湯谷夜子の活動記録 ~二度目の人生は過ちから〜

ぽた

温泉にて

 その一言で空気を察した穂坂さん。
 美緒が、悪ふざけ無しに真面目な話をしに来たのだと分かると、大人しくその場から離れ、まだ湯を流す前だった浴槽へと浸かった。

 美緒は会釈でもって礼をすると、そのまま俺に向き直って一言。

「本当に、ありがとうございました」

 落ち着いた、心のこもった言葉は、未だ俺の中に残っていた聊かの不安を、完全にかき消した。

「私のこともそうですが、それを提案してきた見ず知らずの母と父の願いまで聞き届けて頂いて――ご迷惑をおかけして、すいません」

 その場の流れ、たまたまというのは本当だ。
 当初、仕事の目的は”お化け屋敷の調査”であって、その中にいる人に干渉したり、ましてそれを説得や収束にまで持っていく必要はなかったのだから。たまたま見つかった幽霊に招かれ、たまたま中で出会って、たまたま願われ、聞き入れ、たまたま解決しただけのこと。
 ただ、その”たまたま”の中で、俺が自らの意志で動いた、美緒の心の中への侵入。それ自体は、もっと良い方法があったのではと、他にやりようはあったのではないかと、未だにずるずる引き摺って思っていることだ。

 後悔がないのは本当だ。
 それを今更どうこう言っても意味がないことくらい分かっている。

 それでもやっぱり、それを無理矢理呼び起こし、思い出させたのは――
 変なところで意地を張って、同じことをぐるぐる考え続けるのは、昔から何も変わらない俺の悪い癖だ。

「迷惑とか――いや、迷惑は俺たちだろう。願われたとは言え、他人のお家の事情に、通りすがりの馬鹿が首を突っ込んで掻き回したんだ」
「いいえ……いいえ、それは違います!」
「っ……!」

 美緒は俺の手を取り、

「あの時のことを思うと、やっぱりまだ苦しいし、悲しいし、心を何処へもっていけばいいのか分からなくなります……それでも今、私はとても幸せです。嬉しく思っているんです…!」
「なんで……」
「途切れかけて、しかしずっと繋がっていた曖昧な意識の中で、私は何度も後悔をしていました。あの時こうしていれば、もっと前にはああしていれば、と。そしてそれが叶わないと分かると、誰でもいいから、と祈るようになりました」

 初めて聴かされる、美緒自身の言葉だった。

 深く沈んだところにある、自分のようで自分でないような意識で、ずっと考えていた。
 もう一度あの頃に戻って、やり直せる術があるのなら。戻れずとも、改める機会を、恵んでくれないかと、切に願っていた。
 来る日も来る日も、何週、何月、何年が経とうとも、御しきれない意識の中で、ただひたすらにそのことだけを考え続けていたのだそうだ。

 そんな中で恵まれたのが、この組織に持ってこられた依頼。
 発端は前回の犯人だったけれど、それを持ってきたのは俊さん――あの人は、運が良ければ新たな仲間を、といった風に言っていたけれど、その実、今回の一件とも関連していた。俺たちに依頼したのは、自分ではどうにも出来なかった”知り合い”を託し、それに終止符を打つため。
 決して偶然なんかではなく、必然俺たちに持ち込まれた”運命”だったのだ。

「だから、やっぱり”ありがとう”なんです……」

 笑顔と合わせて、美緒の目から涙が流れた。
 嗚咽を孕んでいないそれは、ごくごく自然と流れた、感情の雫。

 悲しみではない、感謝の念。

「夢でも、弟ともう一度合わせてくれて、ありがとう。母と父の願いに耳を傾けてくれて、ありがとう。そして――」

 見ているこちらまで、胸が熱くなってくる感情の波。

「私を助けてくれて……本当に、ありがとうございました…!」

 この数時間で、一体何度見たことか。大の大人が深々と頭を垂れて礼を言う姿。
 しかし、謝罪でなく繰り出されるそれらは、俺の胸を更に熱くさせ、言葉にし難い何かを込み上がらせた。

 一緒になって涙を流し始めた俺を、そして既にぐちゃぐちゃに目を腫らした美緒を見ていた穂坂さんは、

「風邪ひくよ。おいで、一緒に入ろ」

 明るい物言いとは裏腹に、こちらも涙を拭いながら、そんなことを言った。
 それを見て美緒の涙も加速して流れ続ける。が、それはお構いなしに、飛び込むようにして浴槽へと駆けて行った。

 年齢は大人、俺より上。しかし、それに釣り合わない小さな背中。
 あんなに小さな背中に、一体どれ程の葛藤を抱えていたことだろう。思い通りにならない、行かない様に、どれだけ耐え、我慢してきたのだろう。

 俺には分からないけれど、その一片でも解すことが、本当に出来ていたのだとしたら、それはどれだけ喜ばしいことだろう。
 数値化でもして確認することが出来れば、俺はきっと飛んで喜ぶに違いない。

「芳樹も。お掃除は中断して、一緒に入りましょうよ」
「……今、頭の中でエピローグが流れ出していたんですけど」
「へへん、まだまだ終わらせないよ、夜は長いんだから。おいで美緒、背中流してあげる」
「はい!」

 年は一つしか違わないというのに、美緒の幼い見た目と穂坂さんの大人びた容姿、早くも打ち解けた相性の良さも相まって、すっかり姉妹といった風になって――俺も一つしか違わないのだけれど。

 ともあれ。
 現状、穂坂さんに対しては、歳ではなく見た目相応の振舞いを見せる美緒。
 守るだけだった弟という存在でなく、護ってくれる頼もしい姉を得た小さい大人は、とても自然な表情をしていた。

「洗いやすいったらないほど小さい身体よね。ちゃんとご飯は食べてたの?」
「えっと……カレーライス、おうどん、お魚にお味噌汁――」
「案外まともな食事をしてたのね。でも、それでこれって――なるほど、成長期はこれからなのね!」

 ナイスフォロー。
 ナイスフォローだけれど、自分で蒔いた種な上、二十歳を越えてそれは流石に無理があるんじゃ――

「伸びますかね、これから…!」
「もっちろん! お姉さんが保証するわ。何せ実を言うとね、私だって高校を卒業した辺りから急激に育ち始めたんだから」
「す、数年でこのボリューム……流石、茜さんは違いますね」

 もう、何なのだろうこの会話は。
 あまりの非現実さ加減に、どうにも言葉がかけられない。

「っと、ボディソープ無くなってる。芳樹ー、ごめんなんだけど、外から新しいの取って、持ってきて来てくれない?」
「え……ちょ、いや、見ないように移動するのは少し難易度が――」
「いいわよ別に。どうせ屋敷で一回見られてるし? 芳樹なら全然構わないし」

 今更だけれど、とくにこれといったことをしていないというのに、何なのだろうこの信用されている感じは。

「さっき恥かいたからって、それはもう楽観的になったというか、色々と麻痺してきているんじゃ?」
「全然。むしろもっと――って、それは流石に」
「ですね、次元を越えちゃう……分かりましたよ、ボディソープですよね」
「ありがとっ!」

 相も変わらず、眩しい笑顔だ。

 俺は急いで脱衣所へと上がり、それを探し始める。
 過程で視界に入った下着のことは、今は忘れておこう。

 本来ストックしてある場所と異なる所に入っていたそれを探すのに手間取って、少々時間を掛けて戻った時、何やら二人の楽しそうな笑い声が響いて来た。

「どうぞ――って、随分と楽しそうですね。何話してたんです?」
「ふふ。芳樹には秘密よ。ね?」
「はい。秘密、です。ふふ」

 顔を見合わせて、含みのある笑いを漏らす二人。
 首を傾げる俺から替えのボディソープを受け取った穂坂さんは、瞬間で不機嫌そうな表情になる。

 理由を問うたところ、

「本当に、全然見てくれないのね」
「前にも言ったでしょう。穂坂さんは、俺なんかには余るほどの方だと。容姿の魅力含めです……って、いいから早く前を隠してくださいよ」
「見せてる――って言ったら、ちょっとは意識してくれる?」
「意識せざるを得ない状況を作るのは罪だと思います」
「むむ……なかなか頑固者よね、芳樹」

 衝撃が強すぎるだけなのですが。

 そんなやり取りを終え、再びフロアの掃除を始めるのだが、浴槽を残し大半を終えていたので、彼女たちが出てくれないことには、先の処理をしようにも出来ないわけだが――

「それでですね、その時――」
「へえ、そうなんだ」

 心底楽しそうに、自分の昔話を披露する美緒。
 唯一女性の夜子さんとは、一人異質な空気を放っていてそんな話をしたことは無かったのか、穂坂さんも見たことのない、違った意味での穏やかな表情を浮かべて美緒の話を真摯に聞いている。

 そんな仲睦まじい光景を無碍にしてまで、掃除なんて続ける必要はなかった。

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