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高原の賦

増田朋美

第三章

予備校が終わった。正道が自転車置き場にいくと、雨が降っていた。どしゃ降りではなかったから、いつも通りに自転車を走らせた。テキストが濡れてしまうのが心配だったが、そこまでは降らないだろうとよそくしていた。
ところが、走り出して数分後、雨は本降りになってきた。これではまずい、と、ところどころ信号無視をしながら、猛スピードで自転車を走らせた。もう、夜も遅いので、兄はもう寝ているだろうから、家に帰ったら、しっかりと復習を、などと考えていた。
自宅が近づいてきた。もう、どの部屋もあかりは消えているだろうと予測していたが、玄関と、居間の灯りがついていた。同時に、雷が鳴り出した。正道が到着すると、黒い物体が玄関のまえにある。いや、物体は人であり、しかもぜいぜいと苦しそうに喘いでいるのだった。
「何をやってるんだよ、こんなところで、」
正道がいうと、博一は振り向き、
「無事に帰ってきてくれてよかった。大雨警報が出たというので、花を、玄関に、いれようと、思ったんだけど、、、。」
そこから先がない。
「余計なことするなよ!苦しいんなら寝てればいいだろうが!」
しかし、答えはなかった。
「兄ちゃん、たてるかい?すくなくとも、立てるんだろうな。こっちまで来たんだから。」
「ああ、ああ、ああ、たてるよ、、、。」
と、玄関のドアに手をつけて何とか立った。ぎこちない手つきで玄関のドアをあけ、よろよろと家の中に入り、博一は自室に入った。
「兄ちゃん、風邪引くから着物を脱げよ。」
博一は、びしょ濡れの着物を脱ぎ、タンスから別の着物を取り出して素早く着付けた。
「これ洗えるのか?」
「クリーニングにでも出してくれ。大島は洗えない。」
大島とは、大島紬のことで、紬の最高峰とされるブランドだ。正道が箪笥の中をみてみると、ほとんどの物は大島の着物であり、洋服は全く所持していなかった。もちろん、箏曲家というものは職業上そうなりやすいが、これほどまで持っているのなら、大変な気取り屋のようだった。博一は、着替えると倒れこむように布団に横になってしまい、まもなく、眠ってしまった。
正道は、はっとした。大事なものを忘れていた。いそいで玄関をあけ、自転車をしまいこんだ。鞄は、開けっぱなしで、辞書やテキストが散乱していた。あわてて、拾い上げると、辞書に書かれた文字が水で消えていたり、テキストにカラーペンで書き込まれた注意書が消えていたりして、無惨なことになっていた。
「ああ、どうしてこんな風に!」
これでは、テキストを買いなおさなければならない。
とりあえず、濡れたテキストたちを自室の机におき、ドライヤーで乾かしたが、半分以上の文字が消えていて、戦後すぐに発行された墨塗りの教科書のようだった。
さすがにその日は試験勉強をするきにはなれなかった。
翌日。
正道は、目を覚ました。昨日は入浴することも忘れていたようで、頭がくさかった。とりあえず、朝御飯にしようと食堂へいったが、何も用意されていない。食事を作るのは、博一の役目だった。正道は、兄の部屋にいった。
「兄ちゃん。」
と、声をかけると、博一もいま起きたらしく、布団の上に座っていた。
「正道、今日は、ご飯がたけそうにないよ。悪いんだけど、お前が炊いてくれ。」
「全く、仕方ないな。」
と、正道は、台所にたち、米を適当に研いで、炊飯器にいれ、スイッチを押した。確か、30分あれば炊き上がるときいていたから、しばらく待てば大丈夫。その、30分は受験勉強に費やした。
勉強が終わって、炊飯器のまえに戻ったが、炊飯器は作動していなかった。博一が、同時にやってきた。
「炊飯器、故障かな?」
博一が、炊飯器を開けると、米は入っていたが、水が入っていなかった。
「お前、水をいれないと、ご飯は、、、。」
弱い声だが、かなりの批判的な言い方であった。そんなこともできないでどうする?とでも言いたげだ。正道は、そんなことは一度も聞いたことはない。
同時に、柱時計が七回鳴った。
「わあ、遅刻だ!」
と、正道は、鞄を持ち、血相を変えて自転車に飛び乗り、学校へすっ飛んでいった。
学校へ到着すると、授業は始まっていた。
「なんだお前!どうしたんだ?」
と、教師が珍しそうにいった。
「すみません、少し体調を崩しておりまして。」
「じゃあ、教科書を開け。」
正道は、教科書を取り出そうと鞄をあけたが、そこに、教科書はみあたらない。あわてて、鞄をひっくり返すと、予備校のテキストや、雨で使い物にならなくなった辞書が落ちてきた。まわりの生徒たちがどっと笑った。
つまり、学校と予備校の鞄を取り違えたのだ。とたんに、他の生徒たちは、授業を聴こうともしなくなり、教師がうるさい、静かに!などをいっても、効果はでなかった。怒鳴られると、正道が間違えたからだ、と、反抗的な言い回しで、逆に教師たちが恐怖を感じるような、生徒も現れた。それでも、正道は、勉強を続けていた。
その日の放課後、いつも通りに帰ろうとした正道は、靴を出そうと下駄箱をあけたが、靴がみつからない。かわりに、燃えかすが入っていた。正道は、仕方なくその日は靴なしで家に帰った。
家に帰ると、箏の音がした。また何か書いているな、と、正道は、直ぐにわかった。しかし、今朝の表情とは裏腹に、明るく朗かな雰囲気の曲であった。博一は時々、病状が悪いにもかかわらず、明るい曲を書くことがあった。普段書いているのは、暗く重い曲で、同一人物が書いているとは思えない、という批評をもらったことがある。特に、叔母は、彼のことを「ショパンにそっくり。」と、評していた。
正道は、がちゃり、とドアをあけた。箏の音が止まり、襖の音がして、
「お帰り、正道。」
と、博一が現れた。朝より楽になったような顔つきだった。
「からだの方は?」
と、正道が聞くと、
「病院にいってきた。おばさんにつれていってもらったんだ。帰りに、お箏屋にいって、楽譜用紙をかったから、いま、書いていたよ。」
と、答えが出た。
「病院からはなんて?」
「別に、普通。」
だったら、ご飯くらい炊いてくれよ、と、正道は思った。
「ごめんね。今朝は何もできなくて。明日はご飯がたけると思うよ。」
と、博一は軽く頭を下げて、また部屋に戻っていった。
正道が自室に戻ると、教科書の入っていた学校鞄が、申し訳なさそうに机におかれていた。居間へいって、預金通帳を開いてみたら、残っている金はもう3文の一程度になっていた。皆、博一の治療費で飛んでいってしまうのだ。
「兄ちゃん、もう少し危機感をもってくれよ。」
と、正道が言うと、
「そうだな。」
としか返って来なかった。
正道は、靴を買いにいくのをやめてしまった。下駄箱に入れれば必ず燃やされてしまうのだし、金も少ししか残されていない。裸足のまま自転車をこいで学校へ行き、そのまま帰ってきた。教師がなぜ裸足だといっても、答えを出すことはしなかった。そんなことに構わず、東大にいかなければ。
その日も、裸足で学校からもどり、玄関を開けると、下駄が一足あり、中で話し声がする。
「ごめんな。いきなり呼び出して。朝起きたら苦しくなってしまって。」
と、兄が喋っている。
「いいってことよ。食事つくったり、掃除するなんて、うちは旅館やってるんだから、お安いごよう。」
正道は、この人物が誰なのか直ぐわかった。近所で古ぼけた旅館をやっている家の、一人息子である小島好生だ。
「ほれ、新しい布団で寝ろ。その方が病もはやくなおるぞ。」 
「ありがとな。いくら出せばいい?」
おい!兄ちゃん、金がないのに、何で気がつかないんだ、と、言おうとすると、
「いやいや、これはわけありで、客には使えないんだ。金はいらないよ。無料奉仕するよ。」
と、聞こえてきたので、ほっとした。
実はこの人物の正体を正道は、知っている。いまでこそ、旅館経営をしているが、博一と芸大時代の同期生なのだ。たまに、旅館の前を通ると、尺八が聞こえてくるのはそのためだ。流派は都山流。旅館を継ぐべき人が、なぜ芸大に入れたのかは知らないが、自分のやりたいことを完遂したのが憎らしかった。尺八をやると、言い出したときは、大変な問題になったが、結局芸大にいってやれるだけやったら旅館経営に戻る、という結論に落ち着いた。猛勉強をして芸大に一発合格し、兄と同様に大学院を修了したあとは、約束通りに、家に戻ったので、家族も認めていた。
「なあ、博一聞いてくれよ。俺、今度、客の前で吹くんだよ。」
好生は、そんなことを話している。
「そうか。お前もそうなったか。」
「そうそう。一応、古典なんだけどさ。お前が、練習に付き合ってくれると、ありがたかったな。」
「いや、僕には無理だ。」
「そうだよな。そんな真っ青な顔をしていたら、雪女と間違われるぞ。お前は、男の癖に、女顔だからな。」
「このかおは、生まれつきだ。」
「でもよ、お前、ほんとに大丈夫なのか?そんな体で。俺、いい病院さがしてやろうか。お前だって、まだおんなじ年なんだから、もったいないぞ、ギブアップしたら。」
「考えておくよ。」
と、博一は言った。
「そのときは、ぜひあれを弾いてくれよ。筑紫歌都子の高原の賦。」
「いや、もう無理だ、あんな大曲。」
「今じゃないよ。お前が、体を治して、しっかりと歩けるようになってからだ。おい、寒くないか?」
窓から、風のおとが聞こえてきた。
「今年はおかしな天気だよな。風が吹くと、極端に寒い。」
「そうだな、夜は冷えるぞ。ごめんな、毛布持ってくればよかったかな。」
「いいよ、このままで。」
「バカ、お前、風邪を引いたらどうするんだよ、大変なことになるぞ、いま、あまっているのがあるかどうか、電話してやろう。」
「うちにあるので間に合うよ。押し入れにあるから、」
「じゃあ、出してやるよ。」
と、好生は、言い、直ぐに押し入れをあけた。正道もそれは音でわかった。
「かなり奥にしまいこんでしまったから、他のやつをみんな出してくれ。多分、下の段にある。」
と、兄はいっていた。
「おう、わかったぞ。」
何枚か布団を出している音が聞こえてきた。と、しばらくして、重いものが何かにぶつかったのか、ゴチーンと言う音。
「いってえ!俺もドジだ、、、」
と、聞こえてきたが、同時に
「危ないじゃないか、、、う!」
という声も聞こえてきた。正道が怒りに任せてふすまを開けると、兄がまた苦しそうにあえいでいる。そして、額にこぶを作った好生が、背中を撫でていたのであった。
「危ないのはどっちだよ、兄ちゃん!」
正道が怒ると、
「ごめん、、、。」 
というだけだった。
「しっかりしろや、弟さんも、心配しているんだから。ちゃんと、薬飲むとかして、しっかり自己管理しろ。そして、もし、可能であれば、バチスタとかやってもらえ。もう手術するしか、助からないよ、こんなに悪くなってるんじゃ。」
はじめの方は安堵していた正道だったが、後半に入ってきたら怒りを感じた。
「ほら、みろよ。あんなかおしているぞ。」
他人だからこそ、言える台詞は存在する。
「ごめん。申し訳ない。」
博一はやっとそれだけを口にした。正道は、やいほいと自室に引き上げてしまった。
しばらくして、好生が帰っていく音がした。しかし、夕飯の支度をするおとは聞こえてこない。正道は、仕方なく、カップラーメンを作って食べた。冷蔵庫の中は、飲み物ばかりになっていた。
テーブルの上に、ガス代の請求書がおいてあった。預金通帳を開くと、半分以上赤字になってしまった。とりあえず持っていた現金と一緒にコンビニにいって支払ってきた。丁度、コンビニの入り口にアルバイト募集、という張り紙があったため、一番時給の高い真夜中に、応募してみることにした。

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