風の調べと、竜の誓い【旧:男の娘だけど~】

高瀬暖秋

芽吹き始めた心【2】

 
 ――その日は運が悪かった。

 少女が食糧を採集しに外へ出たその日に限って、何者かの話し声が聞こえた。
 それは少女にとって、それはすぐに恐怖に繋がった。特に人間に敵対心を抱いていたわけではない。ただの人見知りだ。だが、母親以外の人間を知らない少女にとって、ただの人見知りはただの人見知りになり得なかった。

 声色から察するに声の主は大人ではない。ならば、自分の足でも逃げ切ることはできるはずだ。
 そんなことを考えて逃げるタイミングを伺っていたところで、少女は急に跳ね上がった。少女の首筋に蜘蛛が下りたのだ。普段であればそれを払っただけで事は済んでいただろうが、相手を警戒し極度の緊張状態に陥っていた少女の心には大きな荒波が立った。

 跳ね上がった勢いで少女は駆け出した。それ以降の事は少女はあまり覚えてはいない。ただ無我夢中で、全力で足を動かした。そして、気が付けば自身の家の前に到着していた。

 身を隠す事のできる場所を見つけ、少女は安堵する。そして、追っ手に見つからない内に、と家に入った。

 そこは暗い場所だった。

 光が射し込んでいないわけではない。窓から入る木漏れ日が部屋中を明るく照らしている。
 ただ、光が存在するならば、同時に陰りも存在する。窓の下に置かれている少女の身体に合わない大きな木製の椅子。今は亡き母の席はいつも陰りがあった。

 それを見た少女の心は悲愴に染まり、自分の置かれている状況と合わせ見て涙が込み上げそうになる。しかしそれを慰めるように、少女はその母の席へと向かい小さな膝を抱えて座った。

 実のところ、少女はこの陰が嫌いでは無かった。むしろ亡き母と重なることができているような気がして、不思議と落ち着いた。

 しかし、やはりそんな安堵感は持続しない。
 なんとか涙が引っ込んだと思ったところで、家の中にノックの音が転がった。
 さっきまで自分を追いかけていた者だと少女はすぐに悟った。そして、願わくはそのまま立ち去ってくれと祈り、息を潜めた。

「誰か、いないかな? 俺、森で迷っちゃってさ。できれば道を教えて欲しいんだけど」

 聞こえてきたのは少年の声だった。少女に対して恐怖を植え付けないように気を付けている、そんなことが伝わる柔らかな声色だった。
 しかしそんなことが今の少女に気付けるわけもなく、ただ警戒を強めるだけだった。

「……こな……いで」

 もう何年も使っていない声帯を酷使して、なんとか震える声を絞り出した。そしてその言葉が意味するのは拒絶というより願いに近かった。これ以上自分の領域に踏み入れて欲しくは無い、そう願っての言葉だった。
 しかし、そんな願いは儚く散る。

「ごめんね、入るよ」

 その言葉を切っ掛けに扉が開かれる。
 開かれた扉から射し込む光によって、陰となっていたその椅子は照らされた。

 そうして、少女は少年と出会った。 

 少年と出会って、少女は胸が熱くなるのを感じた。
 少年とのやり取りがどれだけ歪でもそれが久方振りの会話であったから、緊張しての胸の高鳴りかもしれない。また、逃亡した自分を追ってきた少年の事を恐れて、自身の身を案じての恐怖の表れかもしれない。

 だがしかしその出会いは、少なくとも少年と別れる頃には少女にとって不幸なでき事ではなくなっていた。その小さな胸に息づく大きな熱量は少女にとって初めての経験で、そして心地の良いものだった。

 もっとその気持ちを味わっていたい。もっと少年と話していたい。
 そんな想いが少女の胸中を巡っていた。


 そしてその想いは自身の身に危険が迫り来る現在も、少女の胸を巡っていた。

「……はあはあ、……オーグ」

 もうどのくらいの時間、走り続けているのだろうか。もう何度息が詰まって足を止めそうになっただろうか。
 荒い息を吐き出し、尚も足を動かしながら少女は思う。

 かれこれ数十分、少女は既に限界に近い足の筋肉を酷使して迫り来る驚異から逃げ続けていた。

 正面の景色を睨みながら疾走しているものの、少しでも背後に意識を割けば耳を澄まさずとも聞こえる轟音。一定の調子で聞こえる大きく地面を削る足音。時折少女が方向転換すれば、それに反応できずにその巨体が木に衝突し、数本纏めて木々が薙ぎ倒される音が聞こえた。

 少しでも少女が後ろを振り返れば、その全貌を確認できるだろう。ただし、僅かでも足の力を緩めれば少女の命は容易く消える事となる。

 そんな驚異に対する精一杯の拒絶として、少女はただ走り続けた。当てはない。いずれ少女が力尽き足を止めたその時、その命が儚く散る。そんなことは明瞭だった。

 しかし、ここで諦めてしまえば、あの少年との約束を反故にすることになる。それだけはしたくない、いやできない。
 そんな想いが少女の心の支えとなり、尚も少女の身体を突き動かしていた。

 まだだ、まだ走れる。限界なんて超えてやる。少女がそう意気込んだ――その時。

「――っ!?」

 ずっと動き続けていた少女の足がその動きを止めた。次の一歩を踏み出そうとしたその時、木の根に足が絡め取られたのだ。

 普段ならこんなドジを踏むことはない。そのぐらいに少女は山のことを知り尽くしているし、運動能力が低いわけでもなかった。しかし、極限状態といえる今の状態でそんなことは気にしていられなかった。その焦りが命取りになった。

 当然、急にブレーキをかけられた少女の身体はそのまま地面へと転がっていき、幼い小さな身体が木の幹へと叩きつけられる。

「――んっ!?」

 その衝撃により胸に強い圧迫感を覚え、肺に溜まっていた空気が全て吐き出された。同時に込み上げる嗚咽。
 それらをどうにか抑え込み、少女は振り向いた先にある自身へと向けられる殺意と対面した。

 地面へと深く突き刺さる鋭利な爪。それを自在に振るう豪快な前足。その巨体を機敏に動かすことを可能にする並々ならぬ後ろ足。そして、それらの全てを備えて砲弾の如く、巨大に、頑強に、俊敏に、地を駆ける強大な身体。

 赤黒い眼光を放ち、その口元からは唾液を滴らせる。その姿はまさに獰猛な野獣。

 あくまで少女の知識で他の獣に当てはめるとするならば、その姿は狼に近い。ただし、その体躯が一般的なそれであればだが。
 少女の前に立ち塞がるその獣の体長は四メートルは優に超えている。その巨体に、山の中にはその獣が通ったであろう道の木々がへし折られていた。

 力の差は歴然。
 精一杯足掻いたところで、寧ろ諦めきれない分辛くなるだけか。誰の目にも明らかな事実を、誰よりも少女が痛感した。

 今まで走り続けていた少女も躓いた衝撃で足を挫いたのか、または獣の放つ威圧感のためか、未だに立ち上がることができないでいた。

 そんな少女へ獣はゆっくりと距離を詰める。少女にもう逃げる術は無いのだ、と理解した獣の行動は獣らしからぬ余裕を持っていた。

 徐々に近付く最期の時。恐れと怖れと畏れが複雑に混じり合い、決して覆る事のない負の感情を生成する。それは、絶望であり、失意であり、虚無だった。そんな無限の負の感情が少女の胸中で渦巻く。

 しかしそんな中で、少女は一筋の光を信じた。それは、決して大それたものなどではない。
 幼い少女がその幼さ故に死ぬ間際に感じた、切なさ、寂しさ。それら全てを相殺していく少女の希望、否、願望。

「……会い、たい」

 もう一度会いたい。この胸の高鳴りをあの少年へ伝えたい。
 そんな些細な想いが死を目前に晒されて尚、少女を諦めへは連れていかなかった。少女に生の願望を与えた――その時、少女の視界にそれは映った。

 短く切られた銀色の頭髪。そして同様に強い輝きを放つ銀色の双眸。その体躯こそ小さいものの、決してその少年から感じられる存在感は小さくない。

 これは幻なのか、と少女は自身の目を疑った。何度も瞬きを繰り返し、何度もその少年へと焦点を合わせた。しかし少女の視界の中の少年が消えることはない。それは即ち、正真正銘その少年がそこに存在していることを示していた。

 思わず少女の目尻を涙が伝う。極微量なその一滴は何よりも少女の心を投影していた。

「……オーグぅ」

 また会おうと共に誓った少年、オーグ・ヴィングルートの姿がそこにはあった。


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