ごみばこ

ノベルバユーザー91028

無題(未完)

–––––いつだって、理由も動機もない冒険がしたいと叫んでいる。



サーモンピンクに染まる夕景をバックに疲れた様子の男が踵を引きずるようにして歩いていた。
セットの崩れたボサボサ頭にくたびれたスーツ、肩にかけているバッグは安物で、履き古した革靴はあちこち細かい傷がつき光沢を失っている。落窪んだ眼に生気はなく、口元にはうっすらと無精髭が生えていた。
幽鬼の如きたたずまいの男は虚ろな目でスマートフォンを操作し、溜まった未読メールをさっさと処理すると覚束無い足取りでコンビニへ向かう。安い缶チューハイとつまみを幾つか購入し、背広のポケットからくしゃくしゃによれた煙草マルボロを取り出す。ニコチンやタールに混じって香るメンソールを思い切り吸い込み、吐き出した。
「……いつまで、こんな日々が続くんだろう」
時刻は午後六時を少し回ったところ。まだ陽が昇っている時間に帰路に着くのは多分二ヶ月ぶりのこと。
ネットの評判ではFラン認定されている私立の大学をギリギリの単位数で卒業し、給料が良いからと適当に決めたIT会社に就職してもう約三年が経過している。
その間、果たして休日は何回あっただろう。そのうち出勤しなくて済んだのは何日だ?
職場に泊まり込むことなく自宅へ戻れたのは、
ちゃんと残業手当が支払われた回数は、
上司から罵倒もされず暴力も受けなかったのは、
それから、
それから。


「……つかれたなぁ」
それは余すことのない本音だった。
初めの頃に感じた、死にたいとか辞めたいという気持ちはすっかりどこかに隠れてしまった。拭っても落ちない慢性的な疲労がこの身と心を蝕む。
機械のように無心で仕事をし、希薄になっていく心のままスケジュール通りに生活して、いつの間にか主体的に物事を考えられなくなっていく。
西の空から広がる茜色と東の空で漂い続ける群青が溶けて混ざり合い、見事なグラデーションを作り上げている。
純粋に、美しいと感じた。
今まで気にも留めていなかっただけで、本当の世界はこんなにも色鮮やかなものだったと知る。
その紅と碧の組み合わせが、少しだけ目に痛かった。



彼の自宅は、職場の近所にある安く小さなアパートの1階角部屋にある。6畳程のリビング兼寝室と備え付けの台所にトイレとシャワールームといういかにも独身者向けの造りだ。壁は薄く隣室の物音などハッキリ聞こえてしまい、実際騒音による近所トラブルも時々起こるらしい。
そんな安普請でも彼にとっては唯一心の休まる空間だ。男の独り暮らしにしてはなかなか小綺麗な方だと自負している。
……が。
「なんだこれ……貼り紙? 」
焦げ茶色のドアには、A4のコピー紙におなじみの明朝体で退去勧告がベッタリと貼り付けられていた。
「–––––今月末まで? ……は、嘘だろう?そんな、馬鹿な……」
大家がこのアパートが建っている土地を売り払うらしいという噂は前に流れていた。しかし仕事で忙しい彼はあまりそれに気を回す余裕はなく放ったらかしにしていたのだが、結局本当にこの建物はなくなってしまうようだ。
そのことを今更になって実感し、途方に暮れる。
「どうすりゃいいんだ……これから家を見つけるったって、休みなんか……」
家探しなんてしている暇なんてどこにもない。引越しのための準備などできるはずもなかった。明るい内に帰ってこれただけでも奇跡のようなことなのに。
「次の、休みは……?」
早くて来月の頭。遅ければ中頃になる。その頃にはこのアパートは取り壊し工事が始まっているだろう。
冷たいコンクリートの床にゆっくりと膝を落とし、彼は瞳孔の開ききった眼で虚空を見つめた。


居場所。
おそらく、生きていく上で一番大事なもの。誰だって求めて足掻いているだろう。
たとえば家族に、
たとえば趣味に、
たとえば職場に、
たとえば自宅に。
自分は此処に居てもいいのだと思える唯一の場所。
–––––そして、たった今彼はそれを失った。


しんしんと雪の積もるように、絶望が舞い落ちては心を冷たく覆い尽くしていく。深い、あまりにも深い絶望が、視界に入り込む景色さえ途方もなく鮮やかに映す。
高い高いビルの屋上。背の低い柵に腰掛けて、彼はぼんやりと眼下の風景を見下ろしていた。摩天楼から望む夜景は、星空を逆さまにしたかの如く輝いていて見蕩れてしまうほど。
綺麗だった。己の境遇とは裏腹に、世界はこんなにも美しい。中天にかかる月は地上の生き物など知らんぷりで甘やかな光を振り撒いている。
月光のシャワーを浴びながら、彼はやわらかにほほえんだ。目尻をそっと温かい液体が流れおちていくのも知らんふり。
そして、無理やりに作った笑顔のまま、
「サヨナラ、クソッタレの現実世界」
重力に惹かれて地上へと。両手を開いて大地に飛び込む。まるで、愛しい人の懐へ抱かれようとするかのように–––––。



–––––ハンドルネーム〈こうじ〉のtweetより一部抜粋


幼い頃、俺はある異世界に居たことがある。 そこでの体験したことや出会った人々について語るうち、いつしか虚言癖の酷い奴と周囲に引かれますます孤独を深めた。
大人になった今も。アレは本当に妄想でしかなかったのか、答えを出せないでいる。だって、単なる夢想と言い切るにはあまりにも具体的かつ色鮮やかだったからだ。あの異世界は–––––。



「……あれ?」
目を覚ますと、視界に見知らぬ景色が広がっていた。
水色を少し緑がからせたような不思議な色味の空に、新種と思しき見たこともない樹木の並ぶ森。そこかしこを這う虫や小動物も自分が見知っているものとは微妙に見た目が違う。たとえば色やフォルムなどだ。
「なんだここ……俺は死んだんじゃなかったのか」
今更になって目覚める前の状況を思い返す。高いビル、屋上、月、夜空、そして物凄い早さで迫る地面–––––。
そうだ、あの時確かに自分は死んだはずだった。あんなに高いところから落ちた。まさか生きているわけが、
「どう? あなたがずっと夢に見続けてきた“ホンモノ”の異世界は」
高速で思考を巡らす男の耳元で甘ったるい響きの女の声がした。はっと振り返ると幼い容貌に不釣り合いな大人びた笑みを浮かべた少女が佇んでいる。
無造作に垂らした黒絹の如き長い髪、街灯を思わせる橙色の大きな瞳、折れそうな程細く華奢な肢体を包むノースリーブのワンピース。
まだランドセルを背負っていてもおかしくないような年頃の少女が、なまめかしさを孕んだ声音で語る。
「あなたは確かに、一度死線に立った。その魂は、本来行くべきところの前にあった。それを私が見つけて攫った。何のためかって? ……それはあなたが“哀れ”だったから」
細められた悲しげな少女の目が、この言葉に嘘はないと告げていた。つまり本気で憐れんでいるのだ。
「俺は、死んだんじゃなかったのか。ここは、どこなんだ?」
「あなたの“夢の中”だよ。……いつかは、現実に還る」
間髪いれずに答えた少女は人差し指をある方向へ向けた。その先には森の出口が小さく見えている。
「まずは町に出てごらん。きっとあなたを迎えてくれるよ」
「……まち? 町が、あるのか」
彼女の唇がそっと持ち上がり薄く笑みを刻んだ。何を当たり前のことを、と言いたげに。
「あなたがそう“設定”したんでしょ? だから、ここにはあなたにとって優しいものしか存在しない。……他ならぬ、私もね」


さほど広くもない森を小一時間ほど歩くとすぐに小さな集落が見えてきた。漆喰の壁に赤い屋根の家が並んだ田舎町だ。黄金色に輝く麦畑とのんびり牧草を食む牛馬の群れが牧歌的な雰囲気を生み出している。
スーツ姿で歩くサラリーマンがめずらしいのか、村人たちは遠巻きにこちらを眺めている。目線が会う度に会釈をしつつ、少女の言葉について考えていた。
(あれは、どういう意味だったんだろう。ここは、俺の夢の中だとでもいうんだろうか)
だが、確かに感じるこのリアリティは何なのだろうか。そう、まるでもう一つの現実であるかのような。匂いも音もある。きっと味も。
自分が死線をさまよったというのは本当のことなのか。今ここにいる自分は何なのか。生きているとするなら、何故身体は無傷なのか。
けれど疑問に答えてくれる便利なものはどこにもない。あの少女が再び姿を現す可能性さえ。
ただ、歩くしかなかった。見知らぬ町の中をひたすら進み、やがて見つけたあばら家にこっそり忍び込んで夜を明かした。
–––––独りだった。
助けてくれるものは何もない。ましてや仲間も家族も、友達も恋人も。
だがそこではたと気付く。そんなもの、始めから持っていなかったじゃないか、と。


彼に家族はいない。物心ついたとき既に施設で生活していた。周りにいる同世代の子どもたちは、新しい家族が見つかったり本来の家族に引き取られたりして次々と顔ぶれが変わり、結局成人するまでいたのは彼1人だけ。臆病で気弱で人見知りな性格のせいで友達も上手く作れず、施設でも学校でも職場でも孤独だった。
1人はさみしかった。独りは嫌だった。だから空想の友だちを作った。辛い現実を忘れたくて、夢の世界に逃げた。だけど彼の語る「夢」は誰にも受け入れてもらえなかった。そんなものは「くだらない」と。–––––彼はますます、孤独になった。
(ああ、そうか。夢の世界って、そういうことだったのか……)
やっと彼は思い出す。自分で生み出した「世界」のことを。


彼には、絵の才能も文章を練る力もない。あるのはただの空想ゆめだけ。形にならないままの夢はそのうち眠らされ、やがて仕事に忙殺される日々の中で忘れ去られた。けれども、それはある日突然「ホンモノ」となる。
–––––彼はとうとう、夢見た異世界へとやってきた。

          

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