VRD ─ヴァーチャル・リアル・ドリーム─

相生薫

VRD ─ ヴァーチャル・リアル・ドリーム ─

小熊駅前の県道524号線・通称「虎杭とらくい街道」沿いにVRDリゾート館「ディックス・ドリーム」が開館して三ヶ月が経ち、漸く開館セールの賑わいが収まり、週末でも空室の電光看板が点くようになった。
給料日前だったが、仕事も一段落して忙しい毎日の間に少しずつ溜まっていった、濁った沈殿物のような疲労で身体がグッタリとなっていたので、今日は久々に「VRリゾートスパホテル・ディックス・ドリーム」で溜まった疲れを綺麗さっぱり流すことにした。何しろ、そこそこいい金額の入会金を払っているのにまだ数回しか利用していなかったので、そろそろ利用しないと勿体無いと思っていたのだ。
入会金・二万九千八百円(税抜き)にはプレ脳内スキャンと電極針とインプラントの移植施術代と調整施術代が含まれており、更に「開館セール」として古いインプラントの除去手術の料金も無料だったのでかなり安い入会金なのだが、三万円近い入会金は安月給のオレにとってはいい金額だ。
脳内スキャンやインプラント移植手術は普通の医療機関で行えば、その何十倍か何百倍は掛かるもので、その安さに感謝してはいるものの、その安さが逆にちょっと心配にはなる。だが、最近、コンビニエンスストアーチェーングループが出店した「個室VRD」は施術料含めての入会金はたったの三千円だし、頭蓋骨に穴を開けたり、針を刺したりする施術も医師免許がなくとも「インプラント技師二級免許」を持っていたら誰でもできるので、昨今はそんな価格でも「激安」とまでは言えないらしい。
久々に来た「ディックス・ドリーム」のエントランスは給料前の所為か夜遅かった所為か空いていた。
カウンターの向こうには、顔だけがちょっとぽっちゃりとして下膨れの二十代前半の女と、やたらと痩せぎすで、銀縁メガネの所為で死にそうなカマキリを連想させる二十代後半か三十代くらいの男が立っていた。
「いらっしゃいませ。ご宿泊ですか?スパかレストランのご利用ですか?」下膨れの女が妙に尻上がりの喋り方で聞いてきた。
「宿泊で。『惑星DD』を大人一枚で…」オレは財布から会員カードを取り出して下膨れに渡しながら言った。
「ありがとうございます」下膨れはカードをスライドスキャンしてオレに返した。「お食事は朝七時から夜十二時までですのでご注意下さい」
オレは会員証とカードキーを受け取ると、カードキーに書いてあるM-54号室に足早に向かった。
宿泊の会員は温泉やサウナの利用が無料になる。毎日蛞蝓山なめくじやま温泉から運ばれてくる本物の温泉とサウナで一汗かいて、キンキンに冷えたビールとともにボンゴ肉か馬面鹿うまづらじかのしゃぶしゃぶで腹一杯になった後、VRDを楽しむのがVRD館──通称「ヴイ館」──の醍醐味だ。
オレは部屋に荷物を置くと、備え付けの蓬莱浴衣ほうらいゆかたに着替えて浴場に向かった。
温泉は源泉かけ流しではなく、毎日タンクローリーで運んでくる沸かし直しの温泉だったが、やはり本物の温泉成分は体の奥に蓄積した疲労を全身の毛穴からじわじわ滲み出してくれる。
サウナは三種類あって、それぞれその日配信されるVRDに合ったアロマサウナになっているので、オレはその日観る予定の「惑星DD」に合ったローズヒップサウナに入った。ヴイ館のこうした細かいプレ・インプリンティング・サービスはVRDのリアリティーを何倍にも高めてくれるので欠かせない。
和食レストラン「菜の和の国」のビールはキンキンに冷えていて、温泉とサウナで汗を流した後の喉には堪らなかった。思わず「カーッ」と唸って、喉の奥をゴキュゴキュ鳴らしながらビールを流し込んでしまう。息が止まって苦しくなるくらい一気に大量の黄金の液体が吸い込まれていく。やっぱりサウナの後のビールは堪らない。
「惑星DD」はアクションシーンもふんだんにあるので、食事はガッツリ力のつくボンゴ肉にしようかとも思ったが、「ディックス・ドリーム」に入会した時に移植してもらった最新インプラントには脳髄脳波漏洩防止アタッチメントをつけているので、翌日、致命的な空腹で目覚めることもない事を思い出し、馬面鹿うまづらじかのしゃぶしゃぶセットにした。
「馬面鹿」といっても鹿でも馬でもなく、遺伝子操作で造られた馬鹿でかい蟹海老だ。何でそんな名がついたのか全く分からないが、海老と蟹を合わせたような甘い甲殻類で、バケモノみたいにでかいので結構食べごたえがあった。
腹が一杯になると、目の周りからジワジワと眠気が湧き上がってきたので、そそくさと部屋に戻ってお目当てのVRDを観る準備にかかった。
まずはVRベッドの脇にある診断機とコードで繋がれた診断パッドを手首や胸、首などの所定の位置に貼り付けると診断機のスイッチを押した。
診断機がウンウン唸ってオレの身体を診断してい間、備え付けの冷蔵庫から缶ビールの小サイズを取り出して、プルタブを引いた。
あんまり酔いすぎてはせっかくのVRDが台無しになるが、食事の時にはその点を留意してジョッキ一杯しか飲んでいないから、これくらいは問題無いだろう。
ビールを一口、二口飲むと、風呂あがりの時のような、あの喉を掻きむしるような爽快感はもう無く、あれほど美味いとは思えなくなっていた。
ビールで舌を湿らせながら、診断機の上に置いてあったタブレットで「問診アンケート」に答えて送信する。
暫くすると、診断機が「ポーン」と鳴り、文字ディスプレイに「完了」の文字が点滅した。その後、診断機は「暫くそのままでお待ち下さい」と中年女性の声で何度も繰り返して言った。
ビールをチビチビやっていると、部屋のドアをノックする音が聞こえた。
「はい、どうぞ」少し眠そうな声でオレは答えた。
ドアを開けて白衣を着た三十代くらいの髪の長い、タブレットとトレーを持った薬剤師の女が入ってきた。
「お待たせしました。白石伊馬様ですね」女は左手に持ったタブレットを見ながら事務的に言った。
「はい」
「診断機の結果では問題ありません。アルコールは当館で大ジョッキを一杯飲まれているようですけど、それの他にアルコールを飲まれてますか?」女はオレが手にしている缶ビールを指差した。
「これだけです」
女は黙って頷いて、タブレットに何かを手早く入力した。
「ご起床は明日朝、八時前後で宜しいですね?」女薬剤師は小首を傾げた。今度はオレがビールを口に含んだまま黙って頷いた。
「ちょうどいい時間ですね。三十分以内に服用下さい」女は数種類の薬が入った小皿を載せたトレーをナイトテーブルに置いた。「お目覚めが悪く、二度寝しがちということなので、睡眠導入剤と一緒に醒覚誘導剤を出しておきました」
「ありがとう」オレが礼を言うと、女薬剤師は口の端をキュッと素早く釣り上げて、ちょっと変わった笑みを浮かべて部屋を出て行った。
オレは残った缶ビールで処方された薬を流し込み、VRベッドに横になった。
ディックス・ドリームの「誘導薬」は全て漢方か生薬で、フロントに飾られてる厚生医療省発行の無花果紋様が入った「健康優良保証章」がそれを証明している。副作用や中毒性がないので安心だが、効き目が少し遅いのが欠点だ。


VRD──ヴァーチャル・リアル・ドリーム──は元々、医療として開発された技術だ。
脳に髪の毛の何倍も細い電極を何百本も埋め込んで、そこに外部から脳波電流を流し、統合失調症等の精神疾患を治す技術開発が成功し、さらに精神疾患だけでなく、免疫力や自己治癒力を爆発的に高めることが分かった。特に癌や筋ジストロフィー症、アルツハイマー病等にも効果的だと判明し、加速度的に開発が進んだ。
外部から脳に脳波電流を流すということは視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚に刺激を与えることで、それを上手にコントロールすれば、現実に体験しているようにリアルな擬似現実体験が出来る「夢」が見られるようになった。
それは「夢」というより、「もう一つの人生を体験する」と言った方が良いだろう。VRDには大きく分けて、自分の意識や記憶がしっかり残ったままの「自我独立型」と「作品」に設定された性格・人格になりきり、現実の自分がいらない記憶も仮想刷り込みされる「浸透型」の2つに別れ、俗にそれぞれ「覚醒モノ」、「キャラモノ」と呼ばれているが、キャラモノはまさに「他人の人生を体験する」超リアルな人工夢だ。「覚醒モノ」が自我を残し、頭の何処かで自分の思考が覚醒していて、「VRを体験している」という意識があったり、映画を見ているような感覚でVRを体験するのに反して、キャラモノは主人公になりきり、人格がVRDで設定された人物になりきってしまう。どちらも本物の夢のようにすぐに忘れてしまったりはしない。
オレが見た「惑星DD」は半覚醒モノで、かなり作った夢になっていた。アクションシーンなどは浸透型で主人公になりきるが、それ以外はリアルな3D映画を傍観しているスタイルだった。
ストーリーは、事故で故障した宇宙客船から脱出ポッドで脱出した七人が謎の惑星に辿り着く話で、人類未踏の星系であるにもかかわらず、空気も重力も気温もまるでテラフォーミングしたかのように人類に適した惑星で、その謎を解いていくという話だが、気味の悪い地球外生物との戦いや大気圏内外兼用戦闘機による主人公の空中戦のシーンが見どころだ。
翌日の昼休み、オレは同僚の長沢と会社提携のレストラン、山猫亭で「惑星DD」の感想を語り合った。長沢は二週間ほど前に惑星DDを見ていて、オレにその感想を語りたくて仕方ないようだったが、「オレが観るまで何も言うな」と釘を差していたので、話したくて仕方のなかった長沢は堰を切ったように熱く語った。
「やっぱりさ、あのスピード感だよ!スピード感!素の俺だったらビビって失神しそうなスピードなのに興奮と爽快感を感じてるんだからな。あの感覚も主役のペドライ・ユークリストの感覚を再現してるんだろ?ペドライってスゲェよな」長沢は駱駝鰯らくだいわしの味噌煮を箸でつまんだまま、身を乗り出して語った。
「お話中、申し訳ありません。こちらの席にご相席宜しいでしょうか?」
唐突に女の声がした。振り返ると、総務部の西野玲香だった。その隣には同じ総務部の高山桃子が立っていた。
周りを見回すと、店内は満員で、その殆どが我が社の社員で、空いているのはオレと長沢の横の席だけだった。
「ああ、どうぞ、どうぞ」オレは手のひらで開いている横の席を指し示した。西野も高山も中々の美人なので、悪い気はしない。長沢もニンマリと微笑み、暗に了解しているようだ。
「お邪魔してしまい、申し訳ありません」西野は満面の笑みを俺たちに向け、高山に振り返り、「さあ、高山くん、お二人のお言葉に甘えましょう」
「はいっ、姉御。恐縮です!」高山は妙に甲高い声で答えた。
「おやおや、長沢さん、今日は魚の定食ですか?いつもは豚ロースの天ぷらや牛モツのボルシチなどの肉料理が多く見られたので、てっきり長沢さんは肉派だと思っていました」
「最近、体重が増えちゃって、血糖値とかもあるんで女房がうるさくて…」
「なるほど。そういうことでしたか。つまらない事を聞いてしまって、すいません。小さなことが気になってしまうタチなので…」
「そうなんすよ。姉御はどうでもいいことまで気になるタチなんです」高山が裏返った声で作り笑いを浮かべた。
高山の奇妙なチンピラ口調は明らかにVRD「新宿ドブネズミ」の亀有茂演じる、主人公の木村一朗太の口調だ。
「所で、偶然聞こえてしまったのですが、お二人は『惑星DD』をご体験なされたのですか?」西野が馬鹿丁寧な口調で尋ねた。
西野の口調はVRD「Rotte」の主人公松下左近のそれだ。
「新宿ドブネズミ」も「Rotte」もレンタルやセルのディスク物で、家庭用VRD体現装置でVRDを体験できるVRD媒体だ。
家庭で気軽にVRDが体験できて便利なのだが、厚生医療省認定の薬剤店で売っている「誘導薬」ではなく闇の誘導薬を使ったり、ディスクVRDの同じシリーズを連続体験するとそのキャラクターが浸透して、日常でもついつい出てしまう。
特に「新宿ドブネズミ」や「Rotte」はキャラモノで主人公しかキャラクター選択ができないので仮想人格の浸透性はかなり強い。
こうなってしまうと、自分では意識せずにそのキャラクターになりきってしまうので始末が悪い。西野はまだしも高山は総務部で上手くやって行けているのだろうか?まぁ、最近そういう人は増えているので、案外それ程違和感はないのかもしれない。
しかし、最近流行っている「無認可誘導剤」は副作用があるものが多く、社会問題になっている。サプリメントと銘打って売られているが、VRDが繁栄する原因となったポルノVRDに誘引されて発達したその手の厚生医療省無認可のVRD誘導剤は幻覚や人格刷り込みなどの副作用が問題視されている。しかし、法整備のほうが追いつかないのが現状で、野放し状態だが、確実に良い現実夢が体験できる市販のVRD誘導剤に規制がかけにくいのも現状だ。
誘導剤と言っても、記憶定着薬や刷り込み薬、バースト薬等、複数のタイプがあり、それを組み合わせることによって初めて理想のヴァーチャル体験ができるので、一つの薬剤だけではなんの作用も副作用もなく、併用することによってヴァーチャル効果も薬の副作用もあるので、その辺も法規制しづらい理由にもなっている。
オレが一人想いにふけっているうちに、長沢と西野達はグルメSFのVRDの話で盛り上がっていた。長沢が女子と会話が弾むのは滅多に無いことだ。
「いやあ、しかし長沢さんがネオ・キャトル肉に造詣が深いとは思いませんでしたよ」西野がつくづく関心したように言った。
「天然の牛や豚は急騰が止まらないからね。だからといって安い培養肉は抵抗あってね。それならまだネオ・キャトルの肉のほうが安くて安心じゃない?」
「全く同感です」
「あっしも、河馬鶏のしゃぶしゃぶサラダ大好きっす。カスタードチーズドレッシングだと最高っすよね」高山はヤンキーかチンピラのような口調の割には食べ物の好みは乙女のままのようである。
オレは最近流行りの遺伝子操作家畜ネオ・キャトルの事は余り知らなかったので、話に取り残されてしまったが、三人の会話は弾み、今度の週末にネオ・キャトル専門店に皆で行くことに決まってしまった。
長沢オススメのステーキ焼肉店で最近テレビでも話題になっているそうだ。
食事会というより飲み会であり、事実上の合コンだ。
オレも長沢も合コンなどというものとは縁遠いものだったので、長沢のテンションは一気に上がった。自分主催で合コンをするのは長沢の人生で初めてのことなのだろう。そういうオレも女からは全くモテなかったので、そういうところへ行くのは初めてだ。だが、オレの方は長沢のように素直に喜べず、気後れするばかりだ。
それから週末までの数日間、長沢のテンションは上がりっぱなしだ。独身のオレはいいが、女房子供がいる長沢がそこまで喜んでもいいのだろうか?


週末になり、長沢お薦めのネオ・キャトル専門店「螺旋亭」に長沢とともに行くと、すでに西野と高山が来ていた。
そして、もう一人、二人の横には総務課の桜井伊織が座っていた。
桜井伊織はアニメオタクの「不思議ちゃん」として社内でも有名で、男子社員からは嫌煙されていた。美人なのだが、マニアックで、時々何やら独り言を言っているのが気持ち悪いと毛嫌いされていたのだ。
オレは桜井と一度も話したことが無いのでよくわからないが、たまに何やら独り言を言っているのを聞いたことがある。


『しまった!これは図られたぞ』オレは内心そう思った。恐らく、男に縁のない桜井を気遣って、西野辺りが仕組んだ合コンに違いない。だから彼女が全くいなそうなオレが呼ばれたのだ。西野と高山がちょっとガッカリしたような表情を一瞬見せたような気がしたのは、『合コンなんだから既婚者の長沢なんかどうでもいいから、気を使って独身の男をもう何人か連れてこいよ』と云う心の叫びのような気もする。
合コンというものは、確か呼ばれた人数だけでなく、男子側と女子側がもう何人か連れてくるのが常識だという話も聞いたような気がする。だが、合コンに縁のないオレたちがそんな気遣いを出来る筈がない。
オレは三人の中では髪が長くて細面の西野が一番タイプだ。だが、この流れがオレの予想通りならオレにあてがわれたのは不思議ちゃんの桜井ということになる。オレは心の中でテンションを急降下させていたが、顔には一切出さないように努力した。


西野は依然として松下左近が取り憑いたままのようで、背筋をビシっと伸ばして日本酒の冷酒と法華牛の刺し身を上品に食べ、同じように木村一朗太が取り憑いたままの高山はなんだか解らない肉のステーキをジョッキのビールで豪快に胃に流し込んでいた。
この男性キャラが取り憑いたままの美人二人を見ていると不思議ちゃんの桜井伊織がまともに見えてくるから、不思議なものだ。
桜井伊織が席に座っているのを初めて見た瞬間、彼女が話しかけてきたら、どうにか話をはぐらかして会話から逃れようと思っていたが、伊織から実際に話しかけられてみると何も違和感はなかった。
話の内容もいきなりアニメではなく、アイドルグループの「なだれ坂42」の話だったのも嫌悪感を抱かなかった理由かもしれない。
オレがなだれ坂42の事を知っているのは、彼女たちが出演している「なだれ坂SOS」というテレビ番組を見ていたからで、それは元々その番組の後の「みなと酒もらい泣き」と云う番組が好きで毎週見ていたので、見落とさないように早めに番組を変えていたから必然的に「なだれ坂」の番組を観るようになっていた。


「なだれのグース・瑞希ちゃん、背が高くてモデルみたいで綺麗だよね〜。でも、伊織は小伏恵里菜ちゃんもかっこよくて好きかな?白石さんはどの娘が推しメン?」
「小濱諏訪ちゃんかな…」オレはさしてファンでもないので無難な所を上げた。それより桜井が自分の事を「イオリ」と言ったことが少しキモいと思った。
桜井伊織も「なだれ坂SOS」はよく観ているようで話は弾んだ。オレもたまに観ている「芋洗坂44」の「芋洗いって、ダサい?」という番組の話もどうにかついて来られた。
しかし、オレが中学の頃、「重機動兵アポロニオン」が好きだったという話をポロリとしてしまったものだから、話は一気にアニメの話に雪崩れ込んでいった。他の三人を見ると、VRD「Rotte」のバージョン7の話題で花を咲かせている。三人とも「なだれ坂42」や「芋洗坂44」に等全く興味はなかったようで、二つのグループは完全に決別されてしまったようだ。


オレと桜井伊織の会話は全て伊織がイニシアチブを握り、怒涛のごとく今流行のアニメの話を連射してきた。
オレがハマったのは二次元のテレビ番組のアニメで、最近の3Dアニメなどは全く見たことがない。ましてや覚醒モノのアニメVRDなど全く興味が無い。
アニメを現実として体感しようなど思ってもいないし、想像すらできない。
オレは話に全くついていけず、押されっぱなしだったが、唯一、VRDゲームの話ではどうにかついていけた。


VRDが娯楽メディアとして登場すると、すでにVRに進出していたゲーム業界はこぞってゲームのVRD化を始めた。特に株式会社ガセのCEOでありながら伝説的な天才ゲーム製作者でもある馬越氏は卓越したVRDゲームを次々と世に送り出した。オレも馬越氏制作のVRDGなら是非体感してみたいと思っていた。
だが、桜井が好きなのはアニメや漫画が原作のVRDGで殆どがロールプレイング系のVRDGだった。特に好きなのが、少女漫画原作の「銀河戦士マギガールズ」で、ロープレメインでアクションやシューティングのステージもあり、男子でも楽しめるとの事だった。ネットを通じて参加共感できるのが特徴だそうだ。
ネットを通じて、アクセスコードやパスワードを設定・公開し、世界中の誰とでもチームを組んでゲームしていくのが主旨だが、不特定多数の人間をゲームに引き入れてしまうのが問題で、ゲームを楽しむどころか不快な思いをすることが多いので、もっぱら個人プレーで楽しむプレイヤーばかりなようである。


「でも、白石さんなら安心。だから、白石さんとなら一緒にプレーしてもいいかな」そう言われて悪い気はしない。


数日して、桜井伊織はオレの部署に来て「銀河戦士マギガールズ」をコピーしたPPRディスクをオレに手渡した。
「これって、違法コピーじゃないのか?」
最近、ディスクの不法コピーが次々と検挙されていたので、オレは不安の面持ちで尋ねた。
「大丈夫。三回までコピーできるようになってるから。三回までなら合法よ」そう言うと、伊織はディスクと一緒に手書きのメモをオレに手渡した。
メモにはジャックインの時間やアクセスコード、パスワードなど、ネットでVRD共有するための必要事項とともに、伊織が薦めるVRD誘導剤の名前が十種類ほど書かれていた。市販のVRD誘導剤はオレも何種類か持っていたが、二次元VRDをリアルに体験するには普通の誘導剤では上手く行かないようで、オレの知らない種類の薬名がいくつも書かれていた。


社内で嫌煙されている桜井伊織のVRDGの誘いをバックレることは簡単だ。「ジャックインタイムにジャックインできなかった」と言えばいいだけの事だ。しかし、社内の人間が言っているほど桜井伊織がキモい人間には思えなかったし、一緒にゲームインすると約束してしまった以上、断る訳にはいかないと思った。


オレは仕事を終えて、通勤電車に乗って手曲川駅に降りると、市販のVRD誘導剤を買いに、線路脇の腹裂薬局に向かった。商店街からは少し離れていたが、馴染みの薬局なのでいつもこの薬局を使っている。
桜井がくれたメモの中で、オレが持っていない誘導剤はC型分岐誘発剤と定着固定剤RC、拡散発火剤Bタイプなどだ。どれも使ったことのない薬だったが、メモには商品名が書かれていたので、目当ての薬を探すのにそれ程手間はかからなかった。定着固定剤RCが見つけにくかったが、ちょっと離れた所に「ハイドロテクトロシン」というメモの中にあった商品名の薬が置いてあった。
「ああ、あった。あった」オレはハイドロテクトロシンと他の二つを持って、レジ番をしていた腰の曲がったメガネの爺さんのところへ持って行き、手早く精算を終えた。


家に帰ると、コンビニ弁当食べ、風呂に入ってすっきりすると、六種類のVRD誘導剤を飲んだ。それからテレビでニュースなどを見ながら過ごし、缶ビールを一本飲んで十二時前にベッドに入った。
起床時間は六時半に設定したので、午前二時くらいまでに眠ればよかったが、アニメのVRDGは初めての体験だったので、少し早めに寝ることにした。
起きてからも記憶できる夢というのは目覚めの数分から十数分の間に見るもので、人間は眠っている間に何回も夢を見るが、記憶できるのは覚醒前の十数分間に見る夢だけで、VRDもこの時間帯に体験するものだ。
しかし、VRD装置はレム睡眠時もノンレム睡眠時にも働いている。ストーリやバックグランドの情報を脳に焼きこんでいるのだ。例えるなら、大道具さんや小道具さん、美術さん等が舞台を作るようなものだ。キャラ物の主人公の性格や記憶などもこの間に脳の深層部に焼き付けている。
初めて体験するジャンルのVRDは時間と手間がかかるので、なるだけ早めに寝ておいたほうがよりリアルな夢を体験することが出来るのだ。


床に就くとすぐに眠気がやってきた。まだ意識がかろうじて覚醒している、夢と現実の間の時間帯にVRDGのキャラクターを選択することが出来た。
だが、少女漫画原作のVRDGだけあって、選択できるキャラクターは女の子だけだった。仕方がないのでオレは一番クールで背の高いマギブルーを選択した。
ゲームの内容は悪と闘いながら、人類の愛を救う「ムーンティアー」を求めて旅をする、といういかにも少女漫画原作のストーリーだった。初めはくだらない内容だと思ったが、ゲームを進めるうちにだんだん面白くなってきた。敵の怪物を倒すシーンがアニメだとグロくないのがいいのだろう。


翌日から、なんとなく昼休みは桜井伊織と過ごすようになっていた。朝体験したVRDの感想を語り合ったり、翌日の戦略を練ったりと、色々と語り合った。
しかし、恋愛に発展するような感じはなく、仲間というか趣味友達といった感覚だった。
色々、話をしているうちに伊織のタイプが背の高い男だとわかっていたので、彼女がオレに恋愛感情を抱くことはありえないと思った。
オレも背は低い方ではなかったが、彼女が背の高い男が好きな理由が、背の高い女の子を産みたいからで、その娘をファッションモデルに育て上げたいのだそうだ。
ファッションモデルの平均的な身長は170前後だから、身長170センチに届くか届かない程度のオレの身長では低すぎるはずだ。そもそも、オレのこの顔では何もかもムリだ。


伊織とのゲームは順調に進み、俺もゲームのコツを少しずつ覚え、ミニスカートのスースーする感覚やロングブーツのハイヒールにも慣れてきた。
そろそろラスボスの気配が見え始めてきた頃、激痛とともに眼を覚ました。
左右の脇腹が激しく痛む。起き上がれないほど痛い。喉も腫れているようで、かなり痛い。
オレは激しく痛む脇腹をかばいながら肘で漸くベッドに座ると、腰も両脇から背中にかけてジンジン、キシキシと痛みが走った。
脇腹と腰ほどではないが、全身の関節がキシキシと痛みを発していることに気付いた。インフルエンザの症状に近い。
だが、熱は少々あるようだが、咳は出ない。こういうタイプのインフルエンザもあるのだろうか?


オレは会社に電話を入れ、その日は休むことにした。「インフルエンザかもしれない」と課長に言うと、「必ず完治してから出社しなさい」と言われた。
食欲はあったので、朝食を摂ろうとしたが、咀嚼するだけで脇腹に激痛が走るので、トーストを半分ほど食べただけで、家を出て近くの内科医院に向かった。
内科で症状を伝えると、看護師もインフルの可能性を疑ったようで、すぐに血液検査と検温をされて、通常の待合室ではなく、奥の方の部屋で待たされた。
三十分ほど待たされて、診察室に行くと、脈や心音を診られた。


「う~ん、風邪だね。風邪と肋間神経痛、それに筋肉痛。インフルエンザも感染症も陰性ですよ。何も心配ない。二・三日で治るでしょう」と七十年配の白髪の医師は言った。「一応、薬は出しておきます」
ただの風邪でこんな激痛が走るはずはない。風邪でこんなことになった事も一度もない。この藪医者め。
しかし、愚痴を言っても痛みは消えない。オレは病院から家までの500メートル程の距離を死ぬ思いで帰っていった。
夕方になって、心配した伊織からラインが入ってきた。インフルではなかったが、激痛が酷いので今日のゲームはパスするとラインを返した。


翌日も思っていた通り痛みは消えていなかった。土曜日で会社が休みだったのが幸いだ。日曜日までに治っていなかったら、大きな大学病院に行くか、どこかで痛み止めだけでも処方してもらうしか無い。
日曜日になると喉の痛みは殆ど無くなっていた。痛くはないが何かで喉を突かれ続けているような違和感がある。脇腹の痛みも僅かに沈静化していたが、今度は股関節に激痛が走るようになった。
これはやっぱり大きな病院で診てもらったほうがいいかもしれない。下手をしたら入院なんてことになるかもしれない、等と一日中考えながら過ごしていると、夕方になってマンションのチャイムが鳴った。


カメラモニターを覗くと、そこには桜井伊織が立っていた。
何でオレの住所を知ってるんだ?と訝しんだが、すぐに彼女が総務部の人事課であることを思い出した。彼女にとって社員のプライバシー情報を手に入れるなんてなんでもないことなのだ。


「もう結構ゲーム止まっちゃってるからさ」伊織は玄関に入るなり、言い訳のようにそう言った。
そしてオレのげっそりした顔を覗き込むと、「大丈夫?かなり痩せたみたいだけど…」と言った。
「おかゆでも作ろうか?」
「悪い。助かるよ。硬いもの食べるだけで脇腹と腰が痛むんだ」
そう言いながら、この部屋に女子が入るのは桜井伊織が初めてなんだな…、とちょっとドキドキしたが、これが西野玲香だったらもっと嬉しいんだけどな、とも思った。しかし、身体が自由に動かせない今、友達のいないオレにとっては誰であっても見舞いに来てくれて嬉しい。
キッチンで伊織がおかゆを作る姿も憧れの光景だ。女に縁のないオレにとっては無縁の光景だ。伊織であれ、誰であれ、オレのためにおかゆを作ってくれるなんて…。生きててよかった〜と心から思った。


おかゆもコンソメに溶き卵で味付けしてあって旨かった。朝から殆ど食べていない所為もあって、ガツガツとおかゆを貪った。
そんなオレの顔を初めは微笑んで見ていた伊織の顔がふと怪訝な顔になった。
「髪…、急に伸びてない?」伊織が言った。
「そうかい?」髪を触ってみると顎近くまで伸びていた。数日前にそろそろ切ろうと思っていた時はどのくらい伸びてたんだっけ?
オレはいつも自分のブサイクな顔を見るのが嫌で鏡を殆ど見ない。伸びたといえば、伸びたような…。伸びてないといえば、伸びてないような…。まぁ、それ程気にする程でもない。
「うーん、そろそろ切らないとね」オレは曖昧に答えた。
伊織はまだオレの方を怪訝そうな目で見ていた。
「ちょっとゴメン」
そう言うと伊織は突然パジャマの上からオレの左胸を触ってきた。
「あっ!」オレは思わず小さく叫んだ。


オレは驚いた。伊織がいきなり胸を触ってきたことも驚きだが、それ以上に自分の声が妙に甲高かったことがそれにもまして驚きだった。
「ねぇ、女性ホルモンとかやってる?」伊織が不敵な笑みを浮かべた。
「や、やってないよ。そんなもん!」オレは大声で反論しながらも自分の胸を触ってみた。


ちょっと、ふっくらしてる…。


「ねぇ、やってるでしょ?誰にも言わないから、言ってみなよ」伊織の笑顔は完全に小悪魔のニヤニヤ笑いに変わっていた。
「やってないよ!ここ数ヶ月、飲んだ薬は誘導剤だけだ!こないだ藪医者からもらった風邪薬すら飲んでない!」オレは大声で叫ぶと、机の上に置いたままにしてある十数種類の誘導剤を指差した。
伊織はオレの指差す方向に視線を向け、誘導剤の林をチラリと見ると、視線を戻しかけたが、サッと林立する誘導剤に視線を戻した。
そして、その中の一つをじっと見つめるとその瓶を素早く取って、オレの目の前に付き出した。
「コレ、何?」
伊織の手にはこの前買ったハイドロテクトロシンが握られていた。
「何、ってこの前メモにかいてあった誘導剤だよ。この前、桜井がくれたろ?」
「私が勧めたのは『ハイドロテクノロシン』!コレはハイドロテクトロシン!メーカーもラベルも違うでしょ!」
手書きのメモにはメーカーもラベルのデザインも何も書かれていないんだから、そう言われても困る、と思いながらも、オレはこの間貰ったメモを探してデスクの引き出しをかき回した。
引き出しにしまってあったメモを取り出すと、確かにハイドロテクノロシンと書いてあった。
そうしている間にも、伊織はハンドバックからタブレットを取り出して検索してくれたようだ。
「あった!ハイドロテクトロシン、自己増殖型行動記憶系抗ウィルス・免疫爆裂強化剤。96時間効能継続保証…」
「何の薬なんだ?全くわかんないぞ」
「私にも分かるわけ無いでしょ?載ってるサイトはみんな専門家用のサイトみたいで、専門用語や化学用語ばっかで全然わかんないし…」
「名前からすると、抗生物質か免疫増強剤みたいだけど…」
「最新の新薬みたいで、一般のサイトには載ってないみたい…。けど、これと誘導剤を併用したから副作用が起きた可能性は強いわね」
「どんな副作用なんだ…?……」オレは自分自身に尋ねるように呟いた。
「ウチの掛かり付けのお医者さんでいいお医者さんがいるわ。町医者なんだけど大学病院並みの施設を持ってて優秀なお医者さんなの。そこに診て貰った方がいいわ。薬学にも詳しいし…」


翌日も会社を休んだ。伊織もオレのために有休をとってくれ、朝から車で迎えに来てくれた。
呉葉医院はオレの家から車で十五分ほどの古い住宅街の中にあった。木造一階建ての相当古い一軒家を改造したもので、入り口の上の錆だらけのトタン看板には「呉葉医院」と旧字体で右から左へと書かれていた。
入り口を入ると三和土になっていて靴を脱いでスリッパを履くようになっていた。三和土に上がると同時に消毒液の匂いが鼻を突いた。
昭和の香りどころか、本当に戦前からあった建物のようで、最新医学とは果てしなく縁遠いものに感じられた。
待合室にはすでに何人かの老人が静かに腰掛けていた。部屋の中央には大きなストーブが置いてあり、革張りのベンチも板壁も相当古いがよく手入れされていた。
話はすでに伊織の方から通っているようで、受付を済ませると十分も経たないうちにオレの名前が呼ばれた。


診察室のドアを開けると、そこは別世界だった。
壁も天井も真っ白で近代的な内装で、天井の大きなLED照明は眩しいくらいだった。横にある診察ベッドの枕元あたりからは何かの診察器具らしい折りたたみ触手がいくつも伸びていて、医師の机の前の三つのモニターの内、一つはどこか外国の診察室とネットで繋がれているようだった。
「どうも、医院長の呉葉です」白衣を着た四十くらいの白髪の紳士が座ったまま言った。「桜井さんから凡そのことは聞いておりますが、確認のためもう一度詳しいことをお聞かせください」


オレはVRDG誘導剤を誤飲したことや痛みが始まる前後のことを思い出せる限り正確に話した。
「ほお、ほお」呉葉医院長は書類に何か記入ししながらしきりに頷いた。
「では、ちょっと診させてもらいましょうか」呉葉先生は脈や喉を見たりとどこの病院でも初めにやる儀式のような診察を一通りすると、「では、胸をはだけてください」と言った。
上着を脱ぐと、昨日より明らかに少し大きくなった胸があらわになり、自分でも驚いた。
「ほお、ほお」再び呉葉先生は頷くと、今度はオレの喉を触ってきた。「はあ、はあ、成程…」
「先生、私はどうなってしまうんでしょうか?」自分でも不思議に、絞るような声で尋ねた。
「では、もうちょっと詳しい検査をしてみましょう」呉葉先生はオレの質問には答えずに、そう言った。
「石森クーン」呉葉先生は診察室の奥の部屋へ首を伸ばして誰かを呼んだ。
「はーい」「検査室」と書かれた部屋から二十五・六のとびきり美人の看護師が姿を表した。目が大きくて小さいがぽっちゃりした唇に細い鼻。モデルかグラビアアイドルのようでこの病院の外装や待合室とはとても似つかわしくない。真っ白い肌とは対照に時代遅れなまでに真っ赤な口紅が妙にエロチックだ。
「こちらの検査をお願い」呉葉先生は石森にファイル・フォルダーに挟んだ書類を手渡した。
「はい」石森は書類にざっと目を通すと、にっこり笑って「では、白石さん、こちらへ」と検査室を指した。
「では、採血をしますね。今日は三箇所ですよ」と言って腕と足首と腰のあたりの三箇所から採血し、同じような所にパッチのようなものを張った。その他、検温や心電図、血圧などを計ると、呉葉先生を呼んで、CTスキャンに掛けられた。CTスキャンがある町医者など初めて見た。「大学病院並みの施設がある」と伊織が言っていたが、喩え話ではなく本当のようだった。


検査を終えて診察室を出ると、待合室でかなり待たされた。他のおじいさんやおばあさんが診察を終えて次々と帰っていく。昼過ぎになるととうとうオレと伊織の二人だけになってしまった。
暫くすると、診察室から石森が出行きて、「ゴメンナサイ、もう少し掛かりそうなの。おなかすいてたら、悪いけど外で食事してきて」と言った。


呉葉医院がある街は古い住宅街で食べ物屋らしきものは見当たらなかった。コンビニすら見当たらず、見つけたのは汚い定食屋だけだった。
あまり歩きまわると身体のあちこちが痛むので、仕方なくその定食屋で豚のしょうが焼きを二人で食べた。驚いたことに、豚は本物の豚で培養肉やネオ・キャトルではなかった。
かなりゆっくり目に食事をとった。病院に戻ると入り口には「本日休診」の札が掛かっていた。今日は夕方まで診察日なはずだから、オレの検査のためにわざわざ休診にしてくれたんだろうな、となんだか悪い気になった。


戻っときてから二十分経ってもオレの名前は呼ばれなかった。
「やっぱ、髪伸びたね」突然、伊織がオレの横で言った。
髪に手を伸ばすと、顎の下まで髪が伸びていた。昨日より、かなり伸びているのが今日はハッキリ判った。そして二日前から髭を剃っていないのに顎はツルツルだった。
「白石さーん」2時を回った頃、漸く受付から石森がオレを呼んでくれた。
オレが診察室に入ると、何故か伊織もついてきた。呉葉先生もそのことをなんとも思っていないようで、どうやら二人がかなり親しい間柄だと勘違いしているらしい。


オレが診察室の椅子に座ると、先生は暫く黙ってオレの顔を見ていた。伊織はドア近くの丸椅子に座り、黙っていた。暫く嫌な沈黙が続いた。


「白石さん、まず結果から言いましょう」先生が意を決したかのように口をひらいた。オレはゴクリとつばを飲み込んだ。


「白石さん、貴方の身体の中で起こっているのは、女体化です」
「へっ?」
「貴方の身体のほぼ全体が女体化しています」
「胸だけじゃないんですか?」
「ご自分の喉を触ってみてください」
オレは自分の喉に触れてみた。初めは解らなかったが、喉仏が完全に無くなっていた。
「ひいぃっ!」ついつい大声になってしまったが、その声は完全に女のものだった。今まで、無意識に低い声を作ってしゃべっていたようだ。オレの無意識はすでにこの事態を薄々気付いていたようだ。
「そして、脇腹の痛みですが、両方の肋骨が一本三分の二ほど溶解しています。喉頭軟骨、つまり喉仏は軟骨ですから溶解が速かったようですね。もう完全に消滅しています」
オレは目を白黒させた。
「そして、溶解した肋骨の骨成分が骨盤の方に癒着し、骨盤自体も開きかけています」
「先生、私は女になるんですか!?」
「性転換、という意味でしたらそれは違います」
「でも、でも…!」オレは完全にパニクっていた。
「自然界で性転換というのはあります。しかし、それは小魚や虫などの小さな生き物で、人間のように大きくて複雑な生き物が性転換することはありえません」
「でも、実際女の子になってきてるじゃありませんか?」伊織が丸いすに座ったまま尋ねた。
「まず、こうなった原因をお話しなければなりません」先生は深く息を吸ってからそういった。「白石さんは元々、女性ホルモンが多い体質だったようです。多いと言っても男性ですから女性のそれとは分泌量は格段に違います。しかし、VRDGを体験されたと言っていましたね?それは女性のキャラクターではありませんでしたか?」
オレはカクカクと小刻みに頷いた。
「やっぱりそうでしたか。それで一時的に女性ホルモンの分泌量が更に増えたのですね」
「VRDGが原因だったんですか?」オレは女の声のまま尋ねた。
「いいえ、それだけでは一時的に増えるだけで、すぐに沈静化するでしょう。問題は白石さんが飲まれたハイドロテクトロシンです」
「それはどういう薬だったんですか」オレは尋ねた。
「抗ウイルス剤なんですが、命令記憶型の自己増殖遺伝子作用薬です。まあ、わかりやすく言えば、貴方の体の細胞を使って自己増殖するナノロボットと言ったら解りやすいでしょうか」
「それがどうして女体化なんてするんでしょう?」オレは先生の説明は全く解らなかったが、今はそんなことどうでも良かった。
「貴方の身体にはウイルスなど全く入っていない。なのにハイドロテクトロシンを過剰摂取した。四日にいっぺん飲めばいい薬を毎日飲んだんですからね。そこで薬の方は何か異常があるはずだと判断したんです。これは遺伝子薬でウイルスの遺伝子に直接攻撃したり、宿主の遺伝子に直接作用して機能の改善増強などをする薬です。貴方の身体に大量に分泌された女性ホルモンを「過多」だと判断したのではなく、「過小」と判断したんです。女性としては異常に少ないと」
「じゃあ、やっぱり女になるんじゃないですか」オレはもう泣きそうだった。
「いや、いや。落ち着いて。最後まで聞いてください」先生は大きな手でオレの方をしっかり掴んだ。
「人間の性はお母さんのお腹にいる時に確定します。その後の変更はありません。両性具有などという例はごく少数報告されていますが、生殖器が変換されることはありえません。しかし、喉仏や肋骨などは男性であれ、女性であれ、なければないでも生殖機能が損なわれることはありませんから、このような遺伝子薬がエラー活性して肋骨を消滅させることはあるのです。しかもこの薬は男性ホルモンの一番多い男性器周辺では貴方を男性として判断したようです」
「どういう事ですか?」
「女性と判断したフィメール系の薬と男性と判断したメール系の薬の間で攻防戦が起きたんですね。フィメール系は体全体に女性ホルモンを分泌させようとし、メール系は男性器に男性ホルモンの分泌を集中させようとすることでお互い合意したようですね。分泌された男性ホルモンは男性器への直通ルートみたいなものを獲得したようです。メール系の薬は男性器が守られていれば、他はどうでも良かったようです。男性器は大きくなるかもしれませんが、矮小化することはありません」


オレはうつむいたまま暫く黙っていた。
「つまり、男ではあるけれど、外見は女になるということですね」オレは小さな声で尋ねた。
「まあ、そういうことです」そう言うと呉葉先生は奥から石森看護師を手招きして呼んだ。
「最後に一つだけ質問させてください」そう言うと少し遠くに立っていた石森をもっと近くに呼んだ。「私と彼女をようく見て考えてください。私と彼女と恋愛するならどちらですか?」
オレはすぐに石森を指差そうと思ったが、ゆっくりじっくり考えてみた。そして、石森の方を指差した。
「ああ、安心した。なら、白石さんは何の問題もありません。痛みも二三日で完全に消えます」


何の問題もない?大ありじゃないか?これからどうやって暮らしていけばいいんだ?そう思ったが、唇を噛みしめるだけで、何も言えなかった。
すると伊織が隣のサイドテーブルのようなものに置いてあった四角いものを持ってオレの方に歩いてくると、それをオレに黙って手渡した。


鏡だった。それを覗くと、そこには美しい美女の顔があった。石森に勝るとも劣らない美人だ。しかし、次の瞬間、それが自分の顔だと気付いた。
オレは鏡を裏返し、左右を振り返って後ろに誰も居ないのを確認すると、もう一度鏡を見てみた。


可愛い。
だが、たしかにオレだ。目が大きくなり睫毛も長くなったような気がするが、たしかにオレの顔だ。
今までブサイクだと思っていたオレの顔が女になるとこんなに綺麗になるのか…?


「ねぇ、可愛いでしょ?」伊織がワタシの横にしゃがみ込み、肩を寄せてきた。
「何も心配ないよ。私が責任とるから。会社にも私が説明して今まで通り働けるようにするから心配しないで」そう優しい声で言う伊織が頼もしく、男らしく思えた。
「でも…、でも…」ワタシは何がなんだか分からなくなって涙がこみ上げてきた。
「大丈夫。大丈夫。こんなに可愛いんだもん。自身を持って」伊織はワタシの手に自分の手を重ねてきた。その手は火傷しそうなほど熱かった。
「健康には何の問題もないって先生も言ってるんだから」伊織はワタシの前に回り込むとグッと身体を寄せてきた。蒸気のように熱い息が顔にかかった。


「さあ、帰って今後のこと考えましょ」伊織は未だに呆然している私を立たせた。
「ホント、綺麗…。背も高くてモデルさんみたい」そう言う伊織の目はちょっと血走ってなんだか変だった。


もしかしたら、女を口説く男の顔ってこんなのかもしれないなぁ、と漠然と思った

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