風の調べと、竜の誓い【旧:男の娘だけど~】

高瀬暖秋

月下の出会い【3】

 

「……はあ、何やってるんだ、俺」

 既に闇が太陽を覆い隠してしまっている夜空を見上げて、少年は独りちる。
 空には既に月が浮かび、木々から漏れてくる月光は周囲の暗さに比例してその美しさを増す。
 もうじき、満月になるのだろうか。夜空に描かれる月は完全な円には達さず、どこか僅かに欠けている。

 少年は多種多様な耐え難い衝動に駆られて、気が付けばあの家を飛び出していた。荷物も、父親も、何もかもあの場に放り出して、唯一握り締めてきた物は己の意地。
 それすらもまるで取るに足らない物で、少年は月光の眩しさに目を細めた。

 結局、少年が冷静を取り戻して立ち止まったのは家を出て数分後の事だった。今日一日で溜まりに溜まった疲労と傷だらけのその足では数分走るのが精一杯だった。
 そして、遂に立ち止まり、周りを見渡して、月を見上げて、冷静になり、現在に至る。

 いや、冷静になったと言うのには語弊があるかもしれない。正しくは、諦めたと言うべきなのだ。
 実のところ、少年は家主が差し伸べた手を払い除けた時点で、とっくに冷静だった。冷静に、自分のした事と自分の心にあった負の感情を恥じて、あの場を飛び出したのだ。

 そして、立ち止まって、諦めた。諦めて、月を見た。
 己の恥じるべき感情から目を逸らさず、向き合わなければならないのだと理解して、諦めた。

 少年が目を逸らしたのは、嫉妬。
 自分には救えなかったのに、そんな自分とは違っていとも容易く父を救ってみせた、あの少女の行為への嫉妬。
 自分のせいで傷付き、故に自分が救わなければならなかった父を、何の関係も無いのに救った、あの少女の余裕への嫉妬。

 少年にとって、後者の嫉妬は比較的納得できるものであった。
 きっと、あの少女は自分の望んだ極普通の幸せを手に入れている。だから、何の関係も無い自分達に手を差し伸べる余裕があるのだ。

 そんな風に考えれば、余り胸が苦しくならなかった。本来自分に向けなければならない怒りを、自分と彼女との境遇の差にぶつけることで、幾らかは心が安らいだ。

 だが、前者はというと、そう簡単に納得出来るものでなかった。他の何かに怒りをぶつけて、自己解決出来るような感情ではなかった。何故なら、それはどんな解釈をしようと自分の力の無さに帰結するのだから。

 父親が傷付く羽目になったのは、自分のせい。そんな父親を癒すことが出来なかったのは、己の力不足。

 少年にも分かっていた。
 あの時、少年が父親の前で涙を流すしか無かったあの瞬間、あれこそが自分の弱さの証明なのだと。傷付き、心が折れ、大切な者が消えてしまいそうになっているのをただ見ていることしか出来なかった、あの瞬間こそが自分の未熟さの証明なのだと。

 事実、あの少女は父親を救った。少年と歳もそう変わらない、あの少女が父親を救った。

 自分には治療する技術が無かった?
 ――今まで、一度も手に入れようと望まなかっただけだ。

 薬が何処にあるのかが分からなかった?
 ――単に諦めて、探そうとしなかっただけだ。

 疲れ果てて動けなかった?
 ――勝手に、自分は何をしても無駄だと決めつけていただけだ。

 ならば、何をした? 何をしてきた?
 あの瞬間に、そしてあの瞬間に至るまでに、自分は何をしてきた?

 ――何も、してこなかった。だからあの時、ただ見ているだけしかなかった。ただ他力本願で、拳を固めることしか出来なかった。

 少年は独り、拳を握る。
 己の無力さを嘆いて、手近な木に叩き付ける。太い幹が揺れ、木の葉が数枚宙に舞った。

 痛い、痛い、熱い。
 拳を確認せずとも、血が滲んでいるのが分かる。その熱さは、あの家まで背負ってきた父から流れていた物とまるで変わらなかったから。

「……ああ、クソ。あんな事言うつもりなかったのに」

 自らの行いを省みて、少年は自身を呪う。
 確かに、あの時の自分は気が動転していた。父親を傷付けられ、自分も血を流し、見ず知らずの少女に父親の命を預けた。振り返ってみれば壮絶な一日である。……それこそ、他人を信じられなくなるような出来事もあった程に。

 だが、わかっている。自分が彼女にした行いは、それらを言い訳にして正当化してはいけないのだと。

 何故なら、彼女は違っていたから。

 彼女は父親を救ってくれた。そうすることで、自分も救われた。それだけで、彼女が父親を傷付けた心無い者達とは決定的に違うことは明らかだった。

 それなのに、少年は彼女の手を払い除けてしまった。嫉妬と恐怖に支配されて、彼女を傷付けてしまった。それがどれ程酷いことなのか、分からない少年ではなかった。 

 いや、むしろ少年であったから、それが良く分かったのかもしれない。他ならぬ、他者からの心無い行動によって傷付けられた少年であったから、その苦しみが分かったのかもしれない。

 その者の言い分に耳を傾けず、己の中だけの正義を貫き、他者を傷付けて自分を正当化する。少年が少女にした行為は、そんな心無い行いに相違無かったのだから。

「謝らなきゃ――」

 少年がそう決意し、あの家まで戻ることを決めた――その時、少年の耳が状況が変わってしまったことを察知した。

 定期的に土が削られる音。布と布が擦れ合う音。金属と金属がぶつかり合う、高い音。そして、この世で人間のみが扱える、言葉。
 少年の耳に届いたのは、何者かの接近を告げる音だった。

 それらの音を聞いて、咄嗟に少年はその場にしゃがみ込み身を隠す。その際に傷だらけの足が悲鳴を上げ、少年の顔が苦痛に歪む。が、現状でそんな些末な事を気にかけていられない。
 少年はひたすらに音を出さないことだけに集中し、その音の聞こえる先に目をやった。

 正直なところ、何者かの接近に気が付いた時点で、少年にはその正体が分かっていた。故に、少年がその音の発信源を確認することに大した意味は無い。

 ただ、否定したかった。ほとんど確信に近い少年の予想を、そんな事があるわけが無いのだと否定したかった。……それが、現状において最悪の想定であったから。

 しかし、案の定その想定は当たることになる。
 少年が覗き込んだ先にあった光景に、少年は全身の血の気が引いていくのを感じた。

 そこにあったのは、少年の見覚えのある二人の男の姿。
 片やまだ青さを感じさせる若い男、片や常に威圧感を放っているような大柄の壮年の男。それらの特徴を除けば二人はほとんど同じ格好だ。
 首元から腰までを覆う鉄製の胴当て、竜を切り裂くように交差する二本の剣の紋章が描かれたカイトシールド。同様の紋章が描かれた赤いマント。そして、腰に下げられた細身の剣。

 重装備とは言えないまでも、手負いの獣を狩る程度なら問題無く済ませることが出来る装備だろう。
 則ち、それが示している現実は――、

「……っ、クソッ。何でこんなとこまで」

 他ならぬ少年の父親を傷付けた者達の来訪だった。

 事態の切迫に焦りを感じて、少年は顔をしかめる。無意識に恐怖しているのか、気が付けば手が震えていた。その震えがまた悔しさを増大させ、二人への憎悪を少年の心に植え付ける。

 しかし、いくら少年がむきになって二人の前に姿を現したとして、それがほんの数分の時間稼ぎにならないことは目に見えている。少年を庇いながらであったとは言え、父親は奴らに傷を負わされた。父親も相当の手練れであるにも拘わらず、だ。
 その事実が、その恐怖が、無茶をするあと一歩手前で少年を踏み留めさせた。

 少年に気付かないまま前に進んでいく二人を睨みながら、少年は現状の把握と打開策の発案に思考を働かせる。

 まずはあの二人から父親の居るあの少女の家までの距離。
 少年が蛇行しながら走り抜けてきたことを考えて、おおよそ五百メートル。いや、山道の足場の悪さを考えればもう少し短いかもしれない。

 そう考えれば、多く見積もって十分。途中で引き返す可能性も考えられるが、楽観的な観測は避けるべきだろう。別働隊がある可能性も踏まえれば、ここから急いで家に戻ったとしても父親を逃がす時間は無い。

 かと言って、少年には二人を止める手立ては無い。この山の構造に詳しいのであればともかく、今日足を踏み入れたばかりの少年には二人を遠回りさせる手段すら無いのだ。

 いっそ、囮覚悟であの家とは反対方向に走り出すべきか。

 焦りから生まれる動揺の中で、少年はそんな事を考えた。打開策が見えないならば、せめて二人の視線を逸らすだけでも出来ないかと。

 恐らく、それは実行に移せば成功する。二人の注目を少年一人が引き付けることが出来れば、少なくとも探索の手は少年のみに伸びる。そうすれば、あの聡明な少女ならばその隙に父親を逃がしてくれるかもしれない。
 だが、一方で当然デメリットも存在する。則ち、少年の死だ。少年があの二人を引き付けようとすれば、十中八九逃げ切ることは出来ない。そうなれば、少年の死は必然と考えるのが妥当だった。

「……囮」

 当然、その可能性については少年にも分かっている。囮になれば自分の命が失われてしまうことも。

 だが、少年には簡単な損得勘定が出来なかった。自分が囮にならない場合の父親が生きる確率と、自分が囮になって父親が生きる確率。そのどちらの確率が高く、どちらが自分にとっての利になるのか。そんな明白な事でさえ、現状においては冷静に考えられなかった。

 故に、少年は選択する。

「……俺が、囮になれば、父さんが助かる」

 自分が囮になることを。

 意地、だったのかもしれない。
 その選択は、ただの意地だったのかもしれない。あの少女には父親を救うことが出来て、自分にはその力が無いから。せめてその命を賭けてでも、自分だって父親を守ることが出来るのだと、誰の目に止まらない主張をしてみたかっただけかもしれない。ただの愚かな選択だったのかもしれない。

 けれど、その意地は大切な物だった。力も、知恵も、何もかも持っていない少年にとって唯一捨てられない大切な物だった。せめて志だけは誇れるようにいようと、ずっと大切にしてきた物だった。
 故に、たとえそれが自分の身を焦がす物であろうと、少年は選択した。

 しかし、そんな少年の選択はまるで意味の無いものと化してしまう。囮になるならば、僅かでも早い方がいい。そんな覚悟の元、少年が二人の男の前に姿を現そうとした――その時、その声が少年の耳に届いた。

「おや、こんな所にどうして騎士様がいらっしゃるのですか?」

 少年の耳に届いたのは聞き覚えのある、少女の声だった。


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