おかしな夫婦

増田朋美

第三章

光男はそのころ東京にいた。
毎日、雪野の世話でつかれていたし、酒も飲めない。カウンセラーの研修にいった
あと、家に帰りたくないな、という思いが現われ始めた。
光男は、研修会の後、銀座のホテルに向かった。其の途中、小さなバーがあった。
昨年もこのホテルに泊まってはいたけれど、このバーはまだなかった。いつの間に
できたのだろうか、好奇心で入ってみた。
「いらっしゃいませ」
初老のバーテンダーが迎えた。其の隣に、まだ二十歳そこそこの女性がいた。
かなりの美少女だ。本当に女らしい。豊胸で、ウエストは締まり、また、豊かな尻
ももっている。水商売には向いているかもしれない。
「あ、この人ね、真理子さんっていって、昨年入ったばかりなんですよ。こんな若
くみえるけど、もう三十九なんですよ。」
「真理子です、よろしく。」
美女は、そういった。すこし低い声だ。雪野とは違う、落ち着いている。やっぱり
彼女は、健常者だ。健康な女性と話したのは何年ぶりか。相手といえば、妻の雪野
や、クライエンとたちだったから。
「ご注文は?」
「じゃあ、ブランデーを。」
「了解です、少し待っててね。」
数分後、ブランデーが置かれた。光男は一気に飲んでしまった。
「まあ、伯父様、すごいのね。」
彼女はおどろいたようだった。酒になれていない光男は、べろべろに酔ってしまった。
彼の頭の中を、とてつもない欲望が支配していた。
「おれはよ、」
光男は、テーブルを叩きながらどなった。
「毎日毎日、精神病のやつらを相手して、この十年間、いちどもやったことの無い、
だめな男だ。」
二人は、「やってない」の意味がすぐわかった。
「普通の、女性、健康な女性。これがやっぱり一番で、一番乗り心地のいい物体だ。
俺の妻も精神病で、子供なんか育てられないのに、産もうとしている。そんなやつ
では無く、健康な女を襲って見たい。襲ってやるぞ、」
そうして、真理子の体に抱きついた。
「なにをやっているんですか!」
という、声が聞こえたが、あとは記憶が無い。

真夜中。僕が眠っていると、大音量でスマートフォンが鳴り出した。
「わあ、じ、地震でもあったか?」
と。思って大急ぎで画面をみると、警察署であった。
「あ、すみません夜分遅く。じつはですね、、、」
「ええっ!」
僕は大声を上げてしまった。隣のへやで寝ていた加寿子が目を覚まし、
「どおしたのう」
といった。
「光男さんが、強姦で捕まったんだってよ!で、家で引き取ってくれというんだ。
光男さんの財布に、僕の名刺があったから、こっちへかけてきたんだって。とり
あえず、ぼくはいってみるよ。」
「雪野ちゃんには何て言う?耳が肥えてるからすぐ気がつくわ。もしかしたら、シ
ョックで流産しちゃうかもしれない。どういったら良いのかしら。」
僕は、何がなんだかわからないが、とにかくいってみるといい、高速道路を飛ばし
て銀座に行った。案の定、真夜中なので、雪野さんはすぐ目覚めたらしく、僕が車
のエンジンをかけると、電気がついた。

僕は銀座に着いた。こんな時間でも、この町は眠らない。あちらこちらに風俗店が
ならび、売春婦たちが客をせびっている。
僕は、警察署にいき、佐藤安男と名乗ると、太った刑事が、
「この方に見覚えはありませんか?」
と、留置場に僕を連れて行った。
「やすおさん」
そこに光男さんがいた。酒のにおいが吐き気を催すほど漂っていて、光男さんの服
も乱れている。
「どうして僕は、こんなことしてしまったんでしょうか、、、。」
光男さんは幼児の様に泣いてしまった。
「どうしてぼくは、こんなことをしてしまったのでしょうかああああ!うちの雪野
を、だれよりも誰よりも、愛しているのにいいいい!」
「そんなこといったってね、」
先ほどの刑事がいった。
「被害者がいるんですから、それなりに、敬服していかなければなりませんよ!」
「どうして僕が、どうして僕が、、、お願いです、刑事さん、ここから出してく
ださい、もうすぐ、妻との間の、子供が生まれるんです。お願いします!」
「しかし、あなたは、その奥さんとではなく、普通の人とやりたくて、強姦したん
でしょ?被害者がそういっている以上、ちゃんと裁きを受けなければなりませんよ!」
「刑事さん」
僕は聞いた。
「その、被害者って言うのは誰なんです?」
「えーと、バーのウエイトレスです。三十九歳です。」
「で、其の女はどこにいるんですか?」
「はい、たったいま、部下の者が、近くの精神科につれていきました。半狂乱でした
ので。」
「じゃあ、彼女に合わせてもらえませんか?僕は、彼が強姦をしたとは思えないんで
すよ。いつも奥さんの側にいる優しい男性です。それは僕が保障します。」
すると、刑事のスマートフォンがなった。
「俺だ。」
「警視、とんでもないことがわかりました。精神科で検査したところ、真理子という
人物は、女性ではありません。性同一性障害です。本名は、田中久。二年前に性転換
手術を受けています。そして、あのバーのマスターなんですが、あれは暴力団に関わ
りがあり、二人で客に睡眠薬の入った酒を飲ませ、強姦の被害受けたように装い、客
をゆすっていたそうなんですよ。ゆすりの被害にあった客は、300人近くなります。
だから被害者は、真理子ではなく、近藤光男さんですね。」
警視の電話は古かった。ぼくにも部下の方の、声がわかるほどだったから。
「おはなしはわかりました」
警視は、電話を切った。
「釈放します。」
そういって、牢屋の戸をあけた。
一言も謝らなかった。
僕と、光男さんは、男泣きしながら、戻ってきた。ちょうど空が夜から、朝に変わって
いた。雪野さんが、ドアをあけて、駆け寄ってきた。
「光男さん、よかった、無事で!」
雪野さんは夫に寄り添った。
光男さんも、彼女を抱きしめた。
「いい奥さんもらったじゃないですか。」
僕は、雪野さんのように感情をあらわにできるのは、かえって羨ましいと思うように
なった。
「おかしな夫婦だけど、いい夫婦だわ。」
加寿子はそういった。
雪野さんはいよいよ臨月になった。僕たちは、真新しい布団を買い、産室を作って
あげた。
一日何度もカレンダーをみたが、赤丸で囲った
予定日、結局なにもおこらなかった。そして、一日、二日、三日経った日。

僕はいつもどおり銀行で仕事。加寿子は、清さんたちの料理教室にいっていた。
奈津子さんは、たいした用事もなかったから、家にいた。
しばらくすると雨が降ってきた。奈津子さんは、急いで洗濯物を取り込もうとベラ
ンダの戸をあけた。
声がした。
「いたあい!」
また声がした。
「いたい、痛い!」
奈津子さんは見当がつかなかったが、こえの高さから、雪野さんだとわかった。
すぐ、彼女の部屋に飛び込んだ。
「雪野さん!」
雪野さんは、ベランダで、腹部を押さえながら苦しんでいる。
しかし、これが陣痛だと、奈津子さんは理解できなかった。どうしたらいいのか
も、わからなかった。取り合えず、救急車をよぶべきか?とおもったとき、清さ
んが
「なんだ、玄関のドアを開けっ放しにして、雪野ちゃん、空き巣が入ったらどう
するの、、、」
と、言いかけると、
「いたあい!」
という叫び声と、どうしていいかわからなくなって、携帯電話を探し回っている
おとがする。清さんは、声の質で、奈津子さんの声とすぐわかり、持っていた食
材をすぐに落として
「なっちゃん!すぐ産婆さんをよんで!」
奈津子さんはやっと之がお産の始まりだ、ということに気がついた。しかし携帯
がどこへいってしまったのか、とおもったら、清さんの足元にあった。奈津子さ
んは、ダイヤルを回し、小泉さんを呼び出した。清さんが、買出しから戻らない
ので様子を見に来た加寿子と雅子さんは、お産が始まったとすぐわかった。
僕のスマートフォンが鳴った。僕は、急いで仕事を切りあげ、雪野さんの部屋へ
すっ飛んでいった。
僕が来たときは産婆さんである小泉さんが到着していて、加寿子や雅子さんがお
湯を用意したり、いろいろな準備をしていた。智輔さんが、産婦は何か食べたほ
うがいい、といってお結びを作っていた。しかし、一番肝心な、光男さんは、ど
こに?
「加寿子、光男さんは?」
「いま、呼び出しているんだけど、、、。」
「光男のばーか!」
雪野さんの声だ。僕は腹が立ってきた。この大事なときに、なぜ?非常に不条理
だ。
「僕、光男さん探してくるよ!」
僕は、急いで車を走らせた。スマートフォンのアプリで、光男さんがどこにいる
のか確認が取れた。そこを知り、僕は激怒した。とにかく、制限速度を超えて車
をはしらせ、ある歓楽街に来た。
光男さんは、あるクラブにいた。加寿子が光男さんの出張が多すぎると、雪野さ
んがもらしていた、と話していたことは聞いていた。しかし、光男さんは、毎日
こういう伽場蔵に通いつめていたのだ。
僕は、自動ドアを叩き割るような気持ちで、その店に入った。
「光男さん!光男さん!」
「何ですかあなたは。」
遊女がひとり近づいてきた。本当に美人だ。しかし、雪野さんほど美しくはない
と、僕は思った。
「近藤光男さんに会わせてくれ!はやく!」
遊女は、こわがって、僕を部屋に連れ込んだ。
「光男さん、生まれるよ!はやく戻ろう!」
光男さんは何の反応もしない。
「あら、みっちゃんて、奥さんいたの?一人で寂しいからじゃないの?」
遊女たちは、口々に尋ねる。光男さんは答えない。惑わしの魔法にでもかかったの
か?
「目を覚ませよ!」
僕は、光男さんの頬を思いっきり叩いた。
「雪野さんが、どんなに苦しんでいるか、自分で見てみろ!来い!」
ぼくは、光男さんをひっぱり、車に押し込んで、また車を走らせはしらせ、太陽が
姿を消したころ、マンションにたどり着いた。

僕たちが到着したとき、雪野さんの声はどんどん大きく強くなっていた。
「初めてのお産ですから、まだまだ時間はかかりますよ。がんばってね。」
小泉さんがのんびりした声で言う。雪野さんはその声を聞く余裕が無いのだろう、
イタイイタイとうなり続けていた。
「あの、」
と、僕は言った。
「光男さんをつれてきました。」
雪野さんが光男さんの方を見た。
「あんたなんか、あんたなんか、あたしの夫じゃないわ!出てってよ!出てって
言ってるでしょう?出てけ、出てけ、でていけー!」
「雪野ちゃん、そんなこといっちゃ、、、。」
加寿子はつぶやいたが、
「いやいや、こういうことをいう、産婦さんは珍しくありませんよ。」
小泉さんは優しく言った。加寿子は、腑に落ちないようで、軽くため息をついた。
「さあ、雪野ちゃん、いまからね、赤ちゃんを押し出すよ。ほうら、頭が見える
でしょう?」
小泉さんは鏡を出した。僕たちにもわかった。股間の隙間から、黒いものが見え
た。おそらく、髪の毛だ。
自動的にいきみたくなったのだろうか、雪野さんは、
「う、う、うーん」
といきみ始めた。
「いいよ、いいよ、いいよ、上手よ。その調子!」
いきむと、なんとなく顔が見えるのだが、やめると、引っ込んでしまう。
そのとき、雪野さんは、眠るようになってしまう。所謂眠り産だ。
「雪野ちゃん、寝ちゃだめよ!」
小泉さんは、雪野さんの足をぴしゃぴしゃ叩いた。
「寝たら、赤ちゃんが窒息してしまうわよ!がんばれ!」
出産経験のある、雅子さんが言った。僕はこっそり、眠り産はどうして危険なの
か聞いたが、男である以上、理解しにくかった。
「雪野ちゃん、しっかりして、寝たらだめよ!」
加寿子も雪野さんの体を叩く。雅子さんも加担し、清さんは、祈りの姿勢をした。

「雪野!」
聞いたことの無い声だった。
全員後ろを振り向いた。応援の言葉が静まった。聞こえてくるのは雪野さんの、
怪獣のような唸り声だけ。
光男さんは、雪野さんのもとへ駆け寄り、
「雪野ごめん、ごめんね!」
と、涙を漏らした。そして雪野さんの手を、がしっとつかんだ。
雪野さんの目の色が変わった。
「う、う、う、ううううううううんっ!」
と、強くいきんだ。赤ちゃんの体が、股間から、せり出してきた。
「よくやった、雪野ちゃん!」
小泉さんは、赤ちゃんの体をつかんで引っ張り出した。肌色というより、ピンク
色であり、羊水でぐっしょりぬれていて、まだ臍の緒が、青かった。
そして、僕たちが、聞いたことの無い響き、天使の声のような、甲高い、声がき
こえてきた!産声だ!
「ほうら、元気な男の子よ。おめでとう!」
そういって、小泉さんは、赤ちゃんを、お母さんの胸に乗せてあげた。お母さん
は、言葉が無く、ただ涙をながしていた。そして、誰よりも美しい目をして、
彼を強く抱きしめた。
「お父さん、はさみを持ってきて。」
小泉さんはいった。一瞬、僕は、なんのことだかわからなかったが、すぐにわか
った。光男さんは、化粧箱からはさみをだし、彼の臍の緒をぱちんときった。
「この子、何て名前にしようか」
雪野さんは聞いた。とにかく、羊水検査や、性別検査などは何もしていないので、
生まれてきたらきめよう、と構えていたと、加寿子から聞いていた。
「うん、ちゃんと考えてある。」
と、光男さんは言った。
「君と僕から一文字とって、光雪としよう。」
「近藤光雪くん、お誕生日、おめでとう!」
清さんは、拍手をした。つられて、全員が拍手をし、光男さんは雪野さんと、
光雪くんを抱きしめた。
「あたしたちも赤ちゃんほしいわね」
加寿子が僕に囁いた。

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