高原の賦
第四章
正道は、コンビニのアルバイトを開始した。予備校は中止した。でないと電気代もガス代も払えなくなるからだ。予備校がわには、もっとよい所があったから、と言ったが、講師にこっぴどくしかられるはめになった。
アルバイト時間は、夜の六時半から翌朝一時まで。時給は一時間に千円程度あったから、かなりの収入が得られたが、ほとんどは兄に持っていかれてしまった。さらに、電気代やら何やらで、自分の手元には何一つ残らなかった。
博一のほうは、相変わらず作曲を続けていた。大学院時代に、あるNPO法人に加入していたから、そこそこ作曲の依頼はあった。それは、子供に邦楽を伝えるための、作曲者の集まりのようなもので、子供向きの、箏の練習曲をよく委嘱されていた。それのお陰でか、博一も生活にメリハリがつき、簡単な料理等ができるようになっていた。
その日も、正道が起きると、豚汁のにおいがしていた。
「おはよう。」
博一が味噌汁を作っていた。
「兄ちゃん、体調は良いのかい?」
正道がきくと、
「ああ、この前もらった薬がかなり効いたらしい。」
と、返ってきた。
「今日、」
博一は続けた。
「浜松いってくる。」
「浜松?何をしにいくんだ?」
「ああ、打ち合わせだよ。浜松祭りで、演奏会が行われるからね。その、曲をつくらなきゃいけないんだ。依頼人の方にあいに行ってくるよ。」
「どうやっていくんだ?」
「十時の東海道線でいく。もう、指定席もとってある。」
と、きっぱりと返ってきたので、正道は、大丈夫だろうと思った。
「わかった。帰りは遅くなるのか?」
「五時には戻るよ。晩御飯は、うな重でも買ってくるよ。」
うな重!ごちそうである。毎日、カップラーメンの正道にとっては、天からのパンのようだ。
「おう、じゃあ、よろしくな。」
正道は、鞄を持って、学校に出掛けていった。
昼休み、正道の携帯電話が鳴った。いや、鳴っていた。電話のランプで鳴るのはわかるが、授業中には音のでない設定になっている。正道は、気がつかなかった。
授業が終わった。五時を過ぎているから、兄はもう戻っているはずだ。再び自転車に乗り、家に帰った。
しかし、家に帰ると、明かりがついていない。玄関のドアをあけようとすると、まだ錠がかかっている。おかしいな、と思い、兄の携帯に電話した。
「もしもし、兄ちゃん?」
「あ、弟さんですか?」
電話の声は女性であった。
「あれ、番号を間違えたかな?」
と、正道は携帯を見直した。しかし、番号は間違ってはいない。
「ご安心ください、お兄さん、意識が戻りましたから。」
「い、いしきがもどった?」
「はい、お兄さん、つまり菊川さんですよね。浜松駅で倒れているところを駅員さんに発見していただいて、こちらに運んでもらったので、大事には至らずにすみました。」
「あの、そちらは、」
「遠州病院です。お昼前にこちらに運び込まれて、しばらく昏睡状態でしたけど、三時頃に意識が戻り、歩けるようになりました。本来は、1日くらいこちらで様子を見たかったのですが、菊川さんが家にかえるといって聞かないものですから、迎えに来ていただきたくて、何度かお電話させていただいたのですが、、、。」
嘘だろう、なんてことなんだ、うな重どころか、自分まで浜松にいかなきゃいけないとは!
「迎えに来ていただけますか?一人で電車に乗ると、危険が増しますから。」
受付は当然のようにいった。
「でも、家族がいない人もいますよね。」
思わず反論すると、
「はい、おりますよ。でも、そういう場合は、ホームヘルパーを頼むとか、工夫をします。しかし、それに任せきりでは困ります。それに、お兄さんの年齢ですと、ホームヘルパーはつけられません。」
と、いわれる。
「じゃあ、家族の僕は何をしてもいけないんですか?」
「だって、兄弟なんですから、お互いの世話をするのは、あたりまえじゃないですか。福祉制度が何でもしてくれるかというと、そうではないんですよ!はやく、迎えにきてくださいね!」
と、電話はがちゃりと切れた。
正道は、しかたなく駅へむかって歩いていった。切符を買うために、大変な額を使ったため、夕食はおむすびを一つかっただけだった。浜松行きの電車は、二時間ちかくかかり、気の遠くなるような時間だった。
駅へ出ると、あたりは真っ暗だった。正道は、遠州鉄道をのりついで病院に行き、受け付けに、兄を迎えにきたというと、ブスッとした顔で、案内した。
「ごめんね。」
兄は処置室の椅子に座っていた。正道は、思わず殴り付けてやりたかった。
「お帰りは、新幹線ですか?」
と、看護師がきいてきた。
「いえ、在来線です。」
と、答えると、
「新幹線で帰ってもらえませんか。二時間以上移動すると、心配なんですよ。」
と、来る。
「わかりました。そうします。」
と、兄は言った。じゃあ俺は一人で帰る、とは、言えない雰囲気であるのはすぐにわかった。
「くれぐれも、大事にしてくださいね。ここまで悪いのは正直、何年ぶりか、という感じですよ。症状が小さいうちに対処するのが、難病の大切なところですからね。」
看護師は、親切で言ってくれているのはよくわかるが、正道は、受け入れられなかった。
「じゃあ、帰ろうか。兄ちゃん。」
「ありがとうございます。」
博一は、看護師に頭を下げると、病院を出ていった。正道もそれに続いた。幸い、兄が持っていた金で、二人分の新幹線代は賄えたが、それも、出所は貯金である。
「兄ちゃん、もう二度と行かないでくれよ、こんな遠いところ。」
苛立った正道は、そういったが、博一は答えなかった。
翌日も、正道は、学校へいかなければならなかった。眠い頭を叩きながら、裸足で教室に入ると、
「心優しい方は恵んであげてください!」
と、首回りに箱を吊るした女子生徒たちが、囃し立てていた。
「しょうがないな、全くよ。」
男子生徒たちが十円、一円を入れていくのである。正道が入っていくと、
「はい、正道さんへ、みんなからの寄付です!」
と、箱が正道の机の上に置かれた。
「この、や、ろ、う!」
正道は、思わず、女子生徒を殴り付けた。
「痛い、何すんの!」
しかし、怒りは収まらず、女子生徒たちを次々になぐりつけた。その時は英雄気分だった。
「こら、なにをやっているんだ!」
担任教師が怒鳴り付た。
「一体、どうしたんだ、菊川!」
正道が我に帰ると、殴った生徒たちの顔にアザができている。
「こっちへ来い!」
と、担任教師は、彼の手を引っ張って職員室に連れていった。教師にこっぴどく叱られたが、何を言われたのかは覚えていない。まあ、国立を目指しているのだろ、とかである。お前は優等生なんだから、どうしてそんなに怒鳴ったのか、などであった。
正道は、窮屈そうに沈んでいく夕日を浴びながら家に帰った。
「お前の兄貴は、あんなに抜群の成績だったのだから、弟のお前もしっかりせい!」
さきほど言われた台詞が思い出された。
家に入ると、カレーのにおいが充満していた。時おり箏のおとも聞こえてくる。ロンドンのよるのあめ、という曲であった。
「よ、お帰り。」
出迎えたのは好生だった。
「好生さんどうしたんですか?」
正道がきくと、
「いや、こいつがさ、呼び出したから。カレーをつくってやってくれと。」
「兄ちゃん!」 
思わず声が出た。
「いいってことよ。俺が料理するなんて、こんなときだけだからさ。家では母ちゃんもいるし、作る人はいるからね。だからこうして、助けてやろうと思ってさ。おれは、篤志家だ。金なんていらん。」
「材料費とかは?」
「いらないよ。旅館で余った食品はなんぼでもある。」
といって好生はご飯の乗ったさらに、カレーをかけた。
「ほら食べろ。」
と、テーブルに、皿を三つ置いた。
「博一、練習は終わりにしろ。また、倒れるぞ。」
音が止まって、博一が食堂にやってきた。
「ちょっとまって、好生さん、もうひとつは誰が食べるんだ?」
「俺さ。あたりまえじゃないか。」
その口調に正道は、頭にきた。
「じゃあ、好生さんは、俺たちの食材で自分のカレーを食べるのか。悪いんだけど、俺たちのものをつくったら帰ってくれないか?」 
「何でだ?博一がひとりぼっちで食事しているなんて、寂しいじゃないか。おれは一人っ子だから、一人で食事の寂しさはよくわかるもの。博一にそんな思いはさせたくないよ。」
「いや、好生さんは余計なお節介だ!しかも、俺たちの食品を食べていくなんて、汚いぞ!第一、その食事はな、俺が稼いだ金でできているんだから、俺が決定する権利はある!出ていけ!」
「正道くん、」
好生は静かに言った。
「いまは、仕方ないと受け入れてやってくれ。」
「学校は、どうするんだよ。俺だって東大に、」 
「通信制というてもあるし、定時制だっていいじゃないか。あるいは、大検をとることでも、大学に入れるよ。いまは、辛いかもしれないが、博一がよくなって、周りのことができるようになれば、また大学にいけるかもしれない。いまは、しばらく辛抱しろ。俺の母ちゃんも、ばあちゃんが認知症になってから、高校中退して介護をしていたそうだが、大検を取り直して、三十を越えてから、大学に行ったぞ。三十を越えてからの大学受験なんて、これからは、当たり前になるんじゃないのか。」
「あのなあ、俺たちはそういう、恵まれた身分じゃないんだ!俺たちは、毎日食べていくので精一杯なんだから他人に余分な食料を供給していたら、こっちが損をすることになる。」
「しかし、お前も、そんなこと言ってたら、博一は、」
急にロンドンの雨は止んだ。
「俺がいく。」
正道は、言った。
「おい、正道、あんまり怒らないでやってくれよ、最近発作数も増えてるぞ。」
と、好生は言う。
「余計なお節介はしないでくれ。他人に気持ちがわかるはずはないんだから。」
といい、正道は兄の部屋にいった。いつも通り兄は箏に突っ伏していたが、正道は薬を放り投げただけだった。
戻ってくると、好生の姿はなかった。テーブルの上に、余計なことをしてごめん、もう来ないから、など書かれたメモ書きがあったが、正道は読まずに捨ててしまった。
次の日も、正道は学校にいき、辛い授業をしっかりとうけてきた。そして、儀式のようにコンビニでアルバイトをしていた。すると、一人の女性が、店にやってきた。それまでの不良みたいな客とは偉い違いの風貌で、高級な着物を身に付けていた。多分、茶道や華道に携わる人だろう。
「マイルドセブンを一箱。」
正道がそれを出すと、その女性は、正道の顔をしげしげと見た。
「もしかしたら、」
と、いきなりいわれた。
「菊川博一君の弟さんかな?」
「ど、どうしてわかるんです?」
正道があっけにとられていると、
「やはりそうでしたか。何となく顔つきが似たようなきがするなあと、思ったのよ。」
と、答えが出た。
「兄とは、、、。」
「ええ、彼は、芸大時代に、私が教えていたから。私は、教授の桂さとみ。」
なるほど、そういうことだったのか。
「彼は大丈夫?最近かなり悪くなったと、小島から聞いたから。もしかしたら、入院でもしたの?」
「いまは、家に居ますけど、、、。」
「ちょっと時間くれない?」
と、さとみは言った。正道はさとみから煙草の代金をうけとると、店長に許可をもらい、そとへ出させてもらった。
「いまは、家に居るっていってたけど、」
さとみは、買った煙草を吸いながら言った。
「小島から、細かいことは聞いてるわ。もし、可能であれば、バチスタとか、やらせてあげなさいよ。彼の場合、バチスタか、心臓移植しか手段がないんじゃないかしら。いまは、医療もいいし、若いんだから多少の痛みはあったとしても、立ち直れると、思うわよ。そして、まだまだ演奏会もやれるだろうし。彼の、高原の賦、私もききたいしね。」
「そうなんですけど、」
正道はつよく拳を握りしめた。みんな誰もがそういう。その人たちは、みんな自分のことには、触れてくれない、兄のことだけなのだ。なによりも自分が生活費を稼いでいるのに、その苦労は誉めてはくれず、金をむしりとっていく兄のことばかり心配する。それが本当に悲しく、つらく、また憎たらしいのであった。兄は本当に偉い人なのだろうか。金を作っている自分の方が、よほど実用的なのに、、、。それについて偉いといわれたことはほとんどない。
「その、手術を受けさせるには、何かが、必要なんです。そのために、働いているのに。本当は、もう受験生のはずが、」
「そうかあ、」
さとみは、煙草を、携帯用の灰皿に押し付けた。
「ごめんなさい、理想論ばかり言ってしまって、、、。じゃあ、とりあえずこれで生活の足しにしてちょうだい。返済は気にしないでいいわ。ほんとに、お兄さんの治療費は、バカにならないかもしれないけど、病気って、かかった本人が一番辛いのよ。それなのに、家族に迷惑をかけるって、自分を思い詰めて、そのあげく自殺って言う例もあるから、お兄さんの力になってあげてね。これ、少しだけど、何かに使ってちょうだい。」
と、財布をあけて、三万円を正道にくれた。
「いりませんよ、こんなもの!」
正道は怒りにまかせて叫んだ。
「何で?大変なんでしょう?頼っていいのよ。そういうときは。」
「結構です。他人の同情なんていりません。篤志家と言う人は、ただ同情して、自分が偉いと思い込んでいる、エゴイストのようなものですよ。そんな人からお金をもらったって、なんにも嬉しくありませんから!もう、兄には関わらないでくださいね!」
と、三万円をさとみに投げつけた。
「こら、何をしている!」
突然、店長のこえがした。周りをみると、客たちがあっけにとられて様子をみている。
「あの子、東大へいくっていってた子だよね。」
「高校、やめたのかしら。それにしても、偉いかたのご親切を断るなんて、無礼な子だわ。」
と、客がしゃべっている声も聞こえてきた。
「仕事ないに、私情を持ち込むようでは困るね、もう来なくていいから、他のところをさがしなさい。先日、ここで働きたいと言う申し出があったから、丁度いいことだ。」
店長はそういい、正道の制服を無理やり脱がせ、鞄を放り投げた。コンビニのドアは閉じて、いつも通りに戻ってしまった。さとみの姿はどこにもなかった。
正道は、とぼとぼと歩いた。もう夜遅くなので、カフェなども閉まっていた。どうしようかと悩む体力もなく、ただ、機械のように夜の道を歩いていくと、明かりがついている区間があった。兄のことがあるので、すぐ帰らなければならないが、なぜか足がそこへ行ってしまった。そこは、小規模な店が多かったが、花びら回転だの、指名料無料だの、看板に変な言葉が連なっていた。正道は、その店のひとつに入っていった。
アルバイト時間は、夜の六時半から翌朝一時まで。時給は一時間に千円程度あったから、かなりの収入が得られたが、ほとんどは兄に持っていかれてしまった。さらに、電気代やら何やらで、自分の手元には何一つ残らなかった。
博一のほうは、相変わらず作曲を続けていた。大学院時代に、あるNPO法人に加入していたから、そこそこ作曲の依頼はあった。それは、子供に邦楽を伝えるための、作曲者の集まりのようなもので、子供向きの、箏の練習曲をよく委嘱されていた。それのお陰でか、博一も生活にメリハリがつき、簡単な料理等ができるようになっていた。
その日も、正道が起きると、豚汁のにおいがしていた。
「おはよう。」
博一が味噌汁を作っていた。
「兄ちゃん、体調は良いのかい?」
正道がきくと、
「ああ、この前もらった薬がかなり効いたらしい。」
と、返ってきた。
「今日、」
博一は続けた。
「浜松いってくる。」
「浜松?何をしにいくんだ?」
「ああ、打ち合わせだよ。浜松祭りで、演奏会が行われるからね。その、曲をつくらなきゃいけないんだ。依頼人の方にあいに行ってくるよ。」
「どうやっていくんだ?」
「十時の東海道線でいく。もう、指定席もとってある。」
と、きっぱりと返ってきたので、正道は、大丈夫だろうと思った。
「わかった。帰りは遅くなるのか?」
「五時には戻るよ。晩御飯は、うな重でも買ってくるよ。」
うな重!ごちそうである。毎日、カップラーメンの正道にとっては、天からのパンのようだ。
「おう、じゃあ、よろしくな。」
正道は、鞄を持って、学校に出掛けていった。
昼休み、正道の携帯電話が鳴った。いや、鳴っていた。電話のランプで鳴るのはわかるが、授業中には音のでない設定になっている。正道は、気がつかなかった。
授業が終わった。五時を過ぎているから、兄はもう戻っているはずだ。再び自転車に乗り、家に帰った。
しかし、家に帰ると、明かりがついていない。玄関のドアをあけようとすると、まだ錠がかかっている。おかしいな、と思い、兄の携帯に電話した。
「もしもし、兄ちゃん?」
「あ、弟さんですか?」
電話の声は女性であった。
「あれ、番号を間違えたかな?」
と、正道は携帯を見直した。しかし、番号は間違ってはいない。
「ご安心ください、お兄さん、意識が戻りましたから。」
「い、いしきがもどった?」
「はい、お兄さん、つまり菊川さんですよね。浜松駅で倒れているところを駅員さんに発見していただいて、こちらに運んでもらったので、大事には至らずにすみました。」
「あの、そちらは、」
「遠州病院です。お昼前にこちらに運び込まれて、しばらく昏睡状態でしたけど、三時頃に意識が戻り、歩けるようになりました。本来は、1日くらいこちらで様子を見たかったのですが、菊川さんが家にかえるといって聞かないものですから、迎えに来ていただきたくて、何度かお電話させていただいたのですが、、、。」
嘘だろう、なんてことなんだ、うな重どころか、自分まで浜松にいかなきゃいけないとは!
「迎えに来ていただけますか?一人で電車に乗ると、危険が増しますから。」
受付は当然のようにいった。
「でも、家族がいない人もいますよね。」
思わず反論すると、
「はい、おりますよ。でも、そういう場合は、ホームヘルパーを頼むとか、工夫をします。しかし、それに任せきりでは困ります。それに、お兄さんの年齢ですと、ホームヘルパーはつけられません。」
と、いわれる。
「じゃあ、家族の僕は何をしてもいけないんですか?」
「だって、兄弟なんですから、お互いの世話をするのは、あたりまえじゃないですか。福祉制度が何でもしてくれるかというと、そうではないんですよ!はやく、迎えにきてくださいね!」
と、電話はがちゃりと切れた。
正道は、しかたなく駅へむかって歩いていった。切符を買うために、大変な額を使ったため、夕食はおむすびを一つかっただけだった。浜松行きの電車は、二時間ちかくかかり、気の遠くなるような時間だった。
駅へ出ると、あたりは真っ暗だった。正道は、遠州鉄道をのりついで病院に行き、受け付けに、兄を迎えにきたというと、ブスッとした顔で、案内した。
「ごめんね。」
兄は処置室の椅子に座っていた。正道は、思わず殴り付けてやりたかった。
「お帰りは、新幹線ですか?」
と、看護師がきいてきた。
「いえ、在来線です。」
と、答えると、
「新幹線で帰ってもらえませんか。二時間以上移動すると、心配なんですよ。」
と、来る。
「わかりました。そうします。」
と、兄は言った。じゃあ俺は一人で帰る、とは、言えない雰囲気であるのはすぐにわかった。
「くれぐれも、大事にしてくださいね。ここまで悪いのは正直、何年ぶりか、という感じですよ。症状が小さいうちに対処するのが、難病の大切なところですからね。」
看護師は、親切で言ってくれているのはよくわかるが、正道は、受け入れられなかった。
「じゃあ、帰ろうか。兄ちゃん。」
「ありがとうございます。」
博一は、看護師に頭を下げると、病院を出ていった。正道もそれに続いた。幸い、兄が持っていた金で、二人分の新幹線代は賄えたが、それも、出所は貯金である。
「兄ちゃん、もう二度と行かないでくれよ、こんな遠いところ。」
苛立った正道は、そういったが、博一は答えなかった。
翌日も、正道は、学校へいかなければならなかった。眠い頭を叩きながら、裸足で教室に入ると、
「心優しい方は恵んであげてください!」
と、首回りに箱を吊るした女子生徒たちが、囃し立てていた。
「しょうがないな、全くよ。」
男子生徒たちが十円、一円を入れていくのである。正道が入っていくと、
「はい、正道さんへ、みんなからの寄付です!」
と、箱が正道の机の上に置かれた。
「この、や、ろ、う!」
正道は、思わず、女子生徒を殴り付けた。
「痛い、何すんの!」
しかし、怒りは収まらず、女子生徒たちを次々になぐりつけた。その時は英雄気分だった。
「こら、なにをやっているんだ!」
担任教師が怒鳴り付た。
「一体、どうしたんだ、菊川!」
正道が我に帰ると、殴った生徒たちの顔にアザができている。
「こっちへ来い!」
と、担任教師は、彼の手を引っ張って職員室に連れていった。教師にこっぴどく叱られたが、何を言われたのかは覚えていない。まあ、国立を目指しているのだろ、とかである。お前は優等生なんだから、どうしてそんなに怒鳴ったのか、などであった。
正道は、窮屈そうに沈んでいく夕日を浴びながら家に帰った。
「お前の兄貴は、あんなに抜群の成績だったのだから、弟のお前もしっかりせい!」
さきほど言われた台詞が思い出された。
家に入ると、カレーのにおいが充満していた。時おり箏のおとも聞こえてくる。ロンドンのよるのあめ、という曲であった。
「よ、お帰り。」
出迎えたのは好生だった。
「好生さんどうしたんですか?」
正道がきくと、
「いや、こいつがさ、呼び出したから。カレーをつくってやってくれと。」
「兄ちゃん!」 
思わず声が出た。
「いいってことよ。俺が料理するなんて、こんなときだけだからさ。家では母ちゃんもいるし、作る人はいるからね。だからこうして、助けてやろうと思ってさ。おれは、篤志家だ。金なんていらん。」
「材料費とかは?」
「いらないよ。旅館で余った食品はなんぼでもある。」
といって好生はご飯の乗ったさらに、カレーをかけた。
「ほら食べろ。」
と、テーブルに、皿を三つ置いた。
「博一、練習は終わりにしろ。また、倒れるぞ。」
音が止まって、博一が食堂にやってきた。
「ちょっとまって、好生さん、もうひとつは誰が食べるんだ?」
「俺さ。あたりまえじゃないか。」
その口調に正道は、頭にきた。
「じゃあ、好生さんは、俺たちの食材で自分のカレーを食べるのか。悪いんだけど、俺たちのものをつくったら帰ってくれないか?」 
「何でだ?博一がひとりぼっちで食事しているなんて、寂しいじゃないか。おれは一人っ子だから、一人で食事の寂しさはよくわかるもの。博一にそんな思いはさせたくないよ。」
「いや、好生さんは余計なお節介だ!しかも、俺たちの食品を食べていくなんて、汚いぞ!第一、その食事はな、俺が稼いだ金でできているんだから、俺が決定する権利はある!出ていけ!」
「正道くん、」
好生は静かに言った。
「いまは、仕方ないと受け入れてやってくれ。」
「学校は、どうするんだよ。俺だって東大に、」 
「通信制というてもあるし、定時制だっていいじゃないか。あるいは、大検をとることでも、大学に入れるよ。いまは、辛いかもしれないが、博一がよくなって、周りのことができるようになれば、また大学にいけるかもしれない。いまは、しばらく辛抱しろ。俺の母ちゃんも、ばあちゃんが認知症になってから、高校中退して介護をしていたそうだが、大検を取り直して、三十を越えてから、大学に行ったぞ。三十を越えてからの大学受験なんて、これからは、当たり前になるんじゃないのか。」
「あのなあ、俺たちはそういう、恵まれた身分じゃないんだ!俺たちは、毎日食べていくので精一杯なんだから他人に余分な食料を供給していたら、こっちが損をすることになる。」
「しかし、お前も、そんなこと言ってたら、博一は、」
急にロンドンの雨は止んだ。
「俺がいく。」
正道は、言った。
「おい、正道、あんまり怒らないでやってくれよ、最近発作数も増えてるぞ。」
と、好生は言う。
「余計なお節介はしないでくれ。他人に気持ちがわかるはずはないんだから。」
といい、正道は兄の部屋にいった。いつも通り兄は箏に突っ伏していたが、正道は薬を放り投げただけだった。
戻ってくると、好生の姿はなかった。テーブルの上に、余計なことをしてごめん、もう来ないから、など書かれたメモ書きがあったが、正道は読まずに捨ててしまった。
次の日も、正道は学校にいき、辛い授業をしっかりとうけてきた。そして、儀式のようにコンビニでアルバイトをしていた。すると、一人の女性が、店にやってきた。それまでの不良みたいな客とは偉い違いの風貌で、高級な着物を身に付けていた。多分、茶道や華道に携わる人だろう。
「マイルドセブンを一箱。」
正道がそれを出すと、その女性は、正道の顔をしげしげと見た。
「もしかしたら、」
と、いきなりいわれた。
「菊川博一君の弟さんかな?」
「ど、どうしてわかるんです?」
正道があっけにとられていると、
「やはりそうでしたか。何となく顔つきが似たようなきがするなあと、思ったのよ。」
と、答えが出た。
「兄とは、、、。」
「ええ、彼は、芸大時代に、私が教えていたから。私は、教授の桂さとみ。」
なるほど、そういうことだったのか。
「彼は大丈夫?最近かなり悪くなったと、小島から聞いたから。もしかしたら、入院でもしたの?」
「いまは、家に居ますけど、、、。」
「ちょっと時間くれない?」
と、さとみは言った。正道はさとみから煙草の代金をうけとると、店長に許可をもらい、そとへ出させてもらった。
「いまは、家に居るっていってたけど、」
さとみは、買った煙草を吸いながら言った。
「小島から、細かいことは聞いてるわ。もし、可能であれば、バチスタとか、やらせてあげなさいよ。彼の場合、バチスタか、心臓移植しか手段がないんじゃないかしら。いまは、医療もいいし、若いんだから多少の痛みはあったとしても、立ち直れると、思うわよ。そして、まだまだ演奏会もやれるだろうし。彼の、高原の賦、私もききたいしね。」
「そうなんですけど、」
正道はつよく拳を握りしめた。みんな誰もがそういう。その人たちは、みんな自分のことには、触れてくれない、兄のことだけなのだ。なによりも自分が生活費を稼いでいるのに、その苦労は誉めてはくれず、金をむしりとっていく兄のことばかり心配する。それが本当に悲しく、つらく、また憎たらしいのであった。兄は本当に偉い人なのだろうか。金を作っている自分の方が、よほど実用的なのに、、、。それについて偉いといわれたことはほとんどない。
「その、手術を受けさせるには、何かが、必要なんです。そのために、働いているのに。本当は、もう受験生のはずが、」
「そうかあ、」
さとみは、煙草を、携帯用の灰皿に押し付けた。
「ごめんなさい、理想論ばかり言ってしまって、、、。じゃあ、とりあえずこれで生活の足しにしてちょうだい。返済は気にしないでいいわ。ほんとに、お兄さんの治療費は、バカにならないかもしれないけど、病気って、かかった本人が一番辛いのよ。それなのに、家族に迷惑をかけるって、自分を思い詰めて、そのあげく自殺って言う例もあるから、お兄さんの力になってあげてね。これ、少しだけど、何かに使ってちょうだい。」
と、財布をあけて、三万円を正道にくれた。
「いりませんよ、こんなもの!」
正道は怒りにまかせて叫んだ。
「何で?大変なんでしょう?頼っていいのよ。そういうときは。」
「結構です。他人の同情なんていりません。篤志家と言う人は、ただ同情して、自分が偉いと思い込んでいる、エゴイストのようなものですよ。そんな人からお金をもらったって、なんにも嬉しくありませんから!もう、兄には関わらないでくださいね!」
と、三万円をさとみに投げつけた。
「こら、何をしている!」
突然、店長のこえがした。周りをみると、客たちがあっけにとられて様子をみている。
「あの子、東大へいくっていってた子だよね。」
「高校、やめたのかしら。それにしても、偉いかたのご親切を断るなんて、無礼な子だわ。」
と、客がしゃべっている声も聞こえてきた。
「仕事ないに、私情を持ち込むようでは困るね、もう来なくていいから、他のところをさがしなさい。先日、ここで働きたいと言う申し出があったから、丁度いいことだ。」
店長はそういい、正道の制服を無理やり脱がせ、鞄を放り投げた。コンビニのドアは閉じて、いつも通りに戻ってしまった。さとみの姿はどこにもなかった。
正道は、とぼとぼと歩いた。もう夜遅くなので、カフェなども閉まっていた。どうしようかと悩む体力もなく、ただ、機械のように夜の道を歩いていくと、明かりがついている区間があった。兄のことがあるので、すぐ帰らなければならないが、なぜか足がそこへ行ってしまった。そこは、小規模な店が多かったが、花びら回転だの、指名料無料だの、看板に変な言葉が連なっていた。正道は、その店のひとつに入っていった。
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