風の調べと、竜の誓い【旧:男の娘だけど~】

高瀬暖秋

芽吹き始めた心【4】

 

 洞窟の中は思いのほか快適だった。
 風が通っているお蔭か、洞窟内の気温は気に障るものではなく湿度も適当だ。

 加えて襲い来る獣から身を隠せる。獣との実力差から言えば姑息な手段にしか成り得ないが、それでも怒濤の数秒間を切り抜けていた二人には僅かな休息でもこの先の展開を左右する重要な要因だった。

 二人は外を見張れるように入り口付近に腰を掛け、ちらちらと外を警戒しながら互いに休息をとっていた。一人が外を見張り、もう一人がじっくりと休む。交代制の有能さがこう言った場面では活きる。

 少女はオーグの代わりに外を見張りながらも、中で休んでいるオーグの容態を心配していた。

 オーグの額から流れていた血は包帯代わりに破いた服で今は何とか止血している。地面を転がった際に石で切ってしまっただけらしく、そう深い傷でもなかった。それはいい。
 しかし何より少女の心配を掻き立てたのは少女を庇って受けた背中の傷だった。

 あの傷に限ってはその責任は全て少女にある。その傷から治療不可能な大怪我にでも発展した時には少女は尋常でない罪悪感に苛まれることになる。

 しかし、オーグはそんな少女の心配を蹴散らすように、あっけらかんとして傷の様子を確認していた。

「いてて。でも、思ったより酷くなくて良かった」

 オーグの背中を襲った獣の一撃は確実に命中していたものの、その外傷はそう酷いものではなかった。

 麻痺していた感覚も今では痛みに変わり、身体を動かそうと思えば相応の痛みが襲うが動けないというわけではない。それどころか、痛みがやってきたことによって、オーグは多少の安心感を抱いているようだった。

 しかし、それでも一見すれば大怪我には違いない。傷から生まれる痛みは堪えれるものであっても、その外見は凄まじい。強打された背中は打ち身を起こしており、背中一面は腫れ上がりその一撃の壮絶さを表していた。

 少女としては目を向けられない、目を向けていたくない。例えどれだけオーグが笑顔で取り繕おうと、その傷を見ればその笑顔が無理をしているように思えた。

 しかしそんな心情に反して、少女はオーグの傷を確かに見つめる。その傷の原因を責めるのではなく、その傷の持ち主である少年を誇らしく想うために。

「オーグ、大丈夫?」

 背中を擦さすり少し辛そうな表情を浮かべるオーグの傍まで寄っていき、少女は不安そうに声を掛ける。そんな少女を安心させるためか、オーグは少女に満面の笑みで答えた。

「大丈夫大丈夫。見ての通り、ピンピンしてるし――いっ!?」

 オーグは身体の無事を証明するために立ち上がってみせようとする。が、案の定身体の方が悲鳴をあげたようで、すぐに元の通りに座り込んだ。
 どうやら、オーグ自身が思っている程今の状態は良くないらしい。

 そんなそそっかしいオーグを目にして、少女はより一層不安の色を濃くした。

「あはは、いてててて。でも、本当に大丈夫だから。俺、元々身体だけは丈夫なんだ」
「……本当?」
「うん、ほんと。……まあ、自分でもよく生きてるなぁって思ってるけど」

 オーグの言葉はあながち嘘ではない。事実、オーグは幼い頃から滅多なことでは怪我をしたことがなかった。
 それはやはり獣人の身体能力の高さから起因するものなのだが、オーグは通常の獣人のそれよりも遥かに高い性能を有していた。

 しかしそんな事を知る由もない少女にはそんなオーグの態度がどうしても無理をしているようにしか見えなかった。

「そ、それよりもさ、君は大丈夫?」

 オーグの言葉を信じられずにジト目を送る少女を見て、オーグは誤魔化すように言った。

「……………………」

 咄嗟に少女は言葉が詰まった。その言葉により忘れていた足の痛みがぶり返し、すぐに答えることができなかった。

 足の怪我が明らかになってしまえば、きっとオーグの足手纏いになってしまう。見捨てればいいのに、あくまで少女に手を差し伸べて、二人で助かろうとする。そうしてまたあんな無茶をする。そんなのは嫌だ。

 だからそんなオーグの心配に、少女はその優しさを嬉しく思いながら頷きで答える。
 その少女の姿に、オーグは僅かに頬を膨らませた。

「……嘘だろ。知ってるよ、足を怪我してる事」
「…………痛くない」
「……嘘だ、足引きずってたろ」

 気丈に振る舞おうとする少女にオーグが容赦なく言葉を重ねる。ただ、その厳しさが優しさから来るものだということは少女にも分かっていた。

「無理はしちゃ駄目だ。もっと酷くなるかもしれないし、ちゃんと休んで」
「……うん」
「ほんとに分かってる?」
「……うん」

 自身を案じていてくれているオーグの台詞に、少女はどうにも煮え切らない答えを返す。否、返す他無かった。
 こうした会話自体ご無沙汰な少女には、ただただオーグに嫌われないようにすることで精一杯だった。

 そんな少女との問答に意味を見出だせなくなったのか、オーグは一度溜め息を吐き、また口を開いた。

「……ねえ、どうして今、嘘吐いたの?」

 怖かった。
 ただ、あなたに嫌われることが怖かった。
 あなたが傷付くのが怖かった。
 あなたの足枷になるのが怖かった。
 あなたに見捨てられるのが怖かった。
 ただあなたと今のままの距離を保っていたかった。

 そんな想いを、少女は拙い言葉で伝える。

「……オーグ、無茶する。私のせい・・、オーグ、怪我する……嫌。私、オーグ、好き。だから、オーグ、私、嫌い……嫌」
「俺が怪我するのが嫌ってこと? 君が?」
「……うん」

 オーグに傷付いて欲しくない、そんなことなら自分が助かっても意味はない。そんな想いの籠った肯定。

 その言葉にオーグは再度溜め息を吐く。その吐き出された吐息は、決して少女に見切りをつけたものではなく、ほんの僅かの呆れを含んだものだった。

「……違うよ」
「…………え?」
「俺が怪我したのは、君のせい・・じゃない」
「……でも――」

 それでも、私を庇って、あなたは怪我をした。

 そんな言葉を口に出そうとした、けれどその言葉は遮られる。そしてそれを遮ったのは、外ほかでもないオーグだった。

「俺が怪我したのは、君のため・・だ」

 その言葉に少女は、はっと俯いていた顔を上げる。そして同時に自身の間違いに気が付く。

 オーグが怪我をしたのは自分のせい・・ではなく、自分のため・・
 少女という足手纏いのために付いた傷ではなく、少女の手を、そして足を、オーグが引っ張って救い上げたからそこ付いた傷。

 それは決して恥ずべきものではなく、むしろ誇れるもの。少女の心配はそんなオーグの誇りを貶めるものにしか成り得なかった。

「だから、君が気にする事じゃないんだよ。あれは俺が好きでやった事だし。……それに、君が俺が怪我するのが嫌だって言うなら、俺はもう無茶はしない。俺は怪我しないし、君も怪我させない。それでいい?」

 俺は君を嫌わない。君を傷付けない。でも、君との距離だけは今のままにしておきたくはない。もっと、君に近づきたい。

 オーグの言葉は、言外にそう告げている。少女にはそれが疑う余地もなくすんなりと理解ができた。

「……ありがとう」
「どういたしまして」

 オーグの温もりに胸を打たれ、思わず少女は口元が綻ぶ。そんな笑顔に釣られてか、オーグも柔らかに微笑んだ。

 互いが互いの温もりをその笑みによって伝播させ、二人の間に暖かい風邪が吹き抜けた。ふんわりと少女の長い髪を撫でたその風は、逃走中という現状に余りにも似合わないものであったが、それでも例え何であれ今の二人の空間に割り込むことは叶わない。

 途端、何の前兆もなく少女の頬を雫が伝った。小さい、けれど確かに熱を孕んだ一滴。
 それは余りに突然の事で、当の本人である少女にもその理由が分からなかった。

 どうしてなのか。悲しいことなど一つも無いのに。こんなにも胸いっぱいに温もりが溢れているのに――。

 そこまで思考を進めると、少女にはそのわけが理解できた。

「ど、どうしたの!? やっぱり怪我が痛む?」
「……ううん」
「えっと、じゃあ、俺が何か酷いことした?」
「……ううん」
「な、なら――」

 そこまで言ったところで、オーグの言葉は少女のとった行動によって遮られた。

 胴回りに回す小さな細腕。密着することで伝わってきた互いの熱。そして何より、オーグの胸から伝わる心臓の鼓動が少女に安堵を与える。

 オーグは咄嗟のことで驚いていたが、次第に理解が追いつき自分の身に縋りつく少女を優しく抱き締め返した。

 ――満たされた。満たされていた。だから、流れた雫だった。

 今まで満たされることの無かった心を。いつも寂しさと悲しさと不明瞭な空白が支配していた少女の胸が、満たされた。だから、溢れた想いだった。

「良かった。また、会えた、良かった」

 少女は涙ぐみながら、オーグの胸で呟いた。少年との再会に歓喜して。少年の存在に感謝して。

「……うん、良かった。俺も君に会いたかった」

 同様にオーグも素直な言葉を告げた。

 様々な激動に呑まれて落ち着く間もなかった少女の緊張が和らぎ、思わず涙が出た。
 獣に追われているのだ、泣いている場合ではない。だが、今だけは、あと数度の瞬きの間だけ、この涙は抑えていたくなかった。

 絶え間ない緊張感の中で走り続けながらもオーグとの約束を忘れなかった。その想いが今になって熱いものと化し、少女の胸に溢れていく。

「……ルナ」
「え?」
「……私、ルナ。私、名前」
「そっか、君、ルナって言うんだ。じゃあ、ルナって呼んでいい?」

 少女――ルナはコクリと頷く。
 ルナの言葉遣いはお世辞にも上手いとは言えないだろう。だが、それでも一生懸命胸の内を伝えようとしている。その事はオーグにもしっかり伝っているだろう。

「分かった。ルナって呼ばせてもらうよ」
「うん。私、オーグ、呼ぶ」
「もう呼んでるだろ?」

 改めて自己紹介のようなものを交わす。この時には既にルナの中にオーグを拒絶する理由が失われていた。互いを知り、互いを信じた。そんな二人にはもう壁など無かった。

「……オーグ」
「何?」
「どうして、私、助けた? 来ないでって、言った」

 オーグの胸に顔を埋めたまま、ルナはそんな言葉を口にした。その言葉には無意識に僅かな震えが含まれていた。

「どうして、だったかな。気が付いたら飛び出してたから、覚えてないや」

 惚けた口調でオーグは答える。

 恐らく、オーグの言葉に嘘偽りは無いのだろう。
 ルナはオーグの事を全て知っているわけではないが、その事だけは分かった。
 それは裏表の無いオーグの優しさに既に触れていたから、咄嗟にルナを庇った時のオーグの表情が決して頭から離れなかったから。

 オーグは更に、でも、と言葉を続けたが、そこで言葉を切り黙り込んでしまった。

「……オーグ?」
「…………ねえ、ルナ。少し俺の話をしてもいい?」

 断るはずもない。ルナは小さな頭を縦に振り、オーグの提案を承諾する。

「うん。また、聞かせて」
「また? あ、昨日の話聞いてくれてたんだ。てっきり俺、嫌われてたのかと思ってた」
「ううん。……オーグ、好き」
「え? あ、お……うん。あ、ありがと」

 オーグは思わぬカミングアウトに言葉が纏まらず、戸惑いを露にする。頬を赤らめているルナと目を合わせる事ができず、視線が宙を泳いでいた。

 それは置いといて、とコホンと一つ咳払いをすると、オーグは話を始めた。

「でね、俺の話っていうか、俺の友達の話なんだけど、その友達が君に似てたんだ」
「……似てた?」
「うん。その友達も君みたいに独りで山に住んでたんだ。お母さんが死んじゃって、でもそこから離れたくなくて」

 確かに、似ている。
 ルナは今までの自身の日常を振り返り、そう思った。

 恐らく、その友達もルナのように何かしらの理由で縛られている。この場所から離れたくないという想いが、いつしか離れてはいけないという束縛へと極自然に形を変える。その想いの発端は自身の胸の内であるのに、いつしか全く別のものへと変貌する。

「俺が初めて会ったとき、その友達は嬉しそうだった。久し振りのお客さんだって、ワクワクしてた」
「私、オーグ、会った。……ドキドキした」
「……あー、ごめんね。やっぱ怖かったよね」
「…………ううん、違う」
「え?」
「……何でも、ない」

 少し鈍いオーグに頬を膨らませながら、オーグを抱き締める腕を強める。
 当のオーグはと言えば、未だに理解できず小首を傾げていたが、直にまあいいかという結論に至り、また話を再開した。

「それからその友達と一緒に暮らすことになって、友達はずっと嬉しそうな顔をしてたんだ。朝起きた時も、ご飯を食べる時も、遊んでる時も、寝る時だってその友達は笑ってた。楽しそうだった」

 ルナはオーグの話に少なくない共感を覚えた。
 自分がその友達の立場であればどうだろうか、悲しいだろうか、辛いだろうか。そんなわけが無い。孤独に慣れた者には自分へ歩み寄ってくれる存在が嬉しいに決まっている。
 その事を誰よりも今、ルナが分かっていた。

「……でも、その友達はいつも笑ってたけど、どこか寂しそうだった。俺に見せる笑顔が全部作り物みたいで、苦しそうだった」

 オーグは物憂げな表情を浮かべ、どこか遠い目をする。そんな姿を見て、ルナもなぜか悲しい想いに誘われた。

「その友達の笑顔は、多分お母さんの事を想ってたからそんなに苦しそうだったんだと思うんだ」

 その友達の気持ちは、ルナにも分かった。
 オーグとの絆が深まり自分が幸せになることが、歪にも母親に対して残酷なことのように思う。自分だけが幸せになることが、もう居なくなってしまった母親への裏切りに変化する。

 幸福に包まれた自身の感情が、その幸せの余り決して報われなかった母親への罪悪感へと変貌する。

 そうしてそんな道理があるはずも無いのに、自分が幸せになってはいけないという束縛が生まれた。自身の幸福こそが自身の足枷となっていった。

「初めて会った時のルナの顔は、それに似てた。ほんとに俺が怖かったんだろうけど、どこかでそれが義務になってるみたいだった」
「……うん、そう」

 ルナがオーグに恐怖心を抱いていた事は紛うこと無き事実だが、ルナがオーグを拒絶していた理由はただそれだけではなかった。

 あの日ルナの前に現れたオーグは、孤独なルナにとって間違いなく希望の光だった。自身を孤独から連れ出してくれる道標だった。

 にも拘わらずルナが拒絶を見せたのは、そこに母親の存在があったから。その母親を差し置いて自身が幸福になることが酷く歪な事だと思えた。

「だから、君と話してちゃんと教えてあげたかったんだ。ほんとはもっと笑っていいんだよって。自分で自分を辛くしなくていいんだよって。……だってあの時、ルナは泣いてたから」
「……オーグ」

 オーグと初めて出会ったあの時。獣に襲われている中でオーグを見つけたあの時。
 どちらも、その意味こそ違えど、ルナは涙を流していた。

「泣くのはいいんだ。悲しい時は泣かないと、もっと辛くなる。それに嬉しい時に泣けば、もっと嬉しくなる。……でも、寂しいのは駄目だ。悲しい時に独りだともっと悲しくなる。嬉しい時に独りだと嬉しさが小さくなる。……独りで泣くと、涙が止まらなくなる」

 知っている。その感覚をルナはよく知っている。
 独りの夜の寂しさも、独りの涙の冷たさも。いつまでも慣れることの無い、あの喪失感を。

 それらを回顧して、僅かに表情を曇らせたルナを見て、オーグは言った。

「だから、ルナと一緒に居たかったんだ。悲しい時には一緒に悲しんで、嬉しい時には一緒に喜んで、泣きたい時には一緒に泣きたいから」

 どんな時でもそばにいる。そんな誰かの誰かになりたい。
 そんな言葉が言外にルナに伝わる。
 そしてその想いは、同様にルナの胸にも芽吹き始めていた。

「……どうして、オーグ、私、優しくする?」

 もう、疑う必要など無い。この少年は間違い無く、自身にとっての救いだ。
 ルナはそんな確信を得る。そして、得たからこそもう一度、少年に言葉にして欲しかった。自身を救う理由を、その原動力を。

 オーグは無邪気に笑みを浮かべ――、

「ルナに独りで泣いて欲しくないから。寂しい想いをして欲しくないから。……それに――」
 答えた。

「女の子は笑ってる顔が一番可愛いと思うから」

 ――ルナは静かに昂揚した。

 まるで落ち着いていた全身の血流が急に巡り始め、全身を熱く、素早く、そして激しく駆け巡る。それに伴いその速度を上げる拍動はルナに自身の昂揚の程を知らしめるのに十分だった。全身の体温が上がり、皮膚が紅潮する。そしてたった一つの想いがルナの胸中に溢れていく。

 そんな心臓の拍動がオーグに伝わらないように、抱きついていた身体を少し離す。また、愛らしい少女の顔つきをより可愛らしいものへと昇華させるその頬の紅をオーグに悟られないように、その視線を下に落とした。

 けれど、そんな動作とは対照的に、ルナは自身の身体が宙に浮いて前後不覚の感覚へ堕ちていくような気がしていた。この地に自分を縛りつける重力よりも、もっと優しく、暖かく、柔らかく、そして穏やかな何かに包まれて、全てが自由になっていく。

 この感情。少年と初めて出会った時も同様に、胸に息づいていた感情。
 ドキドキと等間隔に刻まれる拍動は、決して恐れからくるものでは無い。
 辛くない、苦しくない、むしろ溢れゆくこの想いを絶えず感じていたいとすら想える、不思議な高鳴り。

 ああ、そうか。初めから、この想いは胸にあったのだ。ずっとずっと燻っていた想いの熱、それに焔が灯った。否、灯された。

 その瞬間、ルナは理解した。
 今更、無駄なのだと。既に自分は幸せに包まれていたのだから、今になってそれを拒絶しても無駄なのだと。
 この幸福はしっかりとこの身に受けて、育てていかなければならないのだと。

 それこそが、少年の想いに応える唯一の答えなのだと。

「……ありがとう、オーグ」

 ルナは泣き腫らした幼い顔を上げて、笑った。全く使われていなかった頬の筋肉を数年振りに酷使して、溢れゆく想いのまま、笑った。
 その笑顔は歪さを感じさせない、自然なものだった。


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