新米オッサン冒険者『外伝』 ~受付のオッサンが転職を決意するまで~

岸馬蔵之介

後編

「ちくしょー。こんな日に限って前に書いた書類のミスが見つかるなんて」

 リックは仕事からの帰り道を猛ダッシュしていた。

 約束の時間まであと15分。ギリギリ間に合うか?

 その時だった。

「モンスターだ! モンスターが現れたぞ!」

 昨日と同じような声が聞こえてきた。

 こんな時にかよ! とリック内心で毒づいた。

 こちらに走ってきた一人がリックに言う。

「おい、アンタも早く逃げるんだ」

「今度は何が出てんだ? スライム? ゴブリン? もしかしてまたトロール?」

「今言ったのも全部いる。大群なんだよ。モンスターの大群がこの先の6番地区に現れたんだ!!」

 リックは目の前の男が言ってることをよく理解できなかった。

 モンスターの大群だって? 流石にありえないだろ。

 しかし、もしそれが事実だとしたら。

「リーネット!」

「お、おい、待てよ」

 制止する男を振り切ってリックは再び走り出した。

 しばらく行くと、本当にたくさんのモンスターが町の至る所で暴れていた。

「無事でいてくれ。リーネット」

   □□□

「って、考えてみれば心配する意味まるで無かったな……」

 待ち合わせの第六地区にある食事処の前に行くと、リーネットが前と同じメイド服で立っていた。

 そして周りには切断されたモンスターの死骸がこれでもかと言うくらい、まさしく山のように転がっていた。

「あ、リック様ですか。こんばんわ」

 当然本人は無事である。というか返り血すら浴びていない。

 さすがSランク、完全に化け物である。

「どうやらお食事は今度ということになりそうですわね」

「はあ、そうなるよなあ……って、そう言ってる間にモンスター集まって来てるし!!」

 ざっと見て50匹以上、上級モンスターもちらほらと混じっている。

 その中の一体。石の鈍器を持ったコボルトがリックたちに向けて飛びかかってきた。

 しかし、そのコボルトを倒したのはリーネットではなかった。

「おらぁ!!」

 ズドンと大ぶりの斧がコボルトを盾に真っ二つにした。

「よお、リック。そんな可愛い子ちゃんとデートかよ。助けなきゃよかったかぁ?」

 ザイードであった。

 そこに新しい声が聞こえてくる。

「焼き払え、祝福の焔『フレイム・ボール』!!」

「武術・拳の型。『礫砕き』」

  ザイードだけではない、他にも何人かの冒険者たちが現れ、モンスターと戦っていた。

 恐らくギルド上層部が、緊急のクエストを用意して協力を仰いだのだろう。

 ザイードは鼻を鳴らして言う。

「はっ、楽しくなってきたじゃねえか。おい! お前ら! ちったぁ俺の分も残しとけよぉ?」

 戦況は一方的であった。

 魔法使いたちの魔法がモンスターを吹き飛ばす。

 戦士たちの剣がモンスターを切り倒す。

 冒険者たちの戦いは手慣れたもので、自由自在に動き回り次々にモンスターを倒していった。

 リックはその様子を少しだけ見た後、彼らの戦いから目を背けるように下を向いた。

「どうしたのですか? リック様」

「いや、なんかちょっと見たくなくてさ」

「何をですか?」

「誰かがモンスターと戦ってるところ。今までも見ないようにしてたからさ」

 リーネットは昨日の晩、リックが言っていた言葉を思い出した。

『俺ギルドの受付で仕事してるけど、冒険者が戦ってるところ実際に見たことなくってさあ。どのくらい皆が強いか分からなかったんだよな』

 受付とはいえリックはギルドで仕事をしていたのだ。その気になれば冒険者たちの戦いを見る機会などこれまでいくらでもあったはずである。

 でも、一度も見なかった。見ないように努めてきた。

「なぜ、そんな事を?」

 リックは下を向いたままその場に座り込んで言う。

「だってさ、嫌だったから。俺がやりたかったことを誰ががやってるところを見るのが。見たら嫉妬しちまうじゃんか。俺は冒険者になる道を選ばなかったから……そんな俺が、アイツらを羨む権利なんてねえよ。小物だよなぁ俺……かっこ悪いだろ?」

 リーネットはリックの背中に優しく手を置いて言う。

「確かに、かっこよくはないですが……別に、かっこ悪いということはないと思いますよ」

 その意外に小さな手から伝わってくる温もりが温かくて、惨めな気持ちが少しだけ紛れる気がした。

「ありがとうリーネット。お前ホントにいい女だよな」

   ■■■

 18年前。12歳のリック・グラディアートルは王国国民教育学校二年時にある検査を受けた。

 その検査とは『固有スキル判定検査』である。

 固有スキルは極稀に発生するその人物だけの能力である。王国はこの検査によって固有スキルを持つものを選別し、その能力の種類と本人の希望によって騎士学校や魔道学院の特待生として迎え入れる。

 学生たちはもしかしたら自分に凄い力が宿っているのではという期待と、滅多に発現しないものなのでどうせ自分にはないだろうという諦めの入り混じった複雑な表情をしていた。

 しかし、その日のリックは憂鬱な気分一色であった。

 前日に学校から出された課題を後回しにて、冒険小説を読んでいたところを父に見つかり本を捨てられてしまったのである。

 その本はリックが言葉の意味もよく分からぬうちから何度も何度も読み返した『英雄』ヤマトの冒険譚であった。母親は何も言わずに二人の様子を見るだけだった。

 宿題をすっぽかしていたのは、まあ自分が悪い。しかし、だ。それにしたってそこまですることはないだろう。

 苛立ちやら虚しさやら悲しさやら、色々とごちゃ混ぜになったまま上の空で検査を受けたリックに、魔導士教会から派遣された魔道医師が言う。

「おめでとう。君に固有スキルの因子が見つかったよ」

 最初、リックは茫然として何を言われたのか分からなかった。

「まだ、実際に習得までいってないからどんなスキルかは分からないけどね。鍛えても発現するものでもないし気楽にしてくれ。いずれ、スキルとして現れたらぜひ我々魔導士協会の門を叩いてほしいものだねえ」 

 魔道医師の言葉がやけにはっきりと聞こえたことは、今でもよく覚えている。

 リックはその日の学校の帰り、息を荒上げながら走った。

「ぼ、ぼくに、固有スキルが……」

 特に理由はない。とにかく走りたい気分だった。

 しかし、ふと立ち止まる。

 両親がいつも自分に言う言葉を思い出したのだ。

『冒険者はいつ死ぬか分からない危ない職業よ。できれば他の安全な道に進んで欲しいわ』

『お前もいずれ家庭を持つんだ。安定した真っ当な仕事につけ』

 冒険者に憧れる自分を父や母が快く思っていないのは知っている。昨日のことでそれを改めて思い知らされた。

「でも……僕にはあるんだ、『英雄』ヤマトも持っていた固有スキルが……」

 そして決意した。この固有スキルが発現したら自信を持って二人に言うのだ。自分は将来、冒険者になると。

 リックはまだ小さな拳を強く握って、大きな空に力一杯突き出した。

 強く、強く、大きな夢に向かって、その手を伸ばすように。

 だが。

 リックの固有スキルが発現することはなかった。

 1年経っても。3年経っても。

 いつまで経っても、リックの固有スキルが発現することはなかった。調べたところによれば、因子は持っていても能力が発現しないという例は少ないながらもあるとのことだった。

 できるだけ若いうちに基礎となる訓練を受けるべき。そんな冒険者の常識がリックの胸をチリチリと締め付けていく。

 そして気が付けば、6年が経っていた。まだスキルは発現しない。

 あと一か月で国民学校の卒業がせまったある日、リックの手の中にはある一枚の紙があった。

『おめでとうごさいます。この度、ギルド『タイガー・ロード』は貴方を受付職として採用させていただくことになりました』

 リックはその紙を見ながら、一人思うのだった。

 ああ、うん。世の中そういうものだよな。と。

 両親はいたく喜んでいた。

   ■■■

「これでラストおおおおおおお!」

 ザイードがトロールを袈裟に切り付けて倒した。

「おう、リック。終わったぜ」

 その言葉を聞いてリックは顔を上げた。モンスターは全滅。人間側の犠牲者は一人もいないようだった。

「お疲れ様……どうだ? たくさん稼げたか?」

「おう。明日の換金が楽しみだぜ。うーん。それにしても、異常だよなあ」

「ああ、そうだな」

 二人が唸っていると、リーネットがたずねてくる。

「どういうことでしょうか?」

「リーネットは最近こっちに来たんだよな? 受付で顔見たことないし。俺生まれてからずっとシャンクワットに住んでるけど、今まで5回しかモンスター現れてないんだぜ? それも現れてもせいぜい下級モンスターが数匹とかさ。それがこの前はボストロールに今度は巣の中ひっくり返したような大群だろ?」

「こりゃなんか原因があるな。近いうちにギルドと魔導士団で周辺を調査することになるだろうぜ」

 その時。一人の冒険者が空を指さして叫んだ。

「お、おい。あれ……あれ見ろ!」

 その言葉に皆が目線を空に向け、そして、その場に立ち尽くした。

 ザイードが震える声で言う。

「嘘……だろ!? なんで、なんでこんなところにドラゴンがいるんだよ!!」

 上空に巨大な影があった。

 ドラゴン。

 言わずと知れた、全モンスターの中でも最強クラスの強さを誇る種族である。

 その強さはもはや自然災害の一つとして考えられるほどであり、ギルドにおいてもAランク冒険者5人以下のパーティは即座に逃げることを推奨している。

 しかし、生息地はもっと強力なモンスターの頻出する地域であり、こんな田舎町に来ることなどありえないはずだった。

 ドラゴンは羽ばたくのを止め、悠々とリックたちの前に着地する。

 体長は優50メートル以上。尻尾も含めた全長にして100mはくだらない。

 この時、その場にいた全員が理解した。

 コイツが原因だ。

 ここ最近の町でのモンスターの異常発生。挙句の果てに一帯の主であるボストロールまで町に現れたのは。皆この怪物から逃げてきたからだったのだ。

 驚愕に目を見開いていたリックだったが、すぐにもう一つの違和感に気付く。

 リーネットが身を丸めて苦しそうにうずくまっているのだ。

「リーネット!? おい、大丈夫か?」

「す、すみま……せん。大丈夫です。昔のその、トラウマのようなものでドラゴンの魔力にあてられると、体内の魔力が全くコントロールできなくなってしまうんです」

「それ、全然大丈夫じゃねえよ!」

 魔力は簡単に言えば体内に常に流れるエネルギーであり、訓練を受けていない一般人でも普段から無意識にその力が暴走しないように制御している。もし、それが乱れれば体は動かなくなり内側から体を傷つけ始めてしまう。しかも、リーネットはSランクになるほどの魔力の使い手であり、その保有量はリックのような一般人とはケタが違うはずである。

「ダメだ。今ここにいる戦力じゃ全く歯が立たねえ。お前ら、逃げるんだ!!」

 ザイードの声に金縛りが解けたかのように、一斉に皆が逃げ出す。

 リックもリーネットを抱きかかえると、すぐさまドラゴンとは反対方向に駆け出した。どうにかして逃げ切って一度、医者に見せなければ。

 が、少し進んだところで壁のようなものに阻まれる。

 見れば他の者たちもその壁に阻まれ逃げられずにいた。

「ちくしょー、何だこれは!?」

 ドラゴンが周囲に結界を張り巡らせているのである。大型モンスターはその性質上動きが鈍重なことが多い。だから、ドラゴンのような強い魔力を持つ種族の中には、結界を張りその中に獲物を閉じ込めるものがいる。

 そう、この場の人間たちは獲物なのだ。今から始まるのはドラゴンによる一方的な蹂躙である。

 何人かが魔法や武器を叩きつけるが、ビクともしなかった。

「クソッ!! かなり強力な結界だ! ダメだ、これじゃあ逃げられない」

「嘘だろ!」

「いったいどうすれば……」

 混乱する冒険者たち。そして。


「―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――!!!!」


 ドラゴンが咆哮した。

 獣の鳴き声を何百倍にも増幅させたかのような音圧と威圧感が、周囲を駆け巡る。

「あ……ああ……」

 戦士は鍛え上げられた剣をその場に落とした。

 魔法使いの口からは呪文ではなくただ神に奇跡を祈る言葉が紡がれた。

 日夜モンスターと戦ってきた冒険者たちが次々と膝を折って茫然とする。

 皆がその場から動けなくなってしまっていた。

 冒険者とは日頃から体を張って、時にはその命を危険にさらして戦う職業である。ここに集まった男たちも、皆一度は『勝てないかもしれない』『死ぬかもしれない』と言う戦いを経験していた。

 しかし、今回はわけが違うのだ。『絶対に勝てない』という圧倒的な絶望と『絶対に死ぬ』という確実な死の恐怖がただそこにあった。

 唯一、この場でドラゴンを倒せるであろうリーネットは動くことすらできない。

 もはや万策は尽きている。

 そして。

 唯一その場にいた人間の中で、戦いを生業とするものではないリックは。

「リック様……?」

 いつの間にかドラゴンに向けて歩み出していた。

 □□□

「お、おい! 何やってんだアイツ!?」

 皆が驚愕する声が聞こえる。

「待てリック! お前が立ち向かって何になる、いったい何ができる!?」

 そう言ったのはザイードだった。

「無駄死にするようなマネはよせ!! お前は冒険者ですらないただのギルドの受付だろ!!」

「そうだな。お前の言っていることは全くの正論だよ……」

 そんなことはリック自身にもわかっている。ザイードの言う通り自分はただの受付員だ。自分で言うのも悲しいが、14年間書類仕事ばっかりしてた運動不足の冴えない中年オヤジなのである。目の前のドラゴンに勝てるなんて思えない。今すぐ逃げ出して泣きながらその辺にうずくまってしまいたい。

 それでも、リックはもう一歩、ドラゴンに向けて踏み出した。

「ただ……なんだろうな。この場にいる誰も、アイツに挑もうとしてないなって。そう思ったらさ、どうしても立ち向かいたくなったんだよな」

 ザイードにはリックが何を言ってるのか分からなかった。ポカンと口を開けてリックを見る事しかできなかった。

「それに、もしこれで戦って死ぬとしたら。俺はさ、こんな俺でも冒険者だったって言えるんじゃないか……とか、思ったりもしてな」

 そう言ってリックは二カリと笑った。

「お前のこと、ずっと羨ましいと思ってたんだぜザイード」

「……リック、お前」

 リックはザイードを後目に一歩ずつ歩を進める。

 圧倒的な絶望に向かって、確実な死の恐怖に向かって。

 少しずつ近づいてくるドラゴンの異形。

 あの巨大な足で踏みつけられたら跡形もなく潰れるだろう。

 あの巨大な爪で一突きされたら体に大穴が開くだろう。

 あの巨大な尻尾に打ち付けられたら全身の骨が砕けるだろう。

 こちらの攻撃はあの強靭な鱗と分厚い皮膚で無効化されてしまうだろう。

 明確に浮かぶ死のビジョン。

 本能と理性が叫ぶ。『止まれ』と。

 だが魂が叫ぶ。『戦え』と。

 両親の言葉が頭をよぎった。

『冒険者はいつ死ぬか分からない危ない職業よ。できれば他の道に進んで欲しいわ』

 だが、この足は止まらない。 

『お前もいずれ家庭を持つんだ。安定した真っ当な仕事につけ』

 だが、この心臓はドクドクと熱い血液を全身に送り込む。

 事ここに至ってリックは確信する。

 そうだ、これがしたかった。

 繰り返す日常の中で、安心という檻の中で、ずっと、ずっと、ずっと。

 ずっと俺は、こんな風に生きたいと願い続けていたのだ。

 皆がリックの姿を見ていた。

 たった一人、あの男だけがその場で動いていた。

「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」

 ザイードは大声を上げて立ち上がった。

「おい! お前ら。恥ずかしくねえのか! あそこにいるアイツは何の力も持ってねえ。なのに戦うことで飯食ってる俺たちが先に諦めちまってるじゃねえか」

 ザイードは落としかけていた斧を両手で持って背中に担ぎ、ドラゴンに向かって歩き出した。

「お前らはどうするんだ!? 俺はいくぞ、俺は戦うぞ。ドラゴンだろうが何だろうが知ったことか。アイツと同じだ。俺は戦わずに死ぬなんてごめんだぜ!!」

 少しの間。やはり皆、動かなかった。

 強大な敵に歩を進める二人の男の姿を見つめるだけだった。

 だが、やがて一人、また一人と動き出す。

 戦士たちが落としていた剣を拾い上げ、二人の後を追った。

 魔法使いたちがただ奇跡を祈るだけの言葉を止め、二人の後を追った。

 冒険者たちはザイードと同じように雄たけびを上げながら立ち上がり、二人の後を追う。

 立ち上がった冒険者たちを引き連れて、その受付員は声高々に言う。

「さあ、行くぞドラゴン。これが俺の最初の冒険だ!!」

   □□□

 リーネットは魔力の乱れによる激痛の中、その様を見ていた。

 不思議な光景だ。

 立ち向かうという強い意志を秘めた男たちが群をなして強敵に向かって行く雄々しい姿。だが、その先頭に立つのは、本当に何も持たないただの中年の男なのだ。

 いや。ただ一つだけ、彼がこの場の誰よりも持っているとすれば、それはきっと。

『勇気』というものに違いない。

 だが。

 この世には『現実』というものがある。

 ドラゴンが大きく息を吸い込む。

 ザイードが叫ぶ。

「まずい! 全員自分のできる最大の防御を使うんだ!」

 次の瞬間。

 ドラゴンの口から凄まじい衝撃波が膨大な魔力をのせて放たれた。

 ドラゴンの攻撃の代名詞。全てを破壊し尽くす息吹。ドラゴンブレスである。

 勇敢に歩を進めていた男たちは、なすすべなく吹き飛ばされた。地面が抉れ、ブレスの通り道にあった建物は根こそぎなぎ倒されていく。強化魔法による防御力の強化も神性魔法による防御結界もまるで役に立たなかった。誰も死ななかったのは奇跡的と言うものだろう。先ほどの魔導士たちの祈りが神に届いたとしか思えない。

 だが、冒険者たちは再び動き出すことができないほどに体と心を打ち砕かれていた。

 たった一撃でこの有様なのである。敵はドラゴン。魔物の中でも最強を誇る種族。多少気合を入れたところで勝てる道理がない。

 皆そのことを理解してしまった。今度は誰も立ちあがれない。

 リーネットは悔しさに唇を噛む。自分が動けさえすれば、こんなことには。

 だが、ドラゴンの魔力に触れるだけで恐怖が蘇り、どうしようもなく氣がコントロールできなくなってしまう。体が動かない。こうなってしまってはSランクなど意味がない。今の自分は下級モンスターにすら一方的に攻撃を受けて蹂躙されるだろう。

 ドラゴンが再び息を大きく吸い込みだす。

 もうダメだ。皆が心の中でそう思った。

 その時だった。

 ゾワリ、と。

 その場にいた全員の意識が何かを感じ取った。

 ドラゴンですらその動きを止めた。

 ガラリという音と共に瓦礫の下から一人の男が這い出して来る。

 リック・グラディアートルだった。

 全身はこれでもかと言うくらいにボロボロ、目の焦点はハッキリとせず、幽鬼のような有様である。

 だが。

 リックは再び立ち上がり、ドラゴンに向かって歩を進めた。

「…………」
「…………」
「…………」

 その姿に周囲の人間たちは先ほどのように勇気づけられることはなかった。

 彼らが感じたのは恐怖だった。

 もはや『勇気』などという理性的で生易しいものではなかった。人間どころかドラゴンですら本能的に恐れさせるほどの無謀、無茶、向こう見ず。

 『蛮勇』とでも言うべきものだった。

 リーネットも他の者たちと同じことを思っていた。

 なぜ、そこで立ちあがれるのか?

 なぜ、あれだけのどうしようもない力の差を見せつけられて、歩を進めることができるのか?

「リック様、あなたは、いったいなぜ……」

「……現実なんて……何も知らなかったガキ頃……俺の……夢は、誰も倒せなかった伝説の隠しボスを倒すことだった……」

 リックは息も絶え絶えになりながら言う。

「いや……本当は、今だって……いつだってそうだ……俺の夢は今日までたった一度だって変わったことなんかねえんだ!! だからよぉ。テメエみてえなただのトカゲやろうに、ビビってなんかやれねえんだよ!!」

 そんなものは夢物語だ。だいたいお前はその年で冒険者ですらないじゃないか。

 そんなことは、その場にいる誰も口にできなかった。むしろリックの姿を見て、かつての自分達も子供の頃に同じ夢を描いていたことを思い出し、そして思うのだ。

 もしかしたら、この男なら、と。

 しかし、やはり目の前には『現実』がある。

 ドラゴンはリックへの本能的恐怖を振り切ると、足を振り上げ踏みつけようとする。

(ああ、デカい足してるんだなドラゴンは)

 リックの頭はどこか冷静だった。走馬灯だろうか。迫ってくる巨大な質量の塊がやけにゆっくりに見える。

 あれで踏みつけられれば一介の人間など、割れた水風船のような無残な姿になってしまうだろう。

(まあ、そうなるよな……『現実』、これが『現実』。俺みたいに今までビビって踏み出さなかった人間は、ここで本物の力に踏みつぶされて終わり。うん、分かってる、分かってるって。もういい歳だもん俺)

 目前まで迫るドラゴンの足。

(分かってるのに、立ちあがっちゃうんだよなぁ。何度諦めようとしても、また気が付いたら胸が熱くなってる。うん、ああ。そうだよ……やっぱ俺はどうしても……)

 リックはドラゴンの足に向かって手を伸ばした。

(あの夢を、この手に掴みたい)

 その時、リックの耳に聞いたことのない無機質な声が響いた。

『スキルを取得しました。固有スキル『蛮勇覚醒レクレス・ソウル』を発動します』

 ドオォォン、と。巨大な足がリックに降り注いだ。

   □□□

「リックウウウウウウウウウウウウ!」

「リック様あああああああああ!」

 ザイードとリーネットの叫び声が響き渡った。

 他の皆は沈黙するしかなかった。残虐なほどの力の差に、現実を前にした意志の力と夢の儚さに。今度は自分たちの番だ。無残に何もできずに蹂躙されるのだろう。

 が。あることに気付く。

 ギリギリと、少しずつだがドラゴンの足が浮いていくのである。

 誰かがこう言った。

「お……おい、見ろよあれ」

 信じられないことが起こっていた。

 踏みつぶされたと思っていたリックが、右手一本でドラゴンの踏みつけを受け止め、なおかつそのまま押し返しているのだ。

 ドラゴンはさらに強く体重をかけて、目の前のちっぽけな存在を踏みつぶそうとする。

 しかし、リックは潰れない。眉一つ動かさずにドラゴンの膂力を押し返し続ける。

 今度はリックが手に力を籠める。

 肉が抉れる音と共にリックの指がドラゴンの足に食い込んだ。

 悲鳴を上げるドラゴン。

 リックは右腕にさらに力をいれて、ドラゴンの足を完全に押し戻す。

 下から押し上げてくる想定外のパワーに、巨体が一瞬宙を舞い、バランスを崩して地面に倒れた。

「な、なんだよありゃあ……ホントに、リックなのか?」

 ザイードはもはや目の前の現象を上手く脳が処理しきれていないのか、瞬きすら忘れてその光景を見つめることしかできなかった。

 一方、リーネットも驚愕にその端正な顔を歪めていた。

 リックの体を紅色のオーラのようなものが包んでいる。

「どうなっているのですか……膨大な魔力が溢れだしてハッキリと目に映るほどに可視化してますわ……」

 リックは『魔力』を鍛えずにすでに30歳になる。これだけの量の魔力を生成できはずがない。なにより完全に可視化するほど純度の高い魔力を生成できたのはこの世界でたった一人……『英雄ヤマト』だけなのだから。

 リックはオーラに包まれた自分の手を見つめる。

 そして思った。

 ああ。今頃か、今頃になって……。

 少年の日に夢見た、何度も何度も思い描いていた自分だけの力が……今、この手の中に。

(遅いんだよ馬鹿野郎が……もう、おっさんになっちまったじゃねえか)

 リックはグッと拳を握る。 

「おい、立てよトカゲやろう。テメエをぶちのめして、そうだな……背骨を釣竿の素材にしてやる。だからさっさとかかってこい」  

 リックの言葉に答えるかのようにドラゴンは翼を広げて飛び上がった。

 空中から接近し、その長く強靭な尻尾を鞭のようにしならせリックに叩きつける。

 襲いかかる鱗に包まれた鞭に対して、リックは無造作に裏拳を放った。

 グジャアっと、ドラゴンの尻尾が腸詰か何かのようにリックの拳が当たった先から肉と血をまき散らしながら吹っ飛んだ。

 ドラゴンは再び激痛に悲鳴を上げたが、最強種として生まれたものの矜持なのかすぐさま次の攻撃を繰り出す。

 ドラゴンブレスである。大きく息を吸い込み。エネルギーと魔力を肺の中で練り上げる。

「リック!」

「リック様!」

 ザイードとリーネットが叫ぶ。

 リックは右手で握り拳を作り振りかぶると、ギリギリと拳に力を籠める。

 そして、放たれるドラゴンブレス。先ほどの一撃よりも遥かに濃度の濃い魔力と巨大な衝撃波の濁流がリックに向かって押し寄せる。

 リックも空中に向けて拳を撃った。同時に全身にまとっていたオーラが、一直線にドラゴンに向かって放たれる。

 奇しくもその姿は、幼きあの日、自らの中に眠る可能性知ったあの日に拳を天に突き上げた姿と同じであった。

 激突する両者の一撃。

 しかし、勝敗は瞬時に決した。

 リックの放ったオーラはドラゴンブレスを一瞬で押し流し、ドラゴン本体に直撃。

 今度は悲鳴を上げる間すら与えず、体の半分から上を跡形もなく消し飛ばし、それでも止まらず夜空をかき分け雲を吹き飛ばし、大気圏すら超えて宇宙に漂っていた直径1kmの岩を木っ端みじんに粉砕した。

 浮力を失い。半分になったドラゴンの巨体が地面に落ちて、大きな砂煙を上げる。

「はあ、はあ、はあ……へっ、こりゃ来週末の釣りが楽しみだな……」

 リックはそう言って、その場に倒れこんだ。

   □□□

 リック・グラディアートルが目を覚ましたのは病室だった。

「いってえええええええええええええええええええええ!!」

 ちょっと体を動かそうとしたら、全身に激痛が走った。

「無理をしないほうがいいですわ。全身の氣や魔力の回路がめちゃくちゃに壊れて、ほとんど死人みたいな状態だったのですから」

 何とか首を横に動かすと、リーネットの姿がそこにあった。相変わらずのメイド服である。

「俺、どれくらい眠ってた?」

「二週間です。ベッドから起きられるようになるのは、まあ、あと一か月後と言ったところでしょうか」

 ……有給申請できんのかな。

 リックがそんなことを考えているとリーネットが話を始めた。

「出会った夜に言ったことを覚えていますか?」

「ああ、『俺が今から冒険者になってやっていくのは、ほぼ不可能』だったな」

「はい。アナタは私にそう言われてスッキリしたとおっしゃっていましたが。まあ、大嘘でしたね。冒険者たちの戦いは見たくないと言うし、ドラゴンにも向かって行くし。どう考えても冒険者やりたくてしょうがないんじゃないですか」

「……悪かったな。諦めきれねえんだよ、馬鹿だから」 

「そうです。無理と言われても諦めなかった。だからこそ、私はアナタをお誘いするためにずっと待っていました。不可思議な力でドラゴンを倒したアナタではなく、なんの力も持っていなくてもドラゴンに向かって行ったアナタを」

「え? それってどういう……」

「私の所属する大陸最強と言われるパーティ『オリハルコン・フィスト』にいらしてください。そこで修行をすればアナタは強くなれます」

「えーっと」

 リックは何とか思考を整理しようとする。

 つまりどういう事だろう。Sランク超一流冒険者であるリーネットに俺が勧誘されてるのか? しかも、大陸最強のパーティ?

 リーネットがリックの手を取って、真っ直ぐに目を見つめて言う。

「私が保証します。アナタはきっと冒険者としてやって行けます。いえ……なるべきです冒険者に!!」

 病室にしばし沈黙が横たわった。

「……ああ、そう言えば。初めて言われたな」

「え?」

「冒険者になるべきだって……今まで反対されるか、微妙にお茶を濁した感じの言葉しか聞いたことなかったからさ。そうやって真っ直ぐ目を見て、本心から断言してもらえたの初めてだ」

 リックの中にリーネットの言葉が染み渡っていく。

「……なあ、目指していいんだよなぁ」

 気が付けば瞳から涙がこぼれていた。

「……ずいぶん遠回りして、遅くなっちまったけど……俺は、冒険者になってもいいんだよなぁ」

 30歳のいい歳こいたオッサンが人目をはばからずボロボロと泣き崩れる。

「はい。そうですよ。なっていいんです冒険者に。私が協力しますよ。一緒に頑張りましょう」

 ああ、うん。ずっと、その言葉を誰かに言って欲しかった。

 この夢は誰かに認められるもので、この夢を応援してくれる誰かがいると思える言葉を。

「『オリハルコン・フィスト』の最終目的はアナタの夢と同じ。『英雄』ヤマトすら成しえなかった隠しボスの攻略ですから。アナタのようなお馬鹿でなければ務まりません。覚悟しておいてくださいね。アナタには隠しボスとの戦いで活躍できるようビシビシと鍛えてもらうつもりなので」

「おいおい……怖いこと言うなよ……」

 リックは涙を拭うと、満面の笑みで言う。

「だが上等だ。言ったろ、俺の夢も同じだってな。どんなキツイ特訓だってかかって来いってんだ。究極のモンスター『カイザー・アルサピエト』は俺が倒す!!」


 この後、リックは『オリハルコン・フィスト』の一員となり、二年間まさに地獄のような修行をすることになるのだが、その時は勇ましくそんなことを言ってのけたのである……できれば優しく鍛えてくださいと言っておけば良かったかなあと、後々後悔することになったのは言うまでもない。

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