氷雨の日

漆間陽悠

氷雨の日

身を切るような氷雨が降っていた。傘を持つ手の感覚はもはや無い。震える手でノブを回す。ただいまを言わなくなったのはいつからだったろうか。

いつも通り自室にバッグを置きいつも通りお気に入りの音楽を聴きながらリビングの扉を開けた。ただ、どうも今日は様子が違っていたみたいだ。

部屋では母が揺れていた。不自然に伸びきった首、蹴倒された椅子、だらりと垂れた四肢。頭がついていかなかった。いや、ついていけなかったのは心の方かもしれない。目の前の状況とはアンバランスなラヴ・ソングが鳴いていた。俺は口やかましく愛を叫ぶイヤホンを耳から外し、スマホを投げ捨てた。そうして今一度母だったモノをまじまじと眺めた。

格別、これといった感情は湧いてこなかった。ここ数年俺は反抗期真っただ中で母としっかり口を聞いたのなど遠い日のことのようだ。昨日は何を話しただろうか?多分、母のおはようやおかえりなんて声には耳も貸さず、靴下が洗ってねえだのなんだのと言っていた気がする。

ふと、机上に目をやると俺宛ての封筒が置いてあった。中には世間一般で言うところの「遺書」が入ってた。あり合わせの紙に書かれた遺書、母の死の原因やら父との馴れ初めやら俺への心配やらが脈絡なく書き連ねられていた。支離滅裂な話の展開は母の動揺の表れだろう。紙上の丸みを帯びた癖字は間違いなく母の字だった。「夕飯には肉じゃがを作ったからね」という言葉のあとに続けられた「ごめんね、先に逝きます」という文言がやけに切なく感じた。

俺はのろのろと冷え切った肉じゃがを盛って頬張った。美味かった。母はじゃがいもが好きな父のために食卓によくじゃがいも料理を並べた。その中でも肉じゃがは母の得意料理だ。母はいつも美味い美味いといって食べる父の姿を微笑んで見ていたっけ。ああ、そんな母の死が父の不倫によるものだとどうして信じられる?父が不倫相手と蒸発したなんてどうやったら納得できる?昨日までは…いや、今朝までは笑顔で食卓を囲っていたじゃないか。あの父が俺たちを捨てたというのか。突如激しい吐き気に襲われ内容物を机にぶちまけてしまった。涙で視界が滲む。未消化のじゃがいもが酷く惨めに見えた。皮肉なことに、冷めきった肉じゃがは俺の体温で湯気立っていた。

「母さん…」
そうだ、母を降ろしてやらねば。包丁で縄を切り母をそっと床に降ろした。痩身の母は思い出の中より軽かった。

もはや俺には何も残されていなかった。暖かい家庭も幸せな時間も、そして立ち直る気力さえも。
物言わぬ母をきつく抱きしめ寝転んだ。寒さを増す部屋の中で、母の体は一層冷たかった。このまま寝てしまおうか。瞼がやけに重たく感じる。俺の呼気は次第に白さを失っていった。

〈了〉

コメント

  • ノベルバユーザー603722

    マンガによくある展開があるとすると楽しみです。
    気長に更新待ってます。

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