高原の賦

増田朋美

第一章

正代は、ある墓地にやってきた。一番奥にある小さな墓石の前に立ち、いつも通りに花を入れ換えようとしたところ、
「あら、どうしたのかしら。」
と、思わずいった。
「どうしたの?」
隣で、五歳の息子、数一が言う。
「いつ、花を入れ換えたのかしらね。しかも、なんでダチュラなんか、縁起悪いわ。」
「誰か他のひとが入れ換えたんじゃないの?」
「いいえ、あの人は、家族なんていないはずよ。弟さんがいるけれど、外国にでも行ったんじゃないかしら。」
「つまり、僕の叔父さんになるの?」
「まあ、そういうことなんだけど、あんたは聞かなくていいわ。あたしは、いまでもあの弟さんのことが好きじゃないのよ。」
「ねえ、ママ。僕のパパって、どんなひと?生まれる前に死んだの?」
「素敵な人だったわ。ママにはもったいない位の人だった。あの人より、すごいことができる人はいないわよ。」
「いつも、こうやって、お墓参りにいくけど、けんちゃんまで、親無し子っていってバカにするんだ。どうしてうちにはパパがいないのか、教えて!」
数一の話し方や表情は真剣そのもので、嘘偽りないことを示していた。
「わかったわ。」
正代は、覚悟を決めた。
「うちに帰ったら、パパのこと、話してあげる。」
といい、花立に入っていただちゅらをゴミ箱に捨て、持参していたカサブランカを入れた。そうして入念に墓石を清め、線香をあげて、短い経を唱えた。数一もそれを真似ていた。
「いきましょ。」
正代は、数一のてを引いて、車に乗り込み、自宅に帰っていった。数一と、テーブルに向き合って座り、
「じゃあ、話そうか。」
と、静かに語り始めた。

菊川正道は、今日も喜んでいた。年度末の試験で、一位をとったのだ。
「よくやったな。順調に行けば東大確実だ。冬休みによく勉強しておけよ。」
と、担任教師が誉めていた。
「お前って頭いいんだな。」
同級生たちは皆そういった。
昼休みになっても正道は、試験勉強を続けていた。彼にご飯を一緒になどと持ちかける生徒は誰もいない。正道は、それでも、平気だった。東大にいけば友人もできるだろうし、テレビやファッションに夢中になり、いまの事しか頭にない人間のようにはなりたくなかった。それに、ある事情のせいで、浪人することは許されなかったため、高校二年生であっても、受験生と思い込み、必死に勉強をしているのだった。受験に邪魔になるから、彼女もほしくなかった。受験に関連しない授業でも、時間のムダといって、試験勉強をつづけていた。
授業が終わった。クラスメイトたちは、部活に出掛けていく。しかし正道は、部活には加入していなかった。そんなことに現をぬかしていたら、東大に入れなくなってしまう。だから、授業が終わるとまっすぐに帰宅した。教師も、東大にいくのなら余分なことはしなくていい、と、大いに公認してくれていた。
帰り道。正道の家は、自転車で40分ほどのところにあった。家と言っても平屋だての小さなものだ。家に近づいてくると、近所の人は立ち止まる。美しい箏の音が響いてくるからだ。逆に正道は、耳を塞ぎたくなるのだった。
正道は、痛い頭を抱えながらドアをあけた。美しい音が聞こえていた。正月に耳にすることはあるが、家の中ではいつも鳴っているのであった。
「今日もいいおとが、鳴ってるな。」
と、牛乳配達が隣のおばさんと話している。
「ほんと、いつも正月みたいだわ。」
おばさんはそういうのだ。
「でも、かわいそうだな。あんなに上手なのに、家から、一歩も出られないなんてな。朝子さんが、いくら稼いでも、足りないって言っていたぜ。」
朝子とは、正道の母のことである。
「弟さんが、大学行かないで働いて上げればいいのにね、あ、牛乳、、、。」
おばさんに悪気はないが、その言葉は正道の心を刺した。確かに、あと一年高校に行けば働いてもよい年だ。しかし、どうしても大学に行きたかった。しかも、東大にいきたいのだった。正道は、家についたら、急いで服を着替え、予備校に向かおうとしたが、箏の音が止んだ。
「正道、帰ってきたのか。」
と、声がする。ひどくしわがれた細い声だ。無視しようかと思ったが、襖が開く音がして、足音が聞こえてきた。
「せめて、挨拶くらいしろ。」
ふりむくと、一人の男性がたっていた。その顔は紙のように白く、げっそりと痩せて窶れている。黒い着物をみにつけており、右手指に箏の爪をはめているから、この人物が弾いているのは確かであるが、そのおとからは、連想できない顔つきをしていた。
「うるせえな。」
と、正道は言った。
「予備校か?」
この人物は、まさしく正道の兄であった。名前を菊川博一といった。しかし、正道とはまるで違う、穏やかな顔をしている。
「関係ねえよ。好きな箏でもやれ。」
「ごはんは?」
博一はもう一度言ったが、正道は、無視して家を出ていった。
ドアを閉めると同時に小さなうめき声がした。正道は、聞こえないふりをして、自転車を飛ばしていった。
「なんで、あんなやつがいるんだろう。」
正道は、ため息をついた。博一と正道は、十年離れた兄弟だ。こんなに離れた兄弟は今どき珍しい。そして博一は、その箏を武器にして東京芸術大学を卒業し、大学院にも進んで邦楽博士号をとるほどの、大変な秀才であった。それが正道には勘弁できないのだった。正道が東大を目指しているのは、兄よりすごい大学にいって誉められたい、という気持ちからだったのである。
「姉さんがいてくれたらなあ。」
実は、正道には姉がいた。名前を雪子といって、三年しか離れていなかった。雪子は、日頃から体が弱い博一の世話をすることもあったが、正道のことも気にかけてくれて、よく遊びに連れていってくれた。しかし、もうここにはいない。海外へ実習生として留学していたときに、イスラム系の者が起こした自爆テロに巻き込まれて死亡したのだった。空港に遺体を引き取りにいったときは、変わり果てた姉の姿に、正道は号泣した。
三人とも、父親はいなかった。今現在の家の収入は、高級クラブで働く母朝子だけしか、得ることができない。
博一は、働きに出ることを禁じられており、正道は、アルバイトをする暇などまるでない。父親の顔を正道は、遺影でしか見たことがないが、雪子はよく、歌舞伎役者にしたいほどかっこいいと言っていた。確か、仕事として電線の張り替え工事をしていたときに、電信柱から落ちて死んだ、ときいている。
そんなことを思い出しながら、正道は、予備校につき、きっちりと授業をうけた。周りの生徒が、ろくに勉強をしていなくても、正道は、しっかりと授業を聞いていたため、予備校でも可愛がられていた。

四月がやってきた。いつもの通り、夜勤あけで眠っている母を起こさないように、正道は、静に家を出て、学校にいき、しっかりと勉強していた。そして、昼休み、弁当を食べていると、隣の席に座っていた女子生徒が、
「菊川君、先生がよんでるよ。」
といった。正道がたちあがると、養護教諭が駆け寄ってきた。
「はやく中央病院にいって!お母さんが倒れたそうだから!」
正道は、しばらくポカンとしていた。
「ほら、はやく!」
我に帰った正道は、鞄も持たずに学校を飛び出した。中央病院への道はすぐわかった。信号も無視し、危ないと叫ぶ者も無視して、正道は、病院に飛び込んだ。
「すみません、菊川朝子は、、、。」
と、受け付けにきくと、
「はい、集中治療室にいます。」
と、答えがでたので、エレベーターも使わずに、階段を走っていった。
治療室には、博一が先にいた。顔を覆って泣いていた。
「兄ちゃん、お母さんどうしたんだよ。」
博一は答えない。
「兄ちゃん!」
それでも泣いているのであった。
「答えろ!」
と、足を鳴らすと、治療室のドアが空いて、医者が現れた。
「お気の毒でしたが、、、。」
「もう、わかります、言わなくても。」
博一はそういった。
「なんだよ、何があったんだよ、お母さん、どうしたんだよ?」
「お母さん、いま死んだんだよ。そうですよね?先生。」
「はい、、、。」
医者はそういった。
「去年からそうでしたよね。僕はうすうすわかっていました。母のゴミ箱から抗がん剤がでてきたりしていたので、まあ、どこの部位まではわからなかったのですが。」
「よくお分かりになりますね。まさしくその通りですよ。胆管細胞癌です。発見されたときには、かなり進行しておりまして、もう手遅れでした。せめて末っ子が東大に合格するまではと、朝子さんからきいておりましたので、あらゆるてを試みましたが、本当に申し訳ありません。」
「ちょっとまってくれよ!なんで何も言わなかったんだよ!」
正道は、面食らっていた。
「お前には東大にいってほしかったからだ。それが、お母さんの最期の贈り物だと思う。」
博一は静に答えた。
「僕も曲を書いたりして、お金を作るし、お母さんの貯金も調べてきた。東大にいくには充分あるから、お前はこれまで通りに勉強をしろ。」
「言われなくても、そうさせてもらう。俺は何がなんでも東大にいくんだからな!」
正道は、哀しみどころか、怒りを感じていた。そして、何も言わずに学校に戻ってしまった。

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