高原の賦

増田朋美

第二章

母の葬儀はすぐ終わった。参列したのは、博一と正道のみであったからだ。博一は、葬儀をあげてやりたい、といっていたが、正道が、費用のかからない家族葬にするという意見を押し通したからだった。それでも、二人にとってはかなりの出費であった。
その翌日から、正道は学校にいき、博一は家で家事をするという生活がはじまった。まるで、ままごとのようにぎこちなかった。
家族葬、というものは、正道には手続きも楽だし、費用がかからないので、素晴らしい葬儀の仕方だとおもっていた。しかし、朝子の職場の部下のものたちが、次々にやって来るので、正道は、不快になった。
ある日、正道が学校から戻ったところ、黒いスーツを着用していた中年の男性が家から飛び出してきた。
「こんな遅くまで何をしていたんだ!」
「学校ですけど?」
「あ、赤点補習?こんな遅くまでかかるなんて。」
ムカッときてしまった。
「違います、その逆の補習です。」
「そう。だからと言って、家族を置き去りにする権威はないよ。ほら、はやく入って!」
いったい何があったのかわからないまま、正道は、家に入った。
「博一くん、正道くんがきたよ。早く薬もらってきなさいよ。」
博一の薬は家族が管理するようにと言われていた。のみ間違えたりすると死に至る可能性があるからだった。
「自分でやればいいだろうが、、、。」
正道は、文句を言いながら台所に行き、頓服と書かれた紙包みをあけて、粉薬を1袋出してきた。これだけあればご飯なんていらないのではないか、と、思われるほど大量にあった。嫌々ながら兄の部屋にいくと、博一は畳の上に積まれた座布団によりかかり、胸を押さえて苦しんでいた。
「ほれよ、薬だよ。」
正道は、薬の袋を投げつけた。みれば、絃を張り替える途中の箏がおいてある。
「またか。」
と、正道は、嫌な顔をした。つまり、絃が切れて、お箏屋を呼び出し、やっていてもらっているうちに倒れたのだろう。
「またかねがなくなる。」
正道は、ため息をついた。箏は、よほどの技術がなければ、自分では張り替えられない楽器だった。そのために技術者を呼び出すのだが、張り替え代として、少なくとも一万円以上する。
「ごめん。」
博一はよろよろと立ち、薬を拾い上げた。そして、洗面所へいき、薬を服用した。
「だ、大丈夫なのかい?」
お箏屋は、心配そうに彼をみた。その間に、正道は、やいほいと自室に引き上げてしまった。
「悪くなったな。」
お箏屋の声が聞こえてきた。
「いえ、なんでもありません。このくらい。」
兄はそういっている。実際にはなんでもない、で、片付けてもらいたくないと、正道は思った。
「じゃあ、本日の張り替え料として、一万五千円です。」
いくら耳を塞いでも聞こえてくる。
「次は半年後ですね。また切れたらお電話しますので。」
半年後、、、受験も佳境にはいるころだ。
「絃のことより、君の方が心配だよ。少しでも体調が悪いなあと思ったら、すぐに、病院にいくようにしてね。」
「わかりました。領収書をおねがいします。」
「はいよ。」
正道は、思わず机のとなりにあったラジカセのスイッチを押した。丁度、ハードロックがうるさいほどなっていたため、それを聞きながら勉強をはじめた。その方が、勉強の能率もあがった。

翌日、正道が家に帰ってくると、また先客がいた。こんどは、張り替え屋ではなく、親戚の叔母だった。
「大変だったね、博一くん。」
叔母はそういう。正道くんとは言わない。
「そうですね。母に申し訳なかったかな。」
博一は、べそをかいているようである。
「ううん、自分を責めたらだめよ。すくなくとも、あんたは、大学院まで行けたんだからさ、十年くらい休んでいても、働けるわよ。」
「でも、もう27です。十年したら37になってしまう。それじゃあ、もうおじさんになってしまいますよ。」
「いやいや、37なんて、いまの時代はまだ若造よ。体をしっかり治してさ、思いっきりやりたいことをすればいいのよ。それに、お箏が弾けるんだから、これからの時代、音楽は必要になってくるんじゃないかしら。お姉ちゃんだって、そう望んでるわよ。」
「母を殺したのは、僕です。僕がちゃんと働いていたら、」
この台詞は意外だった。兄がそんなことを考えていたのか。
「いいのいいの、博一くん。あんたは、しっかりものの正道くんがいるんだし、少し任して、ゆっくり体を休めなさいよ。一人で全分野やらなきゃいけない訳じゃないんだし。家族ってそういうためのもんだから。あんたの兄弟は、まあ、雪子ちゃんはちょっとかわいそうなのかも知れないけど、しっかりしているんだから、ちゃんと、何をしたらよいのか、わかっていると思うわよ。また、高原の賦、きかせてよ。」
明るく陽気な叔母はそういった。任されている俺の身にもなってくれよ、と、正道は、言いたかった。
正道は、急いで予備校にいく支度をした。鞄にテキストを詰め込んで、玄関のドアをがちゃんと開けた。
「う、、、。」
細い声がした。
「ああ、ああ、ほら、しっかり!」
叔母が、背中を叩いている音がする。正道は、そんなおとなど聞いていられるか、と思いに任せてドアを閉め、予備校に向かっていった。家族も親戚も一番心配するのは、兄のこと。それが憎たらしくて仕方ないのだった。
自分だって、大学受験をしたいのに。
思えば、八歳の時、博一の大学受験だった。父はすでになかったから、母は手取り足取り情報を求め、ほとんど正道とは顔を合わせなくなった。まず、家には音楽大学を受験したという例はない。ましてや、邦楽なんていっそうのことだった。情報源は、博一が師事していた山田流箏曲の家元のみであった。しかし、それは逆を言えば素晴らしいことだった。邦楽は、やる者がなんせ少ないから、入試に関してあまりうるさくなかったのだ。博一は東京芸術大学の邦楽科を受験したが、定員の半分ほどしか受験者はおらず、すでに勝ったようなものだった。そんなわけで、合格は早かったが、母はそれいこう、めっきり弱ってしまったように見えた。正道は、それが頭に残っている。理由はわからないけれど。
その後、ストレートで博一は大学院にいき、博士号をとることに成功した。しかし、それと反比例して、体調を崩していった。そんなわけで、就職することができなかった。しかし、正道が不思議におもっていたのは、それ以降、博一が、ほとんど外へ出なくなっていったことである。
「お兄ちゃんって、偉いんでしょ?」
と、正道は、よく雪子にきいたものだ。
「これから偉くなるのよ。」
雪子はそう答えていた。
「じゃあ、どうして家から出ないの?」
と、きくと、
「いまは、ちょっと疲れてしまっているのよ。」
と、帰ってきた。
雪子は、音楽には興味をもたず、看護師になりたいと言い出して、看護専門学校に進学した。それは、もしかしたら、博一が影響したのだろうか、と、正道は、よく考えていた。同時に、姉の将来を決めてしまったのでは、姉がかわいそうではないか、とも感じていた。姉が、実習を選択したのは、もしかしたら、この家から出たかったのではないだろうか?結果として姉は永遠に戻れなくなったから。
そんなことを考えながら、正道は、予備校に向けて自転車を走らせていった。

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