高原の賦

増田朋美

第五章

正代は、今日も仕事に向かった。通常の会社員が帰宅する時間が、正代の通勤時間になる。派手な着物に、濃い化粧をし、シャネルの鞄を持った彼女は、一見すると、金持ちの奥さんのように見えるが、実はそうでもない、という雰囲気も持っていた。
彼女の職場、というのは建前からすると飲食店に見えるのであるが、実は違っていた。看板には、全裸の女性の写真に花びら回転という文字。花びら回転とは、桜の花びらが回転しながら飛んでくる、という意味ではない。正代は、従業員用の入り口からそこへ入った。
「今日は新しい人がきたよ。しっかり楽しませてやって頂戴ね。」
店長の女性がそういった。
「はい、どのテーブルですか?」
正代がきくと、
「3番」
と、答えがでたため、正代は長襦袢姿になり、そのテーブルに近づいた。
「はじめまして。中村正代です。」
正代は客に礼をして、隣に座った。
「若いのね。お名前は?」
「菊川正道。」
と、客は言った。
「よろしくね、じゃあ、始めましょうか。」
正代は、正道に抱きついた。正道も、こうしてもらうことは本当に久しぶりで、嬉しさだけではなく、ある感情も生まれた。正代が、床の上に寝転んで、指を降ってそれを促すと、正道は初対面にもかかわらず、すぐに彼女にのしかかり、多分自分を作ったきっかけになってくれた行為を実行した。制限時間は30分しかなかったが、花びら回転により、同じことをもう一度やることができた。
「いいのよ、いいのよ、」
と、正代はいった。すでに40近いおばさんであったが、正道は気にしなかった。
「あたしを抱くことで、あんたが楽になってくれれば、それでいいわ。あたしは、それが仕事なんだから。」
その言葉に、正道は救われた気がして、再度正代を抱いた、というよりすがりついた。年齢が高いため、地雷と呼ばれていた正代も、この青年を抱くことに、何か使命感を覚えた。
そのうちに、時間切れと社交さんから伝えられた。
「名残惜しいわ。」
正代が言うと、
「俺もです。」
体を拭いてもらいながら正道はいった。
「また来てね。」
正代は、衣服などを着せてやり、正道は勘定を払った。正道の財布は空っぽになったが、そんなことは気にしなかった。そして、正代に見送られながら、店をあとにした。
丁度、夜が明けようとしていたころだ。久しぶりに楽しい思いをした正道は、やっと安心して眠れると喜び勇んで家に帰った。いや、帰ろうとした。
丁度、あと数百メートルで家につく頃だ。すると、道路の右側に何か大きな物体がある。そのとき、鶏がなきはじめ、だんだんに明るくなってきた。物体と思われたのは人間で仰向けに寝そべっている、というか、倒れているのだ。
「に、兄ちゃん!」
驚きはしたが、同時にある予想が浮かんだ。すると、
「お客さん!お客さん!」
と、誰かが走ってくる音がして、先程の長襦袢の女性、つまり正代がそこにいた。
「ごめんなさい、金額を書き間違えてしまって、千円余分だったから、お返ししようと思いまして、」
と、彼女は、持ってきた千円札と、領収証を手渡そうとしたが、同時に彼の足下をみて、倒れている人間の顔を見た。
「あ、菊川博一先生じゃないですか!」
「どうして、兄の名を知っているんですか!」
「ええ、私、先生のCDを持っているんです。高原の賦ですけど、」
「また、何で俺の邪魔ばかり、」
「いえ、」
正代は、博一の口元に耳をつけた。
「辛うじて、まだ息があります。中央病院に行きましょう。すぐのところですから、救急車をまっていたら、遅すぎる。」
「兄はまだ死んでは、、、。」
「いきようとして苦しんでいるのに、そんなこと言わないの!わかりました、それなら私がつれていきます。」
正代は、そう言って、博一を持ち上げた。へちまのように、体重は軽かった。そして、病院に向かって走っていった。正道は嫌々ながらあとに続いた。
病院にたどり着き、博一は一命をとりとめた。しかし、病状は深刻であった。
「まったく!」
医者は雷のようにいった。
「どうしてここまで放置したんですか!心臓がメロンより大きいほど肥大しています。弟さんがいてくれたのが、信じられませんね!」
「何で俺ばっかり責められなきゃいけないんですか!まだ18なのに、やりたいことを持ってはいけないのですか!みんな俺が兄のために働いているというと、偉いねというけれど、自分のために何かしたいといいだすと、悪いやつだという!そんなに、付属品になることは美しいのでしょうか!」
正道は遂に怒鳴り付けた。
「君は、もう少し立場をわかった方がいい。」
医師は静かに言ったが、正道の怒りはさらにつのった。
「わかりました!じゃあ、解放させていただきます!ここで!兄がよくなるまで、預かってください!」
そのまま踵を返し、雨の振りだした道路に飛び出していった。
博一は残った。
正代は、状況をある程度直感的に理解した。博一は、処置室にある布団で苦しそうにあえいでいる。
「入院の手続きをすすめてください。」
正代はきっぱりと言った。
「あたしが、介護人になります。お代だってありますから。」
それは本当のことだ。独り者の彼女にはありすぎるほど、収入がある。話はとんとんと決まり、博一は個室に移された。横になっても苦しいようで、ぜいぜいとあえいでいた。こうなる理由を正代は知っている。横になると、下半身から急激に血液が流れ込んでくるため、心臓が処理しきれないのだ。
「先生、大丈夫ですか?」
思わず口にしてしまった。
「先生、、、?」
初めて正代の方を見た。
「はい、あたしは、中村正代です。先生をここまでつれてきたんです。」
「そうですか。こんなところ、、、僕にはふさわしくありません。あのとき、道路で野垂れ死にしていればよかったんです。僕のせいで、弟がどれだけ辛い思いをしたか。弟の、大学受験さえも、僕は奪ってしまいました。ほんとに、情けない兄貴ですよ。」
正代はそれをきいて、この人物は気取り屋ではないし、家族に対する思いもちゃんとあることがわかった。基本的に、先生と呼ばれる人は、いつも威張っていて、どこかしら支配的に振る舞うものだ、と、解釈していた。それは、中退した高校でよくわかっていた。しかし、この人は違う。
「もう、迎えも来るんですかね。父も、母も、妹も、みんな僕が殺してしまいました。だからこそ、こんな病気を発病したのかな。」
「どうして、悪くなるまで放置していたんです?」
「だって、自分のせいで、他の人に迷惑をかけてはいけませんから。芸大までいったけど、家族には申し訳ない思いをさせました。だから、その罰だと、静かに受け止めています。もう、最期だなと。悪人は誰も回りにいないのに、こうなってしまうのは、やはり僕が悪いことをしたとしか、思えないんですよね。」
本来なら誰のせいでもない。その通りなのだ。しかし、そうできないのを正代は知っていた。静かに受け止めるなんて、簡単にできることではなかった。
「レベルの高い人ね。」
正代は、軽く笑った。
「でも、罰は受けなきゃ。それが、正道に対する償いだと思うんですよ。」
「正道さんって、どんな人なんですか?」
正代は、面白半分にきいた。
「繊細な子でしたよ。男にはめずらしく。もっぱら妹が世話してましたけどね。まあ、あいつがやんちゃ盛りのときに、僕は芸大受験でしたので、何にも世話をしてやれなかったですけど。でも、あいつは、僕が入試の日に、妹がカレーを食べたいと言い出して、泣き出したときに、姉ちゃん、兄ちゃんが受験だから、よしにしてやろうぜ、と、言ったんです。それだけでしたけど、ほんとに、嬉しかったな。」
「たったそれだけのことをうれしいというのですか?」
「ええ。弟は、ほんとにさみしがりで。末っ子というのは、そういうものかも知れないけど、かわいかったですよ。」
「そうなんですか。あの態度からみると、正直申し上げて、上品とは思いませんでしたわ。すごく反抗的だったし、先生がここまで悪いのを受け入れない目付きでしたけど。 」
「いえいえ、繊細な子ですから、ああして言えたら文句なしです。18になって、自分の言いたいことが言えない方が、おかしいですよ。あいつのことですから、すぐ帰ってくると思いますよ。」
「そうですか、、、。私は、一人っ子だったから、反抗なんてしている暇がありませんでした。ただ、親の言う通りにしていれば、幸せになれるとおもってたのに。それが全然役にたたないで、結局、自分の道は、こんな汚い仕事につくしかありませんでしたわ。」
「いえいえ、生きてくためには仕方ないこともありますよ。少なくとも僕は偏見はありませんので。そういう人たちにたいしてはね。」
「ま、ま、まあ、、、。」
正代は言葉に詰まってしまった。
「格好でよくわかりました。でも、そういう人のほうが、苦労を知ってますから。僕はそう思いますよ。」
「あ、ありがとうございます。そういう人っていうけど、私はもう若くないんですよ。もうすぐ40になろうとしているのに、ピンサロですもの。」
「なるほど、椿姫の主人公とにたようなものですか。」
「まあ、そういうことになりますわ。」
看護師がやってきて、
「すみません、もうしばらくすると、消灯のお時間ですが。」
「わ、わかりました。私、帰ります。なるべく毎日来ますから、先生もどうかお大事になさってください。」
「はい、また明日。」
「中村さん、付き添ってくれるのはありがたいのですが、次回からその、ぞろっとした格好はやめていただきたいんですけど、」
看護師が文句をこぼしたので、博一は少し笑ってしまった。
「わかりました、明日はちゃんとします。じゃあ、先生、また明日。」
正代は、長襦袢のまま、立ち去っていった。外は寒かったが、心はぽかぽかと、暖かかった。

正道は、手元に残ったわずかな金で、新幹線に飛び乗った。もう、こんな辺鄙な町にはいられない。東京なら働くところくらいあるだろう。そう思うと、やっと、楽になれたのだった。
東京についた。とりあえずその日は、カプセルホテルにとまった。翌日、無料の求人雑誌をもとめ、片っ端から電話をした。しかし、年齢や学歴も不問、という仕事はなかなかない。女性のように、体を売るのはできない。
十回目に、年齢学歴不問、住み込み可、食事支給、というところへ電話すると、
「いつから働けますか?」
と、聞かれた。
「はい、すぐにいきますが。」
と、答えると、
「じゃあ、来てくれます?」
という。喜び勇んで正道は、指定された渋谷駅にいった。
渋谷にいくと、若い男性が近づいてきて、
「あなたが、菊川さん?」
といった。
「はい、僕が菊川正道ですが。」
正道はおそるおそる答えた。
「私、代表取締役のものです。杉内ともうします。」
杉内は、物腰がやわらかく、悪い人のようにはみえなかった。
「で、仕事というのは?雑誌には、遺品回収とありましたが。」
「そうなんですよ。」 
杉内は、歩きながらいった。正道もつづいた。
「先月、この会社を立ち上げたばかりでして、お若いかたが連絡くださってうれしいです。仕事というのはですね、おもに一人で暮らしていて、亡くなった高齢者の遺品を、処理所に持っていくことです。いまは、結婚しない高齢者もいますし、ご家族がいても、単にお荷物さんである場合がほとんどですから、依頼は結構あるんですよ。丁度 、本日も一件ありますので、いってみますか?」
「わかりました。やります。」
正道は、即答した。
「じゃあ、いきましょうか。」
二人は、道路を歩いてあるアパートにいった。杉内が合鍵で部屋を開けると、木彫りが趣味の人だったのだろうか、手鏡や小さな箪笥がおかれているとともに、本格的な彫刻刀が置いてあった。
「鎌倉彫りだ。」
思わず呟いた。鎌倉彫りといえば、日本を代表する彫刻である。杉内は、それらをとりあげ、乱暴に袋に入れていった。
「一週間前に、脳出血で死んだんですよ。家族もいないそうで、早く始末してくれ、と、管理人さんにいわれていますのでね。」
まるで、雑草を抜くように、杉内は袋にぶちこんでいった。
「ほら、てつだってくださいよ。」
杉内は、正道に袋を渡した。
正道は、小さな手鏡を手に取った。精巧に桜の花を彫刻した鏡は、きっとお母さんが娘にプレゼントするか、あるいは逆だろう。これがごみとして、捨てられてしまうのか。正道は、躊躇したが、すぐに袋に放り込んだ。鏡は、ガチャン!と、おとをたてて割れた。
他にも、作品はまだまだあった。それをみていると、正道は、何となく悲しい気がした。
「悲しんではだめですよ。日本は、伝統を作りすぎて、西洋に比べたら、遅れているんですから。それに、甘えて生きるのはやめましょう。」
と、杉内は当然のように言った。
うん、そうだ。そうしよう。と、正道は決意した。同時に、これで兄とは正反対な生活ができる、と、思った。
翌日、正道は杉内と一緒に仕事に向かった。次の依頼品は、少しばかり大きなものであるが、と、依頼者はいった。
「大丈夫ですよ。こと、くらいならこちらでお引き取りできます。」
「こと!」
正道は驚いて、声をあげた。
「持ってきてもらえますか?」
杉内は、当然のようにいう。依頼人はその物体を持ってきた。まさしく、箏であった。
「認知症だった母が、もっていたものです。本人のはなしですと、私が生まれる前から弾いていたそうですが、それは、認知症でしたから、真偽はわかりません。いずれにせよ、置き場に困るし、私もやっと介護から開放されたのですから、思いでなんかいりません。持っていってください。」
杉内は、わかりましたといったが、その箏は、修理をすれば演奏できそうなものであった。
「もったいないな、、、。」
思わず口に出てしまった。兄がいたら、湯気をたてて怒るだろう。
「ほら、持っていってくださいよ、菊川さん。これひとつじゃないんですから!」
「一つじゃないんですか!」
正道はさらに驚いてしまった。
「ええ。お稽古してましたから。なんだか師範とか持っているらしいですけど、それのせいで、私は何度さびしい思いをしてきたのでしょう。まったく、憎たらしいものですよ。」
うん、それはそうだ。よくわかる。と、正道は言いたくなったが、言葉が出ないのだった。箏は、四面あった。杉内はごみのように、運び出していく。
「杉内さん、これ、邦楽器に出したらどうですか?」
正道は思わずきいた。
「ほうがっき?なんですかそれは。音楽なんて、なんのやくにもたちますまい。」
杉内は笑って答えるのであった。
「まあ、古いものを販売する商売もありますが、そうしたら、こちらもまたお金をとられなきゃなりませんからね。」
「そうですか、、、。」
「ボケッとしないでくださいね。次の依頼もあるんですよ。ぼんやりしないで、さっさとやりましょう。」
杉内は、引き取った箏四面を、乱暴に車にのせて、エンジンをかけた。
「どうもありがとうございます。」
依頼人の丁重な返事をあとに、車は走り去っていった。
「菊川さんよ、」 
杉内は、運転しながらタバコに火をつけた。
「はやく、運び出しを覚えてもらいたいもんだ。なんで、さっきはモアイ像みたいにつったっていたんだ?」
「それは、、、。」
「あれは、みんな要らないものなんだぜ。要らないからうちへ電話するんだから。」
「これから、焼却所にいくんですよね?」 
「当たり前じゃないか。」
「なんだか、大事なものが必要ないになってる気がして。」
「それをいったらおしまいさ。そうじゃなきゃ、俺たちは仕事ができない。」
「そうですか。」
正道はそれだけいった。仕事はやめない、自立するんだから。それだけを考えよう。そう思った。

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