増田朋美

第六章

いつも通りに料理をしたり、洗濯物を干したり。まさ子の生活は平凡な毎日にもどった。しかし、刺青の男が、逮捕されたというニュースは流れなかった。

奥多摩町は、何でもない、いなか町だ。一軒、精神科の病院があった。
そこの閉鎖病棟には、、、。
患者「あの患者さんには近寄らない方がいいわよ。明らかにおかしいんだから。」
患者「混ぜ混んでほしくないよね。ここは、田舎だよ。病棟のあるところか、ここしかないから。」
声「殺してやる!」
看護師「いい加減によしなさい!」 
声「なんで私がこんなところに、はやく出してよ!」
看護師「だから、もう少し落ち着いてからといったでしょ!」
声「そう、ならあんたを殺してやる。」
と、けたたましい非常ベル。そして、何人かが飛び込んできて、吹き矢を吹いた音。
患者「またやってるよ。こわいね。女とは思えないわ。」
それから、叫びはピタッと止まるが、患者たちはまだ震えていた。
数日後、ナースステイション。
看護師長「きょうから、ここで働いてくれる、鈴木由美さんだ。」
由美「はじめまして。鈴木由美です。よろしくお願いいたします。」
看護師「若いわね。それも精神科で働くとはめずらしい。」
由美「はい。がんばります。まだ看護大学を卒業したばかりの未熟者ですが、ご指導を。」
看護師「どちらの大学?」
由美「聖路加です。」
看護師「まあ、すごい大学ね。それなのに、こんな辺鄙なところで働くの?」
由美「はい。その方が自分なのためになると、医師であった父が教えてくれたからです。だから、私は、こちらの病院に応募させていただきました。」
看護師「お父様の病院継いだら?」
看護師長「まあ、積もる話はあとで、とりあえず由美さんの担当患者を決めましょう。」
看護師「あの若い患者さんをつければ?若いから勉強になるわよ。」
看護師「そうそう。厄介な人ほど勉強にはなりそうね。」
看護師長「ちょっとまって、新人さんにはかわいそうですよ。いきなり難しい人をつけるのは。」
看護師「でも、いい大学を出たんだから、やり方くらいわかるんじゃないの?」
看護師長「いや、はじめは、なれるまで大変だ。だから、症状の軽い人を。」
由美「いや、私、やります。」
看護師長「よした方がいいよ。」
看護師「いいんじゃないですか?看護師長。若い人で、こんなにやる気のある人は、めずらしいし、将来のためにもなりますよ。」
由美「私にやらせてください。 」
看護師長「うーん。」
看護師「やらせてあげたらどうですか?」
看護師長「わかりました。許可しましょう。ただ、辛くなったらすぐに言ってくださいよ。」
周囲から拍手がおこる。
看護師長「じゃあ、患者さんの見回りを始めてください。」
全員「はい。」
と、それぞれの持ち場へいく。
看護師長「じゃあ、これがその患者さんのカルテです。」
由美「はい。わかりました。病室はどこですか?」
看護師長「保護室です。」
由美「わかりました。鍵をかしてください。」
看護師長「危険な患者なので、念のためさすまたを。」
由美「はじめは、何も持たない方がよくありませんか?私、
大学ではそう聞きましたが。」
看護師長「いや、あの患者は特別です。」
由美「新興宗教でもやっていたのですか?」
看護師長「どうなんだろう。」
由美「違法薬物とか?」
看護師長「検査したところ、それはでなかったそうです。」
由美「暴力団に入っていたとか?」
看護師長「彼女がなにも言わないので、詳細はわかりませんが、刺青があるから、可能性もありますね。」
由美「何をいれたのですか?」
看護師長「般若です。色は入っていませんが。」
由美「わかりました。すこし、彼女と話をしてみます。」
看護師長「ぜひ、お願いしますよ。」
と、由美に鍵を渡す。由美は一礼して保護室にむかう。

保護室
声「殺してやる!」
と、ドアに体当たりする音。
由美「ちょっとまってください。」
と、覗き窓から顔を見せる。
由美「はじめまして。今日からあなたの担当看護師になりました。鈴木由美です。」
患者「バカに丁寧ね。」
由美「あたりまえじゃないですか、初めて患者さんを受け持ったのですから。」
患者「まあ、新人?」
由美「はい。精一杯、回復するお手伝いをします。どうぞよろしくお願いいたします。」
患者「若くていいわね。あたしも、そのくらいの年だったらな。どこ大なの?」
由美「聖路加看護大学です。」
患者「へえ、高級なところを出てるのね。それじゃあ、他の人より礼儀正しいわけだわ。」
由美「ありがとうございます。よろしくお願いいたしますね。」
患者「はい、こちらもです。」
由美「さっき、変なこと言っていましたけど、あれはなんなんですか?」
患者「ええ。過去を思い出すと、そうなってしまうのです。辛い過去があって。」
由美「もしよかったら、話してくれませんか?」
患者「大学、受験に失敗して。」
由美「それで?」
患者「はい。それから何もかも嫌になって、なんにもするきがなくなったんです。まあ、家に余裕がないので、二回以上じゅけんすることは、許されなかったものですから、介護施設で働き出したけど、」
由美「うまくいかなかったの?」
患者「はい。施設の人たちは、みんな頭がおかしくて、変なことばかり口走っていました。そういう人たちだから、進歩も何にもないわけで、毎日毎日おんなじことの繰り返しです。体は立派なおじさんなのに、なんでこんな簡単なこともできないのか、と、怒りたくなる人もいました。こういう仕事は、砂を噛むように喜びは得られません。だから、生きていても仕方ないんじゃないでしょうか。殺してやったほうが、やっと楽になれると思うんですよね。」
由美「それは間違いよ。誰でも、平等に生きる権利はあるの。それを援助するのが、看護師とか、介護の仕事なんじゃない。」
患者「いや、あなたの方が間違いですよ。医療とか、介護は、一番正しい生き方なんですから、こんな安い賃金では、おかしすぎる。」
由美「でも、お金だけがすべてではないわ、クライアントさんのことを想ってあげなきゃ。」
患者「いいえ、お金がすべてです!クライアントなんて関係ない。正しい生き方というのは、お金をもらって、親に安心して逝ってもらうこと。それができないから、私は、だめなんですよ。これ、みんな学校で習ってきました。だから利用者を殺してやったほうが。」
由美「どうして利用者を殺してやると思うの?」
患者「口減らしですよ。いわゆる間引き。ほんとに、あの人たちは、学習も成長もなにもない。一生懸命生きるなんて到底思えません。だから、間引きしてもいいんじゃない。」
由美「でも、その障害のある人の家族はどうだろう。」
患者「みんな親はとっくに死んでますよ。そうしなきゃ親御さんも浮かばれない。精神科に長く入院している間に死んでいるんです。ほらね、また殺す理由がわかったでしょ!」
由美「でも、自分のことも、あなたは自信がないのね。」
患者「はい。だから、殺害して、」
由美「他のことで、自信を持てばいいのよ。そうすれば、自信がないなんて言葉は必要なくなるわ。そうすれば、殺人者になる必要もないの。一緒に、頑張ってみない?」
患者「本当に?」
由美「だから、私のまえでは、間引きなんていわないでね。約束して。」
患者「ありがとう。」
声「由美さん、打ち合わせ始めるわよ!」
由美「はい、いまいきます!」
患者「ありがとう。」
由美「約束よ。じゃあ、呼んでるから。」
と、保護室を小走りに出ていく。
その日から、保護室から叫び声は、全く聞かれなくなった。
患者「ああ、やっと静かになったね。」
患者「安心して入院できますね。」
患者たちもほっとしたようであった。
由美は、毎日、その患者と話をするようにした。両親も誰も彼女を訪ねる者はいなかったので、彼女が会話するのは由美だけだった。
由美「そう、そんなにつらかったんだ。」
患者「ええ。試験の点数とるために、三日ぐらい眠らないで勉強してた。」
由美「塾なんかは?」
患者「予備校にはいっていたけど、学校の勉強は、大体三日前から。」
由美「東大にいくためだものね。」
患者「ええ。そのほうが優先だったの。でも、学校でも成績よくないといけないのよね。」
由美「両立は大変だったでしょうね。」
患者「ええ。いじめにもあったから、すごいでしょ、これ。集団リンチのあとよ。」
由美「きゃあ!」
患者がそでをめくったので、思わず腰が抜けてしまった。
患者「怖がらないでよ。傷跡を消すには、こうするしかなかったのよ。」
患者の腕には龍が火を吹いていた。
患者「これのおかげで救われたわ。集団リンチの時にこれを見せたら、みんな逃げてった。」
由美「誰かに彫ってもらったの?」
患者「当たり前でしょ。初めにお願いした人は、すごく倫理観の強い人で、体もよくなかったから、渋谷にいってお願いした。やっぱり、東京のほうがらくよね。そういうところは。高校を卒業して、こっちへ来てすぐに入れたわ。」
由美「でも、退院してどうするの?そこまで派手に入れたら、就職だって、できないでしょうし、、、。」
患者「まあね、、、。せめてレーザーで薄くして、働きたいわ。」

廊下。看護師たちが何か話している。
看護師「あの由美って人、腕がいいのかしら。おかげであの女が暴れなくなったじゃない。」
看護師「新人のくせに、なんでそこまでできるのかしら。」
看護師「やっぱり、聖路加のせいよ。態度が堂々としてるし。私なんて専門学校なんだから、あの女からみたら、虫けらだわ。」
その日、由美は更衣室に入って、普段用の靴を履いて帰ろうとしたが、白い靴は、口紅でべたべたに汚されていた。
由美「これって、、、。」
だれのいたずらか、すぐわかった。
翌日の昼休みには、弁当を開けようとすると、
由美「きゃあ!」
中にはムカデが入っていた。仕方なく売店でおにぎりを買って食べるしかなかった。

保護室
そんないじめがあっても、彼女は懸命に厄介な患者の話を聞いた。
患者「由美さんは優しいね。」
由美「そう?」
患者「私なんて誰にも相手にされないのよ。聞いてくれるのは由美さんだけ。」
由美「まあ、そういってくれてありがとう。」
患者「でも、由美さんのおかげで、私は間違ってたことに気が付いたわ。」
由美「どんなこと?」
患者「だって、一生懸命勉強するひとは、なかなかそうはいないってこと、私、よく知ってるわよ。変な人しかいない世界に私、何十年もいたけど、本当にそういう風に働いている人は初めて会ったわ。」
由美「ちょっとくすぐったいけど受け止めるわ。ありがとう。」
患者「私も、早くここから出れるように努力します。」
由美「一緒に頑張ろうね。」
患者「ええ。」




ナースステイション。
医師「で、長須さんはどうだった?」
由美「だいぶ落ち着いてきたようです。刺青も、自分で、レーザーで薄くするといいました。」
医師「そうか。では、もういいかもしれないな。」
由美「何がですか?」
医師「ああ。もう、ほかへ移ってもらおうかと。ほかにも何人か入院が必要な方がいて、その人たちを入れてやりたいんだ。」
由美「そうですね。確かに、精神科はパンク寸前のところが多いですよね。私も、彼女と話をして、もう、ほかへ行ってもらっても、いいと思いましたよ。」
医師「よし、そうしたら、彼女に誓約書を書かせて、退院の準備をさせよう。」

翌日
由美「長須さん。」
長須「はい。」
由美「おめでとう。あと数日で、外へ出られます。」
長須「よ、よかったです!」
由美「これまでを悔い改めて、よりよい生活をしてね。しばらくは、ここの付属機関である、クリニックに通院してね。もし、一人でいくのが、難しいようであれば、私が、お宅を訪問して、送り迎えするけどどう?」
長須「いえ、私一人で行きますよ。」
由美「車の運転はまだ禁止よ。」
長須「大丈夫ですよ。どっちにしろ、運転免許は私はとっていないので、電車かバスになりますから。」
由美「じゃあ、必ず、このクリニックに通ってね。あと、家事の手伝いとか、薬の服用とか、訪問看護もあるんだけれど、」
長須「由美さんが来てくれるんですか?」
由美「いや、私は病棟が専門だから、別の人にお願いすることになるかな。」
長須「大丈夫です。あんまり、他人を家の中に入れるのも抵抗があるし。」
由美「そうか。でも、必要があったら言ってね。あなたは、一人で暮らしているのだから、いろいろストレスはあるでしょうからね。」
長須「大丈夫です。わたし、一人で生きられるようになります。」
由美「そっか。よかった。じゃあ、はなむけの言葉。二度とこないで。意味わかる?」
長須「わかります。私も二度と、こちらのお世話にはなりたくありません。」
由美「いつまでも元気でくらしてください。」
長須「お世話になりました!」

数日後。病院の正面玄関から、一人の女性があらわれ、一度も後ろを振り向かずに正門を通って行った。正門を出る前はありふれた女性の顔だったが、
そこを過ぎてしまうと、彼女は呵々大笑して、軽やかに歩き出してしまった。

同じころ。
まさ子の家に来客が来た。夫の母親の妹だった。まさ子には義理の叔母だった。
当然、夫は仕事に出かけていた。
まさ子「どうぞ座ってください。」
叔母「秀之は?」
まさ子「まだ仕事から帰っていません。」
叔母「そうか、秀之がいればお願いできたんだけどな。」
まさ子「お願い?」
叔母「そうよ。説得の。」
まさ子「誰を説得するんです?」
叔母「私の娘。」
まさ子「あれ、結婚したはずでは?」
叔母「出戻りなのよ。」
まさ子「出戻り?」
叔母「どこかの国の兵士みたいな顔でね。結婚して、よその家に行けば、幸せになれると思っていたんだけど。」
まさ子「兵士みたいな顔って?」
叔母「そうよ。ありとあらゆることに対して叫ぶように返答するの。兵士が捧げつつするときみたいな声色でね。どこでそんなことを身に着けてきたんだろう。挙句のはてに自分は悪人だから、刑罰として刺青を入れると言い出して、、、。まあ、そういうところが妄想というのかな。そういう症状は、お医者さんに教えてもらってたんだけど、うちの中で精神疾患が現れるとは思わなかった。」
まさ子「いつからそういうことに?」
叔母「それがわからないのよ、嫁に出してしばらくはよかったんだけど、だんだんおかしくなってきて。結局離婚して、かえってきた。でも、本当に恐ろしいわよね。ある意味ガンより怖いわよ。だって、見たり触れたり感じたりするところが病むわけだから。刺青師の徳永さんが説得してくれたから、何もせずにすんだけど、毎日毎日捧げつつの態度で接しなきゃならないのは、本当につらいわね。」
まさ子「徳永?」
叔母「そう。あの人が、娘さんがおかしいって電話をよこしてくれて、発覚したの。ほんと、いい人ね。なんであの人が刺青師なんだろ。ああして親身に付き添ってくれて。ああいう人こそ、誰かを助ける仕事についてもらいたいものだわ。でも、、、。」
まさ子「でも?」
叔母「もう、亡くなったの。ここにはいてくれないわ。」
まさ子「亡くなった?」
叔母「そうよ。東樹園のすぐ近くで。警察は窒息死だって言ってた。何年も前から、重い病気だったらしいから。」
まさ子「そうだったんですか、、、。」
叔母「本当、もう少し、あと十年は生きてほしかったわ。世の中って、そういう良い人は、早く亡くなるようにできているのかしら。モーツァルトが35歳で亡くなってるから、そうなっているのかもね。」
まさ子「で、今娘さんはどこに?」
叔母「うちにいるわよ。やっぱり自分のうちがいいらしくて。まあ、言葉が通じないとか、いつまでも捧げつつのままでいるとか、問題はあるんだけど、私は、徳永さんの遺志を継いでいこうと思ってる。あのひと、私にこう言ったの。心の病に対する、一番の薬は年だって。そうするしか手立てはないって。だから私たちは、その時を静かに待つしかない。それでも、いいって、私たちのほうが頭を切り替えないと、もうやれないのかもしれないわ。」
まさ子「そうだったんですか、、、。」
叔母「秀之に言って頂戴、あんまり詰め込みすぎると、うちの子みたいになっちゃうって。まあ、あの子はそれが愛情なのかと思っているかもしれないけれど、それは全然違うほうに解釈されるほうが、はるかに多いんだって。」
まさ子「わかりました。」
とはいったものの、秀之に話す気にはなれなかった。
叔母「じゃあ、私、また来るわ。秀之にくれぐれもよろしく言っておいて。
私、これで帰るけど、また何かあれば相談にも乗るわよ。」
まさ子「はい、ありがとうございます。」
叔母「ここではタクシーは呼んでもらえる?」
まさ子「はい、近くにありますよ。」
と、急いでスマートフォンを取りに行く。


秀之「ただいま。」
美紀子「おかえりなさいです。」
まさ子「今日は馬鹿に早かったわね。」
秀之「ああ、仕事がひと段落ついたんだ。よし、美紀子、勉強しようか。」
美紀子「うん!」
と、二人して、父親の部屋へはいる。
まさ子は、叔母の言葉を思い出したが、美紀子は楽しそうに勉強しているので、関係ないと思いなおしてしまった。
食器を洗いながら、考えるまさ子。
まさ子「まあ、うちでは幸せだからそれでいいわ。」
と、すぐに忘れてしまったのであった。


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