少年と武士と、気になるあの子。

B&B

交わらない交差点(一)


 じーわじーわ――。
 耳につくくらいに五月蝿い蝉の鳴く声に起こされて、俺は目を覚ました。ようやく見慣れてきた天井を目の当たりにして起き上がると、そういえば今日は俺の日だったことを思い出し、すぐに布団から出てジャージとTシャツ姿に着替えて庭にやってきた。
 まだ時刻は卯の刻、ヨシタカの説明では午前五時頃にあたる。普段はもう少し起床が遅いが、まあ良いだろう。俺は一番重い木刀を正眼に構え、一気に振り冠って下ろした。
 動きは全て止めることなく、立て続けに振り冠っては振り下ろすの連続で、連続で弧を描く木刀の動きは次第に速さを増していき、その振りはまるで連結する円を描いていた。
 さらに動きに速さを増そうとすると、今度が腕が振る速さに追いつかず、ついには握る木刀が手の内からすっぽ抜けて地面に叩きつけられ、激しく跳ねて打ち付けられた。あまりの速さと勢いで、落ちた木刀はカランカランと乾いた音を響かせる。
 さすがの俺でもここまでの速さとなると息が上がる。大きく肩を上下させると落ちた木刀を拾い上げ、今度は片手でゆっくりと下ろした。ただ支えるだけの動きも、正確にゆっくりとなると以外と難しく、どうしても手に力が入りがちになるのを戒め、あくまで腕の運動だけで木刀を振った。
 動きを確かめるように数十回振った後、左手に持ち替えて同じだけ振ると、ようやく体のバランスが整ってきたように感じられた。そこで軽い木刀に持ち替えると、何度も何度も繰り返してきた形をこの若い体に染みこませていく。
 どういう理屈なのかは分からないが、自分で動き体に染みこませたものは、その体を通じて、ヨシタカの動きにも影響を与えるらしい。本人が気付いているかは分からないが。
 なので、ヨシタカと意識を交代している時は速い動きではなく、あえて緩慢な動きで形を行い、少しでも動きを体に馴染ませることにしていた。そうすると、交代したときに奴の動きが良くなっているのである。少なくとも稽古を始めた二月近く前と比べると、傍から見ていても奴の動きは格段に良くなっている。
 形がそのまま実戦になるとは限らないが、恐らく、やろうと思えばヨシタカでもある程度の業が繰り出せるくらいには馴染んでいるはずだ。あやつの動きが良くなってくると、必然的に自分の番の時に動きやすくなっているのを実感できるからだった。
 振りはもちろん、足の踏み替えの際の動きもようやく形になってきているので、そろそろ次の段階に入っても良いだろう。とにかく、いくら自分ができるとは言っても、そこに限界があることは例の女子を助けた時に実感していた。
 とにかく、ヨシタカ自身の意識を変えていかなければ、もし本気で奴がぶち当たらなくてはならなくなったりでもしたら、その時大きな被害を受けないとは限らない。そうなってしまえば、同じ体を共有する自分にも大きく被害を受けてしまう。
 形も一通り終えた俺は、動きを止めて大きく深呼吸した。おもむろに、木刀をスッと頭上に構える。火の構えだ。絶対に引かず、相手がどのような構えからだろうが一撃必殺の元、打ち倒す構えにして剣の基本でもある構えだ。
 観の目付けにてぼんやりと全体が霞んでくると、いつものように仮想の敵が姿を現した。奴は、顔の横辺りに刀を構えて、こちらを迎え撃とうとしている。陰の構えだ。
 じり……。一歩小さく踏み込む。すると当然奴も同じ分だけ下がり、お互い常に距離を保つ。
 これまで幾度となく挑み挑まれてきた果し合いの、あの時の空気をこの若い体にも染み込ませるように思い起こす。すると、不意に奴が左足を踏み込んだと同時に、鋭い一閃を持って斬りこんだ。
 あえて右足を踏み込みながら、袈裟からの一閃を頭上から打ち弾き、続けざまにさらに一歩踏み込んだ瞬間、袈裟に奴の首元から木刀を振り落とす。
 瞬間、音が消えた。互いに動きがあってから、ここまでわずか一秒にも満たない僅かな時。
 その間に互いの生死が決まる、あの極限の世界を思い起こして動いてみると、途端に体を猛烈な寒気が襲ってきた。全身に鳥肌が立ち、今更になって汗が吹き出てくる。動悸も激しく、呼吸を止めていたことにすら気付かない、あの極限の世界に足を踏み入れた後に起こりうる現象だった。
(まだだ)
 織田の軍勢を抜けて再び流浪の身となった俺が、初めて体験したあの極限の世界の先にあるもの――。
 思えば、あれこそが全ての始まりだったかもしれないその時のことを思い出し、握る木刀の手が強く柄を締める。
 どこの山中だったか……たまたま立ち寄った集落で一晩を明かした後、村の長から、近くで戦があったので気をつけなされという助言の元旅立った、その日の夕刻。
 街道の脇へと抜け出る獣道を辿っていると、奥深い森の中、木々と人の丈よりもある藪の中からこちらを見つめる複数の視線に気付いた。
 初めは獣かとも思ったが、それはすぐに否定し、人であると察知した。獣が複数、それも一刻にも渡って姿を見せないというのはありえない。
 山犬(狼のこと)であればあるいは、とも思ったが、粘つく負の感情に塗れた視線は獣のものではあり得なず、やはり人でしかないことに結論付き、すぐに山中を谷の開けた場所まで移動した。
 もちろん、連中も追いかけてきたのは気配で分かっていた。時折藪を抜ける際に音を立てていたので、相手が人であることは確実だった。半刻ほどかけて五分と五分にまで持ち越せそうな場所を見つけると、そこで連中を迎え撃つことに決めたのである。
 連中は少しの間息を潜めていたがそれも束の間、こちらが気付いていることを告げると潔く、森の中から五人の落ち武者が姿を現した。そのどれもがいくらかの矢傷や刀傷を負っていることは明白だったが、その体格と目付き、立ち居振る舞いからすぐにただの落ち武者ではないことは分かった。
 全員が全員、手にした獲物の握り、姿勢の何もかもがそこらの農民上がりの足軽などではなく、きちんとした武芸を身につけた武芸者のそれだとすぐに判った。生半可な対応では、一人仕留める間に次の者によって斬りこまれることは明白だった。
 相手はただの足軽ではなく武芸者、恐らく兵法使いであることはまず間違いなく、それも高名な兵法家に師事していたのだろう。そう思った途端、背筋に嫌な緊張が走ったのを思い出した。
『まずい……』
 この連中相手に逃げ切ることなど現状不可能に近いことを悟った俺は、覚悟を決めて刀を構えた。
 いつの間にか、仮想敵も五人現われていた。正眼に構えた切先を、最初の真ん中の敵に向ける。
 その場の全てがあの時と同じ敵、同じ距離、同じ姿勢で、唯一違うのは足場くらいなものだ。あの時は大小様々な石がごろごろした不安定な足場が、今は比較的凹凸の少ない土と芝生の上という程度の差しかない。
 最初の敵が一直線に向かってきた。足場の悪さをものともしない動きは、一瞬こちらの判断を鈍らせる。刃を刃で受け止める。鋭い戦場刀の重い一撃は、立どころにこちらの刃に切り込みを入れた。
 思わず体勢を崩しかけた。その瞬間、第二衆がこちらめがけて動いたのを視界に認めると、丹田に気合を込めてかろうじて最初の奴を押しのけると、受けた刀で横にずらして二人目との線上にこいつを置いた。
 流石に、連中も分かっているようで、味方の体が邪魔で向こうも手が出せないことを悟った三人目が動く。刀を滑らせて、一人目の体勢が崩れると相手の差していた小刀でその喉めがけて突いた。頚骨にまで深く到達した小刀の切先から、コリコリという感触が伝わる。
 そのまま振り向き様に、向かってきた三人目の長巻からの突きを切先一寸で避わし、刀で相手の切先から物打を弾いて突きの線上を外すと、長巻を滑らせた刀で相手の小手を、怯んだ隙に空いた脇から斬りつける。
(これで二人)
 立て続けに二人やられたことに紛糾して、二人目が再び突っ込んでくる。
 直情型の性格が災いして、それまでの隙のなかった構えから一転、二人目は相手に完全に大きく胴をひけらかしてしまっていた。低い姿勢のこっちは瞬前に具足のない脛を切り、足が吹っ飛んだのを横目に相手は前のめりになって俺の後ろに勝手に突っ込んでいった。
(三人……)
 息もつかせぬ内に三人がやられたのを見ていた二人も、まさかここまで一方的にやられるとは思いもしなかったろう。事態が急変したことで、すぐに形勢を立て直すしたのだ。
 しかし、そこでこちらにも不思議なことに、いつも感じていた極限の世界から徐々にまた違う世界が見え隠れし始めていた。目がちらつき、五感が鋭く研ぎ澄まされているのに、ひどく鈍く感じられ無感にすら思える、矛盾した感覚だった。
 相手が動くことを考えない。あるのはただ反応だけだ。極限の世界に踏み入った自分がそこからどうなるのか、とにかく知りたくて仕方ない、そんな感じだった。そこには恐怖すらもなく、亡者の如く、あるいは神仏の如く極限の世界から一歩踏み入れたその先に見えたもの――。
 それが見えたとき、視界の脇で何かが動いた。勝手に体が反応し、斬ったそれが何であるのかもはや理解する余地はなく、次の瞬間にまた何かを斬った気がした。
 俺が見ていたあの極限の世界の先にある極地。それが何であるのか理解したくてさらに踏み入った瞬間、そこで俺の意識が途絶えた。

「うっ」
 僕は突然叩き起こされるよう感覚に目を覚ました。顔をしかめ、左手で頭を抱える。激しい頭痛のような、大きくうねり波打つような気分の悪いものだった。じわじわと蝉の鳴き声のする中、庭に一人、木刀を持ったまま突っ立っていた。
「……あれ?」
 気付けば庭にいる自分に、僕はぼうっとする頭でなぜ自分がこんなところにいるのかを考える。
(あれ? 今日は確か……)
 今日は、僕の代わりに彼が体を動かす番だったはずだ。今まで寝ていたので意識がなかったため詳しい経緯は分からないけれど、タンクトップにジャージの姿で庭にいるということは、朝一番の稽古中といったところだろうか。けれど妙なことに、彼は突然自分で入れ替わることにしたらしい。
 こんなことは初めてのことなのでどうすべきか悩んだけれど、善貴は軽く汗を流すつもりで素振りをして、数の切りが良いところで引き上げた。じわじわと鳴り響く蝉の合唱に、うんざりした気持ちで集中を保てないというのもあったが、すでに全身に流れる大量の汗で気持ち悪くもあったからだった。
 真夏の炎天下、玄関に設置してある温度計は早朝の六時半だというのに、すでに三〇度に達していた。もしかして、昔と違ってあまりに高い気温に、熱中症でやられてしまったとか?
「いや流石にないか」
 だとすれば、今こうしてる自分も苦しいはずだ。確かに暑いし、肌に纏わりつく湿った空気が体内の水分を奪っている感じがないではないが、これらはいつも通りの猛暑日と同じ感覚だ。どことなく腑に落ちない善貴は、汗を流すためにシャワーを浴びに脱衣所へ向かった。
 それよりも今日は祐二や内海たちと勉強会を開く予定になっている。正直なところ先生に任せていては不安で仕方なかった僕だけれど、これならこれで都合が良い。どうせならこのまま夕方までずっと寝ておいてもらおう。




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