狐の婿入り

たんぼ

其の五 ヤみやミ

すっと通り過ぎた面を着けた女の子。
ふらりふらりと歩いていて、いつでも倒れてしまいそうなそんな印象を受けた。

「あの…!」心配だから呼びかけてみる。
「……?」
女の子は髪をゆらして振り向いた。
「大丈夫…ですか?」
「…うん」
「暑くないですか?」
「あつい」
「あそこの木陰で休みませんか」
「…そうする」
女の子はふわふわとしているから手を握って支えながら歩いた。
「ありがと…涼しい…」
彼女の面は真っ黒でいて、孤独と悲しみをごちゃ混ぜにしたような気を感じる不思議な面だった。
「……」
彼女は黙っていた。ただ時折自分の左手首をしみじみと見ていた。
「それ…」
左手首には、ぱっくりと開いた傷があった。
「あぁ…これ…?」
こくっと頷く。
「わからない…けど…多分自分で…やったもの…」
「自殺…したの?」
「うん…そう…みたい」
「きみはいつごろここに来たの?」
「三十二回…くらい前。あんまり…覚えてない…けど」
「そうなんだ」
「…これ…食べる?」
そう言って女の子が出したのは糸引き飴だ。
「ありがとう、もらうよ」
「途中で…買った…。ワタシもう…五個くらい…食べたから…もういらない」
コーラ味の飴だった。悪くない味だ。
「名前なんていうの?」
「ワタシ?ワタシは…」
思い出せないのであろうか…。無理もない。僕ですら何も覚えてないしそもそも思い出そうともしていない。
如月きさらぎ…」
びっくりした。覚えているなんて…。
いや、待て。これってここに来てからの名前なのだろうか。
「ここでの名前?それって」
「ううん…多分ちがう…昔…からの…名前」
驚いた。今度こそ驚いた。この人は自分の名前をおぼえているんだ…。
羨ましい…。
「あなた…は?」
「僕?僕は彷徨さまよい。よろしく如月」
「彷徨…かっこいい名前…」
「そう?ありがと」

その後少しの間静かになった。やっぱり如月はずっと左手首を気にしている。
僕も気になって見ていたら如月がこっちを向いた。
これ左手首の…話?やっぱ…気になる…よね」
「如月が良ければ、話してくれる?」
「わかった…けど話すの上手…じゃない…ごめんなさい…」
気にしないからゆっくり話してと言ったら如月はほっとして口を開いた。





ワタシ…実はここに来る前の記憶…ある。
確か高校の二年生くらいの時かな…。
ワタシ…すごくいじめられてた。
なんでかは分からないけど…多分、憂さ晴らしとかだと思う。
男の子と女の子どっちもワタシに怒鳴ったり、髪の毛引っ張ったりしながら笑ってた。
すごく嫌だった。けど、なんか言うと余計酷くなるから、いじめられてる間はずっと口をきゅっと結んだままにしてた。
机には汚い言葉がいっぱい書いてあって、置いてあるノートの下からその文字がいやらしい目でワタシを見る度に、いちいち心臓を縮めた。
担任も気づいてた…はず…。けど…多分…無視。自分の保身しか考えてない人だった。
だれも見ていないから、だれも気づかない。いつの間にかワタシは、みんなの鬱憤うっぷんを晴らすためにしか存在しているかのようになっていた。
だれも…声をかけてくれない。聞こえたとしたら必ず罵声ばせい
喋る必要もないからワタシは言葉を失った。

家族は母と妹とワタシの三人だけ。父親は他の女の人を連れてとうの昔に家を出ていった。
狭い四畳半一間のボロボロのアパートでギリギリの生活をしていた。
母は父がいなくなってからだんだんとおかしくなっていった。パートにも行かなくなった。時々狂ったように叫ぶ。
「あんたのせい!あんたのせいなんだよ!」って言いながらワタシを殴ったりした。妹は殴られなかった。ワタシは必死に妹を守った。そのためだ。
そして、大抵殴り終わったあとは家を出て行く。どこに行くか…はわからない…。
多分だけどギャンブルをしていたんだと思う。だから少ないお金はどんどん消えていった。
母が仕事をしないから、ワタシはアルバイトをして、やっと生活できる程度のお金をもらってそれを食費に回したりした。他には鉛筆を買ったり、ノートを買ったり。
ただ母はそれを見逃さなかった。そのお金を見つけてはすぐに家を出て行く…。だからご飯を食べられない日もあった。
辛かった。
アルバイトをたくさんしていたから、勉強をする時間も無くて、そのせいで成績は最悪だった。きっとそれもあってワタシはいじめられてたんだろう。
学校からの定期考査の通知を母は必ず見せろと言った。
そして見せたら、
「なんだよこの成績、勉強してねえからだろうよ!今度この点数取ってきてみろ、殴るだけじゃ済まさねぇからな!」
それこそあんたのせいだろう。悔しかった、ムカついた、イライラした。ただそこで反抗すれば母が逆上する現実は目に見えているからワタシはいつも黙って口をきゅっと結んだままにしていた。

ワタシの唯一の救いは妹だけだった。小学五年生のかわいい妹だった。
妹はいつもワタシの心を慰めてくれた。
殴られた後はいつも、
「お姉ちゃん…大丈夫…?待ってて今絆創膏持ってくるから」
と言って、新しく出来た傷や痣を治してくれた。
妹はいじめられていないみたいで、よく友達と遊びに行ったり逆に友達を家に呼んだりした。
妹がワタシのような立場にならずにすんで良かったと何回も思った。そして友達と楽しそうに笑って遊ぶ妹の姿はワタシの疲れを吹き飛ばしてくれた。また、その姿に少し憧れた。


ある日のこと、自分で作った少ないお弁当を一人で学校で食べていた時のこと。
「あっれぇ〜如月それ、美味しそうじゃん。けどなんか少なくね?」
「それだけじゃお腹鳴っちゃうよね〜だからこれあげる!」
そう言って彼女は、小さな弁当箱の上に卵を押し付けた。ぱきゅっとわれて中身が出てきた。
だけど普通の卵とは少し違った。黄色いでろでろとしたエイリアンみたいなものが弁当箱の上にいた。
「…ひ…よこ?」
「そう!だぁいせいかい!あなたのためにと思ってさ農業科のヤツから貰ってきたの!有精卵」
有精卵…放っておけばそのうちひよこになった卵。
「なんだっけー?そんな料理外国にあったよね。美味しいよ?多分だけど」
「ちょっとあかねぇ!有精卵はないっしょ?!」そんなこと言いながらも彼女たちは笑っていた。
「そうだよー流石にか・わ・い・そ・う」
「もうみっこもユリも分かったよー。ごめんね、有精卵は嫌だった?」
取り巻きがくすくす笑っている。
「じゃこれなら食べられるよね!」
今度は机の上にちがう卵を叩きつけた。
「こっちは無精卵。いつも食べてる卵だよ?……食えよ!」
ワタシの頭は卵同様机に叩きつけられた。
「せっかくあかねが奢ってくれたのに食べないわけぇ?」
「そんな貧相な弁当だから心配してくれたんじゃん。食べなかったら失礼だよねー」
頭を持ち上げようとしても上がらない。強い力で押さえつけてくる。
「食べないってことは、こいつがどうなってもいいってことでしょ?」
そう言って取り出したのは小さいひよこ。
怯えてぴよぴよ鳴いている。
取り巻きが彼女にハサミを渡した。
「でーでん、でーでん、でーでんでーでんでーでんでーでん…」サメの映画の曲を口ずさみながら彼女はひよこの首にハサミを近づけて行く。
「やめて……」
チョキチョキ
「でーでんでーでんでーでん…」
「はい、おしまい」
ざっく。
ひよこは鳴かなかった。ぼとっと落ちた。
「あーあ殺しちゃった…あんたが悪いんだよ?あんたが卵食べないから、ひよこが一匹犠牲になっちゃった…」
「それ、授業始まるまでにぃ片付けといてねぇ」
「それじゃここらで、如月さんのランチタイムお邪魔しましたー」
あいつらは人間じゃない何かなんだ。そう思うしかなかった。
汚れた顔を洗って別れたひよこを校庭の花壇のところに埋めてあげた。卵から出てきた出来損ないのひよこも一緒に。
教室に帰ったら弁当箱がひっくり返されていて、油性ペンで
『死ね ネクラ』と弁当箱の裏側に書いてあった。
なんでワタシなんだろ、そう思ってそれらを全部ゴミ箱に入れて次の授業の準備をした。
数学の教科書を昨日やったページの所までぺらぺらめくる。百三十五ページ。
『消えろ びんぼう』

「貧乏なのは…ワタシの…」
ふつふつと怒りが沸いてくる。なんでワタシ生きてるんだろう。
「貧乏なのはっ!ワタシのせいじゃない!」
汚い机を思いきり叩いた。派手な音がでた。
「…んっ…えと…その…」はっと我に返る。
「きさらぎぃ今授業中ー黙ってろよー」
「そうそう発表したいなら手、挙げてー」
クラス中が笑っていた。数学教師は苦笑いを突き通す。
前から思っていた。ワタシはこの世界に必要なピースではない。
かばんをひっ掴んでバタバタと教室をでた。
「死ね死ね!みんな死んでしまえ!」
そう心に思いながら階段を駆け下りて下駄箱から靴をとった。

勢いよく一番下の小さい金属の扉を開く。
はらりと何かが落ちた。ワタシの下駄箱からだ。一枚の紙。

『あなたが消えればみんな笑ってくれるよ?』
へたり込んだ。ワタシはやっぱりここにいてはいけないんだ。
やっぱり思うんだ。なんで、どうして。
ワタシなんだろって。
紙をびりびりに破こうとして、やめた。
近くにあったペットボトル用のゴミ箱に四つに折り畳んで捨てた。
スニーカーに足を入れてかばんを持ち直して、大嫌いな場所から大嫌いな所へゆっくり歩いて帰る。
「ワタシ…このままだと…死んじゃうかもなぁ…」自嘲気味に独り言を言ったら、なんだか悲しくなって、鼻をすすった。

家にはだれもいなかった。さっさと制服を脱ぎ捨ててTシャツをかぶり、ジャージのズボンに足を通す。
冷蔵庫の中を見ながら、メモ用紙をとって必要なものを殴り書き。
「トマト、鶏肉、豆腐、レタス、醤油…」
冷蔵庫を下から上へ見ていって無さそうなものを瞬時に判断しメモって買ってくる。だれにも誇れないような特技だが、便利なのは確かだ。
冷蔵庫の扉を閉めようとして、あることに気づく。
「卵…ない」
卵置き場に一つだけ、新鮮を忘れた卵。
たまご、と強めに書いてから扉をイラつきながらバタンっと閉める。
その後にもう一つ。
冷蔵庫に磁石で貼ってあるいく日か前に書いたメモを確認する。
そしたら、一枚、ワタシの字で書かれていないものがあった。
『六月二十五日 遠足!おねえちゃんおべん当お願いします!』
……そっか。明日は遠足だったか…。
「よし!」
今から商店街に繰り出すが、いつも行かない店に行くことにした。
『・トマト ・鶏肉 ・豆腐 ・レタス ・醤油 ・たまご                  
             ・ひき肉』
肉屋の親父、割引してくれるかな。
少し気分が上を向いた。

商店街までの坂道をゆったり少しうきうきしながら登っていた。夕日を背に受ける。
背中が汗ばむ。もう少しで梅雨もあける。
暑い季節は嫌いだけど、新しい季節が始まるのは好きだ。
なぜって、新しい空気を感じるからだ。
梅雨には梅雨の雨の匂い。夏には夏の、ひぐらしの匂い。
ニュースでは三日後に梅雨明けすると言っていた。さようなら、雨の季節!また来年会おうぜ!なんていう季節との会話の妄想を繰り広げていたら、
「おねえちゃーん」と声が聞こえた。
坂を登りきった所に妹がいた。
「お、なに。遊び帰りぃ?」
「そうなのー。今日は公園でずっと鬼ごっこしてた」
「若いってのはいいよねえ。こんなじとじとしてるのに走り回れるんだから」
「おねえ今いくつよ…」
「んーと、四十五?」
「そんな年の離れた姉妹いませんー」
こいつ、やっぱ可愛いなぁ。
「てか、おねえ買い物行くの?」
「そう、花町商店街」
「うちも行くー」
「お菓子買わないよ?バイトキツいんだから」わかってますってーって妹は言うけど、毎回一つくらいは買ってあげてしまう。それを分かっているのか、妹はニヤニヤしていた。

こんなふうに妹と話したりしていて時々思うことがある。
多分あなたも感じていると思う。
なんだ、普通の女子高生じゃんって。
そうなんだ、ワタシは女子高生なんだよ。
きっともしかの『if』ストーリー。
ワタシがいじめられたりしていなければ、そして友達がいたら、ワタシは妹とするような会話をそこら中で振りまいていたんだろうね。そう思うんだ。
「あそこのカフェのパフェが美味しい」
「ホカロの新曲がすごくいいから聞いて!」
そんな生活送ってみたいけれど、それはただの夢でわがまま。
実際はあんな感じの最低最悪な最低限の生活。
けどそれでも、妹と一緒にいることでワタシは楽しく人間でいられる。
学校でのデク人形じゃなくて、人間を楽しめる。シスコンなのかな、まあそれでもいいけど。

ぱぱっと買い物をすませる。エコバッグの中には新鮮な野菜とその他もろもろ調味料。そして……
「おねえ…ここ……」
すぅっと息を吸って、
「すみません!ハンバーグ用合い挽き肉百グラム下さい!」
「はいよ、六百円ね。まいどぉ」
「え……ハンバーグ?」
肉なんていつも買えない。ましてやハンバーグなんて久しく食べていない。ワタシも妹も。妹は目が、点だ。
「明日のお弁当はハンバーグ弁当だよ。他のみんなに見劣りしないようなの作らなきゃね」
「なんだい、お嬢ちゃん。明日は遠足かい!いいねぇ、思い出作ってきなよ!」
妹の目はワタシを見たり肉屋のおやっさんを見たり、行ったりきたりしていた。
そして、おやっさんを見定めて、
「うん!分かった!ありがとうございます!」と元気よくハキハキと学校の何かの発表見たいに言い放った。
「おう!これはサービスだよ、ねーちゃんと食べなぁ」
そう言っておやっさんはコロッケを二つ渡してくれた。
「すみません、ありがとうございます」
「ありがとございます!」
おやっさんは終始ニカニカしてた。

帰りの土手で、
「おねえ」
「んー?」
「まじで、明日ハンバーグ?」
「じゃなんのために挽き肉買ったのよ」
「はぁぁぁ…もう…おねえ…やばい」
「ふふん感謝しなさい」
「おねえ大好きー!ありがとう」
そう言って妹は飛びついてきた。歩きにくくなったけど温かいから良かった。
「あ、コロッケ」
「今食べる?」
「うん、お腹減ったー」
付けてくれたパックソースをかけてかじりついた。ザックというこぎみのいい音と一緒にじゃがいもの甘い匂いを鼻の全部を使って感じる。
「美味しい…」
「おねえ、これ…。うちもうお菓子いいからこれ買って」
「ばか、これ百二十円するんだから。高くて買えませんー」
「うぇーケチだなー」
「あ、そんなこと言うんだ。へー、ハンバーグはな…」
「あぁ!ごめんなさい!おねえさまはもう優しい山のような素晴らしい人です!」
「山のようって…なんだよそれ」
こんな生活がいつも送れるのなら幸せなのに。


見慣れた安い木製のドアに鍵を差し込むと開ける方向に回らなかった。鍵をぬいてドアノブをひねり、中に入る。
「た…だいま…」
「あん?なんだ、あんたか。何してたんだよ」
「買い物…」母との会話。さっきまでとは売って変わってごにょごにょ声になる。
「あそ、早く飯作ってね」
いつも大体こんな感じだ。風呂は?飯は?
洗濯は?事務的なことしか話さないけど、話したくないワタシにとってはかえって都合がいい。
けどなぜだか、母と話すときは学校のクソ野郎と話すような口調になってしまう。恐れているような、怖がっているような…。
「お母さん、あのね、あの、うち明日遠足なんだけど…」
「あぁうるさいうるさい。今日は頭痛いんだから黙ってて」
きっとまた負けてきたんだろう。
勝つとそのお金で呑んでから帰ってくる。
負けるとそのまま不機嫌丸出しで帰ってくる。
ギャンブル、ギャンブル、またギャンブル……。そんなんじゃいつまでたってもこの壁の薄い小汚いアパートからは出ていけない。
なぜこの人が母親をしているのか分からない。いつからこうなり始めたんだろう…。
きっと……最初からだ。なんの計画もなしにワタシができて、妹ができて。ワタシ達はただの邪魔者に過ぎないのだ。
公園で親子を見かけると、はっとする。
ワタシはあんなふうに遊んだことがあるだろうか。あんなふうに笑顔を振りまいたことがあるだろうか…。
そのたびにしゅんとして、そのたびにこの生活を呪う。

父親はいつの間にかいなくなっていた。あの人も父親とは言えないような人だったが。ガシャっというドアの音だけは覚えている。それと共に消えた背中も。
幼かったワタシは無垢むくに母に尋ねた。
「おと…さんは?おとさんどこに行っちゃうの?」
察しての通りだ。
「うるさい!あんたの…あんたのせいでしょうよ?!どうしてここにいるのよ!」
そして、母は平手打ち…ではなく、人に恨みを叩きつけるようにワタシのことを殴った。痛かった、いたかった。
「なんなの…?なんなのその顔は!」
幼い頃のワタシは笑顔を知っていた。だから笑った。母に向けて、ワタシがいるから大丈夫って伝えたかった。


……伝わらなかった。
母は、転がっていたカッターナイフを手に取ってワタシの顔の横に突き刺した。
「っ……」
カッターナイフは、ワタシの耳を切った。
その時の傷はいまだ残っている。耳を触ると思い出す。幼かったあの頃を。まだ笑顔を知っていたあの頃を。
その後母は何食わぬ顔で、部屋を出ていった。ガシャっと音がして一人になった。
泣いた。痛かったし、寂しかった。辛かった…


「ご飯…できた…」
妹が席につく。母はノロノロと歩いてきて無造作に椅子を引き、席につく。
ワタシはというと特に何ともなくスっと椅子に座る。
「いただきます」
ワタシと妹が口を揃えて言った。
母は何も言わず食べ始める。
変わらない、何も変わらないいつもの夕食。もやしのサラダとかまぼこ、賞味期限がきれた惣菜……。
変えようと思って話のネタを探すけど、それはどこにも見当たらない。
ただ妹はそこら中にあるらしく、いつも色んなことを話す。
母は聞いているんだか、聞いてないんだか分からないが、ワタシは相槌を打って話を聞く。
妹の学校や友達の話達はいつも幸せそうだ。それでいい。
家だけではなく、外でも幸せを、楽しさを感じられないのはワタシだけでいい。

「ごちそうさまでした」
ワタシと妹が口を揃えて言って、夕食は終了。母は何も言わずに布団に入っていく。
妹から二人分の皿を受け取り、スポンジで少量の洗剤を付けて洗う。それでもワタシの手はいつも荒れている。しかし、ハンドクリームを買うお金はない。結局そのままだ。常にガサガサで赤切れがある汚い手。
そんなものいらない、欲しくないのに作っているのは自分だ。

母がスタスタと冷蔵庫の方へ起き上がって歩いてきた。お酒だろう。
「ねぇ…」
なんだろう?
「おい……」
「……はい?」
「はい、じゃねーだろうよ!んだよこれはっ!」母は何かを冷蔵庫から取り出した。
「あ……」妹が呟いた。「それは……」
「あ?なんで肉なんか買ってんだよ!馬鹿じゃねぇの?金がねぇ金がねぇつってんだろうよ!肉買う余裕なんてあんのかよ!てめーに!?あぁ!なんか言ってみろよ!」
母はそれをゴミ箱へ…
「ちがうの、おかあさんうちがハンバーグ食べたいって…」
「まーの遠足…」ぐつぐつと何か湧いてくる。
「おねえ…?」
「その肉は…!まみの遠足のために買ったんだよ!余裕?知るかよ!働いてんのはワタシだよ!一銭も稼いでないろくでなしの親にとやかく言われる筋合いなんて…ないんだよ!」
あぁなんか全部吐き出せそう。
「ろくでなし…?親に対しての口がそれか?礼儀も知らねークソガキはてめーだろうが!」
「あんたのこと親だと思ったことなんて一度もない!ないんだよ!」
「おねえ…やめて…。おかあさんも…」
「誰が産んだと思ってんだ!お前は誰のおかげで生きてんだよ!」
「そんな、計画もなしに馬鹿みたいに男に付け込まれたのはあんただろ!産みたくなきゃ産まなきゃ良かったんだ!生きたくもない!生きていたく…ない…」
「やめて…」
「じゃあ死ねばいいんじゃね?手首でも掻っ切って死んでみろよ!」
「やめてよ!!」
まみが叫んだそれは、ギリギリワタシ達に聞こえた。
「なんで…なんでそうなるの?死ねとか、親じゃないとかなんでそんな事言うの…?こんなことになるんだったらハンバーグなんて食べたくない。いらない。欲しくない。おねえも、この家族も大っ嫌い!」


「お、やってんねえ」


玄関に向かったまみは立ち止まる。
「あんた…なんであんたが…今さら」
「あぁ…いやまあ可愛い娘たちの顔見に来た…じゃだめ?」男は鼻で笑いながら言う。
「よーまみぃ久しぶりだなあ元気してたか?」男はまみの頭に手を乗せる。
まみは首をすくめた。ヒウって小さくうめいた。
「その手を…どかせよ…」
「お?なんだ、如月か。どこのアバズレかと思ったよ」汚い言葉…だ。
「ほんとに…何しに?!」
「だァからさ、娘の顔を見にきただけだって言ってんじゃん。ねぇまみ?」男は汚い手でまみの頬をさわる。まみの目はどこを見定めるか迷ったままだ。
「まみに…汚い手で触るなって言ってんだよ…。クソ親父…」
空気が変わった。澄んだ冬の朝みたいに冷たい空気に。
「あのさぁ…」スックと男は立ち上がる。
母は腰が砕けたままだ。
「クソ親父って…オレ?」
鈍痛。え、何コレ
「あのぉ聞こえてます?だぁれがクソ親父?」
鈍…!「どえっ…!」
なんだろう、なんて言えばいいんだろう。
強いて言うなら、胃を小腸で縛られたかんじ?
「おと……さ」
「ああ、まみは黙ってて。今、ほら教育のっ…途中っ…だからさ」
男はワタシに乗っかってる?視界がブレるからよく分からね。
「うぅえ…ぐえっ」
「うわっ汚ねぇ!寝ながら吐きやがった!あ、まあオレも寝ゲロはするか。酒飲んだ時…。さて、と」
男はワタシから離れた。母のもとへ一歩で近づく。
「だーせっ」
「は?あんた何言って…」間髪入れずに蹴り。
「違う違う、だーせって。教育費」
今気づいた。ワタシ殴られてたんだっけ。
また蹴り。
「まだぁ?オレ、せっかちなんだけど」
「金なんて、あるわけないだろうよ!全部あんたがもってっ…」
男は母の髪をつかむ。
「なかったとしたら、どうやって半年飯食ってたんだ?ほら、だーせっ」
あぁ…お金が消えてく理由が増えた…。
ギャンブル、お酒、カツアゲ←new!
「分かった、わかったよ!金渡したらでてけよ?!」
「なぁんだァその言い分?けどまあ金出すならいっか」
母は救急箱から封筒を取り出す。
「かぁ…さん…だめ…」
封筒に書かれている文字。『遠足費』
「おっ!何?遠足行くのかよ、まみ?悪いねぇ、けどお父さんにお酒でも奢ってあげた方がいいだろ?」
ぱっと封筒を開ける。
「なぁんだ諭吉一人に一葉一人…。こんなんじゃろくな酒ぇ…飲めねえな…」
ま、いっか。と言って男は玄関に行く。
「悪ぃな、如月。酒、さんきゅ」
そう言って男がドアノブに手を掛けた瞬間、一つ黒い影が動いた。
ドブっ…。
「…なんだあこれ?…いてぇ…」そう言って男は倒れた。
とくとくとくとくって赤絵の具が床に散らばる。
「死んだ…かな…。ころ…しちゃったなぁ…ころしちゃ…ったよ?」
母がズブっと刃を抜きとる。赤絵の具が吹き出した。母は笑っていた。歯ぐきをむき出しにして、血走った目をして。
「殺したから…私達も死ななきゃねぇ?」
えへ、えへへへへへへェェェェェェ!
母は包丁を振り回す。
え、ちょっと待ってよ。おかしい…え?おかしいん…だよね…あれ?
「きさらぎぃだいびょうぶだよぉ?痛くないように、一瞬!一瞬で終わらするからァ…!」あぁだめだ、死ぬ。
あぁだめだ、死んじゃ。まみを助けなきゃ。
振り下ろされた、包丁を必死によける。
けど回らない頭じゃどうにできない。
まみを外へ…外へ!
「まみ…!」
包丁を持った悪魔は近づいてきた。
「やめて…やめて…」
あれ、やっぱだめだ。視界がブレる。
鼓膜も片方…敗れてるのかな…。
「大丈夫よ、如月。お母さんがいるもの。なんの心配もいらないわ」
あ、おかあさんがいる。おかあさんだ…
「うばァっシャアァァぁァぁぁぁァ!!」
むぶっていった。あれ、痛くない。
え、え?やっぱ何コレ、分かんない。
「お…ねぇ…。大丈夫だよ、うちが
…今までの分助け…返す…よ」
小さな体はゆらりと倒れた。
頭…やられてるのかな…。
「え、まみ?まみぃ!あれ、えっ?ま…」
「あ…お人形…一人壊れたァ…」

「うあああああああああああああああぁぁぁ!!!!!」
「あ、もうひとつ、お人形…」
「ぬぅ…えがっ…まっ…ひあう…み…ま…み…」
ほんの少しの沈黙。
母は泡を吹いていた。首には二つの手形。
「おえ…おえぇぇぇぇぇェェェェェェ」
ワタシが殺したの…か。絵の具と血と、吐瀉物としゃぶつ。酷いにおい。
「うぅ、まみ…。まみ!まみ?」
まみのお腹には刺さっていた。あの男を殺したために使ったものが。血が溢れている。
「おねぇ…好き。大好き」
「あ、まみ…。え?ちょっ…え?」

だめだ、まみがいないこの世界。ワタシは生きる必要がない……。
『手首でも掻っ切って死んでみろよ!』
手首…
ワタシの手首には普通に大きな血管が通っていた。
ワタシは、妹が作った缶のペン入れに入っていたカッターナイフで、左手首を突き刺した。なんの迷いもないのはなんでだろう。
「ま…み…。ごめんね、ごめんなさい…ごめんなさい…。さよなら……あとでまた…会おうね」
ワタシは、突き刺したカッターナイフを抜きとって、横一字に左手首を切りつけた。
ごとってワタシの頭が床に落ちて、全て終わった。

ガシャって音がした。



「…ひいた…よね」
「うん、まあ…少しは…」
「ごめんなさい…」
「いや、話を聞きたいって言ったのは僕だから」
なんて話だろう……この女の子は、人を殺してきたのだ…。怖い、怖い話だ。
そして可哀想な…話だ。
「さまよ…い…」
「ん?どうしたの……?」
「ワタシ…どうすれば良かったのかなあ…どうすれば…良かっだのかなぁ…」
「如月がしたことは、きっと悪いことだ。人?を殺してしまったことは、きっと悪い。ただきみはまみちゃんに守られた。きみは…」
「まみ…あの子が…ほんとうに…かわいくて…」
贖罪しょくざいだよ。きみがその世界でどうすれば良かったかなんて、知りもしない。過去なんて今更変えられないんだ。だから、どうすれば…じゃなくて、これからどうするにしなよ」
「……?」
「まみちゃん…忘れないことだよ。きっと魂留夜のことだから想定外が起きる。きみが守った大切なものがなんだったのかさえ分からなくなってしまうかもしれない」
「わす…れない…!忘れたくない…!」
「うん、そうだよね。僕はもう忘れてしまったから」
「…そうだったんだ…。ごめんなさい…」
「前世の記憶があるなら、きみは多分かえれるよ。いや行ける?かな」
「どこへ?」
「僕は知らない。まだ無知だからね。ただ歩けば終着地点はあるはずだ」
「だから…歩けばいいんだね」
「そう、歩け。如月。答えはこれから探しなよ」
「分かった…あり…がとう」
じゃ僕は行くよ、と言って立ち上がる。お尻についた砂をぱっぱっと払う。
「さまよい…!」
「何?どうしたの?」
「頼みたい事があるんだ…あなたに対して失礼、というか厄介になるかも…しれないけど」
「言ってみてよ、僕にできることならなんでもするよ?」
「ごめんなさい…話もたくさん聞いてもらったのに、さらに頼み事をするなんて…。簡潔に…言うとね。まみを…あの子を探して欲しいんだ」
「分かった」
「あの子…最期に怖い思いをしたから、今一人ぼっちになって、泣いているかもしれない。もしそんな感じの女の子がいたら、ワタシもこの世界にいることを伝えて…あげて」
「うん、分かった」
「それと…もう一つ…」如月は申し訳なさそうに呟く。
「必ず、ハンバーグ…作ってあげるからって伝言を…」
ハンバーグ。それはタダの料理名に過ぎないかもしれないけど、この姉妹にとっては、喜劇と悲劇をもたらした、最悪で最高のものだ。
「ハンバーグね、分かった。それじゃあまた。また会えたらいいね」
「うん…ありがとう」
そのまま振り返ることなく、先に進む。
如月の顔。終わりに彼女は泣いていた。そして笑っていたかのようにみえた。面の中は分からないけど
「かわいかったな…」そう思った。
回りが彼女を変えてしまった。周りが彼女をネクラだと位置づけてしまった。
社会に溶け込むのは必要なことなのかもしれないけど、自分を殺すことは破滅に繋がる。やっぱりダマは作っておかないと。
「かわいそうだな…」
ぽつりと呟いて、彼女の悲壮な人生を思うと、悲しくて、淋しくて。面を黒くしたのも全ての不幸なのだろう…。

そんな折に
「こんにちは」
思考停止。周りを見渡す。誰もいない。
「あぁごめんなさい、下です。下」
下には白と黒の毛なみの…
「どうも、猫です」
猫がいた。



ヤみやミ  fin

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