その優しい音色ったら

ぽた

その優しい音色ったら

 私の妻は無口だ。
 僕が話しかけるとそれに返して、自分からはあまりものを言わない。
 効率的、と言えば聞こえは良いが、それは違う。
 話すと疲れるから。そう言っていたことがある。

 そんな彼女にも、趣味はあった。
 ピアノを弾いている時だけは、どんな時よりも幸せそうな笑みを浮かべて、音と対話をする。

 学生の頃、一つ年下である彼女からの告白に僕が答えた時。
 結婚をしようと申し出た時。
 会社で昇格したんだと話した時。

 いつでも彼女は笑って喜び、褒め、幸せそうな表情をしていたのは覚えている。しかし、それが薄れるくらい、休日が訪れる度に彼女が浮かべる笑顔は、眩しい。
 別にそれが、嫌な訳ではない。
 彼女の奏でるピアノの音色は素晴らしいもので、聴いているこちらにも心が伝わって来る。
 音に、命があるのだ。

 そんな彼女だから、僕は――

 何を思っているのか、本心を確かめたくなった。

「ねぇ小百合さゆりさん。君は、ピアノの何が好きなんだい?」

 そんな僕の質問に、彼女は怪訝そうな表情。
 かけていた眼鏡を外し、僕へと向かい合う。

「珍しい質問ですけれど……あなた、それはとても簡単で、けれどとっても意味合いの多い、難しい質問です」

「聞き方が悪かったね、ごめん。そうだな。小百合は、ピアノを弾いている時、どんなことを考えているの? 今、君のピアノを聴くのは僕しかいない。けれど、とっても幸せそうに見えるんだ」

「考えたこともありません――私、そんなに良い表情で弾いてますか?」

 僕は直ぐに頷いた。
 僕のどんな晴れやかな事よりも明るく、無邪気に、戯れるような音色を奏でる彼女が、その実無自覚だったとは驚きだ。
 益々以って、今更ながら興味が湧いて来た。

「日に日に、その明るさが増していくように。君がピアノと向かい合っている時、少し嫉妬してしまいそうになったよほら、僕が会社で昇格した日の夜も、君は確かピアノを弾いていたね。月の光だったかな」

「それは嬉しいことですよ、あなた。きっと、必要だったことなのです」

 彼女は優しく微笑んで、僕の手を取った。

「君はたまに、不思議なことを言うね。自慢じゃないけれど、僕はそこそこ高い大学を出ているのに。分からないことが、たまにある」

「人生のスパイスだったと思いましょう。はっきりしなくとも、無駄にはならないものはあります」

「そうかい。じゃあ、そうするよ」

「ええ」

 そうして僕の手を離すと、彼女はまた、ピアノと睨めっこ。
 笑顔一辺倒で、勝敗はつくのだろうか。



 簡単な曲ばかり選ぶのは、彼女に技術が足りない所為なのだそうだ。
 自分で言ったいたことだし、僕には音楽の才能もないから分からないけれど、少なくとも僕はそれで元気を貰っていた。

 大丈夫。
 安心して。
 傍にいるわ。

 そんな言葉が聴こえてくるような夢心地が、毎日続いて幸せである。
 これから先もずっと、こんな日々が続いてくれるだろうと想像すると、頬が緩んで仕方がない。

 こんなことを言ったら、彼女は怒り出すだろうけれど。

「今日は、何を弾いているんだい?」

「……クライスラー作曲”愛の悲しみ”という曲です」

「愛の……また随分とらしくない曲だね。君にしては、珍しくないかな?」

「そうでしょうか?」

 珍しい。
 昔は、月の光を含む”ベルガマスク組曲”や”ドリー組曲”といった、アップテンポであったり楽しくゆったりとした曲などを好んで弾いていたのに。
 どうして今になって、全く違う趣向に変えてきたのだろう。

 そう、尋ねたかったのだけれど。
 横目に見えた彼女の口元が、あまり笑っていないことに気が付いて、やめた。

 きっと、思うところがあるのだろう。
 そう落とし込んで、納得して、飲み込んで、それ以上は何も聞かないようにした。
 口にしてしまえば、彼女は演奏を止めてしまう。
 僕は、なるべく長く、彼女の演奏に酔いしれていたいのだ。

 だから、僕もたまには無口になろう。
 彼女のように、音を楽しむ為に。



 今日もまた、一段と変わったメロディーが耳に届く。
 よくよく知る、テレビでも聴いたことのある曲だ。

「”愛の喜び”だね。随分とゆっくりだけれど」

「ええ、まぁ。私には、もうこれが精一杯なのですよ」

「そうかい。十分、上手だよ」

 そう言うと。
 ふと、彼女の演奏が止まってしまった。

「……馬鹿なことを言わないでください」

 そんな言葉を聞いたのは、初めてのことだった。
 暴言といった言葉に分類されるものは、日常的に周りの人たちが軽く使おうとも、彼女が口にしたのは、一度も聞いたことがない。
 だから、僕は少し驚いてしまって、咄嗟に謝ってしまっていた。

「すまないね」

「……構いませんけれど」

 そう、口では言っていても、あまり良しとしていないのは、声音で分かった。
 だから、今一度心の中で謝って、許してもらおうと試してみた。

 そこでも、彼女は笑っていなかったけれど。

「今度は、もう少しちゃんとした曲が弾けますよ」

 目を閉じた僕に、彼女がそんなことを言った。
 これもまた、珍しい。
 僕からきっかけを与えないと、自分からは滅多に話し出さない彼女が、こんなことを言い出すなんて。

 それに、ちゃんとした曲か。
 それはとても楽しみだ。

「そうなのかい? じゃあ、楽しみにしているよ」

 目を閉じたままで答える。
 そんな僕に、彼女は「えぇ」とだけ答えた。

 きっと、優しい、ちょっと切ない顔をしているのだろう。
 声の調子が、そんな感じだよ。



 ゆったり。ゆっくり。ふんわりと。
 包み込むように優しい音色が耳に届いて、僕は目を覚ました。

 これが、彼女の言っていた”ちゃんとした曲”か。

 なるほど、言い得て妙だ。

 そういえば。
 彼女との出会いも、こんな感じだったな。

 構内の旧音楽室。
 いつまで経っても買い物戻ってこない器楽部の皆を待ち飽きて眠ってしまって、目が覚めたら彼女がピアノを弾いていた。
 別れの曲、なんて悲しいタイトルの独奏曲を、とても楽しそうに、慈しむように。
 必死になって、けれど明るく弾きこなすその様子が何だか可愛らしくて、僕はそこで起きると「君には合ってないね」と言った。
 すると彼女は、僕がいたことには気が付いていなかったのか、とても驚いた様子で「ひゃっ」と可愛らしい声を上げた。
 ごめんね、と一言謝って話を聞いてみると、器楽部へと入部しに来たのだけれど、誰も居ないから――ということでピアノに指を滑らせていたのだと言った。

 決定的なきっかけは、しかし存外と些細なことだった。
 出会いから数ヶ月後、たまたま手に入れたプロのコンサートのチケットが丁度二枚だけあって、特定の誰かと二人きりで沢山話したのが彼女だったから、誘った。
 それがもし男友達だったとしても、僕はきっとそうしていた。
 その時は、誰でも良かったのだ。

 すると、彼女はとても嬉しそうにチケットを受け取ってくれた。
 この人の演奏、実はずっと聞きたかったのです、と。

 そうして迎えた当日。
 コンサートを聴き終えての帰路だった。
 夕暮れ迫る湖岸沿いなんて、如何にもなシチュエーションじゃないか。
 当たるだけ当たって、最悪砕けても良いか、くらいの気持ちで、彼女に声をかけようとした。

 しかし、それよりも僅かに早く、彼女の方から名前を呼ばれた。 
 応えると、お付き合いをしませんか、との申し出だった。
 正直、本当に心が躍った一番の瞬間は、この時だったと思っている。
 まさか、高々数ヶ月の付き合いで、互いに思いを寄せ始めていたなんて、思わなかったから。

 実は僕も――
 そう言って答えると、彼女は安心したように泣き出した。

 懐かしくも甘酸っぱい、良い思い出だ。 

「”別れの曲”かい?」

「……はい」

 はい、か。
 いつものように「えぇ」とは返してくれないんだね。

 何だか、君を少しばかり遠くに感じる。
 すぐ隣にいるのにね。

「今日は何曜日だろう?」

「月曜日です。まだ、週の頭ですよ」

「そうか……週始まりか」

「……お休みになられては?」

 そう、彼女は提案してくれたけれど。

 今日は――今日だけは。

「もう少し、君のピアノが聴いていたいな…」

「……分かりました。では、このまま」

「うん、ありがとう」

 僕が礼を言うと同時。
 曲が転調した。

 激しい両手のオクターブ和音。
 彼女の小さい手にはいっぱいいっぱいなようで、それでも必死になって喰らいついている。
 随分と力も弱いくせに、それで頑張って力強い音を出そうと懸命に。

 そんな彼女の様子に、僕はつい”可愛らしいな”と思ってしまった。

 程なくしてそこも乗り切ると、またゆったりと流れる綺麗なメロディラインが顔を出した。
 まるで、彼女をそのまま表しているようだ。
 慎ましやかで華々しく、大人しくもはっきりとした感情。
 うん、君にそっくりだ。

 だから、僕は敢えてこう言うんだ。

「相変わらず、君には合ってないね」

 と。

 そう言ってやると、彼女は堪えきれずに涙を流した。
 あの日のことを思い出して、これまで一緒に辿った日々を思い返して。
 大粒の温かい涙は、溢れるままに頬を伝って落ちていく。

 あまり言葉は並べないのに、本当によく泣くなあ。

 彼女の奏でる曲は次第にテンポが落ちてきて、音も弱々しくなっていって、最後には途中で止まってしまった。
 まぁ、そうだろう。
 今日だけは、最後まで弾けないだろう。分かってはいたさ。

「結婚記念、今日なんですよ……今年で何年か、覚えていますか?」

「最近は、よく話してくれるね」

「……お小言は結構です」

 これはまた手厳しいな。
 まぁ、そうか。そうそう無駄な言葉を並べている時ではないよね。

「勿論、覚えているとも」

「なら、いいんです…それが聞けて、安心しました」

「僕もだ。確認が出来て、ほっとした」

 彼女の涙は止まることを知らない。
 どころか、僕が一つ言葉を発する度、もう少し、もう少しと、せがむようにその勢いは増していく。

 安心したんじゃなかったのかな。
 いや、それも本心だろうけれど、それ以上に、君は僕と離れたくないんだね。

 僕だって、同じさ。

「最後まで、弾いてくれないかな?」

 僕がそう言うと、彼女は小さく頷いた。
 演奏が途切れた辺りの場面へとその細い指を運び、音を連ねる。
 優しく重なる旋律は、僕の胸へとすっと溶けるようにして馴染んだ。

「あぁ、この音だ。この音だよ。僕は、君のこの音が大好きだったんだ」

「……似合わないって、仰っていたくせに」

「そうだね。確かに、似合わなかった。無理なオクターブを必死になって……その姿が、たまらなく愛おしかった。ちょっとの背伸びをする小さな身体が目に焼き付いて、今でも離れないよ」

 初めて会ったあの日のことは、どれだけの日を重ねても褪せることない記憶として、脳裏に刻まれている。
 元より、忘れる気なんてないんだけれど。

 この先、更に時間を重ねようとも、きっといつでも思い出せる。
 思い出して、笑える。

 予感じゃない、確証だ。
 自分のことは、自分が一番分かっている。

「さて。そろそろ、今日も休もうかな」

「ご存分に……いつになっても、私はあなたの傍を離れはしません。安心して、お眠りになってください」

「ありがとう。そうさせてもらうよ」

 僕はまた、目を閉じる。
 彼女と過ごしたどの日をも思い出して、その温かさに浸って、深い深い眠りの海へ。

 それは、新しい明日への道標だ。
 この記憶がある限り――いや、たとえどこかに忘れてしまっても、きっと大丈夫。
 優しい音色が、導いてくれる筈だ。

「おやすみなさい……先輩」

 最後に聞こえた、懐かしい呼び方。
 嫌なくらい耳に馴染んで、僕の目にも雫が浮かんでしまった。

 僕の意識を包むのは、彼女が奏でる別れの曲。
 そういえば、フランスでは”親密”というタイトルらしいな。
 全世界、それで統一してしまえばいいのに。

 今年で丁度、五十回目の結婚記念日。
 案外――いや、とても、満足のいく人生だった。

 最後にこの音で送られるのは、悪くない。 

 おやすみ。
 僕の、最愛の人。

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