風の調べと、竜の誓い【旧:男の娘だけど~】
本当の親子【2】
絶望を色に例えるとしたら、それはきっとこの夜さえも飲み込んでしまうような黒に違いない。
幼い頃、母親を失って悲嘆にくれていたアレンは、あの時は曇りきっていた夜空を見上げて、そんな事を考えたことがある。
絶望は時間の経過でしか消し去ることはできず、拭い去ろうと必死で布で擦ってみても、その上からどんな希望の色を塗ったとしても、やはり何かしらの爪痕を残していく。
そんな絶望の色を、かつてのアレンは黒で例えた。
ところが、今アレンの前に立ちはだかっている絶望は、紅い色をしていた。
それは血の色か、それとも怒りや殺意といった感情を模した色か。
しかし、その絶望を前にしたアレンが感じ取った印象は、そのどちらにも当てはまらなかった。
アレンは思っていた。
まるで、ベルナルドと語ったあの祭りの夜の、焚き木の炎の色のようだ、と。
もしかすると、あの日あの時からこの結末は決められていたものだったのかもしれない。あの時、アレンがベルナルドを説得できていなかった時点で、この絶望と顔を合わせることは決められていたのかもしれない。
どうしてか、そんな風に思えてならなかった。
「ベルナルド・ヴィングルートとは私の事だ。この二人は関係無い」
知らず知らずのうちに震えていたアレンの肩に、ベルナルドの大きな手が置かれる。ハッとして見上げた先では、今までに無い真剣な面持ちで男を睨むベルナルドが居た。
「率直に問おう。君は何者だ? 私の名前を知っているということは……帝国からの差し金という認識で間違いは無いか?」
ベルナルドの問いに、男は答えない。
だが、その答えの代わりか、燃える炎のような紅の長髪を風になびかせ、片手に持っていた黒一色の無骨な槍をベルナルドへと放り投げた。
それはアレンにも見覚えのある、ベルナルドの愛用していた槍だった。
おおよそ、ベルナルドが帝国に捕まった際に押収された物を、何故か男が回収してきたのだろう。その理由は全くの謎に包まれてはいるが。
「……なぜ、君がこれを?」
「……質問には答えない。俺はお前を殺してこいと命じられた。そして命令通りにお前を殺す、それだけだ」
いくら問いかけようが、男からハッキリとした答えは返ってこない。恐らくは本当に何者かから命じられただけで、その殺意に男の意志は関係無いのだろう。
しかし、もしも命令を下した者が帝国の者であるとするならば、馬鹿正直に正面からぶつかる必要も無い。
向かい合っているだけで立っているのがやっとの中、震える胸を叩きつけてアレンは口を開く。
「彼は神の容赦によって罪を免れた身。ここで貴方が彼を裁くことは正当な処罰だとは言えないはずです!」
しかし、そうしたアレンの叫びは虚しく舞うばかりで、男は眉一つ動かさずに腰元に下げていた長剣を鞘から抜き放った。
「神も人も獣も……竜でさえも、関係は無い。俺はただ俺の意志で、お前を斬る」
故に、言葉は全て意味を成さず。
男の前では全ての存在が等しく、その刃の錆になる。
「……戦うしか、ないというわけか」
「でもっ、ベルナルドさん!」
「分かってるさ、アレン。あの男はきっと私よりも強い。だが、だからと言って勝算が無いというわけではないさ。それに、あの男以外に追手が居ないとも断言できない」
ベルナルドは槍に被せていた革袋を外し、男へとその穂先を向けた。それはまさしく、戦う意志を露にしたことに他ならない。
そして一拍置いて、ベルナルドはアレンに言った。
「アレン。足は疲れていないかい? まだ走れるかい?」
それは、まるでアレンを我が子のように愛しているような、温かい問いかけだった。
その瞬間、父親を知らないアレンに、父親の姿を幻視させたほどに。
「大丈夫。私もすぐに追いかける。ほんの少しだけ、身体を動かしていくだけだ」
「でもっ! ベルナルドさんっ、貴方はっ――」
それは、本当に慈愛に満ちた手のひらだった。
初めにアレンの肩を叩き、首筋を沿って頬に触れ、最後にアレンの長い髪を太い指で鋤いた。
その熱に、その温かさに、アレンは胸の中から思わず涙が込み上げてくるのを感じた。
「逃げなさい、アレン。オーグを連れて、早く。この場所が割れている以上、ウルワ村も危ないかもしれない。だから、ここでは無いどこかまで、できるだけ遠くまで逃げるんだ」
「――っ、――」
何も、言えなかった。
何も、言葉にならなかった。
何も、言わせてくれなかった。
超えにならない嗚咽だけがベルナルドに届き、それを見たベルナルドは優しく微笑んだ。
「分かってくれ、アレン」
分かっていた。
分かってしまっていた。
理解などしたくは無いのに。
理解してしまえば、それを受け入れてしまう自分がいるから。
そうするのが最善だと、ベルナルドにとっても自身にとっても、そう判断してしまう自分がいるから。
けれども、分かってしまっていた。
ベルナルドがどれだけの決意で、そう言っているのかを。
ベルナルドがどれだけ自分を大切に想っているのかも。
アレンには分かってしまっていた。その決意はベルナルドだけでは無く、自身も固めなければならない事を。
「ズルいですよ……そんなの」
「ありがとう。そして、オーグを頼む」
「……父さん?」
納得してしまったアレンの元に届いたその声は、今までずっと放心状態のように固まっていたオーグの声だった。
ようやく落ち着きを取り戻したのか、それとも取り乱すアレンを見て逆に冷静さを取り戻したのか、そのオーグの声は普段よりも数段と落ち着いたものだった。
そんなオーグを見て、ベルナルドは一瞬悲壮な表情を浮かべ、また微笑んだ。そして、優しくオーグの頭を撫で、暖かく声を掛けた。
「何もしてやれなくて悪かったな。それでも……俺はお前を愛しているよ」
「……父さん? ……父さん。父さん! 父さん!!」
オーグは次第に声量を増やし、慟哭どうこくとも言える叫びを上げる。
しかし、ベルナルドはそんなオーグに背中を向けた。
「アレン、頼んだよ」
「…………はい」
ベルナルドの決意を受け継ぎ、アレンはオーグを抑えその胸に抱き抱える。暴れることの無いように片手で脚を抑え、もう一つの手で胴を抱える。そして、未だに叫ぶオーグに悲愴を感じながら、再び木々の闇へと駆けていった。
「すまない」
そんな声を背後に聞きながら。
□□
「…………どうして何もしてこない」
アレンの後ろ姿を見送った後、その場に漂う静けさに違和感を感じ、バーナードが口を開いた。バーナードが感じたのは明確な違和感。
先程のアレンとのやり取りの時、バーナードは完全に男に背を向けていた。それは明らかに男にとってバーナードの命を奪う好機と言えただろう。
にも拘わらず、男はただ静かにそこに佇んでいた。もちろんの事、バーナードも男の動きに最大限の警戒を払っていたが、どうしても男がバーナードを襲わなかったわけが分からなかった。
「それは何時でも私を殺せるという意味で受け取ればいいのか」
男は依然、沈黙を保っていた。その否定とも肯定とも言わないその態度は、寧ろ否定とも肯定とも取れる様でバーナードは一層警戒を高めた。
「君は本当に帝国の者なのか?」
「…………ああ。そして、お前の敵だ」
バーナードのそんな問い掛けに、破ることの無かった沈黙を男は破った。そして、何故かその顔には悲愴の念が浮かび上がっていた。
それらが示す事は紛れも無く男の本心だとバーナードは感じた。
「君は本当は暖かい温もりを持った人ではないのか?」
答えは返らない。
「君ならこんな事をせずに、誰かに手を差し伸べる事が出来るんじゃ無いか?」
答えは返らない。
「……君はどうして武器を取る?」
答えは返された。
「……俺はお前を殺す。ただそれだけの為に此処まで来た。そこに情など存在しない。……情など既に失せている」
「……わかった。なら、私も覚悟を決めよう」
男の言葉に決意を固め、再びバーナードは槍を握る手に力を籠める。男の言葉にどれ程の苦悩と葛藤が重ねられていたのか、バーナードには知る由も無いが、ただその言葉にもバーナードと同様の決意が籠められている事は明白だった。
ならば、これ以上言葉を連ねる事など微塵の価値も無い。どれだけ言葉を重ねようと、二人の胸に秘められた覚悟が揺らぐ事など有りはしないのだから。
ただ一つ、バーナードの覚悟を表した一言を除いて。
「ただ、一つだけ頼みたい事がある。今から刃を交える者に言うのも可笑しな話だが、どうかあの子供達だけは見逃してはくれないか? 命令されているのが私の抹殺ならば、彼等は関係が無いはずだ」
「……俺の受けた指示の対象には彼等も含まれている。大切な者を守りたいのであれば、私を止めてみろ」
バーナードの懇願を男は切り捨てる。
端から見れば、その男の態度は酷く冷酷なものに見えただろう。バーナードだけでなく未来ある少年達の命まで奪う、それはあまりに冷酷で冷徹で冷淡で冷然な行いに間違いは無い。
しかし、バーナードはそんな言葉を受け、不思議と笑っていた。
「そうか、ありがとう」
男の言葉を聞いて、バーナードは気が付いたのだ。この男にはまだ温もりが残っている、と。
二人を護るには男に打ち勝たなければならない。極当たり前なその条件は、同時に順当なものでは無かった。
バーナードがアレンを説得している時、男は実行しようと思えばその命を奪えた。更に言えば、わざわざ待ち伏せなどせずに森の中で不意打ちを仕掛ければ、容易くその首は跳んでいただろう。
本来、こうして二人の男が向かい合う状況が整うはずが無かったのだ。こうしてアレン達を逃がす事すら、出来ていなかったのだ。
ならば何故、今こうして二人の男が武器を向け合っているのか。その答えは至極簡単なものだった。
男が故意にその機会を見逃していた。
バーナードに僅かでも希望が残るように。僅かでも二人の少年を助ける可能性を残すように。バーナードに本当の父親の在り方を示せと言うように。
必ず二人の元へ戻る、と心に決め、バーナードは一歩を踏み出す。二人の息子を護る為に、強く、固く、武器を握り込んだ。
「私は強いぞ。今は負けられない理由が、この胸にあるからな」
満月に照らされた山中に、火花が散る。
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