勇者の墓参り

きー子

勇者の墓参り

勇者の墓参り

 若い風貌の女が玉座から腰を上げた。彼女の朱い双眸は、天窓越しに星を見上げていた。
 女の表情は明るかった。それもそのはず、今日は彼女が百年の昔から待ち望んだ日だった。
 彼女は玉座から連なる大理石の床に降り立った。その一室は礼拝堂めいて神聖な静謐に満ち、何もかもが光を照り返す白で構成されていた。
 真っ白な空間の中にあって、彼女の羽織る外套と髪の色だけが光を吸い込むような黒。
「……来た」
 女の赤い瞳の先――漆黒の夜空に一筋の流れ星が瞬く。
 星は、女目掛けて一直線に堕ちた。
「来てくれたんだね――勇者よ」
 女は大仰に両手を広げた。彼女の他には誰ひとりとしていない玉座の間で、鴉の翼を思わせる黒衣の外套が風に揺れた。
 その時女には見えた。ひとりの若い男が、城の遥か上空で魔法のことばを紡ぐ姿が。
『光あれ』
 星の周りに光が生まれる。
 百万、千万、一億――幾千億もの光の矢が生まれ、それらは一斉に城の上空から降りそそいだ。
 城の天蓋が貫かれる。
 そこかしこの壁に穴が開く。
 部屋中の硝子窓が砕け散り、城内に吹き込む烈風が女の黒衣をはためかせる。蛇のように長い黒髪がはらはらと揺れる。
「星の……光だ」
 女は空を眺めながら微笑んだ。
 上空から一直線に降下した流れ星は天窓がかつてあった場所を通り過ぎ、一人の男として姿を現した。
「ああ――」
 若い男だった。短く切られた灰色の髪に、感情をうかがわせない青い瞳。背が高く筋骨隆々として、光かがやく白銀の鎧を身にまとった青年。
 ――まるで一振りの抜き身の剣。
 彼は女の頭上からあらわれ、手にした光の剣を真っすぐに突き下ろした。
 女は避けなかった。
 刃の切っ先は違えることなく女の白い肌を貫き、そのきゃしゃな身体を大理石の床に縫い止めた。
「――げぶっ、ぐえっ、あぐっ」
 女は血を吐きながらうめく。肉を苛む激痛と、心からの歓喜が胸中を駆けめぐる。
 青年が遥か高高度より落下した衝撃は、足元から放たれた空圧によって相殺された。
「……なぜ、避けなかった」
 青年は怪訝そうに言った。それが彼の、出会い頭の第一声だった。
 女にとっては、長年待ち望んだ末に果たされた初めての逢瀬であるというのに。
「……なぜ、って?」
「不意打ちでもたくらんでいるのか――――魔王」
 青年は女をそう呼んだ。
 誰もが女をそう呼んだ。
 人類の敵――遍くに仇なすもの――魔王。
「残念だよ。君も、私が視た通りのことを話すんだね」
「……何を」
「私にはこの日が視えていた。終わりの日。竜の月、十五の日。私は君に殺されることで、この鳥かごからようやく解き放たれることができるんだ」
 黒衣の女は致命的な量の血を流しながらも流暢に言葉をつむいだ。痛みはなかった。痛みをかき消すほどのよろこびが全身に満ちていた。
 視線の先、青年の顔に戸惑いが浮かんでいた。自分は何か、取り返しの付かないことをしてしまったのかと言わんばかり。それはまるで親とはぐれた迷い子のようで、ずっと視えていた未来そのもので、女は思わず笑ってしまった。
「……何がおかしい」
「安心するといい。魔王という支柱を失った魔王軍はじきに瓦解する。君は正しいことをしたよ――――勇者」
 魔王は青年をそう呼んだ。
 誰もが青年をそう呼んだ。
 人類の決戦兵器――手を伸ばすもの――勇者。
「おまえに正しさを裁かれる筋合いはない」
「そうだね。私にとって都合がいいかどうかという話だ」
 傷口から流れ出た血が女の身体を浸す。
 青年は魔王に剣を突き立てたまま、刃物のように鋭く目を細める。
「そんな顔をしないでくれたまえよ。……そうだね、君は仲間と別れながらとうとう一人でここまで辿り着いた。君の旅路は並大抵のものじゃなかった……人と魔人の別なく存在する悪意、その恐ろしさを確信させるには十分すぎただろうね……」
「……なぜ、おまえにそんなことが」
「言わなかったかい? 全ての未来が視えていたんだ。私の瞳には……君の全てが、ね」
 未来視。
 それこそが魔王軍の要であり、魔王の権能と称される唯一絶対の力。
 勇者という規格外の決戦兵器無くしては、人類が決して魔王軍に太刀打ちできなかった理由の根幹とも言えるもの。
 青年は青い瞳をさらに鋭く細め、言った。
「おまえは……死にたかったのか?」
「君もきっとそう思うようになるよ。きっとね」
「全てが視えているんじゃなかったのか」
「私が死んだ後のことはよくわからないんだ。でも、一つだけ確実に言えることがある」
 女は胸の傷にそっと触れる。命の火が緩やかに消えていく。迫る死がおそろしく、例えようもなく愛おしい。
 魔王は、ずっとこの日のことだけを考えていた。自らに死が訪れる日のことを。自らに死を与える男のことを。人ならざるものの介入によって生み出された特異点――人智を逸脱する愚かしくも愛おしい一人の男のことを。
「……言ってみろ」
「君の戦いは、全て、無駄だった」
 青年の周囲に幾千もの光の矢が生まれる。
 自らを千度殺してありあまる脅威に目もくれず、魔王は儚げな笑みを浮かべた。
「私は蘇る。魔王は何度でも蘇る。世界に悪がある限り、破壊を、混沌をもたらさんとする意志がある限り――何度でも蘇るだろう。君の戦いは、結局のところ、徒労に終わるだろう」
 魔王の瞳にはその未来が視えていた。
 誰の手によってか、いつの時代にかはわからない。
 ただ、視える。確信としてわかる。いつか蘇るだろう、ということがわかってしまうのだ。
 言いたいことは全て言ったと青年を見上げれば、彼を取り巻く光の矢は全て消えていた。
 これもまた、ずっと以前から視えていた未来だった。
「名乗れ。魔王」
「早く去った方がいい。この鳥かごは私を封じ込めるためだけのもの。私の命が潰えれば崩れ去る砂上の楼閣に過ぎない――」
「ならばなおさら早く名乗れ」
「……譲らないんだね」
 果たして彼は、死にゆく女の名前など聞いてどうするつもりなのか。
 そんなことまでは視えなかった。そんな些細な、どうだっていいことは。
 魔王は勇者の精悍な顔を見つめ、言った。
「考えてあげるよ。君の名前を教えてくれたらね」
「アルトだ」
 勇者は一瞬たりとも迷わずに答えた。魔人の呪術師に名を知られることを嫌い、旅先では滅多に名乗らなかった彼が。
 魔王は、名乗られるまでもなく彼の名前を知っていた。知っていながら誰にも吹聴することはなかった。ずっとずっと、彼女だけの秘密として抱えたまま死ぬつもりだった。
 ――もし名前を教えなかったら、彼はずっと私のことを覚えていてくれるだろうか。
 そんな悪戯心が脳裏をかすめ、女はくすりと微笑んだ。
 それは自らがかつて視た未来に背く選択だった。
「君に名乗るほどの名は無いさ。私はただの、人類の敵……いや、君の敵だった女だよ」
「……おまえ……ッ」
 アルトは拳を固く握り、歯を食いしばる。しかし天井が崩れ始めると、彼は魔王の胸から光の剣を抜き放った。
 女は急に暖かさと、浮遊感を覚えた。それは意識が遠のいていく感覚と同時だった。
 遠くで城が――魔王を閉じ込めていた牢獄が崩れ去る音が聞こえた。
 アルトは後ろ髪を引かれたように女を振り返る。魔王はありったけの力を振り絞って満面の笑みを浮かべ、彼の凱旋を見送ってやる。やがて勇者は光の尾を引く星となり、崩れ落ちていく城を後に残して空に消えた。

 跡地には、魔王の墓標と化した瓦礫の山が残された。
 魔王は死んだ。
 竜の月、十五の日の夜だった。

 ***

 魔王の死後、ザントリア連合国の魔人からなる魔王軍残党は凄絶な後継者争いを引き起こして内部から崩壊した。四分五裂した派閥は聖都以南のイブリス教圏に散らばっており、終戦から十年が過ぎた今なお各地でうごめいているという。
 現在のアルトには与り知らぬことだった。
「旅人さん、明日発たれるのだそうだね」
「……世話になりました。村長殿」
 アルトは南部辺境の村に滞在していた。この地域は魔王軍による侵略・略奪をたびたび受けており、その傷痕はまだ決して消えてはいない。その証拠に、アルトが寝泊りさせてもらっている空き家はかつて、魔人に殺められた夫婦の家だったという。
 その夜アルトを訪ねたのは五十歳近くの初老の男――この村の長だった。
「……惜しいことです。旅人さんのおかげでずいぶん助かったのですが」
「めっそうもない」
 アルトはテーブルを挟んで村長と向かい合い、頭を振る。この村には働き盛りの男が少なかった――兵役に取られたためだ。
 彼はこのような村々をめぐり、復興の手を尽くしたり作業をこなしたりといったことを十年間ずっと続けていた。その間に自らの名前を明かしたこと、正体を伝えたことは一度もない。村長が彼を『旅人さん』と呼ぶのは、ひとえにアルトが名を名乗っていないからだった。
「子どもたちもよく懐いていたものですから……寂しくなるでしょうな」
 アルトは口を閉ざして無言を守る。暖炉の火がぱちぱちと弾ける音が耳につく。
 このような話をされることはあまりなかった。深入りを拒むようなアルトの振る舞いは自然と人を遠ざけ、集落や集団とは一時的な利害関係で結び付くのが常だった。
「旅人さんは、これから……どちらに向かわれるので?」
「南へ。行ってみようかと思います」
「……悪いことは言いません。そいつはやめた方がいい」
 村長の忠告はもっともだ。
 大陸最南東に位置するラギア王国――その南部辺境からさらに南となればこれはもう、魔人世界を置いて他にない。
 ザントリア連合国。ラギア王国南部から陸続きに連なる大地に広大な領土を擁する、魔人の超大国である。
「申し訳ない。もう、決めたことなので」
「どうしてです。あんな危険な場所に……」
「知人の、命日でして」
「……墓参りですか」
「ええ」
 アルトは隠し立てせずありのままを述べる。
 村長はうつむき、テーブルの木目をじっと見つめている。
「……儂には、一人娘がおりましてな」
「承知しています」
「旅人さんになら……娘を任せても構わないと、思っておりました」
「……自分は」
「娘も、旅人さんのことを憎からず思っておられるようなのです」
 男の声にはすがるような響きがあった。
 アルトは村長の娘のことを思い出す。何事にもよく気が付く人で、素朴な美しさを持つ女性だった。アルトは首を横に振った。
「申し訳ない。自分には応えられません」
「……どうしても、行かねばならないというのですか」
 アルトは頷く。
 半分は本当だが、半分は嘘だった。行かなければならない理由はない――ただ、彼の願いには応えられない理由があった。
「……お若い身空で、厄介な事情を背負っておられるようですな。どうか、ご無事で……旅人さんでしたら、またいつでも歓迎いたしましょうぞ」
「……失礼を申し上げました。感謝いたします」
 村長が席を立つ。アルトも立ち上がって深く頭を下げる。
 彼はもう若者という年ではない。あの日から十年が過ぎ、年齢はすでに三十歳近い。
 しかしアルトの姿は十年前のままだった。彼の肉体は、全盛期から完全に時を止めてしまっていた。
 それこそ、彼が人とともに生きられない理由。一つ所に留まらず各地を放浪し、名無しの旅人として生きるようになった事情である。
 アルトは村長を家まで送り、寝床に就く。
 この村には当初の予定よりも長居してしまった。
 明日は竜の月、十五日の日。
 徒歩の旅では当然命日を過ぎてしまうが、構いはすまい。特別な理由がない限り勇者としての力は使わず、ただの人間として歩いていくつもりだ。
 これまでの十年間はずっとそうしてきた。そしてこれからもそうするだろう。
 悔いはなかった。
 王から提案された地位を拒んだことも、報奨を全て投げうったことも。

 ***

 アルトはラギア王国と魔人世界――イブリス教圏とを繋ぐ関所に差しかかる。
 国境沿いに構えられた関所は極めて厳重な要塞も同然だった。『壁』と呼ばれる巨大構造物が張り巡らされ、戦時下のような規模を維持している。
「そっ……そこの方っ、少々お待ちください!」
 アルトの姿を認めた衛兵は大慌てで彼を引き止めた。まるでアルトの来訪を予期していたような、それでいて信じがたいものを目にしたかのような反応だった。
 ――俺の姿を知られているとは思えないんだけどな。
 アルトの装備は控えめに言ってみすぼらしかった。くたびれたシャツとズボン、靴は頑丈さだけが取り柄のブーツ。水と携帯食料、最低限の着替えなどを詰め込んだ背嚢はそれだけでも中々の大きさになる。アルト自身は精悍な若者そのままだが、それでも彼が魔王を討ち倒した勇者だと見抜くものはまずいないだろう。
 しばらくして要塞の責任者らしい男が現れ、アルトを中に案内した。ただで通してもらうわけにはいかないらしい。
 男はある部屋の前で立ち止まった。
「こちらだ。こちらの部屋で、ある御方があなたを待っておられる。あー……私はあなたがどなたかは存じていないが……」
 露骨に男の眼が泳いでいた。厄介ごとに巻き込まれたくないという気持ちがありありとうかがえる。
「貴殿より上の人間か」
 彼も辺境の要塞を任せられるほどの男だ。最大限低く見積もっても中佐、おそらくは大佐以上の階級を有するだろう。
 男は神妙に頷いた。
「そうだ。本来ならば一介の旅人と顔を合わせることなどまず無い御方だ……だがもし、もしも万が一……あなたが彼と見知った間柄だとしても、なにとぞ失礼のないように願いたい……」
「承知した」
 彼の口振りで誰が待っているのかは察しが付いた。アルトはすぐさま扉に手を伸ばして押し開いた。その思い切りの良さに男は目を剥くが、アルトは構わず室内に踏み入る。
 応接室らしい部屋の奥に腰掛けていたのは、数多の勲章を帯びた軍服を着用している一人の男だった。
 年齢は決して若くない――だが、佐官級の男から敬意を払われる階級の人間としては若すぎる三十路絡みの風貌。
「久しぶりだな。ライアン」
「俺は…………いや、私はあまり会いたくなかったがな」
 ブラウンの髪を清潔に整えた屈強な男――ライアン。
 彼こそはかつて魔王討伐の旅を共にし、その途上で別れた三人の仲間の一人だった。
「思い出話に呼んだわけじゃなし、か」
「………、あぁ」
 ライアンは苦虫を噛み潰したような表情で頷く。
 彼は地位を得た。軍出身の最精鋭として勇者と旅を共にし、彼を助け、名誉の負傷から戦線離脱した戦士に相応しい地位を。
 アルトは後ろ手に扉を閉め、応接室を見渡す。
「……変わったな。おまえたちは」
「少しも変わらないねぇ。あんたは」
 先客はもう一人いた。
 漆黒のローブを身に着けてなお隠し切れない色香を漂わせる熟年の女。透き通るような銀の長い髪が波打ち、豊かな胸元を這うように流れている。まばゆい金色の瞳はふと興味深そうに細められ、アルトに視線を送っていた。
「……おまえがそう造ったんだろう、ベルカ」
 ライアンに続き、今度はアルトが顔をしかめる番だった。
 魔術師、錬金術師、化学者、薬師、研究者――彼女を言い表す言葉は数多あるが、アルトはその全てを引っくるめてこう認識した。
 魔女。魔女ベルカ。
「馬鹿言っちゃいけないよ。あんたは私が手掛けた中でも規格外、想定外の最高傑作なのさ――うまく行き過ぎたくらいにね」
「……思い出話は後にしたまえ。必要なことを手短に済ませねば」
 ライアンはベルカを睨みつけて口を挟む。
 アルトもそれが気がかりだった。かつて旅を共にした二人が今、なぜ顔を揃えてアルトの前に姿を現したのか。この十年間、顔を合わせる機会などほぼ皆無であったというのに。
「ふふっ、まだそんなに怖いのかい? 『勇者』が――」
「……言葉を慎め」
 ライアンは低く押し殺した声でつぶやく。
 一番変わったのはライアンだな、と思う。彼は勇猛果敢な、ともすれば猪突猛進ですらある古今無双の戦士だった。その卓越した力はやがて『竜殺し』の名をほしいままにするまでになった。
 魔人たちの使役する竜の群れと刃を交えたあの戦い。他の仲間二人に支援されながらアルトとライアンは戦い続け、そしてライアンは戦線離脱を余儀なくされる重傷を負ったのだ。
 その時のことをアルトはよく覚えている。
『これ以上戦うのは無理だろうねぇ』とベルカが告げた時、ライアンは安堵したような表情を垣間見せた。
『あぁ、もうこの化け物と肩を並べて戦わなくてもいいんだな』と言うような――――
「……それで、俺をどうしてここに?」
 アルトは努めて無感情に問う。
 ライアンは頷き、アルトに向き直った。
「……ザントリアに行くつもりなのだな?」
「そうだ」
「無茶な真似はよせ。自分が何者か、わかっていないわけでは無いだろう」
「……今になってか?」
 これまでの十年間、越境を咎められたことは一度も無かった。それでアルトも、半ば放任されているのだろうと判断していたのだ。
「今だからこそだ。……足下に気を配る余裕が生まれた今だからこそ、軽率な行動は控えてもらいたい」
「……なるほど」
 アルトは得心する――自分が放置されていたのは、単にそこまで手が回らなかったからということか。
「今の平和は磐石じゃない。魔王軍は内部から崩壊したが、残党がまだ生き長らえている。もしも『勇者』が連中の縄張りに出入りしていると知られてみろ……挑発行動とも取られかねんぞ」
「……話はわかった」
 ライアンはすでに軍の上層部――すなわち、国家間治安を慮る地位にあるのだろう。アルトの言葉を聞き、彼の表情がわずかに弛緩する。
 だが――
「それでも行く、といったらどうする」
「…………本気か?」
 ライアンが目を剥く。ベルカはくつくつと笑みを漏らす。
「やっぱりね、アルト。あんたには星の神様がついてるんだ――あんたがそうするって言えば、誰にも止められやしない。あとは正真正銘の怪物に成り果てるばかり……」
「ベルカ、言葉が過ぎるぞ――」
「静かにしてな。あんたは何のために私を呼んだんだい?」
 ベルカをたしなめようとするライアン、彼を一言で黙らせるベルカ。
 アルトは二人が揃った理由を察した――こちらを説得するためか。
「……だとしたら、どうする。どうやって止めるつもりだ?」
「怪物なら怪物らしく振る舞おうって? やめときな。それで一番苦しむのはあんただろうに」
 わかったような口を利くなと言いたくなるが、図星だった。何を隠そう、まだ幼かったアルトに教養や魔術を身に着けさせたのはベルカその人だ。彼女はアルトの師であり、育ての親とも言える人物であった。
「……それでも、俺が引き返す理由にはならない」
「怪物じゃない、ってんなら少しは大人しくしてみせな。首輪して鎖で繋ごうってわけじゃないんだ。あんたがそうするなら、私たちから手の差し伸べようもある――」
「贖罪のつもりか」
「…………ッ!」
 ベルカは胸の前で腕を組み、表情に苦渋を滲ませる。
 ベルカは二人目の戦線離脱者だった。彼女の言葉を借りるならば、ベルカはアルトに『首輪』をはめようとした――旅の中で改めてあらわになった『勇者』の怪物性を、彼女は看過できなかったのだ。
 そして失敗した。アルトの力はもはや人間の、否、魔術の精髄を極めた魔女の手にも負えるものではなかったのだ。
 もう一人の仲間はベルカの責任を問い、魔王城の直前までは同行を許されることになった。しかし紛れがあってはならないという事情から、最終決戦を共にすることだけは断じて認められなかった。
「あなたが責任を感じていることは知っている。だが、もう放っておいてくれないか」
 当時のアルトは悲嘆に暮れた。信じていた師に裏切られ、人でなしと見なされたことに絶望もした。
 だが、ベルカにしてみれば責任と罪悪感を覚えずにはいられまい。彼女の魔術が人間の枠を逸脱した怪物を産み出し、何者に縛られることもなく地上を闊歩しているのだから。勇者の力を制限する枷の一つも付けておきたいと思うのは至極当然のことだろう。
 ――到底アルトが受け入れられる話ではなかったが。
「……わかったような口を利くじゃないかい。言っておくけれどもね、私は許されたいなんてこれっぽっちも思っちゃいないよ」
「一時は弟子だったんだ。あなたがそうやって人から悪く見られようとするたちなのはよくわかってる」
「……う……」
 金彩の瞳をかっと大きく見開くベルカ。
「本当に俺の存在が不都合なら殺せばいい。その方がずっと早く話が済む」
 アルトは冗談めかして言う。ベルカは後ろめたそうに視線を伏せ、壁際に背をもたせかかった。
『おまえは……死にたかったのか?』
『君もきっとそう思うようになるよ。きっとね』
 十年前、魔王と交わした言葉を思い出す。
 アルトは自らに問う――おまえは死にたいのか?
 否。
「……聞いてくれるか、アルト」
「ああ」
 じっと面を伏せていたライアンがゆっくりと顔を上げ、口を開く。
「私は――――おまえを恐ろしく思う」
「……そうか」
「殺せばいい、などとできもしないことを言ってくれるな。……だがな、仮に可能であったとしても、俺はおまえを殺したくはないよ」
「…………そう、か」
 年経たライアンの硬い表情がわずかに緩む。怯えた瞳の奥にうかがえる実直な目の光。
 それは十年前、二人が肩を並べて共に戦った日と同じ目をしていた。
「……行かせるつもりなのかい?」
 ベルカがライアンを一瞥する。
「私にそれを止める手立てはもはや無いな。……それとも、おまえにはあるのかね」
「……魔王軍の残党がうごめいてるってのは本当の話だろうに。厄介事が起きた後では遅いんだよ?」
「アルトの本質は怪物ではない、と言ったのはおまえだろう。……彼を恐れているのはおまえも同じようだがね?」
「……意趣返しかい? すっかり性格が悪くなったねぇ、ライアン上級大将閣下」
「私も知らなかったのだがね、性格のいい善良な将軍というのはある種の惨事なのだそうだ」
 アルトは二人のやり取りを眺めながらふと笑みを漏らす。
 わだかまりが無いはずもない。思うところはいくらでもある。
 だが――まぁいいか、とも思うのだ。
「またにするよ」
 アルトはそう言って踵を返す。
 と、後ろからライアンの声。
「……良いのか?」
「急ぐ理由もないからな」
 いずれにせよ命日を過ぎることは明らかなのだ。少し待って、ほとぼりが冷めたころにまた足を運べばいい。
 誰に頼まれたわけでもなく、アルトの自己満足でやっていることなのだ――彼女の墓は逃げやしないし、必ず行くという意志に変わりもない。
「……すまない。面倒をかける」
「昨日今日の仲じゃないだろ」
 アルトは扉の把手に手をかけ、軽く押す――
 その時だった。
「――聞きな、アルト!」
「なんだ」
 ベルカの呼びかけに振り返る。
 その口調はかつて、アルトを弟子として教鞭をとっていたころの彼女を思わせた。
「たまには、うちに顔を出しな。宿代わりくらいにはなるからさ」
「薬を盛られるのはもうごめんだぞ」
「……あの時は……すまなかったよ。あんたとは、きちんと話し合うべきだった……」
 彼女には恨みがある。だが、それとは比べ物にならないほどの恩もある。
 滅んだ村の孤児に過ぎないアルトを拾い、養育したのはベルカだった。魔人への復讐を、そのための力を求めたアルトに魔術的な改造を施したのもベルカだった。彼女がいなければアルトは幼いうちに呆気なくのたれ死んでいただろう。
「許されたい、などとは思っていないのではなかったか?」
 ライアンが微笑とともに茶々を入れる。
「……許されるなんて思っちゃいないよ。昔のことも……あんたを産み出したこともね」
 ベルカはライアンを睨み、次いでアルトを一瞥。
「いずれ寄らせてもらうよ。――じゃあ、また」
 アルトはあっけらかんと応じ、二人を残して部屋を出る。
 十年ぶりの再会としてはあまりに素っ気なく、そして呆気ない別れだった。

 ***
 
『壁』の中での話し合いは穏便にまとまった。
 アルトが義理を通すということでひとまずは決着したが、それは同時に彼らとアルトの隔絶を浮き彫りにする結果でもあった。
 彼らは恐れを覚えながら、それでもアルトを人間として扱ってくれた。
 彼らでも――人類種の中でも最強格と言える彼らでさえ、アルトに恐れを抱くのだ。
 ならばなおさら、人々が生きる世界にアルトの居場所などありはすまい。
 アルトは来た道を歩いて引き返しながら、ふと違和感を覚えた。
 ――つけられてるな。
 後ろからごくゆっくりと迫る、要塞から出発したのであろう一台の馬車。まさかとは思うが、何者かがアルトに監視の目を付けようとしているのだろうか。
 あえて泳がせるか、出方をうかがうか、消すか。
 アルトはあえて足を止め、道端の木の根に身を寄せた。
 座り込んでじっと待っていると、馬車が街道を蹴立てて迫りくる――アルトの眼の前に辿り着くまでに速度を緩め、深緑色のフードを目深にかぶった御者が馬車から颯爽と降り立つ。
 どうやら害意は無いらしい。
 御者はゆっくりと歩みながらフードを取り払い、アルトはその下の顔に少なからず驚いた。
「おまえ――――」
「ご無沙汰しております、アルト殿。失礼ながら少々尾行させていただきました」
 フードの下には能面のような顔があった。くすんだ金髪に碧眼という顔の造作で、特別整ってもいなければ醜くもない。
 年齢は三十半ばほどであろうが、ぱっと見では二十代にも四十代にも見える――とにかく印象の薄い男。
 アルトは彼を知っていた。
「……久しぶりだな、ヨナ。どうしてここに……」
「それはお答えいたしかねますな」
 身軽な服装をした男――ヨナは飄々と答えて頭を振る。
 彼こそはアルトと旅を共にした三人目の仲間。ラギア王国の隣に位置する第三国――ガリア公国からの監察者でありながら、最後の最後までアルトに付き従い力添えをした男。
「……ならいい。よく生きていたな」
「まだまだお国のために働かねばなりませんからな。敵地で死んでなどいられません」
 魔王城近辺の上空は魔人たちの使役する無数の飛竜が守護しており、アルトが突入するためには誰かが露払いをしなければならなかった。そのために命を賭け、飛竜の大群を一身に引きつけてくれたのがヨナだ。
 彼の出自ははっきりしておらず、ガリア大公お抱えの密偵や暗殺者ではないかとも言われていた。しかし実態がどうであれ、彼がアルトに全幅の信頼を託して命を賭けたことに変わりはない。
 当のヨナ自身は気負いもせず、『貴殿にしかできないことを貴殿に任せるまでのことですよ――でなければとてもこのような賭けは打てません』などと言ってのけたものだが。
 アルトは魔王を討ち取った直後、崩壊する城の外で山のように折り重なった飛竜の屍を見つけた。しかしヨナの姿はどこにも見当たらず、生死不明と報告する他にはなかった。いつも飄々と生死の境をくぐり抜けてきた彼のことだ、そう簡単に死ぬはずはないと思ってはいたが――
「要するに……仕事で来たのか」
「アルト殿にお伝えしたいことがございまして」
 ヨナはアルトの質問に答えず話を切り出す。
 腹の中を一切うかがわせない微笑。狐のように細められた瞳。
「……どうして俺がここにいると?」
「今は竜の月ですからな」
 まるで答えになっていないちぐはぐな言葉――しかしアルトにはぴんと来た。
 この男は知っているのだ。アルトが竜の月十五の日を目処にイブリス教圏へと渡り、毎年のように魔王の墓標を詣でていることを。
「向こうのことか」
「さすがアルト殿、話が早い。――魔王軍七大魔将レイノスの名、覚えておられますかな?」
「……あぁ」
 アルトは剣呑に目を細める。
 その名は七大魔将の中でも特に悪名高い。小隊規模の少数精鋭を率いてラギア王国の領土を蚕食、異常な行軍速度で辺境の地を荒らし回り、反攻軍を差し向ければ一目散に逃げ帰ってしまうという盗賊まがいの将だった。その部隊は『蝗』と呼ばれ、迅速さと狡智を極めた攻勢を食い止めることは辺境の精兵をもってしてもほぼ不可能であったという。
 当然アルトはレイノスの討伐を試みたが、結局遭遇することすら叶わなかった。レイノスは徹底的に『勇者』との交戦を避け、辺境部の兵や民衆を攻め立てることに徹したのだ。
 後になって思い返すと、レイノスがアルトの動向を察知できたのは魔王の未来視のおかげだったのだろう。
「奴も、生きているんだな」
「健在です。我が同胞は魔人に扮して魔王軍残党に潜り込み、レイノスの動向……そして彼の関わる計画を知りました」
「……どういうことだ。何をしようとしている?」
 魔王軍の残党が今になって何をしようというのか。
 彼はなぜそれをアルトに伝えようとしているのか。
 ヨナは平坦な声で言った。
「魔王を蘇らせんとする儀式を執り行う計画です。レイノスはそのためにアル・マークを襲撃し、少なくとも一〇〇〇の魔人を生贄に捧げようと――」
「いつだ、それはッ!?」
「一月後と連絡がありました。先月末のことです」
「……あと、半月……」
 アルトはヨナに掴みかかりそうになる衝動を抑えて息を吐く。
 だが。
「それ以降、同胞からの定期連絡が途絶えました」
「……待った。それは」
「情報漏えいが発覚した可能性があります。計画は延期されるか――もしくは、前倒しになるか」
 ヨナはあくまで淡々と告げ、アルトは驚愕に目を見開く。
 延期か、前倒しか。
 軍というのは縁起を担ぐものだ。すると前倒しになる可能性も決して低くない。
 いつ復活の儀式を執り行うかとなれば、魔王の命日などいかにもおあつらえ向きの日程ではないか――
「わかった。ありがとう、ヨナ」
 アルトは立ち上がって背を向ける。その場に邪魔な荷物を捨てていく。青年の周囲にまばゆい光が生まれ、大気を掻き乱す空圧が身体を浮かび上がらせる。
 その時だった。
「お待ちあれ。勇者殿」
「……やめてくれ。その呼び名は」
「こちらをご持参ください」
 ヨナは馬車の荷台から一振りの長物を引きずり出す。
 それは一見すると剣だった。全長およそ5フィート、刃渡りがおよそ4フィート。鞘がなく、刃はくすんだ布切れに覆われている。
「……なんだ、それ」
 アルトは怪訝そうな表情を隠しもしない。
「十年前、魔王城の跡地から見つけたものでして。勇者殿のお持ち物ではありませんかな?」
「……心にもないことを言うな」
 これほど妙な剣を手にしたことは一度もない。もし持っていたらヨナも絶対に気づいただろう。
「仮に勇者殿の持ち物ではないにしても、魔王を討ち取った勇者殿にこそ受け取る権利がございましょう。この十年、ずっとお渡しする機会がありませなんだ。どうかお持ちください」
 呼び方を改めるつもりも、ましてや引き下がるつもりも無いらしい。
 ――戦場に出向くのにまともな剣も無いのはまずいか。
 この剣がまともだとは限らないが、アルトは気が進まないなりにそれを受け取った。
 ずしり、と手に重くのしかかる冷たい金属の感触。
 試しに振るった感覚は悪くない。黒い鉄の柄が不思議と手に馴染み、ずっと昔から使っていたかのような錯覚すら覚える。
「やはり貴殿が持つべきものだったようですな、勇者殿。私ではただの一振りも叶いませなんだ代物ですから」
「……見え透いた世辞はやめろ」
「いえいえ、全くの事実ですとも。我が国が誇る怪力無双の戦士さえ持ち上げるがやっとの魔剣――でなければ勇者殿にお渡しすることはできなかったかもしれませんなぁ」
 ちゃっかり国許に持ち帰っていたというわけか。『勇者殿にこそ受け取る権利がございましょう』などとよくも言えたものである。
 だが――悪くない。
「ありがたく頂いていくぞ」
「どうぞご自由に。ご武運をお祈りいたしております、勇者殿――」
 良いように使われているなという感じはしたが、不思議と不快ではなかった。ヨナのしたたかさがそう思わせるのか。
 アルトは抜き身の剣を手に地上を離れ、飛び立った。極光をまとう影が一陣の流星となって空を走り、国境をまたいだ土地へと飛翔する。
 ――あの二人への義理、果たせなかったな。
 アルトは少し申し訳なく思い、頭を振る。
 今は急がなければならない理由があった。

 ***

 宗教都市アル・マーク。
 広大な領土を誇るザントリア連合国においては時に首都よりも重要視され、イブリス教の聖地とも見なされる土地。かつてこの近くには魔王の居城が存在していたこともあり、国内有数の厳重な守りが敷かれていた。
 そして今日、竜の月十五の日――都市の守備兵は魔王軍残党と共謀し、守るべき都市そのものに牙を剥いた。
「魔王様万歳!」
「魔王様万歳!」
「魔王様万歳!」
 赤褐色の肌に赤黒い瞳。それが連合国民の過半数を占める魔人に多く見られる特徴だった。
 宗教的熱狂に包まれた魔人の守護兵は同じく魔人の市民たちを、都市中央部の円蓋型寺院――アズヘイル大聖堂に追い立てた。
「ひいいぃぃっ!」
「やめろ、やめてくれ!」
「なぜだっ、どうして――」
 魔人たちの多くは非武装だ。彼らはなすすべもなく鎧と十字槍で武装した守備兵に追い立てられ、聖堂に立てこもることを余儀なくされる。それは彼らを生贄として確保するための措置だったが、暴走した守備兵が勢い余って街中で刺し殺してしまうこともしばしばあった。
 都市全域に蔓延する熱狂と狂奔。混乱と暴力。混沌の坩堝と化したアル・マークに、ある特徴的な部隊が進軍する。
 ことごとくが漆黒の鎧に身を包んだ小隊規模の騎兵部隊。先陣を切って彼らを率いるのは際立って大柄な、粗野な相貌に邪智を秘めた瞳が印象的な一人の男。
「進め、ただ進めぇッ!! 贄は大聖堂にあり! 道を遮るものは殺せ、贄は残さず浚い尽くせ!!!」
「おおおおおおおおおおッッ!!!」
 部隊が怒涛の速度で都市を駆ける。それはさながら稲穂畑を食い散らかしていく一群の蝗のように。
 彼らこそは筋金入りの魔王信奉者、魔王軍残党の最精鋭、勇者との交戦を避け続けたために壊滅を免れえた特殊部隊――『蝗』。
 その先頭を駆ける男の名はレイノス。魔王軍七大魔将唯一の生き残り、レイノス・バーゼラルドであった。
「とっ……止まれ、貴様ら!! 何者の許しがあって聖地を侵――ゲェッ」
「退けぇッ!! 我が名はレイノス・バーゼラルド、遍くを魔王様に許された七大魔将が一角よォッ!!」
 守備兵の全てが魔王軍残党に付いたわけではなかった。今の平和を尊ぶ守護兵たちは『蝗』の前に立ちふさがり、そして瞬く間に蹴散らされた。後には馬上からの槍に食い荒らされた肉の残骸が捨て置かれた。
「なぜだッ! かつての魔将ともあろう御方がなぜ私たちを――ギャッ」
「魔王様復活の糧となりなァッ!! 我らが魔王様の君臨する時代が再び訪れるんだよォォッ!!」
 レイノスは率先して朱塗りの槍を振るい、都市の守備兵を鎧袖一触に貫く。ただでさえ数で劣勢の守備兵らは怖気づき、逆に『蝗』は無軌道なほど勢い付く。彼らを止められるものはもう誰もいない。
 部隊は複雑に入り組んだ都市内部を掻き乱し、ついに中央部に辿り着く。アズヘイル大聖堂を囲い込むように展開すると、遅れて進軍してきた魔王軍残党や彼らに寝返った守備兵たちと合流した。
 総数およそ一五〇〇。かつて人類を絶望の淵に追いやった魔王軍の残党としてはあまりに寡兵だが、彼らは戦いに命を投げ出すことも厭わない精鋭揃いである。
 そしてそれ以上に彼らは、ザントリア連合国全域を一致団結させた宗教的権威にして象徴――魔王の狂信者でもあった。
「状況はどうなっている?」
 レイノスはいち早く中央部に辿り着いていた守備兵に問う。
「はっ。生き残りの市民はほぼ全てが大聖堂に」
「そうか。よくやった」
 レイノスは頷き、守備兵の腹を槍で串刺しにした。
「えっ――――ブゴェッ」
「でもな、弱いやつはいらねぇんだよな。てめえも贄になれや」
 なぜ、と言う間もなく守備兵の男は息絶えた。レイノスは死体をゴミのように打ち捨てて大聖堂へと迫る。
 彼の一言を皮切りにして仲間内での殺戮が始まった。悲嘆とともに死ぬものがいれば、「魔王様万歳!!」と喜んで死ぬものもいた。真の信仰とは死が迫った時に試されるのかもしれなかった。
 レイノスは殺戮の嵐が吹き荒れる道を進み、大聖堂の入り口に迫った。その隣を、漆黒の僧衣に身を包んだ陰気な女が付き従う。
「足りそうか」
「十二分でございます。建物の中に千、二千……それ以上……これだけの命を捧げましたら、魔王様は必ずやお目覚めになられるでしょう……」
 小声でぼそぼそと答える女は魔人の呪術師だ。かつては他の七大魔将についていたが、今はレイノスの副官である。魔王の命日に復活の儀式を執り行うというのも彼女の発案だった。
 レイノスは上機嫌そうに牙を剥き、ふと大聖堂の入り口から現れた人影を目に止める。
 それは齢七十にも及ぼうかという老いた男だった。豊かにたくわえられた白い顎髭と顔に刻まれた深い皺は重ねた年月を感じさせ、身に付けた白い僧衣とスカーフはイブリス教の聖職者であることを象徴する。
「……話をいたしませんか、そこのお方。このような凶行に出られたということは、それ相応のわけがおありでしょう……」
 老人は穏やかな口調で語りかけた。大聖堂の中から、幾多の魔人たちが固唾を呑んでその老人を見守っていた。
「話すことはねえな。てめえらにはただ死んでもらうだけだ」
「……生贄になされる、と。そういうことでしたな……?」
「よっくわかってるじゃねぇか」
 レイノスは血塗られた槍の穂先を布で拭い、その老人に向ける。
 しかし彼はひるまなかった。
「……では、その生贄とは……少なくともどれほどの数が必要なのでしょうか?」
「あァ……?」
 レイノスはかたわらの副官に目を向ける。
 女は伏し目がちにぼそぼそと答えた。
「千……いえ、少なくとも五〇〇人もいれば事足りるかと……」
「だとよ。まぁ、全員死ねば同じこったろ」
 大聖堂の中からざわめきが立つ。老人はさすがに顔を青くするも、頭を低くしてレイノスに歩み寄った。
「……五〇〇人……五〇〇人を、我々の中から選び出します。ですからどうか、夕刻まで時間をいただけは」
「うぜぇ」
 レイノスは朱塗りの槍を突き出した。老人は胴を貫かれ、痙攣しながら血反吐を吐いた。大聖堂の中から悲鳴が上がり、『蝗』たちは血の臭いと無慈悲な暴力の気配に歓呼する。
 副官の女はレイノスを横目に見る。
「……よろしいので?」
「魔王様は俺がこうすることも視ておられたに違いないさ。そして生前このことを咎めることはなかった――つまり、こいつは魔王様も許されておられることなのさ」
 レイノスはずっ、と血に濡れた槍を引き抜く。
「……神よ。我らが神祖よ……」
 老人は掌を組みながら天に跪き、祈りを捧げ、頭から血溜まりに崩れ落ちた。
「すぐに行けるさ。魔王様のお膝元によ」
 レイノスは老人をあざ笑い、大聖堂の奥を一瞥する。数多の人々が恐怖に、あるいは戦慄に震え上がる。
「シャイナ様、準備ができました」
「……ご苦労」
 騎兵部隊の一人が呪術師の女――シャイナに駆け寄って報告する。
 彼女は、アズヘイル大聖堂を中心に据える巨大な儀式陣を兵たちに描かせていた。
「レイノス様。ご指示をいただければ、いつでも……」
「よし、やるぞ。――――てめぇら、ここからが本番だッ!! 好きに犯せッ、好きに殺せッ!!」
「おおおおおぉぉぉぉぉぉぉッッッ!!!」
 割れんばかりの大歓声が人々の悲鳴を掻き消す。『蝗』の群れが大聖堂に殺到する。

 瞬間、七億条の光の雨が空から降りそそいだ。

「あがッ」
「ぎゃッ」
「ぶげッ」
 白い光に貫かれた魔人が乗馬もろともに即死する。咄嗟に馬上から飛び降りた魔人は急所を避けるも、軌道を捻じ曲げて猛追する矢に貫かれて重傷を余儀なくされる。
『蝗』の部隊は一瞬にして致命的な混乱に呑まれた。今度は彼らが悲鳴を上げる番だった。統制を失った軍馬は暴れ狂い、光の矢に穿たれて屍を晒すかその場を駆け去っていくかの二択を強いられた。千人を超える部隊は見る影もなく半壊した。
「なっ……なんなんだッ!? 一体なんだって――」
 うろたえるレイノスの肉体を七千の光の矢が食い散らかした。彼は首だけになってもまだ生きていた。彼が見上げた空の先に、極光をまとう一縷の影があった。
「――ひぃッ」
 レイノスはそれが何かを知らなかった。
 知らないままに確信した。
 それこそは彼が偏執的に忌避し続けたもの。
 魔人の軍勢に災厄をもたらすもの。
 ――――『勇者』。
「やめろ、くるなっ、どうしてッ――」
 レイノスの表情が恐怖ただ一色に染め上げられる。
 上空の影は一陣の星と化し、一直線に地に落ちた。
「ブギャッ!!」
 剣の一振りがレイノスの首を薙いだ。彼は肉片一つ残さず塵となった。剣身の巻き起こした風圧がシャイナを上下真っ二つにした。断面から腸がこぼれ落ちた。彼女は苦しみながら死んだ。
「な……なんだ」
「あれは……」
「伏せろ、巻き込まれるぞッ……!」
 市民らがいても立ってもいられず大聖堂から顔を出す。
 彼らが目にしたものは、もはや戦いですらない一方的な殺戮だった。人影が流れ星のように鋭く走るやいなや、何十人という魔人たちの命が一瞬にして刈り取られていくのだ。
 奇妙なことに巻き込まれた市民は一人もいなかった。否、殺戮の渦中に等しい場所に倒れ込んでいる老人の身体にも一切の傷が及んでいなかった。
 災厄としか思えない殺戮の渦は、明らかに魔王軍残党だけを狙い撃ちにしていた。
「お……おおぉ……」
「なんなのだ、これは……」
「もしやこれは、神の罰ではあるまいか……」
 人々はその影が人型であることを見て取っていた。しかしながら、目の前で繰り広げられる殺戮が人の手に寄るものとは到底考えられなかった。
 一分とかからずに鮮血の雨が止む。アズヘイル大聖堂の周囲から生きて動く魔人は一人残らず消え、辺りに恐ろしいまでの静謐が満ちる。
 そして影が、動きを止めた。
 影の正体は、人間の青年――灰色の髪に青い瞳をした、どこにでもいるような若い男だった。
 敬虔な人々は沈黙を守りながら息を呑む。もしも青年が神の使者であるならば、神罰が彼らに及ばない保証はない。
 青年は片手に幅広の剣を手にしていた。黒い鉄の柄、白い布切れが絡みついた漆黒の刀身。吹きすさぶ血風が布の覆いを解き、刃の先端から付け根に向かって彫られた朱色の刻印をあらわにする。
 刻印は、人々の目にこう読めた。
 人々は誰からともなくその銘を口にした。
「『 إبليسイブリス』……」
 初代魔王――神祖の名を象られた剣。
 人々は震えた。畏れ、跪き、少なからぬものが卒倒した。
 聖堂から飛び出した人々はことごとく膝を突き、青年に向かって頭を垂れる。天に祈りを捧 げる。慈悲を願い、許しを乞い、神への感謝を口にする。大聖堂の周囲には数多の軍馬と魔王軍残党の屍が折り重なり血腥い死臭を漂わせていたが、それを気にかけるものは誰一人としていなかった。
 青年は周囲をぐるりと見渡すと、跪く人々には目もくれず老人のそばに屈み込む。彼は人々に理解できない二言のことばを紡いだ。
 次の瞬間、淡い光の粒子が老人の身体に吸い込まれていった。血溜まりに沈んでいた老躯がかすかに震え、人々は色めきだった。「奇跡だ」という言葉が大聖堂の周囲を席巻した。「神祖が彼をお救いになられたのだ」青年は人々の声に構わず老人の顔を覗き込んだ。
 少しして、老人はゆっくりと顔を上げた。その顔には苦しみと痛み、そしてそれらを上回る驚きがあった。
「あ……あなたは……」
 老人は消え入りそうな声で問いかける。青年はただ首を横に振り、老人の身体をそっと抱き上げた。傷は完全にはふさがっておらず、血が点々と零れていた。
 青年が大聖堂へと歩き出す。人の波がたちまち左右に割れ、彼が歩む道を作る。青年は大聖堂内の長椅子に老人を横たえ、朗々とした声で人々に呼びかけた。
 言葉の意味を理解できたものは一人もいなかった。だが、老人が治療を必要としていることは明らかだ。医療の心得ある人々が慌てて老人の側に駆け寄っていく。
 その声は『神のことば』として後世にまで語られた。言葉というものがまだ一つしかなかった時代の、今や誰もが理解できないにも関わらず誰もが従ってしまう分化以前の神代言語であると。
 青年は老人の容態を人々に託すと踵を返し、大聖堂の外から空に飛び立った。漆黒の剣身に刻まれた『 إبليس‎』の朱き刻印が尾を引き、天に血色の線を描く。星は魔王城跡地の方位に沈み、このことが「彼の正体は前魔王の守護騎士だったのではないか」という噂を呼んだ。
 老人は無事一命を取り留め、十余年後に天寿を全うした。青年の顔をはっきりと見たのは彼だけだったが、老人は生前このことをあまり語りたがらなかった。
 それでも熱心な門弟に話を乞われるとついには口を開き、控えめにこう答えたという。
「彼は……人間だった。ただの人間に見えた」

 ***

「……ここは変わらんな」
 アルトは魔王城跡地――小高い丘陵に捨て置かれたままの瓦礫の山に降り立った。
 かつては万の魔獣がひしめいていたこの地に寄り付くものは誰もいない。瓦礫の手前には小じんまりとした四阿あずまや、その真下に『魔王の墓』と刻まれた墓標があった。
「……おまえが名乗らないのが悪いんだぞ」
 四阿と墓はアルトが勝手に建てたものだ。他に墓というべきものはどこにも見当たらない。
 散々利用しておいて薄情なものだな、と思う。魔王を城に閉じ込めていた連中は終戦前後のどさくさに紛れて軒並み死に絶えたのかもしれない。魔王城跡地の領有権を争う戦いが以前勃発したと聞くが、この有様から察するに決着はつかなかったのだろう。この地は誰のものでもない、という名目で十年間放置されているわけだ。
 アルトはベルトに結んでいた小袋を探り、酒入りの小瓶を取り出す。
「……悪い。こんなもんしか無かった」
 荷物を置いてくるべきではなかった。いや、荷物の中にもろくなものは無かったか。
 アルトは墓前に酒を供え、腰に帯びた剣を手に少し考える。
「これは預かっとくぞ。……誰かに持っていかれたら面倒だからな」
 魔王の剣であるからには彼女に返すのが筋だろうが、返す相手がいないのだから仕方がない。
 アルトは墓標を見つめながら、死に際の魔王のことばを思い出す。
「……おまえは、正しかったんだろうな」
 私は蘇る、と魔王は言った。魔王軍七大魔将が一、レイノス・バーゼラルドはそれを実現しようとした。
 彼ほどではなくとも魔王の復活を望むものは数多存在するのだろう。魔王軍残党に共鳴したらしい都市の守備兵も見かけられたのがその証拠だ。
 アルトは魔王のことばを信じている。何度でも蘇る、と言ったからには今日のような出来事は幾度も繰り返されるのだろう――『世界に悪がある限り、破壊を、混沌をもたらさんとする意志がある限り』。
「……付き合ってやるよ。おまえの視た未来に」
 どうせ先は永いのだ。人間としては長すぎるほどに、永いのだ。
 レイノスのような手合を殺すことに迷いはない。アルトは人々の命を救うためではなく、ただ敵を殺すために殺したのだ。人助けはそのついでに過ぎない。どれほど恐れられようと、その残虐さをそしられようと、彼女の持つ力のために魔王を蘇らせようとする連中は一人残らず殺し尽くすつもりだった。
 そしていつか、魔王の視た未来が成就するとしたら。
 彼女がこの地に蘇る未来が必ず来るとしたら――

 俺がおまえを蘇らせよう。
 そしておまえの名を聞こう。
 
 それこそは彼女がかつて視た、未だ果たされぬ未来。
 アルトはただ、信じている。
 彼女が視た未来は絶対なのだから。


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