標識上のユートピア

玉子炒め

六話

「…………」 
 沈黙を貫く。聞いたことがある気もするが、よく覚えていない。
「ここら辺をうろついているらしい。しかも、その声が怖いのだ」 
 岸本はキンキン声のトーンを下げる。下手っぴなおどろおどろしい声を作り上げているのは明白だった。
「『誰だ、誰だっ!』……ってな」
「へぇ」  
 興奮する岸本とは対照的に、おれはひどく冷めていた。
「で?」  
 聞き返すと、何故か岸本はしゅんとうなだれた。
「いや……それで……怖いなという話……」 
 岸本の言葉が尻すぼみに消えていく。都市伝説感覚で話したのだろうか。やっぱり馬鹿だ。
ペットボトルを放り捨て、岸本を促す。
「行くぞ」
「ポイ捨てはいかんと言っとるだろう」
 ぶつくさ言いながら、馬鹿な岸本はおれが捨てたペットボトルを拾い上げた。
 
 
 
 
 今日の作業は、割合いい塩梅で進んだ。
水彩画材でキャンバスを彩っていると、ポケットから着信音が洩れた。
携帯電話を取り出し、メールの差出人を確認する。凛奈だ。

『バイトお疲れ様!今日は行けなくてごめんね。今は学校で創作中かな?翼の学校は、今度作品の展示会をやるんだよね?私もその日を空けることができたよ。行きたいんだけれど、大丈夫かな?』 
 
 文章を辿りながら思わず微笑んでいた。展示会。当のおれが忘れていたのに、凛奈は覚えていてくれた。
嬉しい。嬉しい。 

『もしよければ来てくれ。今回は凛奈のために頑張るから、是非来てほしい。チケットも渡すから、絶対に来てくれ。今も頑張っているから、何があっても来てくれ。おれは芸術に興味はない、つまり凛奈のために頑張ってるんだから死んでも来いよ』 
 
 心ばかりの返事を送信し、再び作業にとりかかる。気分がよくなったせいか、サクサク進んだ。
また隣で岸本が手をぶらつかせている。目障りだった。あれだけ大口を叩いておきながら、彼の作品にはあまり変化がない。
「手が……手が、痺れるのだ」 
「甘ったれるんじゃねえよ」 
 おれは少しだけイラついた。 
岸本はうなだれた。なんでだかよく分からなかった。

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