インサイド

三島 景

23歳、サラリーマン(2)

そんなことを考えながら電車を降りると、そこそこのビジネス街が眼前に広がりました。
 取引先は駅から徒歩五分のビルにオフィスを構えています。僕はエレベーターの中で慎重に身だしなみを整え、取引先の受付の受話器を取りました。
「受付です」
 少しくたびれたような女性の声が受話器から聞こえました。
 僕は会社名と名前を告げ、担当者を待ちます。
 待っている間ずっと、今日話さなければならない事項を脳みその表面で滑らせながら、今僕がここにいるだけで、分子をお互いいくつ交換しているだろうかと想像していました。
 僕が握った受話器から、もとは受話器と一体化していた分子が僕の手の表面に移ったことでしょう。その代わり、僕の表面で僕のものとしてしばらく留まっていた皮膚の分子の一部は、受話器に移ったかも知れません。靴、ビル、椅子、絨毯、僕。命あるものは僕だけに見えましたが、近くには大きなサンセベリアがありました。そいつも僕と同じ、呼吸をしながら分子を受け流す存在です。サンセベリアが日々、何と分子の交換をしているのか、僕はちょっと想像もつきませんが、きっと僕がいま近くで吸った空気の一部分は、サンセベリアからもらったに違いないと思います。
 五分ほど待つと、先方の担当者が現れました。
 僕は挨拶と名刺交換を済ませ、相手の様子を伺いました。受付の女性の印象とは違い、担当者はとても優秀そうな人でした。ただしきりに、僕の背後の棚の上に置いてある大きめの花瓶に目をやっていました。彼は飾ってある花を見ているというよりも、その花瓶が気になっている様子でした。
 僕は手短に話を済ませると、手続き上の書類を彼に書かせました。今後の両者の関係を保証する書類で、今日はもともと、その書類の作成のために来ていたのでした。
 書類の作成が済むと、僕は彼がしきりに目をやっていた花瓶を、首を回して確認しました。
 なるほど素人の僕の目にも明らかな、立派な花瓶でした。部屋に入ったときは一瞬のことで分かりませんでしたが、品があってどっしりとした作りの、はっきり言って「高そうな」花瓶でした。
「立派な花瓶ですね」
 僕は相手に言いました。
「え?ああ…」
 彼の返事が少し、僕をばかにしたような感じで鼻につきました。僕がよほど新人で力のない者に見えたのかもしれません。
 僕は若干気を悪くして「では、本日はこれで」と言い書類をまとめにかかりました。勿論、相手に当たり散らしたりはしませんが、僕も暇ではないことを示しておきたかったのです。
 すると彼が僕の名刺をいやらしく眺めながら言いました。
「君、何年目?」
「一年目です」
 僕は咄嗟に正直に答えました。
 すると彼は「あ、そう」と言ってつまらなそうに席を立ちました。
「最近は君みたいな面白みのない子、少なくなってきたけど、おたくはみんなこんな感じ?」
 彼は僕を打ちのめすのには十分な言葉を放ったあと、作ったばかりの書類を破きました。
「やっぱり契約は白紙にさせてもらう。もう一度話したいなら、他の担当者を寄越すように上司に伝えてくれ」
「え…」
 僕は何と言ったら良いかわからず、その場に立ち尽くしました。言い返すだけの材料を自分が持っていないことに、羞恥心が膨れあがっていく感覚がありました。
 彼は「悪いけど、今日は帰ってくれ」と言い放ってその場から消えていきました。
僕は彼の背中をおろおろしながら見届けた後、受付の人にはなんとか取り繕って、逃げるようにビルを後にしました。
 日光がじりじり照りつけるオフィス街を、下を向きながら駅へ戻ります。恥ずかしい想いと悔しい想いとで、僕はしばらく立ち止まりませんでした。すぐに駅に着き、迷わず電車に乗りました。
 僕は行きとは打って変わって、かなり切羽詰まった思考を滑らせていました。
 ただ一つ結論らしきものが出たとすると、取引先の彼は、僕の顔と自分の会社玄関に置いている花瓶を見比べて、釣り合わないという結論を出したのだろうということでした。とはいえ、反省する余裕など、そのときの僕にはありませんでした。取引先の担当者を非難することもできず、ただ自分の精神を落ち着かせることに集中していました。
 少しだけ落ち着きを取り戻し、思考が深くなってくると、自分が忙しさにかまけて考えることを大層おろそかにしていたように感じはじめました。それで頑張っていたつもりだったのが、おまえは何もしていないと言われて気が動転したのです。彼の言うことにも一理あったのです。
 今までの自分に存在価値がないとしたら、今の自分にも未来の自分にも大した存在価値は見いだせそうにありません。そもそも僕は、誰に必要とされれば納得がいくのでしょうか?会社の人間か、お客様か、家族か、友達か、それとも全部か。それらの中で、物質が淀む僕という存在を、本当の意味で認識しているのは誰なのでしょうか?むしろ、僕は存在していると断言できるのでしょうか。僕には核があったのでしょうか。核がない一つの個体ならば、全ての物質が他へ移ればそのまま消えてなくなるでしょう。もし核があれば、その周りには再び物質が集まってくるのでしょう。
 行きに面白おかしく思考していた問題が、まさに今の僕に突き刺さってきます。
 このまま、遠くへ行きたい。そんな想いに駆られ、僕は電車を降りることができませんでした。

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