虫籠

日々谷紺

 智樹にとって、松原の反応は全く予想外のものであった。大人はみんな夕刻に智樹を見つけると「帰りなさい」と言う。ミミズを切り刻んでいたものなら、みんな叱るだろう。帰りたがらない智樹に疑問を持って、「どうして帰りたくないの?」と聞くに違いない。
 しかし松原はそのどれにも当てはまらなかった。謝罪も、促されたわけではない。松原の穏やかな声を聴くうちに、小さな命を奪ったことが本当に悲しくなってしまったのだ。
 「用務員のおじさん」が学校にいることは智樹も知っていたが、今まで気にしたこともなかった。けれどミミズの件以来、松原の姿が見えると意識するようになっていた。大した話をしたわけでもないのだが、「他と違う」というだけで智樹は松原に好感を覚えていた。同時に後ろ暗さもあって、智樹は松原を目で追うのに、松原が智樹を見つけたりしないようになんとなく逃げてしまう。
 だけど智樹の習慣は変わらない。下校時間が過ぎると、そろそろと玄関を出て右の方へ歩いていく。松原が学校で仕事をする日々も変わらない。
 松原は、智樹の与り知らないところで「今日も退屈そうにしているな」などと思いながらしゃがみ込む少年に視線を滑らせていた。先日自分が声をかけてから、ますます彼のすることがなくなった様に感じられる。
 ふと、松原はあることを思い出す。仕事の合間のささやかな趣味で、とても個人的なことではあったが、小さな少年の退屈も紛れるかもしれない。仕事が一段落ついた頃に、智樹が相変わらず呆然としているのを見つけて、松原は声をかけた。
 「今日も退屈そうだね。」
 智樹ははっとして顔を上げた。避けていたはずなのに、簡単に見つかってしまった。戸惑ってしまって、反応することができない。
 松原から逃げていた理由は、悪いところを見られてしまったという後ろ暗さだけではなかった。次に智樹を見つけた時、この人もまた他の大人と同じことを言わないとは限らない。それを聞いてしまうと、智樹はますます暗い気持ちに飲まれてしまうだろう。それが嫌だった。
 智樹が黙りこんでしまったのを見て松原も少しためらったが、続けてこう言った。
「もし退屈なら、良いものを見せてあげよう。」

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