風の調べと、竜の誓い【旧:男の娘だけど~】

高瀬暖秋

救いの在処【3】

 

 拙い言葉でルナが全てを話し終えた。そして、再び洞窟内には沈黙が訪れる。互いの心情を投影したように、深くかつ透き通った沈黙。それが映し出しているのは互いのどんな想いであるのか。

 少なくとも、オーグの想いであるならば、ルナの事を知りたい、それを知ってもっとルナに近付きたい、そういった純粋な想いがオーグにはあった。

 この沈黙にルナは一体、何を感じているのか。自身の今までの人生を明かしたルナは今、何を思っているのだろうか。この沈黙に、少女は何かの言葉を欲しているのだろうか。
 そんな無限迷路のような思考を、オーグはただ繰り返していた。

 しかし、それが苦悩に繋がるものであるかと言われれば、そうではなかった。
 この沈黙は確かにオーグにそれだけの思考を強いていたが、それらは決して苦ではなくむしろオーグにとっては心地の良いものであった。
 それはこの洞窟に入る以前の激動と現状を見比べての安寧のためであることは言うまでもないが、何もそれだけだというわけでもなかった。

 オーグにとって、ルナの事について深く思考を巡らせるという行為そのものが、そもそも不快に成り得なかったのだ。
 普段から思慮の足らない余りアレンに叱咤を受けることがまああるオーグだが、不思議と現在は落ち着いており比較的クリアな思考回路でルナの事を考えていた。

 それが可能となっているのはこの空間の静けさ故か。そんな事もオーグはふと考えたが、すぐにそんな思考は切り捨てた。それは折角自身に訪れた貴重な思考の機会を無駄にしたくはなかったから。
 だから、オーグは気付けない。自身にその機会が訪れた理由に、無意識にオーグがルナへと抱く特別な感情が起因していることを。

「……オーグ」

 先に沈黙を破ったのは、ルナだった。
 その声を聞いて、オーグはすぐにしまったな、と後悔する。
 現在の二人の心境を比べてみれば、当然不安定になっているのはルナであることは明瞭だ。であれば、話を切り出さなければいけないのはオーグだ。

 沈黙を破るという行為は心に相応の負担が掛かる。その沈黙が自身の言葉によって訪れたものであるなら、それは尚更だ。
 今、揺らぎきってしまっているルナの心に更に負担をかけることは本来なら避けるべきだった。

 とは言え、過ぎた事を考えていても仕方がない。そうすぐに気を取り直して、オーグは思い付きの言葉を返す。

「……辛かったんだね」

 ふと出た言葉は、余りにも薄っぺらい他愛のない言葉。
 相手の事を理解して、同情して、その上でその辛さに共感して、共に悲しんでいるようで。
 しかしその実理解などは出来るはずもなくて、安っぽい同情をして、その上で共感しているふりをして、自身の希薄な価値観でその辛さを推し量った、少女に対して余りにも薄情な一言。

 思わず出たそんな自身の言葉を耳にして、オーグは自己嫌悪に襲われる。
 なんて自分は薄情な奴なのだろう、なんて酷い奴なのだろう、と。なまじ思考が円滑なせいで、そんな自身を卑下する言葉がオーグの頭で無限に浮かんでいった。
 それを可能な限り振り払うために他の事に意識を割こうと、オーグはただ強く拳を握った。

 しかしそんなオーグに対して、ルナは可愛らしい笑みを浮かべた。

「今、オーグ、いる。オーグ、私、救った。だから、辛くない」

 その言葉は、その笑顔は、間違い無くオーグの救いだった。

 あなたに救われたのだと、そう真摯に伝えるルナの言葉。この笑顔があるのはあなたのお蔭なのだと、そうに伝える一途なルナの眼差し。
 それらは寸分違わずオーグの救いであり、同時にオーグの心を揺るがすものだった。

 違う、そうじゃない。救われているのは俺だ。

 ルナの純粋無垢な笑顔に反して、オーグの脳裏に浮かんだのはそんな自身を卑下する言葉。それはある種、自分へと向けられた少女の笑顔を否定してしまっているようでもあった。
 そんな言葉はオーグの頭で反芻され、無意識にそれは口から溢れ出ていた。

「……違う、違うよ。俺は、君を救えてなんかいない。君の苦しみは、俺なんかが救えるほど薄っぺらいものじゃない」
「……オーグ?」

 ――想像以上、だった。

 人並み以上の困難に、悲しみに、自分は慣れているものだと勘違いをしていた。他者は自分程辛い道のりを歩いてはいないと、どこか無意識に自分を強い人間だと信じていた。
 そんな自分だからこそ、誰よりも他人を憐れむ事が出来て、誰よりも他人を救えるものだと思い上がっていた。

 なのに、違った。
 この少女の持つ悲しみや苦痛は、自分の抱える過去よりも深く、重く、心の冷たいところに染み着いて、決して取れない、剥がれないものだった。
 自分の過去など作り話の悲劇に聞こえるほど、少女の過去は凄惨なものだった。

 だからこそ、オーグは理解した。自身の救いが一体何から生じているものなのかを。

「結局は、俺は俺のために、俺を救ってただけなんだよ。今まで俺がしてきた失敗を、もう一回やり直して、その失敗を無かったものにしようとしてた。俺に君を救う気なんてなかったんだ。だから、救えるわけもなかった」

 今までルナに施してきた救済は、決してルナのための救いではなかった。
 あくまでもそれらはオーグ自身の過去を、その過ちを、清算するため。過去に自分の成し得なかった事を、今になって成し遂げたつもりになるため。そんな浅はかな思惑が入り乱れていた、オーグ自身への救済。

 それを見かけだけでもより良いものにするためにすり替えただけだった。見るに耐えない醜悪な何かに布を被せるように。自身の救いを、ルナの救いに。自己満足を、他者への救済に。

 今にも擦り切れそうな程鋭く敏感になっている思考で、オーグはその事を自覚した。

 その上で、救われた。余りにも純粋無垢なルナという存在は、複雑怪奇に入り交じるオーグの罪悪感を救った。

 だから、オーグだった。救われていたのは、他ならぬ少女を救おうとしていたオーグだった。ルナを救ったような体で、その実自分を救って、そこで完結するのかと思えば、更にルナに救われた。

 つまり、結局は何も救えていなかった。見かけだけ良くして救ったはずの自分でさえ救えず、本来救われなければならないはずのルナに救われた。

「だから、そんな目で見ないでくれ。俺の行動は全部自己満足だったんだよ。……むしろ、救われたのは俺の方だ」

 オーグは俯き、自分を卑下するそんな言葉を吐く。
 だから、期待しないでくれ、と。これ以上俺に出来る事など無い、と。
 今も美しく輝くルナの金色の瞳を疎ましく思いながら、そんな言葉が続く言葉を吐き捨てるように言った。

 実際、現状は八方塞がりだった。
 二人は獣に追われて、何とかこの洞窟まで逃げのびた。しかしそれは所詮は一時しのぎの手段。獣の五感をもってすれば、二人が見つかるのは時間の問題だろう。

 運良くその時が延びていったとしても、決意を固めてこの洞窟から出なければこのまま飢え死にという可能性すら生まれてくる。
 また、運良く獣に見つからずに洞窟から出ることが出来たとして、その後どこへ逃げればいいというのか。来た道など覚えてはいない、向かうあてなど無い、そしてこの山からは出られない。ただ、獣に襲われるその時を待つのみ。

 そんな絶望しかオーグの思考には浮かんでこなかった。

「……オーグ」

 もう、いっそ諦めてしまおうか。
 そんな事ですらオーグは考えてしまっていた――そんな時。

 ルナはオーグの手を握る力をより強くし、真っ直ぐにオーグを見つめた。

「オーグ……救った」
「救えてなんか……ないよ」

 ルナの問いに、オーグは俯いたまま答える。
 そんなオーグの答えにルナは首を横に振った。そして、今度ははっきりと言った。

「オーグ、救った?」
「……え?」

 言い切ったと思ったルナの言葉は、問いだった。

 それを聞いたオーグは思わず声を漏らす。
 救った? 何を? 現在進行形で救われているこの自分が、何を救えた?

 その答えを再び口を開いたルナが告げる。

「オーグ、友達、救った?」
「……友達?」

「うん。私、似てる、オーグ、言った。オーグ、その友達、救った?」

 拙い言葉でルナが救いの対象として指していたのは、オーグの友達――アレン・ハーヴィ。つい先程オーグがルナに似ていると言って話に出したアレンだった。

 ルナの言葉に、オーグは黙った。
 言葉を発するための意識を全て自身の思考へと回し、その答えを探すため。

 アレンは、救われていたのだろうか。ずっとどこか寂しいような笑みを浮かべていたあの少年を、自分は救えていたのだろうか。

 少なくとも、二人で旅立ちを決意したあの日、あの日のアレンの笑顔は間違い無く寂しさを宿してはいなかった。あの日オーグに向けられた笑顔は、救われた者の笑顔だった。

 けれど、そうなるに至った要因はベルナルドの死。ベルナルドを死に至らしめた、あの剣。そして、その絶望。
 誰もあの絶望を二度と味わわなくていいように、アレンは立ち上がる決意を固めた。そして、あの寂しい笑顔を浮かべるのをやめた。

「…………………………ない」

 ふと、オーグの口から声が漏れた。

「……救えてなんか……ない」

 救えてなんか、いなかった。
 あの寂しい笑顔を消し去ったのは、外でもないアレン自身だった。

 その時のオーグはただ、絶望に打ちひしがれ、ただただ後悔していただけだった。
 しかしアレンは、そんな絶望を目の当たりにして打ちひしがれるどころか、立ち上がって立ち向かった。もう誰も悲しまなくていいように、と。父の死を嘆くオーグのような者をもう見なくていいように、と。

 そうして改めて気付かされる、アレンの強さ。そして、自分の弱さ。
 他者に対しての救いを掲げて立ち上がったアレンと、自分に対しての救いを掲げて立ち上がった自分。

 結局、自分は救われてしかいないのだ。自分に誰かを救うことなど出来ないのだ。

「俺は! アレンでさえも! 救えてなんかいないんだ!!」

 そんな悲痛な叫びと共に、オーグは握っている拳に更に力を加える。そして、それには言わずもがなルナの手を握る方の手も含まれていた。

「――っ!?」

 突然凄まじい力がルナの手に加わり、ルナが顔をしかめる。

 それもそのはず、ルナの手に加わった力は当然獣人の有する怪力である。加えて、無意識に籠められたその力は加減されること無く、ありのままの力がルナの手に加えられた。 

「あっ!? ご、ごめん!!」

 その事にオーグはすぐに気が付き、ルナの手を握る手を咄嗟に離そうとする。

 だが、その行動は他ならぬルナに阻害される。
 ルナは離れそうになったオーグの手を再度掴み、強く握った。

「……痛くない」
「で、でも!!」

「…………んっ!!」

 オーグはルナの手が再度掴んだ手を、またも振りほどこうとする。
 今ルナに触れているこの自分の手が、ルナを苦しませた。ならば、自分にルナに触れる資格など無い。そう思っての行動だった。

 しかし、やはりルナはその手を離してはくれなかった。
 またもや離れそうになったオーグの手を、今度こそはと言わんばかりに、ルナは両手で強く握り締めた。

 それにより、オーグの手に相応の圧力が加えられる。
 しかしその力は所詮は幼い少女のものであり、それが例え両手であったとしても痛みを伴う程ではなかった。それこそ、振りほどこうと思えば振りほどく事も出来るくらいに。

 だが、オーグはそうはしなかった。
 その手に力を籠め、一生懸命にオーグに視線を向けるその少女の眼差しが、余りにも強いものだったから。

「オーグ、痛い?」
「ううん、痛くない」

「なら、私、痛くない。オーグ、握っても、痛くない」
「……嘘つくなよ。絶対、痛かっただろ」

「ううん、痛くない。……だから、握って。ずっと、握って」

 ルナは極めて真剣な眼差しで、そう言った。
 自分はこの手を離したくはない。この手に宿る温もりを、もう二度と離したくはない。
 そんな想いが、ルナの眼差しからひしひしと伝わってきた。

「……わかった」

 その想いに応えるように、オーグはまたルナの手を握る。
 そうしてオーグはまたルナの手の温もりを手に入れる。微かに、けれども確かに熱を帯び、繋がりを感じさせる温もり。それに救われたのは、何もルナだけではない。その温もりは確かにオーグの心に安らぎを与えてくれた。

「オーグ、友達、救えなかった。オーグ……辛い」

 尚も力強くオーグの手を握り締め、ルナは言った。

 その言葉に、オーグは不思議と理解した。この少女は自分の痛みを理解しているのだ、と。

 オーグの苦しみが何から生じているのか、それがどのように拗《こじ》れてしまっているのかを。すっかり複雑に絡まってしまっている感情の糸を、どのように解《ほぐ》していけばいいのかを。

 そしてそれは先程オーグが発したような中身の無い薄っぺらい同情などではなく、真に相手を理解した上でその痛みに同情して、同調して、生まれでた言葉。
 たとえオーグの発した言葉と同じような音の並びであっても、ルナの言葉が稚拙なものであっても、その言葉は何よりも力の持った言葉であった。

 そもそも、オーグの苦しみとは罪悪感であった。
 自分への救済を、あたかもルナへの救済のようにすり替える。無意識故に浅ましく、醜く、卑怯な行為。
 それを行い、自己満足に浸っていた事から生まれる罪悪感。あたかもルナを救っているように見せて、結局は救えていなかったことから生まれる罪悪感だった。

「ほんとに、ごめんね」

 自身の行いとルナの想いを理解して、オーグの口からそんな言葉が出た。
 それは決して卑屈なものではなく、自分を理解してくれたルナへの感謝が籠められている言葉だった。
 だからこそ、オーグは予想だにしなかった。まさかその言葉が、ルナによって否定されるなんて。

「オーグ、駄目」
「……え?」

 全く予想していなかったルナの言葉に、オーグは間抜けな声を出してルナの方へと顔を向ける。そこには相変わらず真っ直ぐな視線をオーグへと向ける、可愛らしい少女の姿があった。

 ただし、その可愛らしいと表される容貌は以前のものとは僅かに変化があった。何かを不満に思っているのか、少しその頬を膨らませていたのだ。
 しかし、そんな表情も幼い少女のものであれば、当然可愛らしいと表されるに相応しい。そこにはオーグが一瞬目を奪われる程の可愛らしさがあった。

 しかし、すぐに意識を取り戻し、オーグは思考を始める。

 仮にルナの表情が怒りを表しているとして、一体ルナはオーグの何に対して怒りを感じているのだろうか。直後の会話を省みるに、最も考えられることはオーグの謝罪の言葉であるのだが、当のオーグにはその理由がさっぱり分からない。

 文字列からオーグの言葉を理解すれば、それは間違い無く謝罪の言葉であるのだが、実際そこに含まれている意味合いは感謝である。であれば、それを咎められる理由がオーグには見当たらないかった。

 そんな中、可愛らしい表情を浮かべながら、ルナはオーグへと答えを告げる。

「オーグ、なんで、謝る?」
「なんでって、そりゃルナに悪いことしちゃったから」

「悪いこと、何?」
「それは……だから……」

 そこで、オーグの言葉は途切れた。
 それは不意にルナに問われた事の答えがすぐに浮かばなかったからだった。

 ルナに対して悪いことは確かにしている。その自覚はオーグにもあった。無意識とは言え自己満足の為にルナを巻き込んでいる事や、つい先程感情に任せてルナの手を握り締めてしまった事。
 確かに謝らなければならないようなことは確固として存在する。ならば、謝る事も道理と言える。

 だが、今オーグを悩ませていたのは自分自身の言葉の意味だった。
 つい先程オーグが謝ったのは、一体誰に対しての何に対してだったのだろうか。本当にその言葉はルナに対しての感謝が籠められていた言葉であったのだろうか。

 そんな思考を繰り返し黙り込んでいると、そんなオーグにルナが言った。

「オーグ、悪いこと、無い」

 キッパリと言い切った、ルナのそんな物言い。

「……そんなわけないだろ」
「じゃあ、何?」

「……だから、それは……俺の自己満足のために、ルナを利用して、そのくせに、ルナを救えな――」
「違う!」

 考えた末にオーグが出した答えを、ルナはこれまでにない力の籠った叫びで、否定した。その力の余り、オーグは洞窟中の空間全てが揺らいだかのような錯覚を覚えた。

 突如訪れた、一瞬の喧騒。そして、その後を追うように訪れる静寂。
 それは何よりも、今まで一定の熱度で話していたルナの心が、揺らいだことをオーグに理解させた。

「あ……いや、ごめん、なさい」

 自分がこの場の雰囲気を乱したことを自覚したのか、静まりかえった空気の中でルナは小さく謝った。

「いや、全然いいんだけど。……それよりも、続きを聞かせて」

 また元の熱度へと戻ろうとしているルナを見て、オーグは更なる言葉を求める。

 知りたかった。
 他者よりも悲惨な苦しみを抱きながらも、他者の痛みに同情して、理解する事の出来たこの少女が、オーグの罪の懺悔に何を感じたのかを。

 ルナはオーグの言葉を受け、おどおどしながらまた口を開いた。

「違う、違う。……オーグ、私、救った」
「そんなわけないだろ。救えてたら、今みたいな状況になってない」

「違う。今、状況、悪い、本当。……でも、私、辛くない、苦しくない……寂しくない」

 自分は既に救われている、そう伝えてくるルナの言葉に、オーグは胸が締めつけられるような心境でいた。自分にとっての救いであるルナの言葉は、余りにも耳に心地のいい言葉であるが故に不意に自身を許してしまいそうになり、再度罪悪感を覚えた。

 そんな罪悪感を覚えながらであっても、オーグの視界には少女の姿があった。必死で自分を救おうとしてくれる、少々の姿があった。

「オーグ、私、助けられなかった、言った」

 首を縦に振る。そうだ。自分はルナを救えてなんかいやしない。

「オーグ、私、助ける。それ、自己満足、言った」

 首を縦に振る。そうだ。そんな想いは、偽善だ。

「オーグ、自分、悪い、言った」

 首を縦に振る。そうだ。全て、自分が悪い。

「そうだ、そうだよ。全部、俺が俺のためにやった事で、その中でルナを救うことなんて出来なくて、それでも救えてもないのにずっと救った気になってて、調子に乗って、でしゃばって、ずる賢くて、気持ち悪くて、馬鹿みたいで……そのくせに、何も出来ないでいて」

 ルナの言葉に誘われるように、オーグが口にしたのは、ずっと胸の中に溜まり続けていた、吐き気を催す程胸糞の悪い自分を卑下する言葉達。それを実際に吐き出すように、嗚咽を漏らしながら、オーグは口にした。

 胸が苦しい。喉が燃え、呼吸が乱れる。頭が割れるように痛み、目を瞑る。足腰は震え、地を踏みしめることさえ叶わない。所々声に混じる嗚咽は、目頭に何か熱いものが込み上げるのを誘発する。

 自覚はあった。だが、実際に自身の汚点を他者に口にされるのは存外辛いものがあった。それ故に、向き合いたくもない自分と向かい合い、ずっと堪え続けてきた自分を吐き出さなければならなかった。
 しかしそれでも、オーグは卑怯な自分を晒け出すのをやめない。

「ずっと、ずっと、そうだったんだよ! 俺は誰かに凄いって言って欲しかった! 格好いいって言って欲しかった! 良くやったって誉めて欲しかった! ……自慢出来る奴だって、言って欲しかった」

 今はいない、あの人に、あの人のように。
 せめて顔向け出来るくらいには、あの人に誇れる自分でありたかった。

「薄っぺらいんだよ! 誰かを助けたいなんて立派なものじゃなくて! 自分の中の不安を消すためだけに、自分のために一生懸命になって! しかもそれが誰かのためだなんて、意気込んじゃって! ……ほんと、馬鹿みたいで」

 溢《あふ》れていく。
 ずっと自分の目指すべき姿だと捉えていた、あの背中への憧れが。

 溢《こぼ》れていく。
 それに手を伸ばそうと一生懸命にもがいていた、自分の醜さが。

「……格好悪い」

 胸中に溜まりに溜まった汚濁を吐き出し、オーグは荒い息を吐く。
 目障りだと布を被せていた自身の本性を晒け出し、その全てを少女にぶつけた。

 けれども、自身の胸の凝りが取れたことで気が晴れて爽快な気分になる、なんてことはなく、むしろ醜くもがく自分を自覚させられたことによって、オーグの心にはより一層分厚い暗雲が立ち込めていた。
 そしてその一要因として確かな事は、オーグがそんな醜い自分を理解し、その上で肯定したことだった。

 その行動の全ては自分を良く見せようとする虚栄心により突き動かされ、その想いの全ては他人の事を省みない利己心から生まれ来る。

 ――自分は醜い。

 でも、しょうがないだろう。仕方が無いだろう。誰だってそうだ。誰だって対価を求めずに誰かに手を差し伸べているようで、その実そんな自分に酔いしれて生きているのだ。結局は相手の事など眼中に無く、一方的に相手を救い、一方的に自己満足に浸る。誰だって、そんなものだろう。

 だから、自分もそれで良いじゃないか。そんな自堕落で、醜く、あさましく、おぞましい自分で良いじゃないか。誰だって、そうなのだから。

 他者を救えない自分と他者に救われる価値の無い自分。そんなみっともない自分を自覚して、肯定したオーグ。
 もう誰にも手を差し伸べる事無く、同時に誰にも手を差し伸べられる事も無い。それはまるで存在する価値すら無いただの木偶の坊だった。

 だから、もう、誰もそんなオーグに関わろうとする者などいない――はずだった。

「……オーグ、駄目」
「――――」
「オーグ、格好いい。だから、そんな事、言う、駄目」

 ――手を、握ってくれている少女がいた。

 どんなにオーグがその手に力を籠めても、痛いとも言わずにその手を握り続ける少女がいた。
 どんなにオーグが自分の醜さを露にしても、相も変わらずにその手を握り続ける少女がいた。
 どんなにオーグがその手を振りほどこうと、変わらぬ決意でその手を握り続ける少女がいた。

「オーグ、私、助けられなかった、言った。……それ、違う」
「――――」

「オーグ、私、助ける。それ、自己満足、言った。……それ、違う」
「――――」

「オーグ、自分、悪い、言った。……それ、違う」
「――――」

 ルナは全てを否定した。

「オーグ、私、救った。それ、自己満足……構わない。私、救われる、オーグ、救われる。二人共、救われる。それ、一番、良い。だから、オーグ、悪くない。だから――」
「――――」

「――だから、オーグ、自分、救って。そして、私、救って」

 彼女は信じている。
 例えその救いがどんな思惑を担っていたものであれ、間違いなくそれは自分を救ったのだと。

 彼女は信じている。
 その救いは決して汚濁にまみれたものでは無いのだと。

 彼女は信じている。
 そして、その救いオーグは必ず自分を救ってくれるのだと。

「――――!?」

 オーグは、静かに震えた。
 自身を呪うような戯れ言を言っていたあの時感じていた手足の震えは、ない。手は少女の想いを噛み締めるように堅く握り締め、足は少女の肯定した己の存在を確かめるように地を踏み締める。
 だけれど、確かにオーグは、震えていた。

 胸が痛かった。
 自分自身ですら自分を信じることなど出来ていないのに、目の前の少女は自分に対して計り知れないほどの信頼と期待をよせている。

 その想いが、重かった。辛かった。自身の心の臓が、その想いがお前の身の丈に合うことはないのだと、その脈動を激しく活動させている。

 次の瞬間、オーグは自らの心臓を叩いた。
 ふざけるな、と。そんなわけが無いだろう、と。

 オーグには分かっていた。
 自らの身体に訪れたこの震えは、自らの心臓が急かすように動かすこの脈動は、決してその想いの丈を自分が受け止めきれないから発現したものでは無い。そんなある種の逃亡のような類いのものであるわけがない。
 これは確かにオーグの心を奮い起たせるものに相違ない。

 身体がその振動を止めないのは、自身の胸の感動を抑える方法を知らないから。
 その胸に痛みを感じているのは、それ以外に喜びを表現する術を知らないから。
 心臓がその脈動を止めないのは、それ以上に昂りを伝える手段を持たないから。

 応えなければ、ならない。不器用でありながらもこの上無く真っ直ぐに、少女の伝えた自分への想いに。

 そんな感情が、オーグの胸中で沸々と沸き上がる。
 それは重圧からくる責務感などではなく、純粋にオーグの胸に溢れゆく、希望。自分を信頼してくれる少女の期待に応えたい。オーグの心に芽吹いた、勇気。

「俺は、君を救ってもいいの?」

 自分は、本当に救う資格を持っているのか。
 そんな意味が籠められた言葉。

 それにルナは頷いて、肯定を示す。

「俺は、俺を救ってもいいの?」

 自分は、自分の自己満足を否定しなくていいのか。
 そんな意味が籠められた言葉。

 それにルナは頷いて、肯定を示す。

「……そっか」

 そうして、オーグは気づかされた。
 何よりも純粋無垢な少女の想いに。

 ずっと澄み渡っていると思っていた自身の思考回路。それが絶え間無く生み出していた問いとその答えは、下らないものだということを。無理に複雑な御託を並べて作り出した答えなど、必要無いということを。

 もっと単純で良かった。もっと素直で良かった。
 誰かを救うことに小難しい理由など必要無かった。ただ自分が思うままに、その手を差し伸べるだけでいい。

「ありがとう、ルナ。なんだか俺、考えすぎてたみたい」

 それを気付かせてくれた少女に、オーグは素直に礼を告げる。

「……オーグ、私、救ってくれる?」

 オーグの意志を再度確認する、少女の問い。

 難しい問いではない。むしろ、既に答えの用意された簡単な問い。
 仮にその答えに至るまでに壁があるとするならば、それはオーグ自身の心。
 しかしその壁でさえも、既にオーグにとっては壁に成り得ない。考えすぎる事を止めて至極単純な自分の気持ちに気が付けたことで、元々ありもしなかった壁は完全に消失した。
 そうなってしまえば答えは簡単だ。ただ、自分の想いを伝えるだけで良いのだから。

 けれど、オーグがその問いに答えるのにはそれなりの間を必要とした。
 それは、迷いでは無い。その更なる先を見据えた、決意。
 醜い自分を肯定し、その上で救いを与えるための、勇気。

「こんな俺だから、またルナを不安にさせてしまうかもしれない。それでもいい?」
「……うん」

「こんな俺だから、また俺が不安になっちゃうかもしれない。それでもいい?」
「……うん」

「こんな俺だから、また無茶して怪我しちゃうかもしれない。それでもいい?」
「……駄目」

「そっか、それは駄目か」

 ルナの答えに、ははは、とオーグは軽く微笑む。
 その表情に、もう哀しみは宿されていない。

 すぅ、はぁ、とオーグは深呼吸をする。
 いくつかのオーグの問いに、情けなくもとれるその問いに、ルナはキッパリと答えた。構わない、と。

 覚悟は決まった。
 自分の愚かさを肯定してただ自分を貶めるのではなく、それを受け止め、前を向き、ほんの僅かの勇気に変える覚悟。
 今はまだ届かない、あの偉大な父や信頼できる親友の背中。そこへの第一歩を踏み出す覚悟。

 腹をくくったように最後にふう、とオーグは息を吐く。そして、前を見据える。そこには一片の曇りも無い瞳を持つ少女が、同様に、オーグの目を見据えていた。
 その瞳が、今のオーグの力になる。

「任せて。ルナは、俺が、救ってみせる!」


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