天下界の無信仰者(イレギュラー)

奏せいや

ひどい夢だ……

 朝の日差しがカーテンを透かし、エノクの意識を静かに起こした。

「夢、か…………」

 目を覚ましエノクは今し方見ていた光景を振り返る。それは忘れもしない、自分とエリヤが初めて出会ったころのものだった。

 誰からも見捨てられたような路地裏でエノクは出会った。いや、見つけられたのだ。エリヤによって。幼い自分は自身の死期を受け入れて終わりがくるのを待つだけの時間を過ごしていた。

 けれど、エリヤに救われたのだ。空腹で立つことすらできなかった自分を担ぎ上げ、どん底の自分に笑顔で語りかけてきた騎士。

 忘れるわけがない。飢えと乾きでなにも出ないと思っていた自分の体から、涙がこぼれた感動を忘れるわけがない。

 そんな、こともあった。

 昔の話だ。最近では思い出すこともなかった過去の一つだ。積み重ねる今に埋もれた記憶の断片だ。

 望んでもいなかった情景に、エノクは瞼の上に手の甲を置いた。

「ひどい夢だ……」

 そう、ひどい夢だ。せっかく忘れかけていたのに、それを思い出させるなんて。

 でも、それが理由なのだ。エノクが騎士になろうとした初志というのは。

 すべては憧れからだった。感謝とそれに報いたいという気持ちからだった。

 偉大なる兄、エリヤに近づきたい。ヒーローに憧れる子供のように、エノクにとってはそれがエリヤだった話。

 いつからだろう、それが薄れ、変わってしまったのは。

 エノクは憂鬱な気持ちなままベッドから起き上がり、騎士の制服に着替えた後に部屋を出た。

 階段を降りて一階のリビングへと向かう。

 自分を育ててくれた孤児院がエノクの我が家だった。昔からある小さなものでここには自分以外には二人しかいない。国からの助成金とエノクたちの収入源がここの活動費用だ。住んでいるのは三人だけだが炊き出しなどで貢献している。以前はもっといたが求職者や孤児を養う施設が増えたことでそこへ移っていった。

 朝の六時半。町の喧噪はまだ聞こえない。新鮮な空気がリビングを満たしエノクを出迎えてくれる。

 そんな中、台所で少女が忙しなく作業を行っていた。エノクが降りてきたことに気づきにこりと笑う。

「おはようございます、エノク兄さん」

「おはよう、シルフィア」

 シルフィア。五年前に新たに家族となった少女だ。まだ十歳になるかどうかだというのにしっかりしている。金色の髪に澄んだ青い瞳。幼い体はエプロンを付け誰よりも早くから朝食の用意をしていた。

「あの、お体は」

 調理の手を一旦止めてシルフィアが心配そうに聞いてくる。

「もう大丈夫だよ。一晩も経てばたいていの傷は治るものさ。これでも聖騎士の端くれだからね」

「エノク兄さんが端くれなんて謙遜が過ぎます。ですが無事でなによりです」

 シルフィアはまたもにっこりと微笑むと調理を再開した。ボウルにいくつもの卵を割っている。

「心配しましたよ。知らせを聞いた時は。というよりも、二人が試合をすると聞いた時からでしたが」

「すまない」

「いえ、謝ることではないのですが。エノク兄さんは立派な騎士です」

 シルフィアはまだ幼い。そんな彼女に心配をかけたことを申し訳なく、なにより情けなく思う。そんなエノクをシルフィアはやんわりとフォローする。

「それにひきかえ……」

 が、その表情が一気に暗くなる。見ればここにはエリヤの姿が見えない。

「? そういえば兄さんはどうしているんだ? 今はどこに?」

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