少年と武士と、気になるあの子。

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夏は過ぎ去りて風が吹く(四)


 夏休みも明けて、早くも三週間が経過していた初秋。例年と比べ残暑厳しい初秋になるという長期予報も、蓋を開けてみれば例年通りの気候だった。日中の気温は涼しいと言うには早いが、それでも朝晩の冷え込み具合は一月前の八月後半と比べるまでもなく、快適で過ごしやすくなっていた。
 そんな快適で過ごしやすい秋の夜――時刻は午後二一時を回る頃、僕は庭で一人、習慣化している素振りを一時間に渡って行っていた。
 正眼に構えた木刀を振り冠り、左手を主導させながら振り下ろす。ゆっくり、けれど力は入れず、ただ腕の運動だけで振ることを心がけながらの素振りだ。
『ようやく振りも様になってきたな』
 頭の中で響く彼の声に、僕は振り下ろして止めた木刀を注意深く下げて構えを解いた。
「そうですか? 自分では細かいところがよくわかりません」
『力を抜けば次の行動が早くできる。力を入れたまま次に移るのは愚行ぞ。素振りとは、最も基本の形ともいえる。素振りを行わずとも、いつでも同じ振りができるようになるまでは素振りをするのが望ましい』
「はい」
 善貴はもう一度木刀を振って、動きを確かめた。次に木刀を正眼に構える。丹田を意識させながら呼吸を三回、最後は息を浅く吐いたところで、気持ち早めに木刀を額の上辺りに持っていき、直ちに下ろした。
『振り冠るところからの振りは悪くないが、火の構えになった途端、右手で振っとるぞ。基本を思い出せ。火の構えだろうが、あくまで振り冠りからの延長だ』
 指摘されたことを思い出して、善貴はもう一度火の構えから木刀を振り下ろした。振り冠りからと比べて動く範囲が狭まるためか、どうしても動きが窮屈に感じられて右手で振ってしまう。
『もう一度だ。振り冠りからゆっくりと振ってみろ。剣は全て円の延長上で行うことで、初めて最大限に斬る動きが発揮されるのだ。それができなくては袈裟も横面からの動きも、全て手打ちになってしまうぞ。敵は手打ちになった瞬間を狙ってくる者もおるのだ。それを忘れるな』
 そうは言われても、善貴にはどうやっても右手で振ってしまい、だんだんと右腕に緊張が走り、力任せの動きになってしまった。度重なる悪循環に、善貴の緊張の糸が切れそうになっていることに気づいた彼は、そこで止めさせた。
『どうした、今日はえらく動きが散漫だぞ』
「いえ、そんなはずは……なんとなく調子が悪い気はしますが」
『馬鹿もん。それを散漫だと言っておるのだ』
 頭の中に響くため息……のようなものを感じて、善貴は持っていた木刀を下ろして空を見上げた。夏の肌にまとわりつくような湿気も収まり、徐々に運動するには心地良い気候へと移っていることを肌で実感しつつ気持ちを落ち着かせる。
「先生」
『む。なんだ』
「前に先生は剣以外の動きもやってましたよね。あれって剣以外にも必要なことがあるということじゃないですか?」
『剣以外に必要なこととは、あのわっぱどものことを言っておるのか』
「ええ、まあ」
 先月、夏休み最後の週末に繰り出した街で、悠里とその友人、美樹子と出会った彼女たちを強引にナンパしようとした男三人を喜々として撃退した時のことに強い衝撃を受けた善貴は、あれからというもの剣の素振りや形以外にも何か必要なことがあるのではと思い始めていた。
 剣を持つことがなくなったこの時代、それよりも必要なのは武器などではなく、もっと直接的な身を守るために必要なものをやった方がよほど身になるのではないか。善貴はそう考えていたのである。
『……ふん。芽吹いてきたか』
「え?」
『何でもないわ。ヨシタカの言うのも、あれも剣で身につけたものの延長に過ぎんぞ』
「いや、剣は使ってなかったですよね」
『あの程度の輩相手に剣を使うなど笑止。そもそも、お前は何故武器を持つのか、戦うのかという前提から間違っておるからそんな考えになるのだ』
「というと?」
 前提が間違っているとはどういう意味なのか。善貴はそう指摘されて考えるも、答えは出ない。
『そもそも剣、即ち武器とはなんだ』
「武器とは……相手を攻撃するため、です」
『そうだ。だから、相手を攻撃するためにまず襲うことが前提になる。理由は単純。人は何か理由がなければ戦うことはない。平時から何も無いのに戦っておるような人間などおらんからな。そんなのはただの気違いよ。
 だからこそ、人は何か理由をつけて人を襲う。ある時はあまりの空腹に、またある時は上意討、はたまた互いの名誉のため……理由は様々だが』
「上意?」
『ふむ。この時代は、平和だからそういうのはもう無いのだったな。上意とは主君が家臣に対して命を出すこと。つまり、上意討とは上からの意を受けて相手を討ち倒すことよ。わしが生きた乱世では、やれここを襲えだの、やれここを確保しろだの、そのために戦場に駆り出されたものだったが』
 なるほど、と善貴は納得した。つまりは、最悪の場合は諜殺なども含まれているというわけだ。確かに、戦国時代とかならそういうことも大いに有り得そうだ。
『ともかく、様々な理由で人を襲おうとした時、手ぶらで行くなどあり得ると思うか?』
 そう質問されて善貴は想像してみる。例えば、自分の嫌いな人間を襲うとして、相手を確実に襲うと決めた時に、何の装備も無しに突撃するなんて確かに考えにくい。何か、手近にでも良いから適当なものを武器として手に取るだろう。
『つまりはそういうことよ。そもそも、わしの時代はあらゆる身分の者が帯刀しておった。武士、百姓、商人、僧侶とて例外ではないよ。僧侶に至っては、保身のために民衆を扇動し、戦わせるとんだ生臭坊主もおったくらいだわ。信長公は、断固としてそういう生臭坊主どもを討っておったがの』
 その話に、善貴は思わず息を飲んだ。先生の話す内容は、多分現在の歴史家たちの間でも様々な論のあるうちの一つに過ぎないのだろうけれど、それでも当時の現状を知る人間からの言葉以上に説得力のあるものはない。
 僕の知りうる限り、織田信長は多くの寺社を焼き討ちにしたとは歴史を勉強しているので知っているけれど、何も全てをそうしていたわけでないことも知っている。つまり、それを行ったのにはきちんとした理由があってのことだということだ。
 その恐れが故に、第六天魔王とか言われているけれど、反乱するならば例えどの層であれ討ち果たすのみ。そういう単純な思考だったのかもしれない。民衆はいつも何かしらの上の人間に翻弄されたりするものだけど、それが当時は僧侶も噛んでいたということだろう。
『あらゆる身分の者が武器を持つことが多かった時代に、武器で襲わないなどただ犬死しに行くようなもの。よって武器を持つのが前提というわけよ。
 となると突然であれ何であれ、襲われる方は堪ったものではない。そこで編み出されたのが、身を守る法、即ちこれが武芸と呼ばれるものだ。襲う方も、まさかそんな手で防がれ、襲われる側になるなど考えもせん。
 そのうちに今度はその法を知ることで、その対処の法を練り始める者たちが現れだした。相手に技を繰り出させないよう様々な技法が編み出され、時にぎりぎりのところで相手を躱す術と知識に、相手との間合いと心とを学ぶ。そこにこそ武の極意があるのだ。そしてそれを纏め上げた法を即ち兵法ひょうほうと呼ぶのだ』
「兵法……」
『そうよ。武芸の修行にて業と心とたいを磨くのもこのためと言える。一つ言っておくがな、ヨシタカ。使おうと思えばお前はすでに業くらい使えるのだ。やろうと思えば、持っているその木刀で相手を打ち倒すことなど容易。だが、そうと分かってできるか?』
 今の自分に業が身についているとして、実際に人間を相手に傷つけることができるだろうと想像する。先生はできると言うけれど、とても自分がそんなことできるとも思えない。
「いや……できない、と思います」
『だろう。人は必ず心に何らかの自制をしているもの。故に、心の弱い者では例え業が上手く使えようとも、それを解放できねば同じこと。同時に、その業と心がいくら達していようと、それを繰り出す器たるたいがきちんと出来ておかねば、不覚を取らんとは言えん。
 もし、同じ重さでただ太っている者と、きちんと自身の体と向き合い鍛えておる者、どちらが強いと思う? 当然後者よ。動きのキレが違うからの。つまり、同じ技量で同じ心の持ち合いならば、少しでも何かが優れた者が上に立つということだ』
 それが心技体である、と先生は言った。つまり、兵法の極意にはこのいずれもが欠けてはいけないと。
 善貴は、この時初めて武というものの奥深さを知った。いくら業が身についていようと、それだけでは役には立たないということを教えてくれているのだ。
『先程お前は剣以外にと言ったが、別にそれで全てが身につくのなら何も剣に拘る必要はない。だが、剣で物と体とが一体になる感覚を身につけて置かねば、いざ剣や槍、棒なんでも良いが使おうとしてもその場しのぎにもならん。
 だからこそ、武器を使い、そこから導き出した業でもって他のやり方を編み出し、使えるようにするのだ。わしがあの童どもを返り討ちにしてやったのも同じよ。剣の修行で身につけた武芸を、即ち業を剣ではなく体にて行っただけに過ぎん。
 丹田を極めれば、瞬間的に何倍もの力が動く。それを利用するのだ。ちなみに、今のお前でもそれを使えばけい(=首の骨の異称)など折ることも十分ぞ』
「首の骨を……」
 善貴は再び息を呑み込んだ。先生の言っていることは何となくだけれど、深く理解できそうなことだった。けれど、反面で頭の回転が追いつかない。
『このとき、決して心技体を区別するな。全ては同時でなくてはならん。業を繰り出すのに体が必要ぞ。しかし、その体もまず心がなくてはただの器にすぎん。そしてただ心だけでは、業をかけられた時何の対処もできんだろう。何か一つだけでも駄目だ。一つだけ欠けておってもだめだ。同時。これも兵法の極意たるものだろうよ。
 心、技、体。いずれかを動かすにはいずれかが必要になり、そのいずれをも必要になる時は、即ち、全てなのだ。バラバラだったものをこの身に宿し、三位一体とすること。それは螺旋を描くが如くだ。
 つまりヨシタカよ。うぬは大して剣の修行もしとらんうちから、他に目を向けようとすることなど愚行。今はまだ一つのことに絞ってやれ。一つを極めたからこそ見えてくるものもある。とどのつまり、多くのことをやるということは何も極められんことの裏返し。中途半端で終わることと同義ぞ』
 そう言って、先生は語り終えた。多分、何かすごく大切なことを教えてくれたんだろうということを、善貴は頭ではなくもっと深い部分で理解していた。それを掻い摘んで説明できるほどに理解は出来ていないけれど、それは彼の心の奥底に楔が如く打ち込まれたことに気付いていなかった。




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