高原の賦

増田朋美

終章

数日後、再び廃棄処分の依頼が入った。このころには、正道も大部仕事に慣れてきて、あわれみは感じなくなっていた。
「ほれ。」
杉内が、茶封筒を手渡した。中をみると、金が入っていた。正道は素直に嬉しく思った。やっと、自分が自分でいい、という、安心感が持てた。
その日の依頼は、小さな女の子のいる家庭だった。しかし、学校にいってはいないという。不登校なのだろうか。
杉内と一緒に現場に向かった。呼び鈴を押すと、女の子のなきごえがする。
「あんたのためなのよ!」
頬に平手がとんだ、バシッと言う音。
「すみません、予約した時間通りに来たんですけど。」
杉内が強引にドアをあけた。
「こんにちは。」
正道はそれだけいった。中にはいると、高校生くらいの女の子が、車いすに乗っていた。
「えーと、キーボードをひきとれと、命令がありましたよね。」
「ええ、そうなんです。」
母親は、困ったかおをした。
「私のキーボードを捨てないでよ!」
女の子は泣きそうになっている。
「だって、あんたは、病気なのよ、そのためには、薬が必要なの。それをもらうためには、お金がかかるの。もう、キーボードも弾けなくなるんだから、もっていても仕方ないじゃない、だから、お金を作らなきゃ!」
母親の意見も最もだ。そのキーボードはかなりの高級品で、様々な機能がついた、上級者むきのものである。売り出したら、確かに高値になるだろう。
「せめて私の手が使えなくなるまで!」
女の子は泣き叫ぶ。
「そんなこと待っているほど、うちの経済力はないのよ、受験勉強もなにもしないで、音楽に浸かってたんだからもういいにしなさい!それよりも、一日でも長く生きていることを考えなさいよ!」
「そうなんだ。なら、私、死ぬわ。病気になっても音楽やっている人はたくさんいる。菊川博一なんかそうだったじゃない。だから、私だって、音楽をしていいと思うわよ。」
女の子は、思春期の真っ只中なのだろう。
「あたしだって、いくら筋ジストロフィーと言われたって、自分で行動したいわ。それはだめなのね。」
菊川博一!兄は、この女の子に影響をあたえるほど、すごい人だったのだろうか。
「杉内さん、今回はやめましょう。」
何を言うのだ!さっさと片付けていきましょう、というつもりだったのに!
「私情を挟むものではない、仕事ってものは。」
「いえ、彼女の方が、かわいそうです。音楽を愛する人にとって、楽器を失うのは本当に苦痛です。おかあさま、彼女の治療費が大変なのはわかります。でも、彼女が愛していた音楽を持っていってしまえば、彼女はさらに病状が悪くなってしまうとおもいます。それでは、より、生活が大変になるでしょう。もう一度、考え直してやってくれませんか?」
自分の頭のどこにそんな文章があったのだろう。口のなかから勝手に飛び出し、耳で聞いているような感覚だった。それはやっぱり、「兄」がいたからだろうか。
女の子は、嬉しそうに笑った。それは、真実であった。
「そうね。なんとかしてみるわ。」
と、母親は言った。
「便利やさんの言う通り、大の勉強嫌いだったあんたが、寝食を忘れて弾いていたんだものね。薬は、ジェネリックになるかもしれないし、他にいい薬もあるのかもしれない。いいわ、取り止めにしましょう。お母さん、焦りすぎたわ。ごめんね。便利やさんには、キャンセル料払いますから。」
「いえ、いりません。」
と、正道は言った。
「お嬢さんの毎日を充実させてあげてください。」
「わかったわ。便利やさん。本当にありがとう。私も、この子がこんな重い病気にかかったと解ったばかりなので、動転してしまったんです。気づかせてくれてありがとうございます。」
「じゃあ、僕たち、帰りますので、お嬢さんと、いつまでも仲良く暮らしてください。」
正道は、なにも持たないまま、その家を出ていった。杉内が、何も言わなかったのを、全く気づいてはいなかった。
正道は、ドアをしめた。不意に後ろで、タバコの火をつける音。そして、正道の腕に、、、。
しばらくすると、立て続けに悲鳴が聞こえてきた。さらに、空っぽのトラックが走り去る音。


小さな花屋で、正代は花束を作っていた。かつて生け花を習っていたから、花束を作るのは軽々だ。もう、娼婦にはなりたくないと、彼女は、誓いを立てた。それに、40歳を越えてしまったら、もうあの業界には居づらくなる。
花束を作ったり、鉢植えを販売したり、育て方を指導したり。花というものは、本当に短いけれど、精一杯の美しさで咲いている。これが、何よりもうれしいものだった。
一方で、博一も少しずつ曲を書きはじめた。楽譜は、小島好生が調達した。好生も、正代の存在を歓迎し、博一の恋人と勘違いして、是非、うちの旅館で結婚式をあげろと囃し立てるのだった。
しかし、数日後、好生はため息をつくことが多くなり、さらには博一の顔をみると、涙を流したりするようになった。
「博一、聞いてくれよ。」
好生は、真剣な顔で言った。
「俺、近いうちにロンドンに行こうと思うんだ。」
「ロンドン?」
「ああ、尺八吹きとしてな。」
「どういうことだ。」
博一の右手から筆が落ちた。
「実は、芸大時代に加入していた、尺八の家元から連絡があって、ロンドンの子供たちに尺八を教えているのだが、後継者がほしいので、俺にきてくれないかと。」
このようなケースは、若手の少ない邦楽ではよくあることだった。
「俺、断ろうと思っていたが、親が、せっかくのチャンスなんだから、行ってこいと言うんだよ。当分お前とも会えなくなるし、、、。」
「そうか。」
と、博一はいった。
「良いじゃないか。お前もそうしなきゃ生きていけないんだ。なら、やってみろ。」
「しかし博一、お前は大丈夫なのかい?」
「ああ、いじめられたこともあったから、大丈夫だ。のび太ジャイアン症候群、なんてからかわれていたこともあるじゃないか。」
「それ、小学生の時の話じゃないか。よく覚えているな。」
「ああ。」
と、博一は笑いかけた。
「僕がのび太でお前がジャイアンだ。いじめから親友になるなんて、稀なことだぞ。」
まさしくその通りだった。小学校に入ったばかりのころ、博一は気も弱く体も弱かったので、スポーツの授業を妨害してしまうことが多く、運動の大好きだった好生にいじめられていたのだ。しかし、博一が音楽室で箏を弾いていたところを好生が見つけ、同じ音楽が大好きな人間として、大親友に変わったのである。
二人は、お互いに涙をこらえながら、笑いあった。
「いいよ、僕のことは気にせず、がんばって勉強しなさい。」
「博一、お願いがある。」
好生は、真剣な表情になった。
「これからも、ジャイアンでいたいから、俺が帰ってくるより先に、逝かないでくれ。いいか、ジャイアンからのお願いだぞ。」
「わかったよ。ジャイアン。君の強さは知ってるから。」
と、博一は苦笑いした。
「君の、リサイタルも楽しみにしてるからな。」
「ああ、じゃあ、これが最後の楽譜だ。来週にはロンドンにいくから。しばらくいないから、多めに印刷しておいた。」
と、好生は、博一の机の上に大量の楽譜を置いた。
「ありがとな、、、。」
と、博一は我慢できなくなって泣き出してしまった。
「本当は、いってほしくないよ、、、。本当に。」
「俺だっていきたくなんかない。ほんとに、ずっとお前の側にいてやれたらいいのに。」
好生も、一生懸命堪えていた。
「また、会いに来るからな。そのときは、お前も、よくなって、素晴らしい音楽を作れるような、作曲家になってくれ。ショパンに負けないくらい、きれいな曲をたくさん書いてさ、どっかの国で、いずれは古典になってくれるような、すごいのを書いてくれよ。頼むぜ。」
「うん、わかったよ。ジャイアン。」
と、博一は涙を拭いた。
「じゃあ、俺、家に用事があるから、先に帰るよ。」
好生は、手拭いで顔を拭き、博一と握手して病院をあとにした。博一は、楽譜の上に突っ伏して泣いた。正代は、いくつか質問をしたかったが、敢えて何も聞かなかった。
翌朝、正代は出勤前に博一のところへ立ち寄った。ベッドに糊で貼ったように寝ていて、食事すらろくにとれず、三分粥や重湯を食べるしかできなくなっていた。
博一は病気に負かされていた。正代がなにをいっても曖昧な返事ばかりで、もともと白かった肌は、もはや蒼白になっていた。
「先生。」
正代は質問した。
「あの、好生さんの好きなお花ってありませんか?」
「名前はしらないんですけど、あいつ、こどものころに、お母さんにくれてやるとかいって、白いはなの冠を作っていたことがありました。ああ、なんか、トランプに出てきたのと、同じ形の葉をしていたような。」
「これじゃありませんか?」
と、正代はテーブルの上に植物図鑑を置いた。博一は起き上がって、それを見ようとしたが、
「う、、、。」
と、胸を抑え、布団に倒れ混んでしまった。正代は彼の背をさすってやり、もういちど、図鑑をみせてやった。
「そうです、それを。」
しろつめくさ。クローバーと呼ばれている花だ。
「わかったわ。じゃあ、私、仕事終わったら買ってきます。それがあれば、好生さんが側にいてくれるかもしれない。」
「あ、ありがとう、、、。」
と、博一はいった。
「じゃあ、先生も、ジャイアンとの約束ごと、しっかり守ってください。せめて、あと一曲は書いてくださいよ。」
「そうだね、、、。」
博一は久しぶりに笑みをもらした。
「もう一度、高原の賦が弾けたら。もう二度とないとおもうけれど。」
「じゃあ、それに向けて頑張りましょうよ。もう一度目を冷ましてください。お願いします!」
「そうだね。」
「先生、先生のことは私が助けます。だから、もう一度、ジャイアンとの約束ごとを守るために、がんばりましょう!お医者さんたちもそれを目指しているんですから!」
「わかりました。じゃあ、今夜は重湯ではなくてくず湯を出してくれ、といっておいて。」
蒼白な顔に少し赤みがでた。
「そうですよ、そうですよ。まだ、お若いんですから、やる気を出してくださいよ、先生。」 
その日の夕食は、うどんであったが、博一は完食した。
そのつぎも、そのまた次もよく食べた。好生からもらった楽譜に、音符である数字を書き込んだ。医師たちは、これをみて、大いに驚いた。実は、医師たちも、もう曲を書くのは無理だと告げようと考えていたのである。しかし、書いたものは、明るくはつらつとしたものであり、こんな重い病気であるとは、思えないくらいだ。
数日後、博一と正代は、病院の庭を散歩した。たくさんのバラが植えられていた。
「もう、そんなたつんですか。先日まであんなに寒かったのが、もうバラが咲いてる。」 
車いすに乗った博一は、そんなことをいっていた。
「僕自身も、こんなに長くいられて良かったとおもいます。」
「先生が、前向きだからですよ。」
「来年も、ばらのはなが、見られるかな。」
「まあ、当たり前じゃないですか。ちゃんと治せば大丈夫。」
「お散歩は如何ですかな?」
医師がやってきて、博一にきいた。
「ええ、気持ちいいです。」
博一が答えると、
「じゃあ、来月の院内文化祭の、」
この医師は、前置きも何もなくいきなり本題を切り出す癖がある。まあ、難しい病気を扱う人だからだろう。
「私どもの、テーマソングをかいて頂けないでしょうか?」
「い、いや、僕はもう、、、。」
「やりましょうよ、先生。それくらい、回復したってことなんですよ!」
一生懸命、正代はしりを叩いた。
「短いものなら。」
「はい、それで構いませんよ。そんなに複雑なコード進行はしないでくださいね。私たちは素人ですから。ちょうど、看護師の一人が、お琴を習っていまして、ぜひ、彼女に演奏をしてほしいとお願いしたら、okしてくれました。」
「かいて差し上げます。」
と、博一はいった。
「さて、午後の診察だ。では、お願い致しますよ。」
医師は、そういって、病棟に戻っていった。その日から、博一は脇目もせずに曲を書きはじめた。楽譜一枚につき、半分かいては休み、一枚書いてはまた休む。二枚以上書こうとすると、呻き声をあげてしまうため、このペースでしか書くことができなかった。正代は、彼につきっきりで汗をふいたり、食事を用意したり、看護師以上に介護能力を発揮した。きつい看護師のなかには、彼女を批判する者もいたが、それでも、正代は、彼のそばにいた。
「書けた。」
博一の筆がとまった。げっそりと痩せた顔に、笑顔が戻ってきた。
「よかった、先生。」
正代の目に涙が出た。
「私、私、、、。」 
大事なことを伝えたかった。
「これが書けたから、少しはいいのかな。」
「当たり前じゃないですか!この前みたいな放心状態から、脱出したんですから!」
「大げさですよ。正代さん。」 
博一は言ったが、正代は嬉しくて仕方なかった。嬉しいのである。他の感情はない。それがあることから来ているのだ。
「先生。」
正代は、静かに言った。
「私、これからも先生のそばにいますからね。ずっと。」
「そばにって、、、。正代さんだって、、、。」
正代の目は違っていた。
「すみません。」
彼女は博一の体にてをかけた。いつも、仕事としてそうやって来たが、彼の体はまた違う気がした。
そうやって数時間、面会時間が終了するチャイムが鳴った。正代は、体を起こし、
「じゃあ、また明日来ますから、今夜はよく休んでくださいね。」
と、そそくさと帰っていった。
「またね。」
と、博一はてを振った。
その日の深夜、博一は目をさました。いつも以上に苦しかった。しかしその数分後、急に体の痛みは抜けた。体に血の気が戻ってきたようだ。そして、自分の目の前には美しい夜明けが、、、。
「おはようございます。」
と、朝の回診にやって来た看護師が博一の部屋のドアをあけると、
「ど、どうしたのですか!」 
博一は何も反応しなかった。昏睡状態に陥っていたのだ。看護師はすぐにナースステイションに走って、医師を呼び出し、医師は博一に酸素吸入や、点滴を施し、すぐに必要がある人には知らせろと命じた。
連絡を受けた正代は、猪のようなスピードで、博一のもとへ直行した。
「先生!先生!」
なんの反応もない。
「しっかりしてください!お願いします!」
必死に叫んでも届かなかった。正代がやって来て、数分後、機械のけたたましい音とともに、博一は星になってしまったのだった。
正代は、幼児のように泣きじゃくった。泣いて泣いてなき張らした。
「よかったですな。」 
と、医師はいう。
「最期を看取ってくれる人がいるわけですから。彼も幸せものですよ。」
そうだ。その通りかもしれない。
正代は、自動的に立ち上がり、葬儀社に電話をした。そして、博一を荼毘に伏した。簡単に書いているようであるが、いくら思いだそうと思っても、正代はその風景を思い出すことができなかった。そして今も思い出すことができない。確かに、博一の遺骨は墓に納められているのだから、葬儀社にいき、火葬したのであるが、、、。

「その人が、僕のパパなの?」
墓石を掃除している正代に、数一がきいてきた。
「そういうことね。」
正代は、静かに答えた。
「そうかあ。なんかカッコいいな。僕も音楽家になりたいや。」
と、数一は言うのだった。実をいうと、数一の父親ははっきりしていない。高級娼婦という仕事上、相手の子を身籠ることは、よくあり得る。しかし、正代は博一の死後、娼婦としては、身を引いてしまったので、博一の血をもらった可能性は高かった。
「ねえママ、このお花、どうしようかな。」
数一が、ダチュラを、取り出した。
「どこかの家の人が、間違えていったのかも。縁起悪いから捨てましょ。」
「僕のパパと一緒に、飾ってあげたら?」
無邪気な和一はそういう。
「だって、パパは、無縁仏さんなんでしょう?一人じゃかわいそうじゃん。おんなじ花なのにさ。」
「あんたって、変わってるけど、そういうやさしいところもあるのね。」
と、正代はそのダチュラの花を、花立に入れてあげた。
「じゃあ、お買いものして帰ろうか。」
二人は、寺院をあとにして、近くにある百貨店にいった。しかし、百貨店はいつもの雰囲気ではなかった。警察官や、報道陣がたくさん集まっていた。
「ママ、どうしたのかな。お巡りさんがあんなにたくさん。」
しかも、百貨店の入り口は、申し訳ないが、本日は臨時休業、と、かかれていた。
「な、何が起こったのでしょうか?」
正代は、近辺にすんでいる人に聞いてみた。
「誰かが百貨店の屋上から落ちたみたいですよ。」
とっさに、誰が落ちたのかわかったような気がした。
「数一、今日は他のお店にしましょう。なんだか、物騒で危ないから。」
「そうだね。」
数一も納得し、二人は別の百貨店に行き、日用品を買って、家に帰った。
「僕、見たい漫画があるんだ。」
と、数一がテレビの電源をいれた。と、いきなり先程の百貨店が写し出され、
「今朝早く、百貨店とマンションを兼ねていた建物から、飛び降り自殺とみられる、男性の遺体がみつかりました。ズボンのポケットには、遺書がみつかりまして、次のようにかかれておりました。兄ちゃん、お前を、」
数一がチャンネルを変えたため、ニュースはおわった。正代は、お前を、のあとに続く文字が、直感で浮かんだ。しかし、そんなことを気にしていては、何もならないと考え直し、ニンジンを切り始めた。

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