少年と武士と、気になるあの子。

B&B

夏は過ぎ去りて風が吹く(八)


 ボッ――。
 そんな木刀の鋭い音を最後に、善貴は今日の素振りを終えた。全身から吹き出した汗が白いTシャツと履いている下着はもちろん、ジャージまで粘着くようにピッタリと肌に張り付いていた。
 最後の最後まで残心を怠らずに、止めたままの木刀を下げる。意識しないようにしていたとはいえ、一通り終えると、全身の至る所から鈍い熱を帯びた心地良い疲労感が全身を覆っていた。
『千回目。まあ、こんなものか』
「これでもまだ足りないんです、よね?」
 以前ほどではないけれど、素振りを終えると途端に息が切れる。僕は呼吸を整えながらそう言った。
『当然だ。何度も言うが、素振りも一万回やるのが本来ぞ。それにその木刀は、本来の剣よりも軽い。軽い剣を振るのなら回数多く、振りに慣れておく必要がある。論より証拠、今度はあっちの軽いやつで振ってみろ』
 そう言われて僕は重い木刀から、軽い木刀に持ち替える。すると、先程まで感じていたずしりとした重みが消えたような感覚に陥る。軽い木刀を持っただけなのに、まるで持っていないかのようにすら思える感覚だった。
「すごく、軽い」
『だろう。軽い剣にも重い剣にも慣れておけば、もし万一剣を取り替えねばならん時も対応しやすくなる。戦場ではいつまでも剣一本で凌ぎきれるものではないぞ。時に折れることもある。刃毀はこぼれし、使えなくなることもある。そんな時、敵の刀を奪うこともあれば、落ちておる刀があればそれを使うのもまた道理。
 だが、刀はすべからく個体差があるものよ。だからこそ軽いものと重いものとの差を知れば、自ずとそれに合わせたやり方で刀が振れる。もっとも、基本は重さなど関係なくやる。重さや長さを関係なくやれるからこそ基本とも呼べる』
「個体差……」
『そうだ。同じ重みでも長さが違う。同じ長さでも重みが違う。見た目は丸切り同じでも、振った感触が違うことなぞザラよ。同じ剣でも、拵えが変われば握りの感触も変わることもある。あるいは、先重さきおもになっておる場合もあるな。手元に重みが無いから、そういうのは振っていて疲れが出やすい。逆にそういうもので鍛錬する者もおったがな。
 つまるところ、剣は二本として同じものがないのだ。例え同じ匠に打ってもらえど、必ずしも同じものができるとは限らん。大体同じものは出来ても、それはごく僅かな部分が違うものよ。
 それは我らと同じ人間と同じ。似たような性格であろうと、そいつは一人しかおらんだろう。だからこそ、それらを見極め、それに合ったやり方で対応することが必要なのだ。然るに、その見極めこそが極意とも言える』
(似たような性格だろうと一人しかいない)
 善貴はそれを強く心に刻みつつ、持ち替えた木刀を構えて振った。確かに先生のいった通り、振った木刀の重みは先程違って、まるで羽毛でも振っているかのように軽い。これなら何度だって刀が振れる。そう思うと、善貴は木刀を振る腕に自然と力みが出始めた。
 当然、木刀も動きに、音に違いが出始めた。それを見咎められて、善貴は振っていた腕を止める。
『馬鹿もん。軽いからといって力を入れるな。軽かろうが重かろうが、振る動きは同じ。基本は同じだ。人間は軽い物を持とうとして重い物を持って振るが、それは軽いだけであくまで動きは同じでなくてはならん。
 重さがなくなった途端に力を入れて振れば、折角の軽さが活きん。軽かろうが重い振り。重かろうが軽い振りの極意を知れ。素振りはそれを一番理解するのに最適な法ぞ』
 軽い物と重い物の差、軽くても重い振り、重くても軽い振り……。それを意識させつつ、善貴は淡々と木刀を振った。
 その内に、淡々と行っていた素振りは振っていることすら忘れ始めていた。けれど、不思議と意識が木刀ではなく、周りに向いた時だった。突然背後で何か音がしたような気配がして、瞬時に脚を向き直してそちらへ木刀を振り込む。
『馬鹿もんが!』
 頭の中で爆発したような声がした瞬間、動かしたはずの左手にがんがんの力が込められて動きが止められる。
「ちょ、ちょっと……」
「あ、お母さん……? ご、ごめん」
 突然振り向かれると同時に一太刀入れられそうになった母を、善貴は驚きながら謝った。母も母で突然振り向いた善貴に、驚いた様子だったがすぐに向き直って続けた。
「夢中になるのは良いけど、そろそろ遅いから上がんなさい。勉強もしないといけないでしょう」
「うん、分かった」
 ほどほどにしなさいと言ってリビングへと戻っていく母の後ろ姿を一瞥して、天を仰いだ。ほとんど無自覚だったけれど、いつの間にか肩で息をしていた。自分でも知らず知らずのうちに力を入れていた証拠だろう。いや、それよりも母が近くに寄ってきていたことすら気付かなかった。もし、後もう少し気付くのが遅ければ……。
『馬鹿もんが。無我になっておったとはいえ、間合いに入ってきたことを察知できぬとは何たる醜態。もしわしが止めなければ、お前は自分の母を殺しておったかもしれんのだぞ』
 頭の中で爆発するような声が、割れるように響いた。それは頭の中に直接爆音のスピーカーを据え付けられたかのような、そんな爆量だ。
 そういえば、先程突然木刀が止まったように感じたのは、先生が止めてくれたものらしい。善貴は荒い呼吸を繰り返しながらただ頷くだけで精一杯だった。
『やれやれ。自覚がないのが一番たちが悪いわ。お前の剣で人を殺せるということをもう一度理解しろ』
「は、はい……」
 持っていた木刀を地面に落として、相槌を打った。確かに先生に止めてもらわなかったら危なかったかもしれない……。そういう自覚が今更ながら出てきた。
 先生の言う通りだ。もし先生が止めてなければ僕は母を……そう思うとゾクリと背中に寒いものが這った。
 途中から半分意識が無くなっていたような気がする。事実、振り続けている内に、振った回数も分からなくなってしまっていたのだ。こんなことはこれまでになく、初めてのことだった。
『ともかく今日は終わりだ。風呂の後はしっかりと勉学に励め』
 言われなくても分かってます。そう言おうとして止めた。先生が止めていなければ大変なことになっていたことを思うと、それに反論するだけの権利が今の自分にあるはずがない。そう思ったからだった。
 そういえば今日は棒の稽古はしてないな。そんなことを思いながら、善貴は後片付けをして玄関を上がった。体を動かした後にする勉強というのはこの上なく眠くなるのだけど、一応は受験生という立場だから仕方ない。
『ヨシタカ』
「はい……」
『ようやく少しは出来るようになったな』
「え?」
『……はよう汗を流せ』
「は、はい」
 急かされるままに、善貴は風呂場へと行き汗を流した。

 稽古を終えた後の風呂はとても心地良く、気を抜けばそのまま風呂の中で寝てしまいそうなほどだった。
(いかんいかん。こんなとこで寝てしまえば、下手したら溺れ死ぬ)
 風呂で寝たままでいると最悪の場合、溺死することもあるという。善貴はそう言い聞かせて風呂を上がった。このまま布団に入れば、本当に気持ちよく眠れるだろうな。そんなことを考えながら、部屋に戻った善貴は鞄から学校や予備校から出された課題をやるべく机に向かった。
 開けた窓から入ってくる心地良い風が善貴の頬を撫でるように滑っていく。その風は、少しまでに感じた熱い夜風と違う秋の風だった。その風を感じた善貴は、ようやく夏が終わったのだと実感した。夏が過ぎ、新たな季節を伴う風が吹いたのだ。
 そういえば……と善貴は、走らせていたシャーペンを止めて不意に思い出す。結局、瀬名川とは会話らしい会話をすることなく、やってきた後発の電車に乗って帰ってきたのだけれど、あの時彼女は何を言おうとしたんだろう。
 本当は、何をすべきなのか、頭のどこかでは理解できていた。でも、それを彼女に対して起こすのはなんだか憚られたのだ。それは自分の役目ではないと。
 だからこそかもしれない。今日、えらく無心で稽古をしていたのは。自分の中に沸き起こった感情を否定したくて、自分は黙々と木刀を振っていたのだと。
 善貴は、再びシャーペンを走らせる。しかし、書き出した一文章を書き終える間もなくその動きが止まる。
(馬鹿な)
 善貴は自身の感情を責めた。いくら、距離が縮まったと言っても、それはクラスメイトとして、友人としてだ。そこから先があるはずがない。
「だってのに……」
 思わず漏れた言葉はもはや否定しきれるものではなかった。盛大に溜息をついて、善貴は机に顔を埋めて開かれている窓の方を見つめる。かけているメガネがずれるのも構わなかった。
 ああ、そうなのだ。この感情の奥底にあるもの。それはきっと、僕が瀬名川に対して……。
「好き、ってことなのか……?」
 机の上のライト以外照らすものの無い部屋に、小さく響いた独白。欠けていっている月明かりがほの暗く部屋を照らしていた。その部屋に、再び夏に終わりを齎す風が吹いた。




「少年と武士と、気になるあの子。」を読んでいる人はこの作品も読んでいます

「現代ドラマ」の人気作品

コメント

コメントを書く