風の調べと、竜の誓い【旧:男の娘だけど~】
手を伸ばした先【1】
アレンとオーグの二人は最大限の速度で、今まで通ってきた道を再び駆けていた。二人は恐怖や緊張からくる身体の重さに反して、汗はかかず息すらも上がっていなかった。
それが精神的にも身体的にも余裕が有るから、などと楽観的な思考はまず浮かばない。実際は向かう先に存在する緊迫感に、身体機能が働かないほどに本能的に身体が怯えているのだ、とアレンには分かっていた。
圧倒的な力。絶対的な闇。
あの男を目にしたとき、アレンが確かに感じた二つの畏怖。
それは今でも思い出す度に、指先が震えてしまうのが分かった。
「大丈夫だよ、アレン」
不意に届いた声にアレンは一瞬ハッとしたものの、それは優しさと強さを孕んだものたとすぐに気が付いた。
「……オーグ」
「行こう」
オーグは強い。掛け値無しの本心でアレンはそう感じていた。
アレンの指先は今も震えているのに対して、オーグの身体からは弱さを感じられる事は無い。絶望的な現実を前に父親の為に立ち上がれる強さが、その小さな身体に宿されていた。
「……もうすぐだ。覚悟はいい? オーグ」
「絶対にまた三人で笑おうね」
「もちろん!」
直に陰鬱とした闇の中に、光が射し込んできた。そこを抜ければベルナルド達のいる開けた場所へと辿り着く。思わず、二人の足並みが早くなった。
そこにあるのは闇を切り裂く光明か、それとも闇すら呑み込む暗黒か。
覚悟を、想いを、胸に秘めて二人は闇から飛び出した。
◇
薄暗かった視界が遮る物の無い月明かりによって、瞬く間に光を含んだものへと変わる。
二人の目に映ったのは見慣れた場所。いつも必ず戻ってきた自分の家。馴染み深いそれは僅かでもアレン達の張り詰めた感覚を和らげてくれた。
しかしその間も一瞬。すぐに周りを見渡せば、再び緊張が二人に覆い被さる。
そう、見慣れた風景だ。心持ちは違えど、つい数分前も全く同じ風景を見ていた。
――ただ、一つ。ベルナルド・ヴィングルートの姿が無い事を除けば。
その場所にあったのは、ベルナルドと相対していた男の姿だけだった。深紅の長髪を風に靡かせ、美しい刃をその手に握っていた。
その姿を見て、思わずこの状況で思考しうる限りの最悪の結末がアレンの脳裏を過った。このままでは親友の存在さえ失ってしまうのではないか、と。アレンはごくりと唾を呑み込み、自然と手を固める力が強くなった。
次の瞬間、男の橙の瞳が二人を見つめた。その眼差しは先程よりも尚の事、闇が深まっているようにアレンには思えた。
すぐさま、警戒心を高めたアレンを見て、男は口を開いた。
「お前達に危害を加える気は無い。ただ一つ……名を、教えてくれないか」
「……父さんはどうした?」
男の問いが一体どういう意図を持っていたのか、アレンには分からない。オーグはただ、男の問いには答えず曇りの無い瞳で一歩前に出て、問いを質問で返した。
その問いはオーグにとって精神的な生命線とも言えるものだ。その返答次第では、オーグは正常な思考能力を失ってしまう可能性すら有る。しかしそれでも、何よりも父の安否を案ずるオーグには、どうしても確かめずには居られない事だった。
その質問に男は静かに押し黙った。この沈黙が何を示しているのか、アレンの冷静な判断力をもってすれば既に分かっていたかも知れない。しかし、息を呑むほどの緊迫の中で昂ってしまっていた心がそれを阻害し、アレンは男の答えを唯待つしかなかった。
「確かにお前達には知る権利がある。……だが、それを知る覚悟はあるのか?」
「誤魔化さないで下さい。僕達は覚悟が出来ているから、今此処にいるんです。それに、例え覚悟が無かったとしても、貴方にはそれを話す義務がある筈です」
「……分かった、良いだろう。ベルナルド・ヴィングルートは――」
この時、アレンは一早く気が付いておくべきだった。自分達の言っていた覚悟が何だったのかを。今から告げられる言葉が如何に残酷なものであるかを。他でもない自分達の為に。
「――私が殺した」
残酷で冷酷で苛酷で厳酷で惨酷で過酷な一言。それはたとえ覚悟していたとしても、充分にアレン達の心を抉った。否、覚悟など出来ていなかった。
何の皮肉か、それを聞いてアレンは遂に冷静な思考力を取り戻した。そして、様々な事が一瞬にして整理されていく中、アレンが初めに理解した事は自分達の覚悟と男の言っていた覚悟との差違だった。そしてそれこそ、アレンが気付いておくべきだった点だった。
二つの覚悟の差違。
それは『死』が前提として含まれているかどうか、というもの。
男の言う覚悟は、ベルナルドの死を受け入れる覚悟。対してアレン達の覚悟は、どれ程過酷であってもベルナルドを救うという覚悟。
二つの覚悟を全く噛み合わないものにしているものこそ、『死』だった。
アレン達の覚悟には『死』の覚悟が無かった。例え自分達がどうなろうとベルナルドの『死』を受け入れる覚悟は、そこには存在していなかった。
そこまで理解したところで、アレンはふとオーグの方へと目をやった。
今、アレンが正常な思考を働かせる事が出来るのは、以前のベルナルドとのやり取りで多少であれど『死』の覚悟が出来ていたからだ。ならば、そうでないオーグは――
目をやったその先に、既にオーグの姿は無かった。
「うおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」
その直後、アレンの前方から雄たけびが上がる。嘆きの様なその叫びに誘われるように視線をその先へ向けると、そこには勢い良く飛び出したオーグの姿がそこにはあった。
「父親に救ってもらった命だ、無駄にするな」
男の声はオーグには届かない。
衝動に身を委ね、心の思うままにオーグはありったけの力で地面を蹴った。
余程力が籠っていたのか、勢いの余り躓きそうになるが腕を地に突く事で強引に転ぶ事を免れる。矢の様な鋭い勢いを宿すその身体が向かう先にあるのは、父親の命を奪った男の姿。
獣人の身体能力を駆使してあっという間に男との距離を詰めたオーグは、小さな拳を固めて真っ直ぐと男の胴体へ突き出した。
幼いとは言え、オーグのその拳には体重と獣人元来の筋力の全てが秘められている。例え大の大人と言えど、まともにそれを受ければ腹を押さえて呻く程度では済まない。
だが、それを視認して、男は依然直立しているだけだった。
避けようと思えば避ける事も出来たし、受けようと思えば防御する事は出来ただろう。だが、男は微動だにせず、構える事すらしようとしなかった。
当然、男はそのままその身に拳を受ける事になる。オーグの渾身の一撃は、その力を維持したまま男の身体へと叩き込まれた。
「――――っ!?」
拳に走った感覚に戸惑い、オーグは一度男と距離を取った。
「……なんで避けなかった?」
「まだ、お前の名を聞いていない」
噛み合っている様で噛み合っていない会話に、オーグは僅かに顔を強張らせた。
オーグの攻撃を避けなかった事と会話が噛み合わなかった事が、まるで自分の怒りなど届いていない様に思えたからだ。男には自分の存在など取るに足らないものだと知らしめられている様に。
「俺の名前は、オーグ・ヴィングルート。ベルナルド・ヴィングルートの息子だ! どうして、そんな事を聞くんだ?」
「……ただの自己満足だ、気にするな。……悪い事をしたな。今度こそまともに相手する事を誓おう」
その男の言葉には、静かな間があった。だからこそ、向かい合っているオーグにはそこに贖罪の気持ちがある事が分かっていた。
だが、それが何だと言うのか。既に憎悪の感情が最高潮まで達しているオーグの前に、そんな言葉が意味を成す事は無い。
「お前はっ、許さない!!」
再び地を蹴り、オーグは向かい合ったまま男へと突進する。胸を焼き尽くす憎悪の影響か、先程よりも更に加速する。
それを応じて、男は初めて反撃の構えを取った。腰を落とし、拳を固める。ただそれだけの動作であるのに、その男には一切の隙は無かった。
「…………くっ!」
オーグは速度を緩める事無く距離を詰めながら、構えを取った男の反撃を予期した。
このまま直進していては成す術無く拳を叩き込まれる、そんな未来が脳裏を過り、額に汗が伝う。
しかし、それでも尚オーグがその速度を緩める事は無かった。
オーグには見えていたから。いつか生まれるその隙を伺い、淡い光を纏って待ち構えている親友の姿が。
「…………むっ!?」
男が急速に接近するオーグを明確にその視界に捉え、対処しようとした瞬間にオーグはその姿を消した。
否、オーグが姿を消したわけでは無い。一瞬にして、男の視界が狭まったのだ。風によって巻き上げられた、大量の木の葉によって。
「行って! オーグ!」
それと同時にアレンの叫びが響く。
所詮は悪足掻き。木の葉でその視界を奪ったとしても、先ほど通じなかったオーグの一撃が今度は通用するとは思えない。
けれど、通用さえしない一撃であっても、一矢報いてやりたいというオーグの強い意志がひしひしとアレンには伝わっていた。
「らああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
オーグはその拳に十分なエネルギーを宿したまま、そのまま木の葉の壁へと叩きつけた。
返ってきたのは確かな感触。その拳がもっと大きな力に完全に受け止められた、そんな感覚がオーグには腕を介して伝わった。
ハラハラと再び散っていく木の葉の中から見えてきたのは、左手でオーグの拳を受け止めていた男の姿だった。
男はまた悲愴な表情を浮かべ言葉を紡いだ。
「俺の名前は剣。……決して忘れるな」
男はその言葉を最後だと言うように、右腕でオーグの鳩尾を突いた。
「…………んぁっ!?」
「オーグ!?」
唐突にオーグの腹部を強い衝撃が襲う。鈍く重い音がオーグの全身に響いた。余りの威力に呼吸をする事すら儘ならず、オーグはその意識を手放した。
その場に倒れ込むオーグを見て、アレンは悲鳴の様な叫びを上げた。そして、咄嗟に男に向けて突風を放つ。
オーグが倒れたとなれば、アレンが次に狙われるのが道理だ。男は風を受けてゆっくりとアレンの方に目を向けた。
その風自体に殺傷能力は無い。ただ、オーグから男を引き離す為に全力で賢者の力を振るった。
しかし、それでも男はまるで逆風などありもしない様に、アレンの元へと疾走した。どれ程の力で地面を蹴ったのか、男のいた地面には小さなクレーターが生まれていた。
「すまないが、眠っていて貰おう」
その声と同時に、アレンの腹部にもその拳が叩き込まれ、オーグと同じく意識が刈り取られた。
◇
いつ頃だっただろうか、こんな事を始めたのは。
小さく息を吐きながら、スパーダは考える。
自問自答、などでは無い。スパーダにとって答えはどうでも良かった。幾ら思考を巡らせたところで、求めている答えは出ない。いつだって浮かぶ答えは、自身の求める物ではなく、またそれと同等の救いのある物でも無かった。
また、仮に答えを出したとして、そこに残るのは有り余る後悔と自責だった。ただただ、現実と向き合う事になるだけで。自身が犯した罪を、流した血を、改めて自覚させられている様な感覚に陥るだけだった。
スパーダは目を見開き、再び目の前の現実に目を向けた。
普段なら心地いいと感じるであろう木々の静寂も、今ではその空気に重さすら感じる。上空から注がれる月明かりに照らされるのは、スパーダを除いては二人の少年の姿だけだった。
危害を加える気は無い、そんな自身の言葉に反して、二人の少年は紛れもないスパーダの一撃によって力を失っている。
いつ頃だっただろうか、こんな事を始めたのは。
初めて子供に対して、拳を振るった時の事はハッキリと覚えていた。
仕事の対象だった父親からの頼みだった。せめてあの子には私が死ぬところを見せないでくれ、と。そう頼まれ、スパーダもそれを呑んだ。
次に拳を振るった時は、自分の意志で振るった。二度と会えないかも知れない両親を前に泣き叫ぶ子供を見て、無意識に拳を振るった。
今思えば、それは間違い無く逃げだった。何かで自分の罪を覆おうとして、埋め合わせをしようとして、自身の行いを何処かで正しい物だと思いたかったのだ。
しかし、今回はまた違った思いを持って拳を振るった。
今回も場合によっては、子供達の意識を刈り取ってからベルナルドの命を奪う算段ではあった。だが、都合良く少年達はその場を立ち去って行ったため、その手間を掛けずに事を済ます事が出来た。
ならば、何故その拳を振るう事になったのか。
それは子供達が再びスパーダの目の前に姿を現したからだ。
子供が父親の身を案じて、勇気を滾らせて再び仇の前に姿を現す。それは事実、スパーダも良く経験していた事だった。そう、それだけならば良かったのだ。それだけならば、いつもの様に意識を奪う必要も無く、その場を立ち去るだけで良かった。
ならば、何故その拳を振るう事になったのか。
それはスパーダと対面した少年が、その双眸に底知れぬ決意を宿していたから。見過ごす事が出来た筈なのに、それを不可能にさせる程の想いの強さがそこにあったから。
少年の瞳の奥を覗き込んだ事により、スパーダにはもうそれを見過ごす事など出来はしなかった。残された選択肢は、その想いを受け止める事だけ。
そうして、スパーダはまた拳を振るった。
「……オーグ・ヴィングルート」
少年から告げられた名前を、再び口にして確認する。
名前を問う、それは初対面の相手には当たり前の様で、この場には似つかわしくない行動。しかし、それでもスパーダは名を聞かなければならないわけがあった。
いつ頃だったか忘れた事は無かった、こんな事を始めたのは。
初めて仕事をこなした時から今の今まで。たとえ睡眠を取ることを忘れたとしても、この事だけは忘れた事は無かった。
名前を問う、その行為に秘められた意図、それはスパーダ自身の救済の為だ。
名前を問い、それを覚える。ただ、それだけの行為。だが、それがスパーダの狂ってしまいそうな感情を制御していた。
名前を覚えるのは、自身の犯した罪の証を残すため。自分が殺した者の大切な者の名前を覚える事で、自分の行いを自覚し記憶に刻み込む事で贖罪とする。そしていつしか、その者が自分を殺めにくる時こそ自身にとっての救済として。
「卑怯だな」
スパーダは自嘲気味に呟く。
自分自身分かっていた。それが自己満足から来るもので、実際は何の救済にもなっていない、と。それがもたらす結果は、唯その者達に払拭される事の無い悪夢を植え付ける事になるだけだ、と。
しかし、スパーダはそれを止める事は出来ない。いつか、自分を止めてくれる者が現れるまで。
「お前の名は、決して忘れない」
「――待てよ」
最後にそう言い残し、立ち去る――その時。
スパーダの背後から幼い、けれど力の籠った声が届いた。
「まだ、俺の名前を聞いてねぇだろ。良く聞け、俺の名前は――アレン・ハーヴィだ」
静かな森の中に、再び深緑の風が通った。
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