Color

春野ひより

第二章



 青臭い草花の匂いが鼻腔を掠め、
 自然と眉を寄せた。
 人もいないのにどこも周期的な
 鳴き声で喧騒に包まれる。
 じりじりと音を立てそうな地面に
 打たれた水は、一瞬で蒸発した。

 お隣の早川さんは昨夜寝苦しくて、
 いつもより二回多く、
 計六回も目が覚めてしまったらしい。

 自転車に跨り、風を切る。
 あぁ、夏だ。

《今出発したよ。
着くのは明後日の夕方くらいかな》

 文字が送信されたのを見て
 携帯をしまい、お茶を一口飲んだ。
 首を伝う汗を拭い、一息ついてから
 再び足を掛けて滑り出す。
 今年も地獄の時期になったと、
 準備している時に感じた。

 僕の住む神奈川県から自転車で
 三日程走れば、群馬県の山間にある
 祖父母の家に着く。
 夏休みになると一人で自転車に
 跨って祖父母の家を目指す。

 その習慣は僕がまだ小学二年生
 だった頃に始まった。
 男の子は強くなきゃいけないという、
 謎の戦時世代を思わせる祖父の言葉で、
 幼かった僕は泣く泣く母の車で
 行くことなく自転車で向かった。
 その時こそ迷いながら、泣きながら
 走ったものだが、中学生にもなれば
 慣れたものになっていた。
 そこまでして祖父母の家に行く
 必要があるのかと思春期の僕は
 思ったものだが、顔が広い祖父母の
 家には毎年たくさんの著名人が訪れ、
 人手が足りないからと
 無理やり呼び出された。
 それでも唯一自転車で
 向かうことで良かったと
 思えることがあった。

 それは日々の生活を
 忘れられることだった。
 逃避と言われてもしょうがないが、
 自分一人で誰の手も借りず何かを
 達成出来ると、自分の存在価値を
 見いだせるようで、とても嬉しかった。
 祖父母もそんな僕を
 何だかんだで甘やかしてくれた。
 到着した暁には氷水と西瓜が
 用意されていて、暇だと言えば
 街に下りて遊びに行かせてくれた。

 今では高校生になったので遊びに
 行きたいと駄々を捏ねることもなく、
 僕の素性を一切知らない人と
 会話するのも楽しいと感じるように
 なってきたから待っているのは
 氷水と西瓜だけだ。

 坂道の風を感じながらおちてきた
 太陽に視線を送る。
 顔をうっすらと見せ始めた月の
 完成形を、あの幼馴染みも
 同じように見ているのだろうか。

 主婦たちがお店に代わる代わる
 立ち入り、野球帽を被った小学生が
 泥だらけのまま帰っている。
 部活を終えた中学生が将来に
 わだかまりを持ったように
 一人で歩いている。
 現在進行形で僕と同じだ。
 見知らぬ彼を、僕は密かに応援した。

 太陽は地平線を跨ぎ顔を隠し、
 重役出勤の月が顔を出した。

 一日目の宿泊地に到着した。
 昔は野宿を強いられたが、
 高校生にもなるときちんとした
 場所に予約して貰えるようになった。
 無心になって自転車を漕げば
 案外この長い道のりも短く感じる。
 短い高校生活なら、
 もっと短く感じるのだろうか。
 高校二年の現在は全くそう思っては
 いないのだけれど。
 やっと、学校からも部活からも
 解放される。
 いつの間にか足枷になっていた
 二つは僕の頭の隅にやられた。

「いらっしゃい。今年も頑張ったなあ」

 縁側で花の手入れをしてた祖母が
 汗を拭いながら僕を迎えに
 玄関まで歩いてきた。
 一年会ってないとなんとなく
 恥ずかしくて、僕は頬をぽりぽりと
 掻いて階段の盆栽を見た。

「ばあちゃん、
いつまでも子供扱いしないでよ。
もう大丈夫だよ」

「何言うてはるの。
あんた最初の頃はひいひい言うて
お母さんのとこ帰るて
駄々こねてたんやで」

 京都出身の祖母が祖父と
 出会ったのは東京で、
 恋愛結婚した後に群馬県に
 引っ越したらしい。
 泊まった時に5回ほど聞いた。

「それは昔の話」

「ふふ、せやな。氷水と西瓜、
用意できてはるよ」

「じいちゃんは?」

「奥のいつもの部屋。
丁度ええから西瓜
持ってってくれへん?
あの人水も飲まんとずっと
あの部屋におるから」

「わかった」




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