Color

春野ひより

違和感




 目覚めた朝。
 夏といえども朝方は肌寒い風が吹く、
 そう祖母が言ったのを思い出した。
 確かに肩が少し寒かったが、
 僕の心は朗らかで、
 依然背景の世界を見ても気持ちが
 沈むことは無かった。

 縁側の朝顔から朝露が零れる時間に
 目が覚めた僕は、遠くで太陽が
 働いてるなか寝たまま
 自分の左手を眺めた。

 たった五日ほど弓に
 触れていないだけで、
 蛸が消えようとしていた。
 肌を厚塗りしたしたような箇所は
 すっかり元の肌色に戻っていて、
 固さはほとんど残っていなかった。
 努力の証が消えていく。
 微かな胸を締め付ける感覚。
 少し嫌いになっていた弓に対して、
 僕はまだ名残惜しさがあるのを感じた。
 まだ引退していないのに
 何故こんなにも後悔の念が
 満ち溢れているのか。
 それはどこかで僕が諦めていたから。
 迷った道を突き進んで、
 後戻りできなくなった。
 悠久に続くかと思われた迷路の
 行き止まりで、戻ってやり直す気に
 なれずに立ち尽くしていた。
 やがて自分で八方塞がりを作り上げ、
 踞って泣いた。
 しかし、背後から光が差し込んだ。
 巨峰と思われるほどの壁が破壊され、
 瓦礫が僕の足元まで雪崩ており
 亀裂から光が見えていた。

 あぁ、なんだ。
 道が、あるじゃないか。
 ここで諦めるわけにはいかない。
 心の中で僕が言ったような気がした。
 周りが認めてくれたから今の
 僕の役職がある。
 持つべくして持った権利。
 このままじゃいけない。
 僕が冒した平衡なら、僕が正すべきだ。
 左手を徐に握りしめた時、
 遠くから僕の名を呼ぶ声が聞こえた。

 僕は返事をして起き上がり、
 急いで布団を畳んでいると、
 襖の向こうで足音が聞こえた。

「入るぞ」

 僕の返事を待たずに浴衣姿で
 入ってきた祖父に、予想外の
 訪問者だと思考停止した
 僕は立ち惚けていた。
 祖父はそんな僕の前に座った。
 つられて僕も座る。
 自然と正座になってしまうのは、
 弓を習っている習慣か、
 祖父への敬意からか。
 しかし、胡座をかいたまま
 一向に祖父は喋らない。

「えと、おはよう」

 沈黙に耐えられなくなった僕は、
 当たり障りのない挨拶をした。
 すると祖父は小さくうなづいた後に、
 咳払いをして腕を組んだ。

 なんだ。
 僕の無意識下で何か良からぬことを
 しでかしたのではないかと不安になる。
 朝から心臓に悪い、と祖父と
 目を合わせられずに膝の上で拳を握った。
 手の平に冷たい湿りを感じたのと
 同時に、祖父が口を開いた。

「何か欲しいものはあるか」

「ひぇ?」

 予想外の発言に、
 喉から息が漏れたような声が出た。
 当の人物は僕から目を逸らして
 再び咳払いをしていた。
 ぱちぱちと目を丸くして
 瞬きをしていると、祖父が立ち上がった。

「無いんだな。
じゃあ俺がお前に贈る物を
今日やるから、待っていなさい」

 言い終わるが否や部屋を
 出ていった祖父に、掠れた声で
 返事をした僕の声は聞こえたのだろうか。

 気難しい現代文の先生から
 最上級に難しい問題を出された気分だった。
 まさに、一瞬のできごと。
 刹那に嵐が過ぎたような感覚に、
 僕は正座した状態で少し時間が止まっていた。

「なんだったんだ、今の」

 祖父はついにどうかして
 しまったのだろうか。
 違和感を覚えつつも、
 僕は兼ねてより考えていた早朝の
 散歩の為に身支度を始めた。
 なんだかよく分からなかったが、
 今日はいつもより身体が清々しく
 動くので気にならなかった。




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