砂の国

柳 一

覚醒

混濁した意識というのは、泥に似ている。

浮き上がろうとすると、また沈んでいくような感覚はまるで悪夢のようだ。

里佳子りかこはもうずっとその状態で、自分の記憶と夢との境目があいまいな映像を見せられていた。

彼氏は絶え間なくできていたが、身体の相性が悪いのか、性格の不一致なのか、すぐに別れるという生活を繰り返していた。
軽い女だと言われたこともあるが、自分はこういう性格だと理解してからは仕方ないことだと開き直ってしまっている。

倒れた時は珍しく自宅にいた。母が原因不明の病気で亡くなって、父があまりにも憔悴していたのでせめて自分は傍にいようと思っていたのだ。

父は政治家だったが、普段大きい背中が、母の写真の前で小さくなってしまっていた。

あの病気はなんだったのだろうか。







里佳子の瞼が少し動いた。

真っ白い個室病棟で、彼は驚きを隠せない。

この3年間一度もこんな兆候はなかった。

呼び掛け、筋肉を動かすマッサージをしていても何も反応なく
ただ点滴と呼吸器で生命を維持されていた。

「………」

「わかりますか?田城里佳子さん、聞こえますか」

彼が声をかけると、里佳子は目を開けた。もちろん身体は動かせないだろう。
彼はナースコールを押した。

「ドクターを。里佳子さんが目覚めました」

それからは目まぐるしかった。大勢の医師が来て、代わる代わる機械をつけられ、様々なところを調べられる。
里佳子は寝たきりの生活のせいでほとんど身体を動かせなかったが、時折痛みや不快感で眉を寄せると、彼が医師をすこし止めてくれた。

彼はスーツ姿の屈強な男性だった。

アゴヒゲも少し生えているが、髪型はこざっぱりとしていて、眼鏡をかけている。
病室の隅からじっと里佳子を見つめているのが、里佳子の視界にも映った。

検査が数日行われたあたりで、里佳子は声が出るようになった。ベッドごと上半身を起こして、水分をとることもできるようになった。
だがすぐにベッドを平らに戻すと吐き気が襲うので数時間毎に少しずつ、彼が角度を変えてくれる。

彼は1日のうちで数時間いなくなる。
代わりの人間が来るらしかったが、その代わりの人間は病室の外で待機するだけだった。
夜は簡易ベッドを入口近くに設置して、彼も眠る。
侵入者が入ればすぐにわかるということらしい。

「…名前は?」
「自分の、ですか?」
「そう」
「田城光也です。田んぼの田に、城、ひかりなりと書いて光也」

里佳子は、自分と同じ名字だと気づいた。そしてどこかで見たことのある既視感の正体に気づいた。

「…田城園の、空手チャンピオン…」
「ご存知でしたか」

田城園は、父が、もっと遡ると曾祖父の代から援助している児童施設の名前だ。
戦争孤児だった曾祖父が成り上がり、企業を立ち上げて成功した頃に設立された。曾祖父は地元の名士となり、祖父の代から政治家一家となった。

「父に…よく聞かされたの。うちの施設からスターが生まれたって…」
「そうですか」

彼はその時初めて、顔を綻ばせた。厳つい顔がやんわりと。里佳子は何故だか凄く嬉しくなった。

「今は…警視庁管轄の特別SP班に所属してます」
「そんな人がなんで私の警護を…」
「それについては…本日、説明があります」

彼が言葉を濁した時、病室のドアが開いた。
特別個室の広い部屋に、何人もの男性が入ってくる。
スーツ姿の人間が数人入ってきた。

「田城里佳子さん、私どもは政府の特別対策部のものです。それぞれ厚生省、法務省、警視庁、など様々な部署からの集まりですが」
「そのみなさんが…何ですか?」
「まず、あなたとこの地球に起こったことをお話させてください。あなたは3年前に原因不明の病気で高熱を出し、倒れました」
それは覚えている。おぼろげに父が私の名前を呼んでいた光景が、脳裏に残っている。
「その病気は非常に強力な伝染病で、世界各地で蔓延しました。感染ルートも謎なまま、十分な対策も立てられず、多くの人が病に倒れました」
「爆発的に拡がったそのウィルスによって、約半数の人が命を落としました」
致死率50%。それはさぞや世界で大騒ぎだったことだろう。眠っていた里佳子にはおとぎ話のように聞こえてしまうが。
「死んだのは皆、女性でした」
「え…?」
思わず声を上げた。
確かに半数、だとは思う。正確な比率は違うのかもそれないが。
「この病気のせいで非常に多くの女性が死にました。世界の女性は一部を除いてほとんどです」
「ちょっ…ちょっと待って……まさか…」

「はい、あなたはその一部の女性です」

里佳子は決して頭の悪い方ではない。言っていることが本当ならば、彼らのような役職の人間が揃ってこんなところに来ているのも頷ける。
里佳子がすがるように光也を見ると、光也は真剣な顔で頷いた。
数日前に知り合った光也を信じるのもおかしな話だが、何故だか彼だけは自分に嘘はつかないと思えた。

「私以外に…日本に女性は何人いるの?」
「現時点では20人ほど。ですが若い女性は10人ほどです」
「…10人…」

「田城里佳子さん。この国のために、協力していただけませんか」

彼らの言わんとしてることが、すぐにわかった。里佳子は返答しない。
返答などできるわけがない。

「…父は…何故ここに来ないんですか」
「田城先生は、去年亡くなられました。癌で」
「……ごめんなさい。気分が悪くなってきたので、また今度にしてもらえますか」

里佳子がそう言って顔を背けると、光也が帰るように促した。
病室の扉を閉めると、里佳子が光也をまっすぐ見つめている。

「本当?」
なんの話かなど聞かなくてもわかる。光也は眼鏡を外すと、何とも言えない表情で里佳子を見つめ返す。
「はい。気づいた時にはもう進行していて…先生は、手術を三回しました」
「それでも…ダメだったの」
「はい。私は、何度かお見舞いに伺っておりましたが、最後に…あなたのことを頼むと言われました」
「そう…」

里佳子はそう相槌をうつと、窓を見つめた。針金入りの、決して開かない窓。その先に拡がる都市部の景色は、もうじき夕暮れ色に染まろうとしていた。


続く

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