家庭犬

増田朋美

第二章

陽子は、龍子のいえのまえに、車をとめた。
「ごめんください!」と語勢をつよくして、戸をたたいた。
「なんですか、龍子は、先ほどでかけましたよ!」と、しぶしぶ戸を開けた繁雄は、眼の玉をいしで、ぶっつけられたような、衝撃をうけた。
「朝倉礼の母親の、朝倉陽子です。一言、お願いがあってまいりました。」
と、客は、きりっとした目つきでいった。
「朝倉礼?誰のことですか?いま、忙しいんですから、おひきとりを。」
「お父様。覚えていらっしゃらないんですか?まあ、なんということでしょう!では、二十年前に、お嬢様が、家の礼に何をしていたか、おわかりになりますか?」
「わかるって、何がですか、うちの龍子が、なにしたって、学校から、一度も呼び出しは受けませんでしたよ。」
「そんなことありませんよ、被害者の家の子は、強制退学させられて、それから、10年ほどブランクがあって、やっと大検をとって、大学にいくことができたんですよ。そのあいだ、私がどれだけ、つらい思いをしたか、ご存知でして?礼は、失明もして、PTSDにもかかって、思い出せば、この世のものとは、思えない凄まじい叫びをあげて、頭を壁にぶつけたりして、とめるのに、どれだけくろうしたかしら。教えてあげます。礼は、龍子さんに、アルコールをかけられた上に、火をつけられて、髪を全てなくし、かおを半分焼かれたんですよ!」
繁雄の顔が蒼白になった。自分の娘が、そんなことをしていたなんて、全くしらない。繁雄は、床にひざまずいて泣きに泣いた。
「泣きなさい、なくがいいわ。父親なんて、どうせそんなもの。男親って、とくに娘の場合、娘のことを全然しらない人が多すぎるから。いっておきますけどね、女親が子供を産むときって、すごい痛みなのよ、体中、火花が燃えているようなもの。もうだめだ、死にたいって、思ったときに、すって力が抜けて、赤ちゃんの産声を聴いた時の感動は、わすれられませんよ。とにかく、女はそれができるものだから、息子が顔が半分焼けたら、犯人探しなんて、すぐできるようなもの、お忘れないでくださいね。」
陽子は、そういって、涙の止まらない
老人に、唾を吐きかけ、部屋をでていった。そのとき、お龍は、裏口を開けて、そっとでていった。

「ねえあなた、」
石井英子は、テレビの前でゴロゴロしている、夫にいった。
「今度の連休、温泉でも、いきませんか?」
「つまんないよ、そんなところ。部活の遠征でよくいったから、もう飽きた。温泉旅館なんて、みんなおなじさ。」と、夫の石井正人はいった。
「そうじゃなくて、私とですよ。もう、高校は、定年されたんですから、私の方へ、優先度をあげてください。あなたは忙しいばっかりで、子どもが作れなかったから、私は、毎日毎日、寂しかったんですよ。」
「パソコンがあるじゃないか。スマートフォンだってある。mixiやFacebookで、たくさん友達は、いくらでもできる。それさえあればいいだろう。」
「でも、見えない顔のひととやりとりするのは、なんだか、さびしいわ。ねえ、どこかいきましょうよ。」
「SNSで、知り合ったひとと行けばいいじゃないか。近くのひとは、いるだろう。」
そうじゃなくて、と英子は、いいたかったが、夫は、何をやってもぬかに釘だった。こんなはずじゃなかったのに。結婚式もあげて、新婚旅行にもいけるほど、裕福な家庭に嫁いだ。当時は英子も、教師であったが、結婚してからは、教師をやめた。子作りに励むためだった。しかし、二年経過しても子供はできない。そのために、不妊治療をはじめたが、体外受精にも、失敗。卵子提供というてもあるが、そうこうしているうちに、子宮けいがんを発症してしまい、子宮をすべて切除しなければ、ならなかった。そして、産婦人科の医師にこういわれた。英子の生殖器は、全く異常はなかった。原因は正人の貧精子症である、と。
英子は、子どもがすきだったので、保育士のしかくをとり、保育園で働いた事もあった。しかし、ピアノで音大にいったことが露呈されると、酷いパワハラにあい、やめざるをえなかった。
いまの生きがいは、唯一夫が許可した、津軽三味線だけであった。
ある日、英子は、家の庭をふらふらとしている、グレーバウンドをみつけた。散歩中に迷子になり、いえに紛れ込んできたのか、と、おもった。首輪に迷子札があり、龍子の名前と、住所、電話番号が明記されていたため、英子は、飼い主は、心配しているだろう、と思い、グレーハウンドを車に乗せて家をでた。



英子は、カーナビに犬の迷子札に書いてあった、住所をけんさくし、その場所へ車をはしらせた。
近くの、有料駐車場に車をとめ、犬を抱いて、家の玄関に近づくと、脅迫する女性と、幼児のように、泣いている男性の声がした。犬が、英子の手をすり抜けて、玄関に向かってほえた。
と、玄関が空いて、女性がでてきた。怒りに満ちた、般若のようだ。
女性は、英子に軽く会釈するだけで、通り過ぎた。犬は、相変わらず泣き声がする、玄関に向かって吠えている。英子は、呼び鈴もならさず、玄関を、あけた。
「あの、このワンチャン、お宅様の物ですよね?」
「お龍!」と、繁雄は、声を上げた。お龍は、繁雄の顔をペロペロとなめた。まるで、慈しむような、優しい目立った。
「あ、お龍さんっていうのね。」
「はい、、、。」
まだ涙の止まらない繁雄をみて、英子は、何十年ぶりに、教師の血がさわいだのか、子どもがしたことに、全く気づかなかった親だと察知した。
「すみません。」と、英子は、優しくいった。
「差し支えなければ、話していただけますか?私、こうみえて、もと教師でしたから、中には、問題があったお宅を、拝見したことがありましたから。

繁雄は、彼女を居間にとおした。涙を流した茶をだした。不思議な犬だ、と、英子は、思った。グレーハウンドは、確かに忠実な犬だとは、知っている。しかし、いつまでも、彼の顔をみていて、そっと、寄り添うようにみている犬などいるだろうか?
「実は、、、、。」
繁雄は、しどろもどろになりながら、先ほどの顛末を、はなした。
「そうだったんですか、、、。」
と、英子は、自分が教師であったときを思い出した。公立の高校だから、進学率など通用しなかった。ただ、費用が安いからくる。親に私立へいかせてやると、いわれておきながら、実は公立しか、いかせてもらえず、不良と化した生徒を何十名もみてきたし、その逆で、勉強が嫌だからといって、公立にきてしまう、生徒もいた。親の経済力で、学力が違うという世界に、英子は、無情をかんじていた。
「お父様」と、英子は、静かにいった。
「残念かも、しれないけれど、お父様の威厳を示す、良い機会かもしれませんよ。」

と、そのときだった。玄関の戸がガチャリとあき、
「お父さん、帰ってきたわよ、今日は、お父さんの次に大好きな人をつれてきた。」
と、龍子が帰ってきた。
「本当にきていいのかな、僕、」
と、礼。龍子は、すぐに、
「いいのよ、お父さん、大喜びするはずよ。」
と、つかつかと家に入っていった。礼は白い杖で様子を探りながら入っていった。 
「お父さん、」
と、龍子は、居間にはいった。居間にいる、女性のことは、目もくれず、
「この人、朝倉礼さん。あたし、結婚する。彼と、小さいアパートにすんで、彼が古筝を教えて、私は、障害年金で、くらしていく。もう、36になったけど、やっとあたしも、一人前になったわ。」
「朝倉礼」この名前をきいて、英子も動揺した。じぶんの夫が、教師であったときに、よく口にした名前だった。
「龍子」父はきっぱりといった。
「お前は、まず、彼に対して、罪をみとめ、償いなさい。そうしなければ嫁には行かせない。」
父は、厳しい口調でいった。こんな厳しい顔をした父は何年ぶりだろうか。
「お父さん、何をいっているの、私、罪なんかないわよ、そんな、大袈裟じゃないわよ、アパートだってすぐ近くにこの前たたったばかりでしょ、もう、契約したのよ、取り消しはしないわ。」
「お前は、」と、父はいった。
「礼君に、火をつけて、顔を焼き、目を失明させた。これが罪だ。少年法にまもられていたから、学校でも、あまり取り上げなかったから、すぐ忘れたたのだろうが、彼の心についた傷は、はかりしれないだろう。その証拠に、かれは、退学している。おまえは、ぬくぬくと高校生活をやり、卒業はできたのに、かれは、出来なかったのだろう!」
「違います!お父さん。」
と、礼がかばうようにいった。
「確かに、それは、ありました。でも、彼女も傷ついていたんです。そうでなければ、あそこまではしませんよ。僕を退学させたのは、石井正人という、担任教師です!」
繁雄と、英子がひるむ番だった。
「君は、体の機能を失わせた張本人を、なぜ恨まない?」
「だって、仕方ないじゃないですか。
彼女に恨みを持ったって解決はしませんよ。それよりも、音楽家となれたから、逆に、感謝していますよ。高校にいたら、音楽家には、なれなかったでしょう。母にすごく反対されていたんです。でも、失明して、すごく落ち込んでいたときに、やっぱり力をかしてくれたのは、音楽でした。母もわかってくれて、大学にいくという夢ははずれましたが、家元直門させていただいて、いまは、大師範までいったから、それで、満足です。」
かれは、笑っていた。不満らしきものは、何も持っていなかった。ただ、じぶんの運命を受け入れ、うらみも持たず、つねにこれからを考えて生きる、という姿勢を身につけていた。
龍子は、思いっきりなきたかった。確かに父の言うことは、事実だ。そして、退学させるまでいってしまったのも事実だ。
「かえろうか、」と、礼はいった。
龍子と、礼は、アパートにもどった。カナダ人の建築家が建てたそのアパートは、おしゃれで、若夫婦にぴったりだった。
「礼君、」と、龍子は、弱々しくいった。
「あなたを、その顔にしたのは、私だったの?あなたは退学したの?きっと私に恨みを持っているでしょう?」
「そんなことはないさ。」と、彼はいった。
「なぜ?」
「だってもう、何も見えないから、恨んでもしかたない。」
「それならよけいに、、、。」
「そうなった方が幸せっていう、人間もいるよ。」
「どういうこと?」
「いま、学校が、苦しいって言う人は、大勢いるもの。そういう人に取っては、退学って言うものは、底から脱することになるから。確かに、学歴社会ではあるけれど、それに、どうしてもついて行けないっていう、人間もいるよ。」
「でも、あたしは、あなたの事を傷つけてしまったし。」
「あのね、龍子さん。」と、彼はいった。
「いま、一番欠けているのは、何だとおもう?許す、という事じゃないかな。いじめられたり、傷つけられたりしても、その人を許すこと。世の中ってのは、一方的に押し付けられるようにみえるけど、必ず裏があって、そこで得たものがある。それに気づかないで、病んでいく人があまりにも多すぎるだけなんだよ。」
「それ、どこでならったの?」
「僕が、教えている中等教育学校で。」
礼が、中等教育学校で、教えていることは、知っていた。下は13歳から上は90代まで。実に様々な年代が、勉強したい、という要求で、やってくる。
「君も、もう少し落ち着いたら中等教育学校にいって見るといいよ。」
と、礼はいった。
「とにかく、君の事を恨むとか、憎むとかは、全くないからね。」
礼は、龍子を抱きしめた。龍子も、それに応じた。

一方、石井家では。
「あなた」と、英子は、夫の正人にはなしかけた。
「ほあ。」生返事が帰ってきた。
「あなた!」英子は、語勢をつよくいった。
「私の方を向いてください!」
「一体なんだっていうんだ、お前の話はきいても、ろくなことがない。」
夫がしぶしぶたちあがると、英子は、思いっきり彼の頬を平手打ちした。
「あなた、朝倉礼という、名前を知っていますね。」
「ああ、知っているよ!それが何だっていうんだ、お前は、いちいち口をだすな!」
「では、彼が失明して中退したことは?」
「知っているさ、失明したら、健常者と同様にはくらせない。それに、他の生徒が勉強に集中できなくなって、進学率が落ちたらどうする?それにもう、とっくに時効じゃないか、、、。」
「やっぱりあなただったんですね。彼を退学にさせたのは。あなたは、彼の傷より、進学率を優先した。私に手を出すな、といっておいて、そんなにひどいことをしていたんですか!かれが、どれだけ傷ついたかわからないでしょう!」
「ああわからないね!いいか、高校の価値ってのはな、国公立に何人入ったかできまるんだ、教師はそのためにいるんだ。生徒が沢山国公立にいくように、指導をするのが仕事だ!」
「あなたは、人でなしだわ!もう、このうちにいられないわ、私、いまから、でていきます。もう、顔もみたくありませんわ。そのうちに離婚届を郵送しますから。」
英子は、怒りにまかせ、キャリーバッグに荷物をまとめて出て行ってしまった。

英子は、外にでた。外にいくと、灰色のグレーハウンドがいた。
「あらまた、脱走しちゃったの?」英子は、龍子のアパートに連れて行こうとしたが、お龍は、勝手にずけずけと、歩いていく。「こっちへいらっしゃい。」とでも、いいたげに。 
英子がお龍を捕まえようとすると、ワン、と、ある家にむかってほえた。その家は、朝倉礼の母親、朝倉陽子のいえだった。
鳴き声をきいて、陽子があらわれた。
「あら、お龍ちゃん、また、遊びにきたのね。ドッグフードたべようか?」
お龍は、英子をみて、ワン、とほえた。
「あら、貴方は、石井先生の奥様。」
「申し訳ありません!」
英子は、頭を地面につけた。
「謝ってすむ問題で、ないことは、わかっていますが、慰謝料も持ってきました。」
「奥様。」と、陽子はいった。
「奥様は、何もしらなかったわけですから、慰謝料は、いりませんよ。もう、20年も前ですから。私も、龍子さんの、家にいって、仕方ないかなってわかりました。恨みつづけても、何もありませんもの、龍子さんの、お父様も、しらなかったわけですし。ただ、欲をかいていえば、もうちょっと優しい目で、生徒さんたちをみて、あげてほしいとおもいます、」
陽子は、穏やかに言った。
英子は、涙がとまらなかった。
「いつのまに、学校は、そんなひどい場所になったのでしょうか。」
「なぜでしょう。私たちの頃も、いじめはありましたよね。その頃はガキ大将みたいな人がいて、いじめていたけど、止めてくれる人がいましたからね。いまは、全くなくなってしまいましたよね。」
「そうですね、私も、結婚するまでは教師でしたけど、そこまでいじめがエスカレートしてしまうことはありませんでした。ましてや、いじめで、自殺してしまうなんて。教師、失格です。」
「で
も、私たちは一生懸命やりましたよ。それを誉めてやらなければ。」
陽子は、英子の手をとった。

石井正人は、玄関から犬の声がしているので、金属バットをもち、ドアをガチャンとあけ、
「こら、この犬!」と、バットで殴ろうとした。すると、犬は、猛スピードでにげていった。足の速さで有名な、グレーハウンドだから、おいかけているうちに、どこへきたのかわからなくなってしまった。
「おい、犬はどこだ!」と、キョロキョロ歩きまわっていると、小さな学校があった。その中から、古筝の音がきこえてきた。
「佐藤中等教育学校」と、かかれた、看板に「古筝演奏会、自由にお入りください。」とかいてあった。
「こそう、、、えんそう、、、?」
正人が呟くと、
「あ、お客さまですね、どうぞお入りください、いま、第一部が終わったところです。公開授業も、やりますよ。
」と、車椅子に乗った老人がちかづいてきた。教師の勘で、校長だな、と、わかった。
「いったい、ここは、何をする学校なんですか、カルチャーみたいなもの?」正人は、吐き捨てるように、いった。
「はい、こちらは中等学校です。義務教育をうけてない、何らかの事情がある人がはいるところです。」
「いわゆる、不良学校ですな。演奏社は、だれですか!この曖昧な音、気持ち悪くなりますよ。」
「朝倉礼君です。古筝の持ち味はそれじゃありませんか?完璧な音を出せない、人間みたいなものですよ。」
石井の顔が見る間に、ガラリと変わった。
「朝倉礼、、、。」
「はい、この中等学校の第一期生です。当初は、いじめにあって、つらかったようですが、卒業してから、古筝の師範の免状をもらって、プロの古筝奏者なりました。いまでも、ああやって演奏にきてくれます。」
「も、もしかしたら、顔が半分焼けていませんか、その方は?」
「おっしゃるとおりです。」
「わあーっ!」
と、石井は、混乱した頭のまま、道路を走っていった。どの道をとおってきたかも、わからず、大雨が降ったのも、きづかなかった。
家につくと、
「英子!!」
と、どなりつけた。
「なんですか、びしょぬれじゃないですか、」
「朝倉礼に謝りにいくから、礼服を出してくれ!」
「あなた、やっと、その気に。でも、あたしはいきません。あなたの責任なんですから、あなたがいってくまさい。」
その時、犬の鳴き声がした。
石井がドアをあけると、グレーバウンドが座っていた。犬は、石井をみると、雨のなか、こっちへ来いという、仕草をした。石井は、傘もなく、はしりだした。


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