Color

春野ひより

葛藤



 僕が番谷の相談を聞けないまま
 一週間が経った。

 番谷が学校に来ない。

 人気者の彼の噂は途端に流れ、
 ノイローゼになってしまっただの
 家出をしただの、根拠の無いでたらめが
 耳に入ってくる。

 きっとあの時の彼は必死に僕に助けを
 求めようとしていたんだと今ならわかる。
 連絡をしてみても返事はない。
 行きも帰りも家の前を通ってみたが、
 番谷は見えないままだった。
 土日の練習試合も番谷がいないまま
 続行され、部活にはどこか活気がなかった。

 彼は、僕に何を話そうとしていたのだろうか。

「今日は坐射で記録を一回とった後に、
大会形式で練習を行います。
各々大会として本気で取り組むように」

 解散、と僕の言葉で皆が準備に取り掛かる。

 袴は集中を具現化したようなものだと
 皆の姿を見て思う。

 丹田に力をいれるように締まる袴が
 やってやろうという気にさせる。
 袴を着ている限り僕らは弓に生きるのだ。
 そうして中りに左右される運命なのだ。

 学生の今だけでなく、きっと大人に
 なっても千載一遇の機会が訪れ、
 そして失敗する日がある。

 そんなひとつひとつの小さい出来事に
 やがて潰れる日もあるのだろう。

 立ち上がるか。
 立ち上がらないか。
 諦めないか。
 諦めるか。
 中るか。
 中らないか。
 世の中は、それだけなのである。


 酷く派手な音をたてて射場に一張りの
 弓が投げ出された。
 当の引いていた人物は顔の右側、
 右耳を覆うようにして手をあてがっている。

「払ったか」

「ひどいかもしれない」

 彼の指の隙間から覗く赤い液体で、
 凄まじい勢いで弦が彼を
 攻撃したのだと安易に想像が出来た。
 失の処理をしないまま痛みに耐える
 彼に師範の冷たい一言がおりる。

「引け。これは大会だ」

 その言葉に彼はおずおずと
 失の処理を始め、顔を苦痛に歪めながら
 一揖すると何事も無かったかのように
 矢を番え始めた。
 出血は止まらず、道着には赤黒い染みが
 じわじわと滲んでいた。

 僕はすかさず師範に詰め寄った。

「手当てをするべきです」

「必要ない。大会ではそんなことはさせてられん」

「今は練習です」

「先ほどお前が言ったのだろう。
大会のように引けと」

「それは…」

 吐かれる寸前だった言葉は口の中で
 舌に転がされ、僕は既に打ち起こしを
 始めた彼を見つめた。

 キリキリと弓と彼自身が伸び合う音が
 妙に射場に緊迫感を与え、離れをしたと
 同時に再び爆発音が響いた。
 僕の道着に彼の血液が飛び散り、
 すぐに艶のある粒がまるで元から
 そこにあったかのように馴染んで乾いた。

 一度払ったら次の射はまず普通に
 引けないと言っても過言ではない。
 恐怖に身体が支配され、
 再び失敗したくないと身体が強ばり、
 そしてまた同じように払うのだ。
 その恐怖は痛みに比例する。

 耳の裏から裂けるようにして縦に
 割れているそれを見つめることが出来ず、
 僕は目を逸らした。
 再び失の処理をする彼は、
 傍らで棒立ちしている僕に向かって、
 顎で控えをさした。
 憎悪の念さえあるようなその眼差しに、
 僕は成す術もなく射場を後にした。

 精神に身体を蝕まれたら正常に
 弓を引くことは難しい。
 闇を象った手が我が身を奈落に
 引きずるその様は、世にも恐怖で、
 酷く残酷で情けない。
 何も出来ず手も足も出ない状態は
 僕に似ていた。

 その後射場からは二回爆発音が聞こえた。

「余計なお世話だ」

 部活終わりに彼から投げられた槍。
 それでも僕は負けじと言い返した。

「止血するのにも時間がかかったし、
深いところまで切れてるから
後遺症がのこるかもしれないだろ」

「俺は引けないなんて言わなかったろ」

「だからってあの状態で引き続けるのは
得策じゃなかった」

「それを決めるのは俺だ。お前じゃない」

「僕は部長としてお前の第一を
考えて言ったんだ」

「俺がいいって言ったらいいんだよ」

「誰かが止めなきゃいけないときだってある」

「自分のことは自分で判断する」

「思わぬ事態が起きたとき、人間はその判断ができなくなるんだ」

「俺は冷静だった」

「耳が聞こえなくなったらどうするんだ」

「耳なんか聞こえなくたって弓道はできる」

 僕を正面から見つめて一切押されない
 彼の真剣な、なんの混じり気もない言葉に、
 とうとう僕は言葉を失った。
 絶対的な自我を持つ彼に、
 何を言っても無駄なことはわかっていた。

 それでも自己中心的な考え方の彼には、
 所々引っかかるものがあった。
 彼の口から弓道の為なら耳はいらない
 という言葉が吐かれた。
 それが咄嗟に言ってしまったこと
 であったとしても、僕を不安にさせるには
 十分だった。

 僕は、どこまでなのだろうかと思った。
 皆はどこまで弓道に本気なのだろうか
 と不安になったのだ。

 僕はあくまで部活の一貫だと考えている。
 確かに生活の大半は弓道のことを
 考えているが、それでも10割は
 占めていない。

 耳をすてることができる彼は、
 弓に生きているのだろうか。
 袴を脱いだ外の世界でも?

 僕と皆の世界では、景色が違うのかも
 しれないと一人思った。

 師範は口を真一文字に締めながら
 その後の練習風景を見ていて、
 その日は彼に一言も言葉を発さなかった。
 心配の言葉はほんのひと握りしか
 聞こえず、皆はそのまま練習を続けた。

 番谷がいたなら、今のこの状況を
 なんと言うだろう。
 僕の判断がおかしいと言うだろうか。
 それとも彼が?
 こんな事でも自分に自信が持てないなんて
 本当に情けない。
 もう、子供じゃないのに。
 僕は異様にも感じられる道場の
 雰囲気を見て、拳を握りしめた。





「Color」を読んでいる人はこの作品も読んでいます

「文学」の人気作品

コメント

コメントを書く