一つ取り外し、テーブルに置いた。普通スペアなので部屋の中にでも大切にしまっておくべきなのだろうが、僕は隠すのが面倒に感じてしまい、そのまま持っていたのだ。
 お姉さんは、また目をぱちくりとさせて、鍵と僕を交互に見るが、それを気にしている余裕もない。もう直ぐ10時を過ぎる。たぶん、ランチの準備に追われているだろうから、マスターに折り返し連絡をしても意味がないので、それはしない。だったら向かったほうが速い。
 着替えを持って浴室に移動し、中で急いで着替える。女性の前で着替えるのは、少し気恥ずかしい。
 着替えていると、ここでようやくお姉さんの呆れた様子の声が扉を介して聞こえてきた。
「普通、昨日会ったばかりの人間に鍵は渡さないと思うのだけれど……」
「お姉さん、泥棒とかには見えませんし」
「君は人を信用しすぎではないか?」
「人を見る目には自信があるんですよ」
 扉の外から聞こえてきたお姉さんの声は、先程と同じで、呆れたような、困惑したような声だった。
 実際に、嘘は言っていない。これでも人を見る目には自信がある。沢山の人に出会い、期待され、妬まれ、蔑まされ、望まれた経験があるからだ。そんな世界にいたくなくて、逃げ出して、もう、必要ないと思っていたこれが、こんなところで役に立つとは思わなかった、と一人苦笑する。
 だからだろうか、これまで出会ったことの無いタイプの人だが、お姉さんが泥棒だとか、美人局の類ではないという確信が僕には不思議とあった。まあ、仮にそうだとしても、うちに金になりそうなものなどないけど。……いや、実家はそういえば少し大きいや。
 僕は着替え終わるや否や、鞄を担ぎ、靴を履く。傘も忘れてはならない。雨の音は、なかなか大きい。
 靴を履いていると、お姉さんが玄関までお見送りに来てくれた。
「……行ってきます」
「ああ、行ってらっしゃい。車には気を付けるのだぞ?」
 ……この言葉を言ったのは、いつ以来だっただろうか?
 そんなことを思いながら、僕は玄関を開けた。

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