少年と武士と、気になるあの子。

B&B

二人をつなぐ距離(七)


「ただいまー」
「ちょっと遅いわよ悠里」
 マンションに帰りついた時、すでに時刻は九時近くになってしまっていた。四つ上の姉が、リビングの方から顔を出して、小言を言いながら出迎える。
「ごめん。ちょっと予備校見に行ってたら、友達と会っちゃって。そういうお姉ちゃんこと今日、バイトは?」
「無いから家にいるんだっての」
 家に上がってまず台所に行き、冷蔵庫からミルクを出してコップに注ぐと、それを勢い良く飲んだ。姉は牛乳特有の匂いや味が嫌いといってあまり飲まないけれど、私は意外とそれが好きだったりする。
「お母さんは仕事?」
「んー今日は夜勤だって」
 短いやり取りをしつつ、コップを流しにつけた。母は看護師の仕事をしているため、昔から家を空けがちだった。それでも私が小学生を卒業する頃までは極力夜勤には入らないようにしてたと、以前言っていたのを思い出す。
 さすがに娘二人が手を離れると、それまでを取り戻すように仕事に戻り、高校に入ってからと言うもの、ずっと常勤と夜勤と交互にシフト制で働くようになった。それでも娘の誕生日は必ず常勤で働き、夕方に帰ってきては食事を用意するという、気遣いも忘れていない母だ。
 もちろん、私ももう子供ではないから、家に母がいないからといって寂しい思いもすることはない。むしろ今は一人になれる時間が多いので、その辺りは割りと気楽で良かった。
「まあそれはいいけど、連絡くらいしなさいよ」
「ごめんって」
 いちいち姉のいうことは正論なのだけど、小言みたいでうんざりする。心配してくれてるのは分かるのだけど、いつも同じように言われるこっちの身にもなってほしい。
「食事は?」
「友達と食べてきちゃったからお腹いっぱい。残った分は明日食べるから良いよ」
 夕方まで母がいたのだろう、流しの横に、作り置きにされた肉と野菜の炒め物がラップに包まれてあった。それを見た私は、適当な言い訳でごまかすと台所を出て、自室へと向かう。
 本当は大して食べてないのだけれど、由美と奈美たちと食べてきたのは本当だから、こういっておけば大丈夫だろう。姉はそれ以上何を言うでもなく、ただ頷くだけだった。
「だったら風呂入りな。用意してあるから」
「はーい」
 姉とのやり取りの後部屋に戻った私は、制服から部屋着に着替えてベッドに倒れこむ。
「はー……」
 手足を投げ出して天井を見つめたまま、思わずため息をついていた。まだ体が火照っているのを実感していた。お風呂はこの火照りが収まった後でも良いだろう。
「驚いた。なんであんなとこにいるんだよ」
 眩しい蛍光灯を遮るように腕を顔にやると、思わず口をついていた。由美と瑞奈とで遊びに行った帰りに、まさかあいつと会えるとは思いもしなかった。あいつはいつもこちらの予期せぬ行動を取るせいで、行動が全く予測できない。本当のところ、今日は由美と瑞奈たちと遊ぶのはあまり乗り気ではなかっただけに、最後の最後でとんだサプライズがあったものだ。
 買い物とか言っていたけれど、その割りには乗ってきた方向が違ったのはどういうことだろう。一緒にいる長井君ちに行ってたとか? ……あの二人が一緒に服を買いに行ってる姿が想像できない。オタクっぽい場所で買い物してるところならすぐに想像できてしまうのだけど。
 ちょっと抜けてるあいつのことだから、乗り過ごしたとか? ……普通にありえそう。最近運動してるって言ってたけど、何やってるんだろう。いつも学校が終わると帰宅しているから、部活自体に入ってないのは確かなんだろうけど、庭でやれるような運動ってなんなのかな。
 そういえば、前に家を訪ねた時もそうだった。ただ痩せてるだけなのかと思ってたけれど、細身のわりに胸板もしっかりとしてた。細マッチョっていうのかな? そこまではいかないけど、明らかに何の運動もしてない男子の体つきではないことくらいはすぐ想像がついた。
 白いTシャツから覗かせた二の腕とか、汗びっしょりになって透けて見えた胸板とか。あの時見たあいつの姿を思い出して、急に体が先ほどまでとは違う火照りにほだされて、頭を振った。
 何を想像してるのだ私は……。そりゃまさか、あいつがあんな恰好で出てくるとは思いもしなかったけれど……。痩せてるから今まで気付かなかったけど、実は肩幅もあるんだなとか思っただけで、変な想像に使ったりなんかしていない。
 変といえば今日だって変だった。最近、ちょっとおかしな時があることは気付いていたけれど、今日はそれらの中でもとびっきりおかしな感じだった。竹之内よりも一足早くホームに降りた私は、それとなくあいつが降りてくるであろう反対のホームを眺めていたところ、一人でぶつぶつと会話するあいつを目撃してしまったのだ。
 一人で会話するあいつがホームに降りてきた時は、向こうで思わぬ知り合いと出会って一緒に降りてきたのかと思ったけれど、それらしい様子もなく延々と一人で会話を続けていた。それも敬語で……。
 記憶に混乱が見られるということを担任からも伝えられていたが、あれはそれらの類とは少し違っているように思えたのだ。もちろん専門家じゃない私に、それが何であるのか説明はできないけれど、少なくとも自分の目には明らかに”他人には見えない誰か”と会話しているように見えた。
(どっからどう見ても、怪しい奴にしか見えないよね)
 いくらホームにほとんど人の姿が見えないからといって、さすがにあれはどうか。しかも、普段あたしとぎくしゃくした会話をしている時以上に真剣で、表情豊かだった。
 ひどく危ない人にしか見えなかった竹之内の表情を思い返してみると、変な奴のくせに色んな表情で話すんだなぁ……とか。これまで竹之内に対して抱いていた印象とはまるで人間であるように思えてくるのだ。
(それに……)
 何気なく手を振ったあたしに、躊躇いがちに手を振って見せたあいつの返しに、思わず嬉しさをこみ上げてくる。おまけに、最後は互いに電車越しから見つめ合ってしまった。普段だったらあんなこと恥ずかしくて絶対にできないのに、何故かあの時は自然とそんな行動に出てしまっていた。
 少しでもあいつの近くにいたくて、思わず足が動いていた。先に入ってきた電車に乗り込んだあいつが、少しでもあたしの見えるところに移動してきてくれたのが思いがけずに嬉しくって仕方なかったのだ。
「普段はそんなことしないくせに」
 なんで突然あんなことしたの? いつもなら興味ないよって顔してるじゃん……。あいつの行動が理解できなくて、でも理解したくて、つい数十分前のことを思い返してはぐるぐると堂々巡りになっていた。
 もしかしてあたしは……。ごくんと息を呑み込む。
「いやいやいや、あり得ないから!」
 自分でも思わずギョッとしてしまい、声を大にして否定しながら体を起こした。何を考えているのだ、私は。そんなわけあり得るはずがない。大体、なんだって私があんな奴のこと気にしなきゃいけないのだ。
 もちろん、助けてくれたことに対しての感謝の念はある。けれど、それは絶対にない。途端に馬鹿らしく思えてきてあたしは勢い良くベッドから立ち上がった。
「もー……早くお風呂入ろ」
 あんまり変なことばかり想像してると、別の意味で変な気分になってしまう。そろそろ期末テストも近い。勉強の方もしっかりしなきゃいけないというのに、私は何をやっているのか。
 妄想の中のあいつをかき消すように、私は入浴の準備をして部屋を出た。



 ボッという勢い良く空を斬る音が響く。すでに身につける下着とジャージは汗に濡れて、肌に張り付いてしまっていて不快だった。上半身は先日Tシャツと一緒に購入したタンクトップ一枚で、これも同様に汗まみれになっている。
 上段に構えた木刀を思い切り振り下ろす。再びボッと空を斬った音に合わせて、額から汗が飛び散った。両の小指と無名指(薬指のこと)を瞬時に締めて振り下ろされた木刀を止める。切先がわずかに上下に揺れて止まった。
 木刀を支える指と手の平から力を抜いて、スッと上段に構えなおす。小さく呼吸すると同時に、再度木刀を振り下ろした。今度はブォンと大きく鈍い音だった。
『まだまだよの』
 善貴の中の声がそう言った。どうやら今のは駄目らしい。
「もうそろそろ腕が上がらなくなってるんですけど……」
 僕は構えを解いて大きく肩で息をしながらそういった。吐き出す息と混じって出た声は掠れきっている。
『それは腕や肩に力が入っておるからだ。何度も言ったろう。力は抜け。力を抜かんと疲れもせんことで疲れるものぞ』
「一応力、抜いてやってるんですけどね……」
『わしからすれば、あんなもんは力を抜いとるとは言えんわ。最後の振りは何だ。力を入れて振るから木刀が大きく音を出すのだ。名人達人は、その振りの音からも相手の実力を計るのだぞ。もう一度基本を思い出しながらやれ』
 頭の中で喝を入れられて、善貴はうんざりしたようにため息を漏らすと、再び木刀を上段に構える。
『馬鹿もん。構え直す時も残心を忘れるな。刀のだんびらを相手に見せながら構えるなど愚の骨頂。これが達人ならその瞬間、斬り込んでくるぞ』
「ぅ……すみません」
『ではもう一度だ。構える時も力を抜いておけ。むしろ構える時こそ力は抜いておくものぞ。刀はあくまで支えられて動いていないだけ、どこまでも脱力しているものだ。つまり構えとは残心にして、常に攻防の形でもあることを忘れるな』
「構えは残心、攻防の形……」
 僕は何度も反芻されたその言葉を、再び口にして手から、肩から力を抜いて目前を遠目に見据えた。すると上段に構えた木刀は、自然と頭上に構えられたままその重みを手に伝えてくる。
(そうだ、この感覚だ)
 力が抜けていれば柄を握る手も緩くなり、ぴったりと指と手の平が握る柄を包み込むような感覚だった。
『そうだ、それでいい。力を抜いたところから腕はただ下ろすのみだ。その時腕と体は決して窮屈にならず、自然のままの形に振り下ろす。さすれば自ずと』
「刀は円を描いて振り下ろされる」
『む』
 もう何度も、それこそ稽古するようになってから聞かなかった日はないほど、毎日聞かされた言葉を口にした。嫌になるほど繰り返されてきた言葉を思い出して、僕は全神経を振り下ろす一点にだけ集中させる。
『そうだ。後は打ち下した瞬間に指を締めろ。どの動きもバラバラではいかん。一瞬だ。刀を振り下ろし、打ち下すまでの間にな』
 その言葉に呼応するように、僕は構えた木刀を丹田に引っ張られていくのをイメージしながら腕を振り下ろした。瞬間、音が消えたのかと思った時、わずかに遅れて音がやってきた。自分でもどう振り下ろしたのか分からないほど、下ろされた木刀の動きは僕の認識が間に合わず振り下ろされていた。
「……っはぁ、っはぁ」
 いつの間にか止まっていた呼吸に合わせて、ずうんと体の深い部分が緩み、そこが俄かに熱を帯びていた。
『……ふむ。まぁまぁだ』
「ま、まぁまぁですか」
 僕は息を弾ませながらへの字に眉をしかめながら言った。
『当然だろう。それが当たり前、わしからすればまだまだ半人前ぞ。当たり前のことを何事もなくごく自然にできて初めて一人前、その一人前にならなくては理解できぬこともある。
 故に古来、きわみとは千錬万鍛の暁にこそあるのだ。それがようやっとのヨシタカには、この言葉さえも過ぎたものだと思え』
 ……先生は本当に手厳しい。でも、何となくだけれど理解できなくもないと善貴は思った。始めから全てができるのなら、そもそも今僕が取り組んでいる勉強だって同じだ。基礎ができていないうちに全てが理解できるはずがない。例えは違うけれど、きっと言っていることの本質は同じだ。
 善貴は小さくため息をつくと、緩めていた木刀の握りに意識しスッと上段に構えた。
『おっ?』
 先生は確かに厳しいが、いつまでも言われたままというのは悔しくもある。だったら、四の五の言わせるまでもなく淡々とやってやろう。それが善貴なりの、ささやかな抵抗だった。
 善貴はこれまでの教えを復唱させながら、ゆっくりとしかし確実に木刀を振り冠っては振り下ろした。その様子を中から窺っていた彼が、呆れたように笑ったような気がした。
『ではヨシタカよ、これが朝の最後だ』
「……ふっ!」
 善貴は深く振り冠ると、力を抜いたまま思い切り木刀を振り下ろした。全身が真下に引っ張られたような重みを最後に、今日の朝の鍛錬は終わりとなった。
 ちょっと前だったら終わった瞬間木刀を地面に落として、ついでに腰も下ろしていたけれど、木刀を持つ手と全身を緩めて腰を下ろさぬまま、後片付けを終えた。
 家に入ると、ちょうど母が朝食の用意をしているところだった。互いに朝の挨拶を交わすと、善貴はすぐさま、かいた汗を流すべく脱衣所へ行きタンクトップとジャージ、履いていたボクサーパンツを脱ぎ捨ててシャワーを浴びた。温めのお湯が火照った体にちょうど良く、汗の流れた体に心地よかった。
 今日は一学期最後の登校日、即ち終業式だ。明日からは長い、待ちに待った夏休みというわけだ。
 しかし僕は受験生という、人生の岐路に立っている身で、それを手放しに喜ぶわけにもいかなかった。むしろ、しっかりと対策している受験生なら、この夏休みこそ他との差をつける絶好の機会として捉えている者も少なくないだろう。
 僕はどちらかといえば前者で、正直なところ、受験に身を投じなくてはならないことを面倒で憂鬱なことこの上ないと思っているのだけど、親の手前、それを投げ出すわけにもいかなかった。
 父はどちらかといえば厳格な人だし、母も母でどうせなら大学に行けるなら行っちゃいなさいよという立場で、四つ離れた姉がそれなりに良いところに行ってしまったこともあり、そう言うわけにもいかないのだ。
「はぁーめんどくせー」
 浴室にそう響いた。親に聞かれてようと聞かれてまいと、どうでも良かった。とにかくそう思ったことを吐露したくて仕方なかった。そう考えると、こうして朝と夜に稽古していると気が紛れて良かった。父はどうだか知らないが、少なくとも母は健康面でも考えてくれているようだから、こうして日夜鍛錬することはむしろ喜ばしく思っている様子なのだ。
「よしきー、そろそろご飯だから上がってきなさいよ」
 浴室にまで響く母の声に、僕は適当な相槌を打ってシャワーを止めた。温めに設定されているとはいえ、じんわりと体が火照って、すぐに制服に着替えなくてはならないことが憂鬱になるが、予め用意してある以上着ない訳にもいかず、バスタオルで水分を抜き取ると、すぐさまそれを着こんで親の待つリビングへと向かった。
 ともかく今日で一区切りつく。これからのことはその後に考えれば良いだろう。席についた善貴は、並べられている朝食をかきこんでいった。




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