LOVE NEVER FAILS

AW

そうきたか

 寒さでかじかんだ手を制服の両のポケットに詰め込み、通い慣れた坂道を小走りに上る。あと1週間もすれば冬休み。冬休みが終われば高校受験という名の人生最大級の試練が僕を待っている。そんな仰々しさとは裏腹に、いつもと同じ日常を、何も考えることなく僕は淡々と繰り返していた。なるようになる、それだけで良い。人並み程度に努力し、笑い、そして泣く。それだけで十分だ。

 歩んできた道を振り返ると、海沿いに屹立するツインタワーが太陽を挟みこもうとしている。1億円以上すると言われているその最上階――そこから見下ろす風景はどんなだろう。そこにはどんな人が住み、日々何を思うのだろう。金持ちに嫉妬しても時間の無駄だ。再び前を向き、丘の斜面に広がる低層住宅街を抜ける。海沿いと比べると貧相に見えるけど、新築一戸建てが並ぶこの辺りも、ここ最近急激に開発が進んできた地域だ。駅からはちょっと離れるけど、区役所や郵便局、地元の安いスーパーがある。家も人生も同じこと。何を優先し、何を犠牲にするかで決まる。僕みたいな最下層にとっては、その選択肢すら与えられているのか怪しいけどね。

 人影の疎らな道に出る。この辺りは大賀ハスという白とピンクの可憐な花で有名だ。学校で習った記憶によると、今から2000年前の弥生時代以前の遺跡から発見された実を、大賀先生という方が復活させたもので“世界最古の花・生命の復活”として世界中に報道されたんだとか。人間も凄いけど、植物の生命力に大いに感動させられたのを覚えている。でも、その感動の物語には続きがある。確か、管理している大学が維持費の関係で手放そうとしたとき、自然を守ろうという市民団体が立ち上がって今のように保全されているそうだ。ナショナルトラストってやつなのか。とは言っても、花が咲くのは6月の話。年の瀬も迫ったこの時期は、忘れられたようにひっそりしている。そんな帰り道、僕はそこで不思議な白い影を目にした。50m、40mと近づくにつれ、僕の歩調は緩んでいく。そして、不躾な観察の結果、いくつかの推論に達する。

 A.白猫がバス停の長椅子で寝ている
 B.長椅子に置き忘れたバレーボール
 C.同じく、置き忘れた白いバッグ類

 気付くと僕はいつの間にか走り始めていて、ラスト10mは現役さながらの全力疾走を繰り広げた。“白い兎”が停車したバスに飛び乗るのが見えたから。

「の、乗ります!」

 一度閉まったドアが嫌々音を漏らして開き、僕を迎え入れる。10を超える冷たい視線を下を向いて躱し、息を整える。そして、自宅を通り過ぎていくバスに、衝動的に乗ってしまった言い訳を必死に思い浮かべる。唯一の家族である母ちゃんの帰りは遅い。見たいテレビもなければ、遊ぶ友達もいない。なら、たまには非日常にダイヴしても許されるんじゃないか? それに、今日は花の金曜日――何か良いことが起きる気がする。黒猫なんかじゃなく、白兎を追いかける冒険なんて、良いことが待っているに決まってる。僕は抗えない運命という潮流に流されただけなんだ。自分勝手な妄想にドン引きしつつも、自分の良心を説得できたことに満足して口角が挙がる。

「おっと」

 急カーブの遠心力を感じたとき、僕の視界に一瞬白い物が映る。あっ、この白い兎を僕は追いかけてきたんだ!

 そして、僕は初めて間近にそれを見た――。

 白い。とにかく白い。濃紺のシートが、より一層それを際立たせている。その透き通るような白さに、思わず見惚れてしまう。僕自身、兎年ではあるけれど、ウサギの種類なんて詳しくは知らない。その威厳たっぷりな存在の前に、誰もが口を閉ざし、観察に勤しんでいる。水色と金色が入り交ざった宝石のような瞳は、そんな多くの視線を無視してずっと虚空を見つめていた。

 団地を過ぎると一気にバスが空いた。僕は移動してそれの斜め右後ろの席に陣取る。通りを見る振りをしてそれを至近で見られるから。他の席も空いている中、隣に座るほどメンタルは強く無い。慌てて消しゴムケースの裏に差し込んであったヘソクリの千円札を引っこ抜き、右手に握り締める。このバスは市内の僻地へと向かっているようで、停まるたびに重量を減らしていった。

 そんな時だ、勇者が現れたのは。理性が未熟だからこそ出来る突撃――5歳くらいの女の子は、何かのキャラ名を連呼しながら兎に纏わりつく。兎は触られても逃げることなくシートに座っている。白毛が夕日を受けて光り輝く。その光を凝視していた僕の目は、兎が一瞬だけ見せた寂しそうな表情を見逃さなかった。

 兎がバスを降りる。小さな無賃乗車客に車掌は気付いていない。僕も慌てて370円を支払い、さり気なく続く。尾行スキルなんて無いぞ。とりあえず距離キープだ。橋の欄干に隠れて行く先を伺うと、白い塊が大きな建物へと入っていくのが見えた。スクールバッグを両手に抱えて猛ダッシュする。近づくにつれ深まる違和感。それでも僕は必死に数百mを駆け抜けた。

「そうきたか」

 僕の目の前に聳えるのは、4階建ての病院だ。もっと正確に言えば、数年前までは病院であった物が、放置された成れの果て――廃病院とでも言えば良いのか。封鎖された入口から見えるのは、草むらと化した元駐車場と、その奥で口を閉ざした玄関。ふと見上げれば、灰色のカーテンがいつの間にか不気味な暗雲を纏う空にひらひらと揺らめいている。歪に曲がった木の枝が、僕を誘うように揺れている。背中に走るのは、冷やりとした感覚。その時、病院の入口からガチャンという金属音が響き渡った――。

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