罪人ノ輪舞
1:試験開始
「早う行くぞ、ハル」
数メートル先を小走りしながら振り返り、ハルを手招くのはアンだ。
仕事の期限は日の出から日の入りまでなのだから、そう焦ることもないのに。
そんなことを思いながら肩を落とすハルを見ていると、益々と気持ちは焦り、アンはさっさと一人で走り去っていってしまった。
「あ、こら、アン! 小太刀は僕が持ってるのに、どうやって九十九獅子を倒すって言うんだい?」
「あんな獣っ子の一、二体くらい、わっち一人の両手があれば十分じゃ。小太刀はハルの好きにせい」
横暴と無茶にも程がある言い訳も、アンであれば成し遂げられよう実績は確かにある。
しかし今回の獅子狩りは、今までのものとは訳が違った。
敵対の意思を見せない限りは襲って来ない特性の九十九獅子が、ここ最近で以前の数倍は気性が荒くなっているのだそうだ。
周囲の村では作物が荒らされ、怪我をする者も出てきている始末。
故に今回の仕事も、本来は脅威個体の減数が目的だった。加えて、普通は数名から十数名で行う仕事である。
ではなぜ、周囲には二人以外に誰もいないのか。
近隣の探索だけでなく、自由に世界を飛び回る為の証書取得に向けた最終試験として、九十九獅子の単独討伐という旨が存在している。
が、普通であれば順当にこなしていくところを、九十九獅子討伐に関してだけは、それが実績として存在していれば、それまでの試験過程は全て飛ばして証書が受け取れるという変則事項があるのだ。
それにアンが乗らない筈もなく、どうせなら兼ねて一緒にやってしまおうと言い出したのが原因だ。
二人が所属するギルドの長であるアヤも、最初は「無理だ!」と猛反対していたが、死んでも構わないなんていうアンの強く無茶苦茶な言い分に結局折れて、その条件も加味した仕事になってしまったというわけだ。
「面倒を見るのは監視者である僕の仕事なんだけど……はぁ。帰ったら特別金を強請らないとな」
走ってアンを追いかけながら、深い溜息が零れた。
隣に並ぶと、アンはととっと二歩程前に出て振り返る。
「なんじゃハル。せっかくわっちの晴れ舞台じゃというのに」
「そうなれば良いんだけどね。前に疲れ果てておぶってやったのは誰だっけ?」
「はて、そんなことがあったかいな? 最近は物覚えが悪くていかん」
「僕より三つしか違わないでしょ」
呆れるハルが十七で、楽しそうに先を行くアンが二十一。
歳上だというのに、自分よりも落ち着きがないのは如何なものなのだろうか。
ハルはまた、大きく溜息を吐く。
そんな折に、アンが「そういえば」と口を開いた。
「証書を貰ったら世界を飛び回るじゃろ?」
「まぁ。あまりギルドに帰ることもなくなるかな」
「なら、これを終えて帰ったら、そろそろ皆に明かそうと思うのじゃ」
あっけらかんと言い放たれたその一言に、ハルは思わず固唾を飲んだ。
アンの口にした明かし事とは、アン自身の過去にまつわる話のことだ。
ギルドに入るより更に前の出来事。
「あまり気乗りはしないかな。それでもしギルドから放り出されでもしたら、旅すらままならなくなるよ? なまじ組織に属しているからこその証書なんだから」
「そうは言うがハルよ、お前はあやつらを信用しておらんのか?」
「君から信用なんて単語が出て来たことは置いておいて――いいや、信用しているとも。僕も君も知らない“家族”ってやつを教えてくれた人たちだ。大恩人だとも」
「それなら心配する必要はなかろうて。大丈夫じゃ」
文尾に「多分の」と付け足すと、悪戯に微笑んで再び歩き出した。
ただ明かすだけならば、確かにそう躊躇うことはない。何でも割り切って物事を考えられるアンの性格であれば、恐れはないのだろうから。
しかし、大事なのはその先――皆からどう思われるか、どう言われるか、はたまたそれをどう受け止めるか。
それらの予想が、ハルには一縷もたたない。
「ねぇ、アン」
足を止めて呼び止めて、伝えんとしているのはふとした思いつきだ。
「なんじゃ?」
「例えば……そう、例えばだ。その結果として誰からも蔑まれて、認められなくて、糾弾されたとする。そうしたら、また前みたく勝手気ままな旅をするっていうのはどうかな?」
ハルの提案に、アンはしばし考え込む。
神妙な顔つきで、口元に手を添えて、無言で思考を続けている。
やがて顔を上げると、それは魅力的な提案じゃな、と一言。
それにやや明るさを取り戻すハルに、しかしすぐに「じゃが」と置いて遮った。
「せっかく一介の“人間”になれたのじゃ。仲間と思うものは、真に仲間でありたいと願う。我儘か?」
ハルは首を横に振った。
決してそのようなことはない。絆をより一層深めんとする気持ちを持っていることは、寧ろ褒められたことだ。
よもや、そこまでの気持ちで言われようものだとは思っていなかっただけに、ハルはそれ以上何も言わないで、アンが言うことを受け入れた。
(一介の人間、か…)
豪快な自信家であるアンが、自分をそんな風に評価していたとは。
下手をすれば、村の子どものように「世界最強!」と言ってごっこ遊びに興じていそうなものなのに。
人間といっても、大人の人間になったというなのだ。
「めざましい成長じゃろう?」
ふと前触れなく、アンが心を読んで尋ねた。
「堅気には“読心”を使わない約束じゃなかったかな?」
ハルの鋭い視線がアンに刺さる。
ハルの口にしたそれは、アンがこれまでの人生の中で身に着けた特技である。
表情の硬さ、変化、目線に筋肉への力の入り具合を瞬時に観察し、対象の次の手、また安心感や恐怖心といった心理を読み取るものだ。
ハルと出会う以前、アンはこれを、自身を捕らえた対象に使っては隙を突いて逃げ出し、また捕まれば同じことを繰り返し――そうして自身を防衛してきた。
しかし、ハルと出会って監視対象になると、アンはその類稀な観察眼を、極力一般人には使用しない制約を課された。仕事に活かせる場面も少なくはないが、それは自分をも傷つけることになりかねないから、と。
自身を護ってくれる相棒がいるなら良いかとそれを軽々と受け入れたアンだったが、なかなかどうして気を張っていないと直ぐに観てしまう。
たまに癖でそれを視てしまっては、こうしてハルに咎められているのだ。
「癖じゃ。仕方なかろう。それに、お主に限っては常人なぞではなかろうて」
「世辞は意味がないかな。出会って何年も経つんだよ? 直そうっていう気がないんじゃないの?」
「そんなことはないぞ。これでも、月に一度くらいには治まってきておる」
「じゃあ明日にはまた視てしまうかもだ」
今日は月の終わり。
明日からはまた、新しい月だ。
「暦で判断するのは意地が悪いぞ」
ひらひらと手を振ってハルの追随を躱すアン。
再び少し早歩きで前を行くと、また小言を言いながらハルが後から着いて来る。
あともう少しだけ歩けば森に到達するという手前で、ふとアンが足を止めた。
あわやぶつかりそうになりながらも踏み留まってどうしてのか尋ねるハルに、アンは森ではない遠くの方を見つめて、小さく「危なそうじゃのう」と呟いた。
「危ないって何が?」
「村人が襲われておる」
「対象は?」
「おそらくは九十九獅子じゃ。随分な走りで畑を荒らしておるようじゃ」
その方角にある村といえば、ここいらでは人口が多く、且つそれだけに作物もよく取れる場所である。そんな所に、今まさに増えている特異個体が入り込んでいるとなれば、一大事以外の何物でもない。
アンに具体的な方角を聞くと、背中に横一文字で納刀していた小太刀に手を添え、ハルは走り出しの姿勢を取った。
「犠牲者なんて出てしまったら試験どころじゃなくなる。内一体だけでも単独討伐出来れば良いだけだから、手出し無用とは言わせないよ?」
足に力を込め始めるハルに続いて、アンもやや姿勢を前傾した。
肩幅に足を開き、両手をだらんと垂らして先を見据える。
「分かっておる。であれば、一番駆けを貰うとしよう。よう見ておれ」
「はいはい」
ハルが短く返した刹那、アンが踏み出した。
一歩目で一丈程踏み込み、二歩目でその倍――遠く遠く、すぐにその姿は小さな点になった。
幼少の頃、ハルが友人と競った前走ありの幅跳びにて出した記録を、よもや前動作なしの、それも訓練を受けてこなかったアンに一歩目で覆されようとは。
敏捷性に体幹、脚力だけなら、長をも軽く超えそうな程だ。
はぁと小さく溜息を吐いて落ち着くと、少し遅れてハルも走り出した。
踏み込みはアンの五割程度。しかし、二歩目、三歩目でその差を詰めると、すぐにアンの横へと並び立った。
「相も変わらず意地が悪いのう。わっちへの当てつけのつもりか?」
「離れるわけにはいかないだけだよ。遅れて見落とせば、採点も出来なくなるだろう?」
「よく言う」
軽く鼻で笑い飛ばすと、アンは正面に聳え立つ小高い丘に向かい合った。
それさえ越してしまえば、村の姿を視認出来る。
「飛ばすぞ、ハル! さっさと合格せんとな!」
「メインは救護活動と鎮圧だ。そこさえ間違わなければいいよ…!」
出し慣れない大きな声は、意外にも裏返ってアンの耳に届いた。
それにくすりと笑ってまた横に目をやる頃、大声と同時に踏み込む足に力が入ってしまったのは、ハルの姿は既に先にあった。
まったく容赦のない。
頭の中でそう呟いて、アンも足に込める力を一層強くした。
四歩、五歩程で丘の頂上まで来ると、その先に小さく村が見えた。
家屋が倒壊している様子はなく、煙も上がっていない。硝煙の香り届かないところを考えると、まだ被害はそう出ていないらしかった。
しかし、その軒並ぶ家屋の奥にある田畑の方で、確かに大きな影が幾つか蠢いていた。
右へ左へと移動を繰り返し、たまに頭を下方に突っ込んでは、野菜や根菜をずぼっと勢いよく抜き出している。
そしてその傍らでは、逞しい筈の村の男衆が二人、片腕でもう片方の腕を押さえている者と、足を引き摺る者が、鈍重な動きでその影から必死に遠ざかっていた。
「異常な大きさだ。気性だけじゃなかったのか」
「諸行無常、運否天賦が世の常じゃ。情報だけが全てだと思わんことじゃの」
「偉そうに。僕よりキャリア短い癖に」
小言に小言で返すと、二人揃って深呼吸を一つ。
落ち着けた呼吸で再び姿勢をとる。
「三歩だ」
「温い。一歩じゃ…!」
気合十分。
怒号と同時に上体を倒し、頭の先から足へと伸ばした一直線を村へと向けると、先よりも豪快に踏み込んで飛んでいった。
「記録出たな、こりゃ」
もう誰も、ギルドに入った頃のようにアンを馬鹿にする者は出てこないだろう。
安心して苦笑を洩らすと、また少し遅れてハルも踏み込んだ。
三頭の九十九獅子が、一斉に畑を荒らす惨状。
これまでは獅子除けのお香だけで凌げていた村に、こうも荒々しく踏み込んで来ようとは、露とも思わなかった村の者たち。
勇んで武器を取り、向かっていった村一番の男衆が簡単に撥ね退けられる様を見ると、普段は気丈に振舞う女衆も、足腰立たなくなってしまっている。
避けられない圧倒的な質量の脅威に、涙すら流す者もいた。
「誰か――誰でも良いから、村を…!」
手を組み、天へと祈りを捧げる一人の女衆。
すると、急ごしらえの堤防をものともせずに侵入してきた一体の九十九獅子が、その者目掛けて巨躯を走らせた。
目を瞑り、最後に思い浮かべた姿は――
「遅うなった!」
どこからともなく響く声に、女性は思わず目を開けた。
その絶望を間近に感じた虚ろな瞳が捉えたのは、向き合っていた筈の獅子の首が、真横を向いてしまっている光景だった。
ただ力自慢の者が殴るなりするだけでは到底成し得ない状況に、女性が考えられるのはただ一つの希望だった。
「アン様…!」
乾いた叫びから一拍遅れて、獅子の牙に捕まっていた対象が、ひらりと軽い動作でその背に飛び乗る。
「すまんの、クー。怖がらせたか?」
「いいえ。信じておりました」
「そうか。では村の者を頼もう。そう難しくはない、出来るか?」
真っ直ぐに捉えるアンの眼差しに安心感を得ると、クーは力強く頷いた。
「流石は村長じゃ、頼りになるのう。任せたぞ」
「アン様も、どうかご無事で」
誰の手も借りずとも平気じゃ。
ハルとのやり取りで慣れた小言で返そうとして、まだ聊かの不安が隠し切れないクーの笑みを見ると、
「皆で乗り切るぞ」
倣って笑いながら優しく言うと、クーの中に僅かばかり残っていた不安の色が消えるのが分かった。
「皆、祠へ…!」
その華奢な身体どこから、といった具合の大声で叫びながら周囲に手招き、力の余っている者には負傷者をおぶらせ、次々と集めては奥へ奥へと向かっていく。
祠の入り口は人が通れる程度のもので、且つ分厚い為に、緊急時の避難場所ともされている。
頼りになる小さな背中を、また優しい笑みで送ったところで、ようやくハルが合流し、指をさす。
「頭、引っこ抜かなかったんだね」
そんな第一声に、アンはむっとして顔を逸らした。
「失礼なやつじゃ。あの者らに、血飛沫に物が舞うのを見せる気か?」
「耐性がないわけじゃないとは思うけど――いや、配慮は良いことだよ」
「小言はええ。さっさと採点するがよい」
「これだから自信家は。オーケー了解、手早く済ませようか!」
一層気合の入ったハルの声に、アンは悪戯な笑みを浮かべた。
本能――戦いに対する、純粋な好奇心。
ただ今限り、その一つだけがアンの身体を突き動かす。
無邪気に、無慈悲に、無常に振りかざされる力。
見た目の威圧感には圧倒的な差をつけている筈の獅子に逃げうる隙を与えないまま、アンは瞬間で一頭目の命を途絶えさせた。
まったく、美しい光景だ。
そう思いながら霧散する獅子の塵を目で追って、それが消えるとハルも動き出す。
拾った小石を二頭目の背部へ投げて視線を誘導すると、迷わず抜刀した小太刀を構え、三頭目の頭上へと跳躍。寸分狂わぬ眉間の中心に突き立てると、獅子は苦しそうな咆哮を挙げた。
「これも諸行無常ってね。ごめんよ」
一つ小さく謝って、ハルは更に力を込めて小太刀を深く突き刺し、そのまま背の上を走り抜け、一条の傷を開かせた。
のたうち回る獅子の突進を躱し、横目に見やったの方では、既にアンが片をつけて誇らしげな表情を浮かべている。
その様子に、珍しくも「負けないよ」と意気込むハル。
振り向きと同時に襲い掛かる牙をしゃがんで躱すと、左サイドから小さく一撃、再びの振り抜きも躱し、右サイドから小さく一撃を見舞う。
ただのそれだけで、この巨躯を退けるに足るとは思わない。それが、アンの内心だった。
しかし、それは狙う箇所を誤っていればの話。
的確に急所さえ突いていれば、体躯に差がある相手であろうとも力業が問題ではない。
足の付け根にある筋を狙った攻撃は正確で、獅子はその大きな自身の胴を支えられなくなっていた。
やるではないか。そう言わんばかりに、アンが短く口笛を鳴らした。
「終いじゃの」
生まれたてのように震えながら立つ獅子。
アンの呟きのすぐ後で、向かい合う静かな暴力が、残る三つ目の命を奪った。
数メートル先を小走りしながら振り返り、ハルを手招くのはアンだ。
仕事の期限は日の出から日の入りまでなのだから、そう焦ることもないのに。
そんなことを思いながら肩を落とすハルを見ていると、益々と気持ちは焦り、アンはさっさと一人で走り去っていってしまった。
「あ、こら、アン! 小太刀は僕が持ってるのに、どうやって九十九獅子を倒すって言うんだい?」
「あんな獣っ子の一、二体くらい、わっち一人の両手があれば十分じゃ。小太刀はハルの好きにせい」
横暴と無茶にも程がある言い訳も、アンであれば成し遂げられよう実績は確かにある。
しかし今回の獅子狩りは、今までのものとは訳が違った。
敵対の意思を見せない限りは襲って来ない特性の九十九獅子が、ここ最近で以前の数倍は気性が荒くなっているのだそうだ。
周囲の村では作物が荒らされ、怪我をする者も出てきている始末。
故に今回の仕事も、本来は脅威個体の減数が目的だった。加えて、普通は数名から十数名で行う仕事である。
ではなぜ、周囲には二人以外に誰もいないのか。
近隣の探索だけでなく、自由に世界を飛び回る為の証書取得に向けた最終試験として、九十九獅子の単独討伐という旨が存在している。
が、普通であれば順当にこなしていくところを、九十九獅子討伐に関してだけは、それが実績として存在していれば、それまでの試験過程は全て飛ばして証書が受け取れるという変則事項があるのだ。
それにアンが乗らない筈もなく、どうせなら兼ねて一緒にやってしまおうと言い出したのが原因だ。
二人が所属するギルドの長であるアヤも、最初は「無理だ!」と猛反対していたが、死んでも構わないなんていうアンの強く無茶苦茶な言い分に結局折れて、その条件も加味した仕事になってしまったというわけだ。
「面倒を見るのは監視者である僕の仕事なんだけど……はぁ。帰ったら特別金を強請らないとな」
走ってアンを追いかけながら、深い溜息が零れた。
隣に並ぶと、アンはととっと二歩程前に出て振り返る。
「なんじゃハル。せっかくわっちの晴れ舞台じゃというのに」
「そうなれば良いんだけどね。前に疲れ果てておぶってやったのは誰だっけ?」
「はて、そんなことがあったかいな? 最近は物覚えが悪くていかん」
「僕より三つしか違わないでしょ」
呆れるハルが十七で、楽しそうに先を行くアンが二十一。
歳上だというのに、自分よりも落ち着きがないのは如何なものなのだろうか。
ハルはまた、大きく溜息を吐く。
そんな折に、アンが「そういえば」と口を開いた。
「証書を貰ったら世界を飛び回るじゃろ?」
「まぁ。あまりギルドに帰ることもなくなるかな」
「なら、これを終えて帰ったら、そろそろ皆に明かそうと思うのじゃ」
あっけらかんと言い放たれたその一言に、ハルは思わず固唾を飲んだ。
アンの口にした明かし事とは、アン自身の過去にまつわる話のことだ。
ギルドに入るより更に前の出来事。
「あまり気乗りはしないかな。それでもしギルドから放り出されでもしたら、旅すらままならなくなるよ? なまじ組織に属しているからこその証書なんだから」
「そうは言うがハルよ、お前はあやつらを信用しておらんのか?」
「君から信用なんて単語が出て来たことは置いておいて――いいや、信用しているとも。僕も君も知らない“家族”ってやつを教えてくれた人たちだ。大恩人だとも」
「それなら心配する必要はなかろうて。大丈夫じゃ」
文尾に「多分の」と付け足すと、悪戯に微笑んで再び歩き出した。
ただ明かすだけならば、確かにそう躊躇うことはない。何でも割り切って物事を考えられるアンの性格であれば、恐れはないのだろうから。
しかし、大事なのはその先――皆からどう思われるか、どう言われるか、はたまたそれをどう受け止めるか。
それらの予想が、ハルには一縷もたたない。
「ねぇ、アン」
足を止めて呼び止めて、伝えんとしているのはふとした思いつきだ。
「なんじゃ?」
「例えば……そう、例えばだ。その結果として誰からも蔑まれて、認められなくて、糾弾されたとする。そうしたら、また前みたく勝手気ままな旅をするっていうのはどうかな?」
ハルの提案に、アンはしばし考え込む。
神妙な顔つきで、口元に手を添えて、無言で思考を続けている。
やがて顔を上げると、それは魅力的な提案じゃな、と一言。
それにやや明るさを取り戻すハルに、しかしすぐに「じゃが」と置いて遮った。
「せっかく一介の“人間”になれたのじゃ。仲間と思うものは、真に仲間でありたいと願う。我儘か?」
ハルは首を横に振った。
決してそのようなことはない。絆をより一層深めんとする気持ちを持っていることは、寧ろ褒められたことだ。
よもや、そこまでの気持ちで言われようものだとは思っていなかっただけに、ハルはそれ以上何も言わないで、アンが言うことを受け入れた。
(一介の人間、か…)
豪快な自信家であるアンが、自分をそんな風に評価していたとは。
下手をすれば、村の子どものように「世界最強!」と言ってごっこ遊びに興じていそうなものなのに。
人間といっても、大人の人間になったというなのだ。
「めざましい成長じゃろう?」
ふと前触れなく、アンが心を読んで尋ねた。
「堅気には“読心”を使わない約束じゃなかったかな?」
ハルの鋭い視線がアンに刺さる。
ハルの口にしたそれは、アンがこれまでの人生の中で身に着けた特技である。
表情の硬さ、変化、目線に筋肉への力の入り具合を瞬時に観察し、対象の次の手、また安心感や恐怖心といった心理を読み取るものだ。
ハルと出会う以前、アンはこれを、自身を捕らえた対象に使っては隙を突いて逃げ出し、また捕まれば同じことを繰り返し――そうして自身を防衛してきた。
しかし、ハルと出会って監視対象になると、アンはその類稀な観察眼を、極力一般人には使用しない制約を課された。仕事に活かせる場面も少なくはないが、それは自分をも傷つけることになりかねないから、と。
自身を護ってくれる相棒がいるなら良いかとそれを軽々と受け入れたアンだったが、なかなかどうして気を張っていないと直ぐに観てしまう。
たまに癖でそれを視てしまっては、こうしてハルに咎められているのだ。
「癖じゃ。仕方なかろう。それに、お主に限っては常人なぞではなかろうて」
「世辞は意味がないかな。出会って何年も経つんだよ? 直そうっていう気がないんじゃないの?」
「そんなことはないぞ。これでも、月に一度くらいには治まってきておる」
「じゃあ明日にはまた視てしまうかもだ」
今日は月の終わり。
明日からはまた、新しい月だ。
「暦で判断するのは意地が悪いぞ」
ひらひらと手を振ってハルの追随を躱すアン。
再び少し早歩きで前を行くと、また小言を言いながらハルが後から着いて来る。
あともう少しだけ歩けば森に到達するという手前で、ふとアンが足を止めた。
あわやぶつかりそうになりながらも踏み留まってどうしてのか尋ねるハルに、アンは森ではない遠くの方を見つめて、小さく「危なそうじゃのう」と呟いた。
「危ないって何が?」
「村人が襲われておる」
「対象は?」
「おそらくは九十九獅子じゃ。随分な走りで畑を荒らしておるようじゃ」
その方角にある村といえば、ここいらでは人口が多く、且つそれだけに作物もよく取れる場所である。そんな所に、今まさに増えている特異個体が入り込んでいるとなれば、一大事以外の何物でもない。
アンに具体的な方角を聞くと、背中に横一文字で納刀していた小太刀に手を添え、ハルは走り出しの姿勢を取った。
「犠牲者なんて出てしまったら試験どころじゃなくなる。内一体だけでも単独討伐出来れば良いだけだから、手出し無用とは言わせないよ?」
足に力を込め始めるハルに続いて、アンもやや姿勢を前傾した。
肩幅に足を開き、両手をだらんと垂らして先を見据える。
「分かっておる。であれば、一番駆けを貰うとしよう。よう見ておれ」
「はいはい」
ハルが短く返した刹那、アンが踏み出した。
一歩目で一丈程踏み込み、二歩目でその倍――遠く遠く、すぐにその姿は小さな点になった。
幼少の頃、ハルが友人と競った前走ありの幅跳びにて出した記録を、よもや前動作なしの、それも訓練を受けてこなかったアンに一歩目で覆されようとは。
敏捷性に体幹、脚力だけなら、長をも軽く超えそうな程だ。
はぁと小さく溜息を吐いて落ち着くと、少し遅れてハルも走り出した。
踏み込みはアンの五割程度。しかし、二歩目、三歩目でその差を詰めると、すぐにアンの横へと並び立った。
「相も変わらず意地が悪いのう。わっちへの当てつけのつもりか?」
「離れるわけにはいかないだけだよ。遅れて見落とせば、採点も出来なくなるだろう?」
「よく言う」
軽く鼻で笑い飛ばすと、アンは正面に聳え立つ小高い丘に向かい合った。
それさえ越してしまえば、村の姿を視認出来る。
「飛ばすぞ、ハル! さっさと合格せんとな!」
「メインは救護活動と鎮圧だ。そこさえ間違わなければいいよ…!」
出し慣れない大きな声は、意外にも裏返ってアンの耳に届いた。
それにくすりと笑ってまた横に目をやる頃、大声と同時に踏み込む足に力が入ってしまったのは、ハルの姿は既に先にあった。
まったく容赦のない。
頭の中でそう呟いて、アンも足に込める力を一層強くした。
四歩、五歩程で丘の頂上まで来ると、その先に小さく村が見えた。
家屋が倒壊している様子はなく、煙も上がっていない。硝煙の香り届かないところを考えると、まだ被害はそう出ていないらしかった。
しかし、その軒並ぶ家屋の奥にある田畑の方で、確かに大きな影が幾つか蠢いていた。
右へ左へと移動を繰り返し、たまに頭を下方に突っ込んでは、野菜や根菜をずぼっと勢いよく抜き出している。
そしてその傍らでは、逞しい筈の村の男衆が二人、片腕でもう片方の腕を押さえている者と、足を引き摺る者が、鈍重な動きでその影から必死に遠ざかっていた。
「異常な大きさだ。気性だけじゃなかったのか」
「諸行無常、運否天賦が世の常じゃ。情報だけが全てだと思わんことじゃの」
「偉そうに。僕よりキャリア短い癖に」
小言に小言で返すと、二人揃って深呼吸を一つ。
落ち着けた呼吸で再び姿勢をとる。
「三歩だ」
「温い。一歩じゃ…!」
気合十分。
怒号と同時に上体を倒し、頭の先から足へと伸ばした一直線を村へと向けると、先よりも豪快に踏み込んで飛んでいった。
「記録出たな、こりゃ」
もう誰も、ギルドに入った頃のようにアンを馬鹿にする者は出てこないだろう。
安心して苦笑を洩らすと、また少し遅れてハルも踏み込んだ。
三頭の九十九獅子が、一斉に畑を荒らす惨状。
これまでは獅子除けのお香だけで凌げていた村に、こうも荒々しく踏み込んで来ようとは、露とも思わなかった村の者たち。
勇んで武器を取り、向かっていった村一番の男衆が簡単に撥ね退けられる様を見ると、普段は気丈に振舞う女衆も、足腰立たなくなってしまっている。
避けられない圧倒的な質量の脅威に、涙すら流す者もいた。
「誰か――誰でも良いから、村を…!」
手を組み、天へと祈りを捧げる一人の女衆。
すると、急ごしらえの堤防をものともせずに侵入してきた一体の九十九獅子が、その者目掛けて巨躯を走らせた。
目を瞑り、最後に思い浮かべた姿は――
「遅うなった!」
どこからともなく響く声に、女性は思わず目を開けた。
その絶望を間近に感じた虚ろな瞳が捉えたのは、向き合っていた筈の獅子の首が、真横を向いてしまっている光景だった。
ただ力自慢の者が殴るなりするだけでは到底成し得ない状況に、女性が考えられるのはただ一つの希望だった。
「アン様…!」
乾いた叫びから一拍遅れて、獅子の牙に捕まっていた対象が、ひらりと軽い動作でその背に飛び乗る。
「すまんの、クー。怖がらせたか?」
「いいえ。信じておりました」
「そうか。では村の者を頼もう。そう難しくはない、出来るか?」
真っ直ぐに捉えるアンの眼差しに安心感を得ると、クーは力強く頷いた。
「流石は村長じゃ、頼りになるのう。任せたぞ」
「アン様も、どうかご無事で」
誰の手も借りずとも平気じゃ。
ハルとのやり取りで慣れた小言で返そうとして、まだ聊かの不安が隠し切れないクーの笑みを見ると、
「皆で乗り切るぞ」
倣って笑いながら優しく言うと、クーの中に僅かばかり残っていた不安の色が消えるのが分かった。
「皆、祠へ…!」
その華奢な身体どこから、といった具合の大声で叫びながら周囲に手招き、力の余っている者には負傷者をおぶらせ、次々と集めては奥へ奥へと向かっていく。
祠の入り口は人が通れる程度のもので、且つ分厚い為に、緊急時の避難場所ともされている。
頼りになる小さな背中を、また優しい笑みで送ったところで、ようやくハルが合流し、指をさす。
「頭、引っこ抜かなかったんだね」
そんな第一声に、アンはむっとして顔を逸らした。
「失礼なやつじゃ。あの者らに、血飛沫に物が舞うのを見せる気か?」
「耐性がないわけじゃないとは思うけど――いや、配慮は良いことだよ」
「小言はええ。さっさと採点するがよい」
「これだから自信家は。オーケー了解、手早く済ませようか!」
一層気合の入ったハルの声に、アンは悪戯な笑みを浮かべた。
本能――戦いに対する、純粋な好奇心。
ただ今限り、その一つだけがアンの身体を突き動かす。
無邪気に、無慈悲に、無常に振りかざされる力。
見た目の威圧感には圧倒的な差をつけている筈の獅子に逃げうる隙を与えないまま、アンは瞬間で一頭目の命を途絶えさせた。
まったく、美しい光景だ。
そう思いながら霧散する獅子の塵を目で追って、それが消えるとハルも動き出す。
拾った小石を二頭目の背部へ投げて視線を誘導すると、迷わず抜刀した小太刀を構え、三頭目の頭上へと跳躍。寸分狂わぬ眉間の中心に突き立てると、獅子は苦しそうな咆哮を挙げた。
「これも諸行無常ってね。ごめんよ」
一つ小さく謝って、ハルは更に力を込めて小太刀を深く突き刺し、そのまま背の上を走り抜け、一条の傷を開かせた。
のたうち回る獅子の突進を躱し、横目に見やったの方では、既にアンが片をつけて誇らしげな表情を浮かべている。
その様子に、珍しくも「負けないよ」と意気込むハル。
振り向きと同時に襲い掛かる牙をしゃがんで躱すと、左サイドから小さく一撃、再びの振り抜きも躱し、右サイドから小さく一撃を見舞う。
ただのそれだけで、この巨躯を退けるに足るとは思わない。それが、アンの内心だった。
しかし、それは狙う箇所を誤っていればの話。
的確に急所さえ突いていれば、体躯に差がある相手であろうとも力業が問題ではない。
足の付け根にある筋を狙った攻撃は正確で、獅子はその大きな自身の胴を支えられなくなっていた。
やるではないか。そう言わんばかりに、アンが短く口笛を鳴らした。
「終いじゃの」
生まれたてのように震えながら立つ獅子。
アンの呟きのすぐ後で、向かい合う静かな暴力が、残る三つ目の命を奪った。
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