虫籠

日々谷紺

 地平線に太陽が隠れて完全に暗くなる一歩手前、智樹は母と住む古びたアパートに帰宅する。玄関はいつも鍵がかかっているので、ランドセルから鍵を取り出して開ける。部屋の明かりをつけ、食卓の上を確認する。
『冷蔵庫に肉野菜炒めとごはんがあるから、レンジで温めて食べてね』
『おなべにカレーがあります。温めて食べてね』
『ごめんなさい!今日は時間がなかったので冷蔵庫にあるもの適当に食べててね』
 必ず、晩ご飯についての手書きのメッセージが残されている。それを見て夕食の準備をし、一人で食べる。
 母子家庭で、母はお昼前に仕事へ行き、9時を過ぎないと帰ってこない。智樹が放課後すぐに帰宅しても、ガランとした部屋に一人でいるのは虚しいばかりだ。テレビゲームや本もあまりたくさん持ってはいなかったので、すぐに退屈してしまう。退屈だと、眠ってしまう。母が帰ってくるまで眠ってしまって、夜眠れなくなることもあった。そのため、智樹は授業が終わるとまっすぐ帰宅せず、どこかで時間を潰すようになった。ひどく内気な性格で、なかなかクラスメートに声をかけることができないから、一人でいることが多い。智樹は、いつも寂しかった。

 翌日の放課後、智樹は早速松原を探して蝶を見に行った。蝶は、透明な水槽型のケースに移されていた。本当は虫取り網と同じような柔らかい素材の飼育器の方が羽が痛まなくて良いのだが、智樹が観察しやすいように学校で余っていたこのケースを借りた。小屋は校舎の陰にあって日当たりが悪く、飼育には丁度良い。明るいと蝶は光の方へ飛ぼうと暴れて傷ついてしまうし、あまり暑いのもいけない。
「エサをあげてみようか。」
 松原が言うと、智樹は不思議そうな顔を向けた。
「この花ではだめなの?」
 ケースには、智樹がお土産にとどこかで摘んできた花を先ほど入れたばかりだ。松原は少し考えて、口を開く。
「うん、実はね、花を入れてあげてもあまり自分では蜜を吸わないんだ。」
 話しながら、傍らに置いてあったポカリスウェットのペットボトルに手を伸ばす。更にその近くに、あらかじめ準備していたのか浅い小皿と爪楊枝が置いてある。松原はポケットからティッシュを取り出し、1枚を小さく折りたたんで小皿の上にのせた。それからペットボトルの蓋を開け、折りたたんだティッシュを湿らせる。その液体は何かと智樹が聞くと、ポカリスウェットを薄めたものだという答えが返ってきた。蝶のエサは花の蜜か砂糖水だと思っていた智樹は、へえ、へえ、としきりに声をあげていた。
 ケースの中に手を入れ、蝶の羽を優しくつかむ。エサを用意した小皿に近づける。爪楊枝を使い、くるくると丸まっているストロー状の口を、優しく、優しく伸ばす。液を吸ったティッシュに口の先を接触させてやると、やがて蝶は自分から飲み始める。そこで、そっと手を離す。
 用意したエサを飲んでいる姿は、なんとも可愛らしく見えた。智樹が小学校低学年の時は、蝶は捕まえて遊ぶものという認識だった。けれど、蝶たちも生きていて、ご飯を食べる。もちろん知らなかったわけではないが、今初めて学んだような気がした。
「僕にもできるかな。」
 智樹がぽつりと呟いた。
「…うん。明日、やってみよう。」
 松原が言った途端、蝶が飛んだ。

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