美しいガラス

塩田

坂の前

「ふざけんなお前気持ち悪いんだよ!陰気くせーしなんなんだよ!」
「ただでさえ暑い今年の夏がもっとジメジメしくなるから死んでくださらない?」

クスクス笑う声が耳障りで、聞こえないふりをする。涼しい顔をする。縁の薄い眼鏡越しに映る文字はとても綺麗で、下品な人間達が使う言葉より、ずっと生きていて、美しい女の人を見ているようだった。
恍惚とした目で見てしまう。興奮してしまう。そのまるでその場にいるかのような文章に次を目で急ぎ追ってしまう。
きちんと読まなければいけないのはわかっている。
だが面白い、もっと先をという好奇心に負けて先を見る。
なんて面白い、物を考える自分が喜ぶのがわかった。心が踊るのがわかった。何をするよりも楽しかった。息をするより、飯を腹いっぱい食うより、どんなに美しい女優を見るより。先に述べたように、本を読んでいるあいだは興奮が冷めやらないのだ。

ガタ、と椅子から立ち上がり本をリュックに入れる。
「きも」「うわ高槻が立ったよみんな死ぬぞ」
立つだけて気持ち悪いなんて脳みそどうにかしていると思うぞ、俺は。
だいたい午前授業だと言うのに何時までたむろしているんだよ、林窓先生の挨拶聞いていなかったのか。
今日もいつもの喫茶店を目指す。もう80を過ぎた店主は不定期に店を休むのでいつやっているかなんて分からないが、大概はいつも空いている。
高校の前の坂を自転車で滑り降りて、真ん中辺に来るとスピードを緩めて喫茶店の前で止まる。張り紙?

『 本日ハ店主病院ノ為急遽鍵ヲ閉メマス。高槻君ニハ申シ訳ナイ』

爺さんそういうのは前もって伝えて頂きたい。書生の尾道さんはどうしたんだよ。くそ。
こうなっては時間を潰す場所がないので仕方なく家に帰ろうと思いもう一度ペダルにローファーを引っ掛け漕ぎ出す。ちょうど坂を降り終わると、毎日この道を通っているはずなのに見たことの無い古い喫茶店を見つけた。なんとなく魅力を感じた俺は、向かいの空き地に自転車を止めて喫茶店へ入る。

「いらっしゃいませ」

カランカランと心地いい鐘の音が鳴り響くと、カウンターから低く響く店主らしき男の声が聞こえる。
「当店は初めてでございますね。まだ席がお決まりでないのであればあちらの席を。海を一望できますし今日なんかは潮風とカモメの鳴き声が良い読書のお供になられるのでは。」
そう言ってしわしわの優しそうな青白い手が誘導する先には一人席が2つ、窓際に設置してあった。シックな色合いのテーブルと椅子には何時か校外学習で見た明治時代初期の建築を思わせた。
否、テーブルと椅子だけではない。この建物自体、全てが明治時代初期のものに似ている。
マスターに珈琲を頼んで席へと行くと、もうひとつの席には黒髪の少女が座っていた。よく見ると黒いセーラー服を着ていたので学生のようだ。
俺に気づいて振り向いた彼女は、文字通り美しい少女であった。
「あら、貴方初めてこちらにおいでになりました?」
丁寧な言葉遣いに少し戸惑ってしまった俺は、う、あと変な声を漏らしながら
「そうです、貴女は常連さんですか?慣れているように見えますが」
すると少女は少しだけ涼しげに
「ええ、そんなところでしょうか、ふふ」
と柔らかな笑みを零した。さぞ美しかったので、俺の顔は赤く牡丹のように染まっていたであろう。恥ずかしい。
彼女は香りのいい西洋の紅茶とシベリアを食べていた。
窓から遊ぶように滑り通っていく潮風に吹かれながら、ひとつに束ねられたその美しい黒髪を流して。
「貴方、その制服はもしかして坂の上の共学の學校のものかしら?」
「ああ、坂の上って、あの阿呆みたいにでかい学校のことですか。そうですよ、あそこは馬鹿ばかりだ」
「まぁ!私幼い頃から女学院で育ってきましたので貴方様が凄く羨ましく思います。馬鹿だなんて、學校には勉学を習いに行くのに馬鹿でなくてどうするのですか!」
彼女は頬を膨らませて聞いてきた。
きっと俺の言っている馬鹿とこの子の思っている馬鹿は違う気がする。
「ああ、そういう意味じゃなくてだな。勉強は出来てもそれ以外がまっぴらダメだ。小学生でもできること、言えること、守れること全部出来やしない」
ず、といつの間にか運ばれてきた良い香りのする珈琲をすする。
あ、うまい。
「そうなのですね…。私のところにもおりますわ、そのような方が。人間を貶して傷付けるような言動しかできないようでねんぐ」
突然変な声が聞こえたと思ったら、カウンターにいたはずのマスターが少女の口をナプキンで軽く塞いでいた。
「硝子、話はそれぐらいにしてお母様のところへお戻り。そろそろ時間だ」
「ぷは、まぁお爺様、もうそんな時間でした?そろそろ参らなくっちゃ。晶さん、また明日お会い致しましょう。同じ時間、この場所で。お待ちしておりますわ。それでは」
スカートを翻すと風邪に乗ったタンポポの綿毛のように軽やかに坂をかけていった。
角を曲がり、完全に見えなくなるとマスターが静かに言った。
「硝子にあまり情入りしてはなりませんぞ」

コメント

コメントを書く

「恋愛」の人気作品

書籍化作品