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標識上のユートピア

玉子炒め

十一話

「岸本、屋上行かないか」
 作業が一通り終わったのを見計らい、声をかける。
「別によいが……なんなのだ?」
「ちょっと話があってさ」 
 岸本の画材を片付けるのを手伝いながら、さりげなく言う。
猜疑心こそあれど、彼に対する羨望と怒りは潮が引くように失せていた。
二人で屋上へと向かう。 
「岸本、大丈夫か?」
 先に屋上目前の踊り場までたどり着いたおれは、ゆっくりと階段を上る岸本に声をかける。片目が塞がっているせいだろう。手すりを掴もうにも、両手がぶくぶくで掴みようがない。
岸本を介助してやり、屋上のすぐ前まで連れてった。
外に繋がるドアを開ける。
夜特有の冷気が、顔に刺さる。日は暮れ、半壊のフェンスだけが月の光に照らされていた。
「寒いのう」
 岸本はがちがちと歯を震わせていた。
「用件は手短に頼むぞ、柿市よ」 
 要望に応じ、おれは一言だけ、静かに口にする。
「なぜ、怒らない?」 
「なぜ?」
 岸本はきょとんとしていた。左目の動きと口元だけで、おおよその表情が分かるのだ。
「昨日のことだよ」
 おれは、語気を鋭くする。
「昨日……? ああ」 
 岸本はようやく合点がいったようにうなずいた。
そして、どういうわけか笑いだした。
全く意図が分からない。
しばらくして、ようやく岸本は笑いを収めた。
「なんだお主、そんなことを気にしておったのか」 
「そんなこと?」
「昨日のことなら、これっぽっちも気にしておらぬぞ。ナイフを持った不審者が来たら、誰だって、一人でも逃げるに決まっておる。身どもとて例外ではない」
「…………」
 昨日の岸本を思い出す。彼は、最後までおれを引っ張っていこうと必死だった。  
「身どもとて例外ではない」? 自分だって逃げた、などという言葉は嘘だ。
あいつは一人で逃げなかった。少なくとも、おれとは違って。
その記憶に辿り着いた時、おれは気付いてしまった。
相手を気遣い、相手を馬鹿だと思い、相手に哀れみすら抱いていたのは……。 

おれではなく、岸本の方だったのだ。
 
今までおれは岸本に敗北感を感じていたが、それも違ったのだ。
本当はもう、とっくに全てにおいて敗北していたのだ。
目の前が暗くなっていく。それでも、声を振り絞る。
「指名手配ポスターの情報提供人は、お前か?」 
「そうだ」 
 岸本はあっさりと認めた。
「凛奈は? 凛奈には言ったのか?」 
岸本は左眉をしかめる。
「言うわけないだろう」  
「嘘だね。嘘だ、嘘だ嘘だ」 
 ぶちぶちと何かが引きちぎれる音がした。自分で自分の髪を引っ張っていた。
「言ったじゃないか。おれはそんなことしない。君を恨んでなんかいないと」 
 岸本の口調が、変わった。いや、元に戻ったと言うべきか。偉ぶった口調は鳴りを潜め、ごくごく普通の話し方になっていた。
余裕がなくなったということか?
「じゃあなんで指名手配ポスターの情報提供人になっているんだ?」
「だって、そうしないとまた被害者が出るかもしれないだろ? 情報は少しでも多い方がいい」 
 岸本への怒りが、熱のようにぶり返した。 
ふざけるな。いつまでお前はそうやっていい子ぶってるんだ。  
「嘘をつくなよ。はっきり言え、おれを恨んでる、見下してると」 
「なんでそんなことを言うんだ」 
 醜悪な生物は取り乱したように叫んだ。
気付くとその胸ぐらを掴み、フェンスに押し付けていた。
「善人ぶるな。おれを見下すな」
 息が苦しくなり、頭に空気が回らない。
「違う。おれは、おれは善人ぶってなんかいない」  
 胸ぐらを掴まれ、醜悪な生物は苦しそうだった。包帯がずれ、隙間から右目が覗く。左目のすぐそばから始まった創傷は、右の眼球にまで及んでいた。
苦痛で曲がった口から、掠れ声が漏れる。こちらを見据えた目から涙がこぼれた。 
「おれは、おれは……ただ、自分の信念に基づいて行動しただけだ……」
「うるさい、おれを恨んでるくせに。見下してるくせに」 
「許しに、勝るものはない……そう思ったんだ……」
 その一言で、おれは、醜悪な生物を――岸本を、解放した。
突き放された衝撃で岸本はふらつき、後ろにつんのめった。
 
 
 
 
 
鈍い、衝撃音。
 
 
 
 
 
絶望的なまでに、現実感がなかった。
「……きしもと?」 
 呼び掛けてみる。返事はない。
半壊のフェンスは更に大きく破れ、重砲を撃ち込まれたかのような風穴が空いている。
すぐそばにいって、地上を見下ろす。
岸本が仰向けに横たわっているのが見えた。僅かに動いた気もするが、よく見ていないので定かではない。
おれは岸本から目を背けた。動悸が止まらない。
いや、こうしていてもしょうがない。
下に見に行こう。歩こうとするが、視界はめまぐるしく回り、全身がふらついた。足が痙攣しているらしかった。
長い時間をかけて、校庭まで辿り着く。
岸本の首はあらぬ方向に折れ曲がり、口から出た血が包帯を侵食していた。
額には手が置かれ、目はカッと見開かれている。
既に事切れていた。
それが分かったとき、まず考えたのは自己の保身、つまり遺体の処理だった。
学校に蛙が住む池、ビオトープがあったのを思い出す。長時間は隠しきれないが、時間稼ぎくらいにはなるだろう。
岸本の遺体を引き摺る。が、重い。岸本は小柄なのに、死体はこんなにも重いのか。早くしないと、誰かに見付かってしまう。
なんとか重量を減らせないものか。その時、岸本が履いていたブーツが目に入った。脱がせてみると、思いの外重い。靴の中には傾斜がついており、ヒールもついている。歩き方が竹馬みたいになるのも納得だった。池に落としたときに脱げてしまう恐れもある。
ブーツは下駄箱に詰め、岸本をビオトープまで連れていく。側に落ちていた大きめの石と縄跳びを拾う。縄跳びを使い、岸本に石をくくりつけた。
石つきの遺体を、死力を尽くしてビオトープに放り込む。一生分の体力を使った気がした。
額に浮かんだ汗を拭い、前を見る。
咄嗟のことだった。
木々を挟んで、誰かが横切る。
その一瞬だけで、それが誰だかを悟る。今度こそ世界が真っ暗になった。
 
 
 
 
赤いパーカーを着た…………。

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