forget-me-not
あなたにだけは、知っていてほしかったんです。
「……ここは、どこだろ」
まどろみから覚醒し、眠い目をこすりながら僕はゆっくりと体を起こした。
窓から差し込む日差しはポカポカと暖かく、ついまた眠ってしまいそうになる。
知らない部屋だった。
およそ7畳ほどの広々とした室内には大きな本棚が設えられており、分厚い洋書らしき本がぎっしり詰め込まれている。それでも入り切らなかった本は床の上に塔を作っていた。
特徴らしい特徴はそれだけ。
もっと細かく描写すれば、床はフローリングで埃が溜まっているとか、壁はクリーム色であるとか、そういうところもあるのだけど一番重要そうなのは、やはりあのたくさんある本だろうか。
試しに一冊読んでみたい気もするけれどなんとなく気が引けて、僕はじっと黙って寝台に腰掛けていた。
寝台のすぐそばに嵌めこまれた窓からは街らしき風景が見えていた。らしき、と付くのはそれがどこの国のものなのかさえよく分からなかったからだ。
青じゃない薄緑の空。
メタリックな色彩を持つ建物の群れ。
同じく金属で出来た道の上をロボット馬が引く機械の馬車が走っている。
くじらの形をした飛行船が悠々と空を飛び、ぶぅん、と微かな音が地上に届く。
ふと、昔見た映画を思い出した。異世界を舞台にしたもので、スチームパンク風の景色が描かれていたっけ。あれによく似ている。
少なくとも日本ではない。ましてや中国や韓国、アメリカなどという国でもない。地球ですらないだろう。
……どこだ、ここは。
いよいよ混乱してきたとき、ガチャっとドアが開いて小柄な人影が入ってきた。
「あ。なぁんだ、もう目が覚めたのね!良かったぁ、召喚の術式は成功ね」
ほっとしたように胸を撫で下ろす彼女が僕の運命を変えることになるなんて、このときはまだ予感すらしていなかった。
「改めて。私はレレスよ、よろしく。ちょっとした事情があって、あなたが必要だったの。ごめんなさいね、きちんとした説明もなくここまで連れて来てしまって」
胸元辺りまで伸ばした髪を紫と黄色のツートンカラーに染め、青と緑のオッドアイに、長白衣の下にシャツとジーンズを着た少女「レレス」は軽く頭を下げた。奇抜な格好からして見れば見るほど怪しく思えるけれど、今のところ頼れそうなのはこの女の子しかいない。
「いいけど。ちゃんとその『事情』とやらを説明してくれない?こっちもそれなりに忙しいんだしさ」
「もちろんよ、あなたの世界には必ず帰すわ。時間も大きなズレはないはずよ。ただ、少しだけでいいから私に付き合ってほしいの」
そうして語られたそれは、あまりにも信じ難いことだった。
レレスの住む世界は、僕がいる世界とはほんの少しだけ時間の流れが違う、いわば並行世界のようなものらしい。歴史を一つの樹形図に見立てた場合、隣あったもう一つの世界。
つまり、僕らの世界とは非常に近しいのだそう。
言われてみれば街並みは20世紀初頭のヨーロッパを模しているようにも見えなくない。他にもどことなく見覚えがあるような、ないような。
だが、これまでたくさんの世界が生まれては消えてきたように、この世界も崩壊の時を間も無く迎えるのだと言う。
僕らの世界の歴史でも、戦争や様々な理由で滅んでいく国はあった。それと同じだろうか。
「世界が消える理由、それは人々に必要とされなくなるから。存在意義をなくした世界はやがて消え去る。それが、あらゆる世界における理。
–––––だから、私たちの世界もなくなるのよ。それは避けられないことなの。けれど誰かに覚えてもらうことならできる。ゆえに、あなたを喚んだ」
たった一人の誰かに、この世界のことを覚えてもらうため。彼女はあらゆる手段を講じて僕を引き寄せたのだ。
「世界が消えることを防げないのか?他の世界の人間を召喚できる技術があるなら、できそうだけど」
「……いいえ。全ては大いなる理によって動いている。そこに、人の術の挟む余地はないわ。だって、私たちの世界を必要としなくなったのは、他ならぬあなたたちの世界の人々なのだもの」
樹形図の隣あった二つの世界は、途中まで互いに干渉し合いながら存在してきた。だが、あるとき一方が勝手に断絶し、一切の干渉をしなくなった。
そして二つの世界は孤立し–––––、ついに崩壊の時を迎えることになる。ただし片方の世界だけが。
「僕らの世界を恨まないの?だってこっちが勝手に関わるのをやめたから消えてしまうんでしょう?なら……」
「まさか。だってよくあることだもの。恨んでなんかいないわ。それに……、きっとあなたの世界もいずれはなくなる。そしたらイーブンじゃない?」
人間味の欠けたうつくしい顔立ちに、仄かな笑みが浮かぶ。初めて彼女は僕に笑顔を見せてくれたけれど、それはどこか不自然な微笑だった。
いずれ間も無く消える世界。
少女に召喚された僕は、ほんの少しだけ関わることになる。
美しくも儚く、優しいせかいに。
「っと、説明はここまで。じゃあさっさと出掛けましょうか!さあ着いてきて。きっとびっくりするわよ」
いたずらっ子のような表情で彼女は立ち上がり、僕の手を握り、ぐいっと引っ張った。
「あ、ちょっ……」
止める間も無くドアが開いて、外へ連れ出される。
「わぁ……」
思わず、感嘆の声がもれた。
「ねえ、素敵でしょう?私たちはずっとここで暮らしてきたの」
淡い緑に染まる空。どうやって作ったのか、ハートや星形の雲が浮かび、太陽の代わりに人工の巨大照明がいくつも宙を舞っていた。
鏡面仕上げの道は僕らの姿や街並みを反射しており、鏡写しの風景がたまらなく綺麗に見える。
見たところ、木や石は一切使われていない。全て金属で出来ている。
建物もそう。ゴシック調やロマネスク様式だったり年代はバラバラだが、外装は金属のみだ。内装は別のようだけど。
「驚くのはまだ早いわ、さあ案内するからおいで。もっとすごいものを見せてあげる」
レレスの住む家から五分ほど歩いたところにある小さな屋台に連れて行かれた。現実世界でいうスーパー的な役割を持つらしく、魚に肉に野菜に、何でも揃うのだとか。
「こんにちは、おじさま今日は良いの仕入れたかしら?」
「おお、レレスお嬢さんじゃないか。研究室から出てくるのは久々だなぁ、元気にしてたかい?っと、そうだなぁ……、今日は活きの良い木魚が入ったよ」
えっ、木魚?と僕が驚く前にそれの正体はすぐ分かった。おじさんがまな板に乗せたものはどう見ても鰹だったからだ。どうやらこちらでは違う名前らしい。
「うーん、魚じゃなくて肉が良かったのだけど……。今日は入ってないんでしょう?」
「すまねえなぁ、家畜の値段が上がっちまってるから、さすがに肉を仕入れるのはキツイんだわ」
「あら、それは残念ね。それじゃあ一人の時にまた来るわ」
「おうよ、またな」
おじさんと別れ、二人で進む。彼女はよほど僕に食べてもらいたかったものがあるらしく、少し落ち込んでいた。
「ごめんなさい、こちらに来たなら是非あれを食べてほしかったのだけど」
「……ちなみに、どんなものなの?」
恐る恐る尋ねると、彼女は満面の笑みでこう答えた。
「とってもいいものよ!ヘビの肉をゴマとハーブで燻したものなの。美味しいし、精がつくわ」
……仕入れられていなくて心底良かったと思った。
馬車に乗ってみましょうか、と提案され二人で乗り込むことにした。こちらではそれなりにポピュラーな乗り物で、移動手段としてはもっともよく使われているらしい。
ということはあれか、あのロボット馬が引いているやつか。それはちょっと、いや……ものすごく気になるような。
発着場まで向かうと、すでに多くの人々で賑わっていた。
外を歩いていて気付いたけれど、ここの世界の人々は日本や西洋、中華を混ぜこぜにした服を着ている。
例えばレレスはTシャツにジーンズとアメリカンだし、あちらの奥さんはルネサンス時代のドレスをまとい、そちらの紳士は山高帽にサテンのスーツを着こなしている。他にも浴衣やチャイナ服姿の人もちらほら。観察しているだけで何だか楽しい。
しばらく待っているとやがて、馬に鎧を着せたみたいな外見のロボット馬が走ってきた。ロボだからか通常の乗り合い馬車よりも車体が長く、バスくらいある。
「あっ、来た来た!あれに急いで乗り込まないと、間に合わないわ」
どうやら列を作るという文化はなく、早い者勝ちらしい。思いっきり腕を引っ張られ、ぎゅうぎゅうの車内に詰め込まれる羽目になった。
「ぐえっ……、ねぇ、どこに行くの?」
「ふふっ、この世界で一番、『異世界っぽい』ところよ!まあ、楽しみにしていなさいな」
そうして揺られることおよそ10分。
ようやくぎゅうぎゅうの車内から解放され、外の空気を思いっきり吸い込んだ。ああ、自由って素晴らしいな。
「もう、私たちにはこれが日常なんだからね。いちいちへばってたら生活なんて出来ないんだから」
「いや、僕のところでもそうだけど。こっちは電車っていうけれどね」
でもいつでもラッシュなわけじゃないしなぁ。そもそも、あんなに混んでいた記憶もない。
「それより、ほら!着いたわよ!あれが世界樹。この世界の中心よ」
彼女が自慢げに指を指した先には、天を衝くように大きく真っ白な塔が遥か高く聳えていた。そして枝葉を広げるようにいくつもの部屋が伸びている。
こんな奇怪な建物は見たことがない。だって渡り廊下などではない、部屋そのものが建物から突き出ているなんて!
すごい、どうやって造ったんだろう?あの構造でよく落っこちてこないなぁ。
「あそこが、私たちの世界の真ん中。法律も政治も経済も、全部あそこを中心にして回っているの。私の父も、かつてあそこに勤めていた……」
呟く彼女はどこか寂しそうで、不思議な色合いの瞳は悲しげに沈んでいた。
「もう、いなくなってしまったの。父は世界を守るため、樹形図の異なる別の世界に飛んだ。ここを必要としてくれる誰かを探すために。
–––––そして、私も同じよ。あなたをずっと探してた。絶対に忘れないでいてくれる人を」
不意に唇に柔らかい感触を覚え、思わず目を見開いた。
全身を包んでいた暖かな温もりが離れ、甘い香りが遠のく。
「……もう。ちょっと、その反応は無粋じゃないかしら?せっかく女の子がキスしてるっていうのに」
頬を膨らませ、レレスが舌を打つ。
「だって……忘れさせないためにキスしたんだろう?」
「ふふ、見抜かれちゃったか。仕方ないなぁ、あなたはもっとおバカさんだと思っていたわ」
くすくす笑い、彼女は肩を震わせる。
なんだか急に、彼女が別の人みたいに見えた。
「僕も、君がもっと理性的な人なんだと思っていたけど」
「あら、それはあなたの勘違いね。私はここまで、全て自分の感情に従って動いてきたから」
この世界で過ごしたことを忘れないように。そのためにキスまでしたのも。この時間を僕にとって特別なものにするためだったと。彼女は語る。
「お願い、どうか忘れないで。いずれ消えてしまうとしても。たとえこの世界の住民が納得済なのだとしても。あなただけはずっとずっと覚えていて。……そうしたら、確かにここで私たちは生きていたんだと、そう思えるから」
切なる願い。そのために彼女は僕を連れてきた。
緑の空はその色を更に深くしていく。萌黄色だったそれは今や、煤竹色とまでいうような暗さ。それこそが、この世界の夕焼けなんだろうか。
白かった世界樹が空と同じ緑に染まる。そうすると、なおさら樹のように見えてくるから不思議だ。
「ねぇ、レレスはどうして僕を選んだの。連れてくる人なんて誰でも良かったでしょう」
それだけがどうしても分からなかった。だって人誰でも良かったはずだ。それこそ完全記憶が出来る人とかなら、確実に覚えていられるだろう。
けれど彼女は綺麗に笑う。
そう、とてもきれいな笑顔だった。
先ほどまでの不自然さなど微塵もない、穏やかでありながら透明に澄んだ微笑み。ああ、なんて美しいんだろう。
彼女が美人だから?いいや、違う。そうではない、外見の問題ではない。
「終わる世界の果てに残るものなんてないから、謝礼なんて渡してあげられない。それでも確かに覚えていてくれる人を探していたの。私が『愛しい』と想えるような人を。……ずっと見ていた。あなただけを」
迷いのない真剣な瞳が、ただまぶしい。
「お願い、誰かに伝えて。あなたならそれが出来るでしょう?私は知っている。だから、この世界の行く末を託した……あなたに」
「知っていたの?現実世界での僕を」
緑色の黄昏の中、少女は淡く微笑する。
「もちろんよ、でなきゃこちらに召喚なんてしなかったわ」
レレスは言いつつ一冊の本を手渡した。パラパラとページをめくってみても、書かれている内容はさっぱり分からない。こちらの世界の言語で書かれているためだ。
「なんだこりゃ、全然読めないぞ」
「ふふっ……。それはね、ちょっとした魔法がかけてあるの。この世界が消えた時、その文章はあなたの母国語に置き換わる仕掛けになっている。楽しみに待っていてね」
「な、楽しみにできるか!何を言っているんだ⁉︎」
だが、もはやレレスは全ての言葉を拒絶するように笑っている。
つややかな唇がそっと動き、何かを伝えてようとする。けれど、時間切れなのか音はだんだんと遠くなり、ついに無音となってしまう。
「レレス!ねぇ、レレスってば!何を伝えようとしたの?教えてよ!ねぇ……」
彼女の手を掴もうと必死になって近づくたびに、逆に遠ざかっていく。
ああ、もう、帰る時間なのか。
緑の世界が、ああもうあんなに遠い。視界が黒く飲み込まれていく。
最後にやっと気付く。
「ああ、『さよなら』って、言ったんだ……」
バカだな。そんなことを言ったら、本当にもう会えないじゃないか。
僕はまた、君に逢いたい。
そうして、帰る。
元の世界に、帰ってきてしまう。
まだ、まだ見たいものがたくさんあったのに。
––––––––––また、ある世界。
とある一人の作家が文壇デビューを華々しく飾る。まだ若く、学生でもある彼の登場はちょっとしたニュースになった。
そして、満を持して出版された彼の本のタイトルは、「forget me not」
お堅い文学賞を獲ったとは思えないほどファンタジックな内容に、本読み達は首を捻る。
しかし、デビュー後の会見で彼は言う。
「これはファンタジーではありません。かつてどこかにあった世界を描いたものです。これは真実なのです」–––––と。
今も、その読めないままの本はここにある。解読するにはずいぶん時間がかかったけれど、同じ文字はこちらの世界でも使われていた。だから、読むことはできた。だけど君の心を表現するにはまだまだ筆力が足りなくて、たくさん待たせてしまうことになったね。
そのことについては謝るよ。けれどきっと素敵な内容になったはずだ。時間がかかった分、推敲を重ねたのだから。
一番に読んでほしい君には、もう会えないけれど。
せめて、僕が生きている間はこの本が読めないままであることを祈るよ。
じゃあ、また。
しがない作家Aより。
まどろみから覚醒し、眠い目をこすりながら僕はゆっくりと体を起こした。
窓から差し込む日差しはポカポカと暖かく、ついまた眠ってしまいそうになる。
知らない部屋だった。
およそ7畳ほどの広々とした室内には大きな本棚が設えられており、分厚い洋書らしき本がぎっしり詰め込まれている。それでも入り切らなかった本は床の上に塔を作っていた。
特徴らしい特徴はそれだけ。
もっと細かく描写すれば、床はフローリングで埃が溜まっているとか、壁はクリーム色であるとか、そういうところもあるのだけど一番重要そうなのは、やはりあのたくさんある本だろうか。
試しに一冊読んでみたい気もするけれどなんとなく気が引けて、僕はじっと黙って寝台に腰掛けていた。
寝台のすぐそばに嵌めこまれた窓からは街らしき風景が見えていた。らしき、と付くのはそれがどこの国のものなのかさえよく分からなかったからだ。
青じゃない薄緑の空。
メタリックな色彩を持つ建物の群れ。
同じく金属で出来た道の上をロボット馬が引く機械の馬車が走っている。
くじらの形をした飛行船が悠々と空を飛び、ぶぅん、と微かな音が地上に届く。
ふと、昔見た映画を思い出した。異世界を舞台にしたもので、スチームパンク風の景色が描かれていたっけ。あれによく似ている。
少なくとも日本ではない。ましてや中国や韓国、アメリカなどという国でもない。地球ですらないだろう。
……どこだ、ここは。
いよいよ混乱してきたとき、ガチャっとドアが開いて小柄な人影が入ってきた。
「あ。なぁんだ、もう目が覚めたのね!良かったぁ、召喚の術式は成功ね」
ほっとしたように胸を撫で下ろす彼女が僕の運命を変えることになるなんて、このときはまだ予感すらしていなかった。
「改めて。私はレレスよ、よろしく。ちょっとした事情があって、あなたが必要だったの。ごめんなさいね、きちんとした説明もなくここまで連れて来てしまって」
胸元辺りまで伸ばした髪を紫と黄色のツートンカラーに染め、青と緑のオッドアイに、長白衣の下にシャツとジーンズを着た少女「レレス」は軽く頭を下げた。奇抜な格好からして見れば見るほど怪しく思えるけれど、今のところ頼れそうなのはこの女の子しかいない。
「いいけど。ちゃんとその『事情』とやらを説明してくれない?こっちもそれなりに忙しいんだしさ」
「もちろんよ、あなたの世界には必ず帰すわ。時間も大きなズレはないはずよ。ただ、少しだけでいいから私に付き合ってほしいの」
そうして語られたそれは、あまりにも信じ難いことだった。
レレスの住む世界は、僕がいる世界とはほんの少しだけ時間の流れが違う、いわば並行世界のようなものらしい。歴史を一つの樹形図に見立てた場合、隣あったもう一つの世界。
つまり、僕らの世界とは非常に近しいのだそう。
言われてみれば街並みは20世紀初頭のヨーロッパを模しているようにも見えなくない。他にもどことなく見覚えがあるような、ないような。
だが、これまでたくさんの世界が生まれては消えてきたように、この世界も崩壊の時を間も無く迎えるのだと言う。
僕らの世界の歴史でも、戦争や様々な理由で滅んでいく国はあった。それと同じだろうか。
「世界が消える理由、それは人々に必要とされなくなるから。存在意義をなくした世界はやがて消え去る。それが、あらゆる世界における理。
–––––だから、私たちの世界もなくなるのよ。それは避けられないことなの。けれど誰かに覚えてもらうことならできる。ゆえに、あなたを喚んだ」
たった一人の誰かに、この世界のことを覚えてもらうため。彼女はあらゆる手段を講じて僕を引き寄せたのだ。
「世界が消えることを防げないのか?他の世界の人間を召喚できる技術があるなら、できそうだけど」
「……いいえ。全ては大いなる理によって動いている。そこに、人の術の挟む余地はないわ。だって、私たちの世界を必要としなくなったのは、他ならぬあなたたちの世界の人々なのだもの」
樹形図の隣あった二つの世界は、途中まで互いに干渉し合いながら存在してきた。だが、あるとき一方が勝手に断絶し、一切の干渉をしなくなった。
そして二つの世界は孤立し–––––、ついに崩壊の時を迎えることになる。ただし片方の世界だけが。
「僕らの世界を恨まないの?だってこっちが勝手に関わるのをやめたから消えてしまうんでしょう?なら……」
「まさか。だってよくあることだもの。恨んでなんかいないわ。それに……、きっとあなたの世界もいずれはなくなる。そしたらイーブンじゃない?」
人間味の欠けたうつくしい顔立ちに、仄かな笑みが浮かぶ。初めて彼女は僕に笑顔を見せてくれたけれど、それはどこか不自然な微笑だった。
いずれ間も無く消える世界。
少女に召喚された僕は、ほんの少しだけ関わることになる。
美しくも儚く、優しいせかいに。
「っと、説明はここまで。じゃあさっさと出掛けましょうか!さあ着いてきて。きっとびっくりするわよ」
いたずらっ子のような表情で彼女は立ち上がり、僕の手を握り、ぐいっと引っ張った。
「あ、ちょっ……」
止める間も無くドアが開いて、外へ連れ出される。
「わぁ……」
思わず、感嘆の声がもれた。
「ねえ、素敵でしょう?私たちはずっとここで暮らしてきたの」
淡い緑に染まる空。どうやって作ったのか、ハートや星形の雲が浮かび、太陽の代わりに人工の巨大照明がいくつも宙を舞っていた。
鏡面仕上げの道は僕らの姿や街並みを反射しており、鏡写しの風景がたまらなく綺麗に見える。
見たところ、木や石は一切使われていない。全て金属で出来ている。
建物もそう。ゴシック調やロマネスク様式だったり年代はバラバラだが、外装は金属のみだ。内装は別のようだけど。
「驚くのはまだ早いわ、さあ案内するからおいで。もっとすごいものを見せてあげる」
レレスの住む家から五分ほど歩いたところにある小さな屋台に連れて行かれた。現実世界でいうスーパー的な役割を持つらしく、魚に肉に野菜に、何でも揃うのだとか。
「こんにちは、おじさま今日は良いの仕入れたかしら?」
「おお、レレスお嬢さんじゃないか。研究室から出てくるのは久々だなぁ、元気にしてたかい?っと、そうだなぁ……、今日は活きの良い木魚が入ったよ」
えっ、木魚?と僕が驚く前にそれの正体はすぐ分かった。おじさんがまな板に乗せたものはどう見ても鰹だったからだ。どうやらこちらでは違う名前らしい。
「うーん、魚じゃなくて肉が良かったのだけど……。今日は入ってないんでしょう?」
「すまねえなぁ、家畜の値段が上がっちまってるから、さすがに肉を仕入れるのはキツイんだわ」
「あら、それは残念ね。それじゃあ一人の時にまた来るわ」
「おうよ、またな」
おじさんと別れ、二人で進む。彼女はよほど僕に食べてもらいたかったものがあるらしく、少し落ち込んでいた。
「ごめんなさい、こちらに来たなら是非あれを食べてほしかったのだけど」
「……ちなみに、どんなものなの?」
恐る恐る尋ねると、彼女は満面の笑みでこう答えた。
「とってもいいものよ!ヘビの肉をゴマとハーブで燻したものなの。美味しいし、精がつくわ」
……仕入れられていなくて心底良かったと思った。
馬車に乗ってみましょうか、と提案され二人で乗り込むことにした。こちらではそれなりにポピュラーな乗り物で、移動手段としてはもっともよく使われているらしい。
ということはあれか、あのロボット馬が引いているやつか。それはちょっと、いや……ものすごく気になるような。
発着場まで向かうと、すでに多くの人々で賑わっていた。
外を歩いていて気付いたけれど、ここの世界の人々は日本や西洋、中華を混ぜこぜにした服を着ている。
例えばレレスはTシャツにジーンズとアメリカンだし、あちらの奥さんはルネサンス時代のドレスをまとい、そちらの紳士は山高帽にサテンのスーツを着こなしている。他にも浴衣やチャイナ服姿の人もちらほら。観察しているだけで何だか楽しい。
しばらく待っているとやがて、馬に鎧を着せたみたいな外見のロボット馬が走ってきた。ロボだからか通常の乗り合い馬車よりも車体が長く、バスくらいある。
「あっ、来た来た!あれに急いで乗り込まないと、間に合わないわ」
どうやら列を作るという文化はなく、早い者勝ちらしい。思いっきり腕を引っ張られ、ぎゅうぎゅうの車内に詰め込まれる羽目になった。
「ぐえっ……、ねぇ、どこに行くの?」
「ふふっ、この世界で一番、『異世界っぽい』ところよ!まあ、楽しみにしていなさいな」
そうして揺られることおよそ10分。
ようやくぎゅうぎゅうの車内から解放され、外の空気を思いっきり吸い込んだ。ああ、自由って素晴らしいな。
「もう、私たちにはこれが日常なんだからね。いちいちへばってたら生活なんて出来ないんだから」
「いや、僕のところでもそうだけど。こっちは電車っていうけれどね」
でもいつでもラッシュなわけじゃないしなぁ。そもそも、あんなに混んでいた記憶もない。
「それより、ほら!着いたわよ!あれが世界樹。この世界の中心よ」
彼女が自慢げに指を指した先には、天を衝くように大きく真っ白な塔が遥か高く聳えていた。そして枝葉を広げるようにいくつもの部屋が伸びている。
こんな奇怪な建物は見たことがない。だって渡り廊下などではない、部屋そのものが建物から突き出ているなんて!
すごい、どうやって造ったんだろう?あの構造でよく落っこちてこないなぁ。
「あそこが、私たちの世界の真ん中。法律も政治も経済も、全部あそこを中心にして回っているの。私の父も、かつてあそこに勤めていた……」
呟く彼女はどこか寂しそうで、不思議な色合いの瞳は悲しげに沈んでいた。
「もう、いなくなってしまったの。父は世界を守るため、樹形図の異なる別の世界に飛んだ。ここを必要としてくれる誰かを探すために。
–––––そして、私も同じよ。あなたをずっと探してた。絶対に忘れないでいてくれる人を」
不意に唇に柔らかい感触を覚え、思わず目を見開いた。
全身を包んでいた暖かな温もりが離れ、甘い香りが遠のく。
「……もう。ちょっと、その反応は無粋じゃないかしら?せっかく女の子がキスしてるっていうのに」
頬を膨らませ、レレスが舌を打つ。
「だって……忘れさせないためにキスしたんだろう?」
「ふふ、見抜かれちゃったか。仕方ないなぁ、あなたはもっとおバカさんだと思っていたわ」
くすくす笑い、彼女は肩を震わせる。
なんだか急に、彼女が別の人みたいに見えた。
「僕も、君がもっと理性的な人なんだと思っていたけど」
「あら、それはあなたの勘違いね。私はここまで、全て自分の感情に従って動いてきたから」
この世界で過ごしたことを忘れないように。そのためにキスまでしたのも。この時間を僕にとって特別なものにするためだったと。彼女は語る。
「お願い、どうか忘れないで。いずれ消えてしまうとしても。たとえこの世界の住民が納得済なのだとしても。あなただけはずっとずっと覚えていて。……そうしたら、確かにここで私たちは生きていたんだと、そう思えるから」
切なる願い。そのために彼女は僕を連れてきた。
緑の空はその色を更に深くしていく。萌黄色だったそれは今や、煤竹色とまでいうような暗さ。それこそが、この世界の夕焼けなんだろうか。
白かった世界樹が空と同じ緑に染まる。そうすると、なおさら樹のように見えてくるから不思議だ。
「ねぇ、レレスはどうして僕を選んだの。連れてくる人なんて誰でも良かったでしょう」
それだけがどうしても分からなかった。だって人誰でも良かったはずだ。それこそ完全記憶が出来る人とかなら、確実に覚えていられるだろう。
けれど彼女は綺麗に笑う。
そう、とてもきれいな笑顔だった。
先ほどまでの不自然さなど微塵もない、穏やかでありながら透明に澄んだ微笑み。ああ、なんて美しいんだろう。
彼女が美人だから?いいや、違う。そうではない、外見の問題ではない。
「終わる世界の果てに残るものなんてないから、謝礼なんて渡してあげられない。それでも確かに覚えていてくれる人を探していたの。私が『愛しい』と想えるような人を。……ずっと見ていた。あなただけを」
迷いのない真剣な瞳が、ただまぶしい。
「お願い、誰かに伝えて。あなたならそれが出来るでしょう?私は知っている。だから、この世界の行く末を託した……あなたに」
「知っていたの?現実世界での僕を」
緑色の黄昏の中、少女は淡く微笑する。
「もちろんよ、でなきゃこちらに召喚なんてしなかったわ」
レレスは言いつつ一冊の本を手渡した。パラパラとページをめくってみても、書かれている内容はさっぱり分からない。こちらの世界の言語で書かれているためだ。
「なんだこりゃ、全然読めないぞ」
「ふふっ……。それはね、ちょっとした魔法がかけてあるの。この世界が消えた時、その文章はあなたの母国語に置き換わる仕掛けになっている。楽しみに待っていてね」
「な、楽しみにできるか!何を言っているんだ⁉︎」
だが、もはやレレスは全ての言葉を拒絶するように笑っている。
つややかな唇がそっと動き、何かを伝えてようとする。けれど、時間切れなのか音はだんだんと遠くなり、ついに無音となってしまう。
「レレス!ねぇ、レレスってば!何を伝えようとしたの?教えてよ!ねぇ……」
彼女の手を掴もうと必死になって近づくたびに、逆に遠ざかっていく。
ああ、もう、帰る時間なのか。
緑の世界が、ああもうあんなに遠い。視界が黒く飲み込まれていく。
最後にやっと気付く。
「ああ、『さよなら』って、言ったんだ……」
バカだな。そんなことを言ったら、本当にもう会えないじゃないか。
僕はまた、君に逢いたい。
そうして、帰る。
元の世界に、帰ってきてしまう。
まだ、まだ見たいものがたくさんあったのに。
––––––––––また、ある世界。
とある一人の作家が文壇デビューを華々しく飾る。まだ若く、学生でもある彼の登場はちょっとしたニュースになった。
そして、満を持して出版された彼の本のタイトルは、「forget me not」
お堅い文学賞を獲ったとは思えないほどファンタジックな内容に、本読み達は首を捻る。
しかし、デビュー後の会見で彼は言う。
「これはファンタジーではありません。かつてどこかにあった世界を描いたものです。これは真実なのです」–––––と。
今も、その読めないままの本はここにある。解読するにはずいぶん時間がかかったけれど、同じ文字はこちらの世界でも使われていた。だから、読むことはできた。だけど君の心を表現するにはまだまだ筆力が足りなくて、たくさん待たせてしまうことになったね。
そのことについては謝るよ。けれどきっと素敵な内容になったはずだ。時間がかかった分、推敲を重ねたのだから。
一番に読んでほしい君には、もう会えないけれど。
せめて、僕が生きている間はこの本が読めないままであることを祈るよ。
じゃあ、また。
しがない作家Aより。
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