おかしな夫婦

増田朋美

第二章

水口奈津子は、今日も家に引き篭もった。夫の智輔は、ほとんど家にいない。
レンタカー会社ではたらき、そして駐車場係のアルバイトをしている。
帰ってくるのは十二時過ぎで、休日もなく、朝は六時に出かけてしまう。
奈津子は原因はわかっていた。原因は自分だ。自分が働けないからだ。
奈津子は、優秀な高校に通っていた。しかし、思っても点数は伸びず、酷い
摂関をされていた。それまでの母親は優しいし、奈津子は大好きだった。し
かし、自分が大学に行くと言い出してから急に厳しくなった。奈津子は、友
人から、その大学は、あまり厳しくはないし、楽しいところだ、と知ってい
たから、あまり勉強には精を出さず、だいすきなバレーボールに夢中だった。
しかし、母親に、むりやり部活をやめさせられ、始終机に座ったまま、外出
を許されない夏休みに、奈津子は自殺を図って入院し、精神科医のこれ以上
家族と住まないほうが良い、という薦めにしたがって、現在の夫である、智
輔と見合いで結婚し、誰も知っている人はいない、このマンションに引っ越
してきた。
奈津子は、働けないのは良く知っていた。だからこそ苦しかった。夫の智輔
は、穏やかなやさしい人ではあったけれど、一箇所だけ違う箇所があった。
智輔は子供をほしがった。しかし、奈津子は高校時代の経験から、どうして
も子供を持てる自信が無かった。自分が母親になれば、同じことをしてしま
うだろう。それでは子供がかわいそう。彼女はそういうわけで、母親になれ
ない、と、定義していた。智輔には、同じマンションに住んでいる、近藤雪
野という女性も、心の病気のために、子供を持てない、自分も同じだから、
と、智輔に談判し、自身は障害者手帳を作って、証明写真のように持ち歩い
ていた。だから、働けない。さらに、母親が教育費をかけすぎたせいで、家は
破産している。だからお金が無かった。やさしい智輔はそれを全部受け止めて
くれたけれども、奈津子は捏造におびえながら暮らす日々となった。
ある時、智輔が息を弾ませて帰ってきた。布団で眠っていた彼女は、不意に目
がさめた。
「奈津子!」
智輔は戸をあけた。
「僕が行ったとおりだよ、雪野さんが身ごもったんだ。もう三十九で、統合
失調症となれば、二度と子供はできないって、君は言っていたけれど、君は
まだ、三十四で、まだまだ僕らには望みがあるよ、奈津子、もう少しだけが
んばってくれないか、頼む、一生のお願いだ!」
奈津子は、驚きと怒り、恐れが同時に湧き出してきた。雪野は、石女ではな
かった。確かに、彼女のそのあたりは調べておかなかったのだ。事実は、雪
野の夫である光男が、雪野の薬を管理していたからである。女性の本能を消
す薬を与えていなかったことによるのだ。
「あいつを殺してやれ!」と、どこからか声がした。奈津子はその通りにし
ようと思った。

数日後
珍しく休みをもらった僕は、ずっと家の中ですごしている加寿子がたまには
どこかへ連れて行ってやらないと困るだろう、と思い、雪野さんと光男さん
と一緒に、ショッピングモールにでかけた。そこへいく電車は、ある意味社
会の縮図のようなところがある。ランニングシャツ姿の人、和服を着ている
人。フランス人形のようなロリータさん。かと思えば男性が女性が好む色を
着ていたり。床にしりをつけ、お菓子を食べている女子高生たち。勉強など
全くしないで、カバンを軽々と持ちながら、いやらしい性行為を自慢する、
男子大学生や高校生。本当に、日本もおかしくなったなあ、と思いながら、
僕は電車に乗った。光男さんは、そういう人たちだからこそ、自分のところ
へ、カウンセルを依頼する、と説いたが、僕はまったくわからなかった。
雪野さんは、腹部が少し飛び出してきた。もともとぽちゃっとした体格だか
ら、妊娠しているか判断に迷うところだが、今は、気をつけてみれば、そう
かな?と思われるようになった。加寿子と二人、胎動を感じるようになった、
などと楽しそうに笑っていた。
「雪野も」
光男さんは言った。
「少しは母親業も勉強しないといけませんね。まあ、僕も勉強しなくては。」
光男さんは、子煩悩だった。雪野さんよりも熱心で、服や粉ミルクを吟味して
いた。雪野さんが薬を飲んでいるから、母乳で育てることはできないし、牛乳
もいけないという。光男さんは、それではスキンシップにならないのでは、と
心配していた。
僕たちは駅に着いた。雪野さんの体が心配で、エレベーターに乗ろうと、光男
さんが提案したが、小さい駅なので、エレベーターが無く、エスカレーターに
乗るしかなかった。
雪野さんが、エスカレーターに足をかけたそのときだ。
電車から、豹柄のシャツを着た若い女性が、エスカレーターに駆け寄ってきて、
雪野さんにぶつかった。
「あっ!」
と雪野さんは躓いた。エスカレーターを転がり落ちた。
「い、い、い、」雪野さんは腹部を押さえた。
「雪野さん、待っててね、今救急車よぶからね!光男さん!」
僕は、スマートフォンを回した。
光男さんは僕と一緒に犯人を追いかけていた。その女性は、幸いなことに
運動神経が良くないようで、すぐに取り押さえることができた。
警察への通報は加寿子がした。救急車も五分もしないうちにやってきて、雪野
さんは、加寿子と一緒に病院に向かった。
光男さんたちは、交番にいた。
「水口さん」
光男さんは静かに言った。
「今、貴方のご主人が来てくれるそうです。」
女性はサングラスを取った。机に突っ伏して泣いた。体格は確かに二十代なの
だろうが、其の目は子供のようにおびえ、体はがたがたと震えていた。そして
左の手を右の手のつめでがりりと引っかいた。
「自傷はやめなさい!」
光男さんは彼女の手を押さえた。
「いやだって言ってんじゃねえか!」
女は、金切り声で叫び、それを振りほどいた。光男さんは床にひっくり返って
しまったが、どこも怪我していなかった。
「おいおい、水口さん、次は傷害罪か?」
警官が笑いながらいった。
「笑ってんじゃねーよ!」
女性は、警官にも飛び掛ったが、警官はお手の物。思わず僕も彼女にタックルし
た。まあ、警官はこういうことは慣れている。すぐ受身して彼女に手錠をはめた。
「おい!」
聞いたことの無い声。強い若者の声だ。
「奈津子!」
大柄な男性が、交番に飛び込んできた。見るからに苦労した、という顔立ちをし
ていた。顔も体も真っ黒に日焼けしていて、本来なら彫りの深い、優しそうな顔
なのであるが、日焼けにより、それが消され、怖い伯父さんのように見えるのだ。
「あ、すみません、水口奈津子の夫の智輔です。皆さん、家の妻が不祥事をして
しまいまして、申し訳ありません!」
そういって、彼は、光男さんだけではなく、僕にも警官にも頭を下げた。
「なんだお前、また何かやったのか!この、馬鹿野郎!」
彼は、奈津子さんの頬を平手打ちした。まるで、アントニオ猪木みたいだった。
でもこの人は、怖い人ではない。やくざの関係者でもなさそうだ。確かに言葉も
乱暴だし、体も大きいが、其の目がそうではなく、奥さんを心から愛している、
ということが、よく見て取れた。
其のとき、僕のスマートフォンが鳴った。
「もしもし?」
「あ、安男さん、雪野さんの赤ちゃん、大丈夫だそうよ。産科のお医者様がすぐ
処置してくれたから。わたし、心配だから、一日だけ病院に泊まるわ。雪野さん
は、いま病院で眠ってる。ただ、警察の取調べは落ち着くまで待ってと、お医者
様から伝言をもらっておいた。」
「ありがとう加寿子。僕たちもまだ話が片付いてないから、また連絡するよ。」
僕は、電話を切って、光男さんに、赤ちゃんは大丈夫だ、と小声で伝えた。光男
さんは、ありがとうといいながら泣き出した。
「えっ、、、まだ生きてる、、、?」
奈津子さんは、思わず言った。
「いい加減にしろ!人の命を、ましてや、これから生まれてくる命を、奪おう
とするなんて、人間失格だぞ!」
「あたし、、、あたし、、、きっと殺してやろうと思っていたのに。」
「命って、不思議なものだなあ、、、ちっとやそっとで、だめになったりしない
んだな、、、。」
僕は思わずつぶやいた。
「雪野さんの愛情だったんじゃないかな。」
智輔さんは言った
「子供を守ろうとするときの、女性の本能だろう。雪野、よくやってくれた!」
光男さんは感激していた。
「そうかあ。奈津子さん、今の人たちの言葉を忘れず、生活するんだぞ。しかし、
羨ましいな。こうやって、仲間が支えてくれて、雪野ちゃんは幸せだな。俺も早
くいい嫁さんもらわないとなあ」
警官が思わず言って騒動はお開きになった。智輔さんと奈津子さんは警察署へい
き、僕たちはマンションに帰った。
雪野さんは、ひがたつごとに、腹部が大きくなってきた。誰が見ても妊婦さん、
と、すぐにわかった。
雅子さんが、帝王切開の指導をしてくれた。雅子さんが良い病院を探そう
か、と提案すると、雪野さんはこういった。
「あたしは、自然なお産をしたい。心をやんでるから、自然分娩してはいけな
いっていう、法律はどこにも無いでしょう?」
確かにそうだ。雪野さんは更に続ける。
「あたしは、病院で変にカッコつけて指導する医者のまえでは、産みたくない。
いい人たちがたくさんいる、ここで産みたい。」
「雪野ちゃん」
雅子さんは、静かに言った。
「出産っていうのはね、本当に大変なのよ。生理痛の何十倍も痛いものよ、そ
れに、あなた、薬飲んでるでしょう?いきめなくなったら、赤ちゃんが窒息死
してしまう恐れがあるのよ。やっぱり、病院のほうがいいんじゃない?」
「いやよ、わざわざ手術までしなきゃならないなんて。たまには苦しくなって
みたいわ!」
「雪野ちゃん、そんなこと言わないの。赤ちゃんも命がけよ。あなたはそれを、
自分のエゴで殺そうとしているようなものよ。赤ちゃんも、一生懸命やらなき
ゃいけないし、お母さんも一生懸命やらなけらば、自然分娩はできないわ。そ
れに、これからのほうが長いのよ。貴方がつかれきってしまったら、赤ちゃん
は、お母さんに会えないまま、一生を過ごさなければならないわ。」
「雅子さん」
雪野さんは、小さいけれど、しっかりした声で言った。
「雅子さんは息子さんを、なくしたんだよね。羊水検査受けてって、あたしに
も言った。それって、本当の愛情なのかしら?息子さん、筋ジスで亡くなった
そうだけど、羊水検査でわかってたら、確実に堕胎していたでしょう?」
「雪野ちゃん、それは、心の準備よ。供えあれば憂いなしっていうでしょう?
生まれる前に筋ジストロフィーの本を読んだり、親の会に参加しておけば、あ
る程度肝が据わるようになるものよ。」
「そうかしら、でも、息子さん、本人はそれで幸せかしら。何でもマニュアル
化して、息子さんの感性を、潰すことになるんじゃないかしら。そして、生ま
れてこないほうがよかったって、ならないかしら。」
「雪野ちゃん、きみはいよいよお母さんになってきたなあ。」
清さんは包丁を洗いながら言った。
「お母さんの代わりの役をずっと演じてきたって、君は言っていたよね。同時
に本物のお母さんになりたいと思っていた矢先に、統合失調症だ。どんなに辛
かったろう、でも光男さんと結婚し、子供をもうけたなんて、もう、病気の枠
からでて、新しい自分になると決めるようにし向かれているんじゃないのかな。
いいさ、自然分娩すればいい。何かあったら、また考えれば、それでいいじゃ
ないか。」
清さんは包丁をしまった。
「まあ、男には、こんなことを言う権利は無いのかもしれない。けど、母親に
なることを、すぐ簡単なほうへいこうとする人があまりに多いから、雪野ちゃ
んみたいに自然分娩をこんなに望むのは偉いと思うよ。なあ、雅子、僕らの息
子が生まれたときに取り上げてくれた、お産婆さんは誰だっけ?」
「だって、十五年前の話ですよ、もう、引退されたんじゃありませんか?あた
したちのときだって、かなりお歳だったでしょう?」
ちょうど其のとき、加寿子が回覧板をもってやってきた。
「こんにちは、回覧板です。あら、雪野ちゃんもいたの、ちょうどいいわ、あ
がらせてもらうわね。」
加寿子は、このマンションの住人たちにすっかり打ち解け、勝手にあがりこむ
癖がついていた。
「ねえ、加寿子さん、」
と、雅子さんが言った。
「助産師の、小泉博子さんをあなたのスマートフォンで検索してもらえないか
しら。」
「かしこまりました。」
加寿子はスマートフォンを取り出し、小泉博子、と検索した。
「すごいおばあさんだけど、まだ現役だわ。すごいわね、800人も取り上げて
る。あ、ブログがあるわ。」
加寿子はそのサイトを開いた。
「産婆、小泉博子のブログ」と書かれたそのブログは、これまでにとりあげてき
た、事例がたくさん載っていた。重度の妊娠中毒症の婦人の例、肺や心臓に持病
がある婦人の例など、「障害のある人」たちに自然分娩を成功させ、「人は痛い
から、母親になる。昔ながらのお産というものは、非常に合理的で、現代の楽し
て産ませる、という思想は、親になれない」という文句が書かれていた。写真も
たくさん載っていて、お産の姿勢も様々。鉄棒のような物をつかみ、腰を曲げて
いる婦人、天井につる下げた綱を持っている婦人、など多種多様である。しかし、
分娩台、というものはなかった。
「すごいな、、、もう九十六歳なのにまだやっているのか。」
清さんが言った。
「そうね、この方なら、信用できるかも知れないわ。あたし、問い合わせてみま
す。」
と、加寿子が言ったが、
「あたしにやらせて!」
雪野さんが言った。そして、スマートフォンのダイヤルを回した。
「はじめまして。」
電話がつながったようだ。
「あたし、近藤雪野といいます。」
「はい、初めての方ですねえ。」
品格のいいおばあさんの声が聞こえてきた。
「お産は初めてですか?」
「はい、あたし、どうしても自然分娩がしたいんです。みんなにはやめろと言わ
れてます。でも、あたしはお母さんになるんだから、どうしても体験したいんで
す。」
雪野さんは語り始めた。
「あたし、実は統合失調症という病気なんです。夫に言われて、やっと気づきま
した。それまでは、何にも悪いことはしていないのに、なんで罪人みたいな扱い
をされなきゃいけないのかって、思っていましたが、それは病気の症状だそうで。
あたしは、勝手にこの世界は私のものだ、とか口にしていましたが、それがいけ
ないってことも、主人から言われました。つまり夫の話では現実にいたくないか
ら、そういう世界に行ってしまうのだと、いわれました。あたしは、病気になる
前は保育士だったんですが、本当に大変な仕事でした。でもあたしは、子供が成
長するさまも、みてきました。夫は保育士には二度となるな、といいましたが、
こうして子供が宿ったんですから、保育士の経験が生かせる職業、即ち母親にな
るために、まずは自然分娩をしたいんです。赤ちゃんがここのいるのは、妄想で
もないし、幻聴でもありません。ちゃんと現実の世界です。あたしは、きっと何
とかなると思っているんです。こんな人間で、申し訳ないですが、あたしが、お
母さんになる支度を、手伝ってくれませんか?」
雪野さんはここまでを一気に話した。
「お話はわかりました。では、明日から、分娩の練習をしましょう。」
小泉博子さんのやさしい声がした。
「はい、お願いします。」
もう一度、加寿子はスマートフォンを受け取り、雪野さんの住所や、電話番号など
を伝えた。
「そういえば、雪野ちゃん、ご主人は?全然見かけなくなったけど。」
雅子さんが聞くと、
「あ、いまね、カウンセラーの研修会で東京行ってる。」
雪野さんは答えた。
「それにしてはずいぶん長くない?」
雅子さんの言葉で、暢気な加寿子も、
「そういえばそうねえ。」
と、相槌をうった。
「いいのよ、家のなかで、いつまでもいるより、外へ出たほうがいいんだから。」
雪野さんはまったく気にしていないようであるが、他の三人は顔を見合わせていた。

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