少年と武士と、気になるあの子。

B&B

二人をつなぐ距離(五)


 ある日の休日、突然瀬名川が僕の家を訪ねてきてからというもの、早三週間以上が経過していた。梅雨入りしているのだから仕方ないのだけど、ここのところ毎日のように降る雨で、肌に纏わりつくような湿気に毎日悩まされていた。
 正確には湿気そのものではなく、鍛錬に伴って噴出してくる汗が周囲の湿気の影響により、中々蒸発しないために起こる不快感に悩まされていた。雨が降ったときは流石に稽古はしないだろうと高を括っていた善貴だったが、雨の日だから分かることもあると、彼に半ば引きずり出される形で日々鍛錬に勤しんでいた。
「どうだ。雨の日はまた違うだろう」
 声こそ善貴のものだったが、それに伴う言い回しは明らかに普段の彼とは違った。むしろ、そのことに対して多くを知っているからこそ断言する言い方は、自信と、若者では出せない威厳に満ちていた。
『確かにそうですけど……雨の日にやる意味はあるんですか?』
「当然だ。戦いに雨晴れなど関係ないわ。むしろ雨の中でこそ、いざといいう時の心得が理解できるものだ。戦いというのは、当然悪条件であればあるほど不利になる。そこでいかに状況を打破すべきかを考えるようになるのだ。
 良いか、ヨシタカよ。戦いにおいて、考えることを止めた奴から先に死ぬことだと思え。敵はいつ何時、こっちを狙っているものぞ。我が身に生じたわずかな隙を狙ってな」
 そういわれて僕は小雨の中、”彼”の見つめる地面を見ながらふと思う。確かに足元はぬかるみ、そこへ足を踏み込もうとすると、足が取られてバランスが崩れやすくなる。そういう時こそ、一番の隙になるということを教えてくれているのだろう。
「それだけではないぞ。いいか、目ばかりに頼るな。もっと耳を凝らせ。鼻を利かせろ。肌で空気を感じろ。風はどこから吹くのか、強さはどうか。匂いは? 音は? それらを察知しることが敵を、さらには自分の置かれている状況をも知ることができる、最も有効な手ぞ。
 何も考えずに動くな。歩いていても指先にまで神経を集中させろ。動きは最小限に、それでいていつでも最大にできることを心がけろ。敵の間合いは我の間合い、我の間合いは敵の間合いぞ。だからこそ敵が生じさせた一瞬の隙を見逃すな」
 そういいながら彼はぬかるみの中、重い鍛錬用の振り棒を使って五千回目の素振りを終えた。いくらその中で慣れているとはいえ、ぬかるんだ場所で思い切り動こうとすると上手く動かない。だからこそ、動かずして動く。それを鍛えるために形を練り上げていた。
「善貴、ごはんよー」
 リビングの窓から朝食の用意をしていた母が顔を覗かせて呼んだ。
「む、もうそんな刻か」
 母の声で稽古を切り上げた僕らは、汗と雨と跳ねた泥で汚れた体を流すべくシャワーを浴びて、ようやく一息ついた。今日は彼が一日を過ごす番であり、僕は中に引っ込んでいた。
 というよりも、これまでずっと体を動かすことに慣れていた彼の方が、どういうわけか僕の体を操ることに長けており、情けない話だが一度僕が引っ込むと、僕は簡単には自分の意思で意識を交代できないのである。
 また、これまた稽古も僕よりも上手いこともあって、僕がずっと一人で稽古を積むよりも交互に交代したほうが体への馴染みが良いというのも理由らしい。彼曰く、自分で稽古した後に僕がやると僕の時の動きが良いという。
 いつ死んでもおかしくない世を生きる世代の、とにかく一秒でも長く生きる、という考えと生き方に根ざした理論は、体の動かし方一つとっても大きく影響するらしい。僕は交代した後は酷く体が疲れてしまうため、そんな風には思えないがそう主張しても、頑としてそれを認めないのだ。
 こうして話していると、時々頑固な老人ってこんな感じかな、なんて思ったりもしてしまう。まぁ、実際には意識だけはこの世界中の誰よりも、遥かに長生きしているという見方もできるわけだけれど……。

 食事を終えて登校すると、すぐに僕を見かけて祐二が小走りにやってきた。あの顔は何か新しい話を持ってきたな。心なしか、浮かれた様子のある祐二は、割とその辺りは分かりやすい性格をしているのが見て取れる。
「おはよー、よしき氏。っと、今日はまた厨二発病中かな」
 けたけたと笑う祐二に、僕は中で苦笑した。よしき氏だとか厨二だとか、よくもまぁそんな言葉が次から次へと出るものだと、こうして人の目(自分の目だけれど)を借りて観察してみるとそれが良く分かる。前に、彼が祐二のことを小従者のようだと笑っていたのも頷ける。
「うむ」
 ”僕”は小さく相槌を打つだけで、それ以上は何も言うことはなかった。彼もまた、あれやこれやと言った所で、祐二が引っ込むような人間ではないことを承知しているのである。
 あるいは、僕への配慮なのかもしれないとも思ったが、多分違う。理由は分からないけれど、ともかく少なくとも僕と付き合いのある祐二に対しては、あまり無碍にするようなことはないように思われた。
 朝のホームルームを終えて一限目の授業は歴史だ。彼は勉強好きなのか、出ている時は割と真面目に授業を聞いているのだけれど、とりわけ歴史についてはかなり真剣だった。つい先日そのことについて尋ねると、自分の後の時代がどうなっているのか気になるという答えだった。
 確かにそうかもしれない。普段なら僕だってそんなこと気にはならないけれど、未来がどうなっていて、歴史というその過程がどうなってこうなったのか、気にならないはずはない。ましてや、彼一人突然こんな世界に身を置くことになったなんて、もし僕が彼の立場なら、それこそ混乱してまともに日々を生き抜けないかもしれない。
 それと体育。普段ならどちらかと言えば不参加気味になる体育も、彼が出ている時はこれ幸いと思い切り試合を満喫している。しかもクラスの誰よりも目立っていた。そりゃぁそうだろう。そもそも体の使い方からして現代人の僕らとは違って、いかに素早く瞬時に動かすことで死を免れようとする生き方をしている彼との差が、はっきりと出るのだ。
 サッカーをやれば誰よりも速く走り、ジャンプすれば誰よりも高い。しかも、形で鍛えているためだろうか、瞬時に相手を出し抜く技術はそれを間近で、中から見ている僕から見ても、大したものだと感心してしまうほどだ。本人曰く、ボールを意識するからできないのだと言っていたが、その真意も良く分からなかった。
 そのためだろうか、最近は暇を持て余している別授業をしている女子たちの目にも留まって、なんだか気恥ずかしい。目立たないよう生きてきた僕にとって、人前であれやこれやと目立つのはあまり好ましくない。この前なんか、瀬名川や金森由美、原田奈美のグループも来て遠目に眺めていたのを覚えている。
 けれど、どうしたって彼がそれをかき乱す。最近に至っては、運動部のヘルプに来てくれないかと頼まれる始末だ。もちろんそれらは丁重にお断りした。彼が表に出ていたら最悪どうなったか分からないけれど、一応理屈をつけて彼にも断るよう言ってあるので、今のところは試合に出るなんてことは避けることができている。
 今日もこうして体育の後に、突然疲れたからと言って僕と交代した。ちょっとはしゃぎ過ぎじゃないですかと苦言呈したものの、そう言うなと懲りた様子がなく、僕も大して運動もしていないのに気疲れしてしまい、早く帰ろうとホームルーム終了後、早々に駅へと向かった。

 駅に向かう途中、それとなく中に話しかけてみても応答がないことに気がついた僕は、体の疲れなどなんのその、予定を変更して一人街中に出かけようと思い立った。もちろん、勉強もしなきゃいけないけれど、そろそろ本格的に暑くなる季節だというのに、新しく服もないではいかがなものかと急遽、夏用の服を買いに行くことにしたのである。。
 電車を乗り継いで、多分ゴールデンウィークに祐二や内海たちと訪れて以来、久しぶりに都心にまで出てきた僕は気持ちは、否応なく心踊った。思えば、このひと月以上の間、まともに出かけたような記憶がない。
 休みがあっても、結局は稽古といわれて庭で棒を振っり、部屋で勉強という日々が続いていた。だから、今日くらいはという思いで、羽を伸ばすことにした。
 馴染みのセレクトショップに顔を出し、すっきりと体にフィットする着心地の良いTシャツを見つけ、早速購入する。後、ワゴンに一品限りという見出しのポップから二、三枚適当にシャツを選んでそれもついでに購入した。近頃は鍛錬に付き合っているおかげで、汗の出る量が半端じゃない。何枚か余分に持っておいたほうが良いだろう。
 それから、書店を巡り、緑のセイレーンがトレードマークのコーヒーチェーン店で一服、ちょっとだけモンスタを起動させて一息ついた。ほんの数時間だけれど、なんだか凄く休日を満喫したような気分になった。
 そうこうしている内に時刻はもう七時半を回って、八時になろうという頃だった。一応親には帰りが遅くなると断りを入れてはあるが、さすがにこれ以上は門限が危ういので、急ぎ地下鉄に降りて滑り込んできた電車に乗り込む。この路線は普段僕が使う路線への連絡のある線だから、乗り換えも容易だ。
 反対行きの列車は比較的込み合っているが、流石にこちら側の方面行きは逆に人もまばらだった。僕はほとんど人のいない車両まで歩き、ドア近い端の席に座った。イヤホンを耳に差し込んで流れる音楽に耳を傾けているうちに、瞼が重くなってきた僕はうとうとし始めてしまった。
 二駅ほど通過した辺りで僕は転寝うたたねし、大きく電車が揺れて目が覚めた時には、本来降りるべき乗換駅を五駅も通過してしまっていた。慌てて次の駅で降りると、後一歩のところで反対行きの電車に乗り損ねてしまい、次の電車まで待つことになった。
「あー、何やってんだよ」
 思わず一人ごちる。親に、電車を乗り過ごしたことによる帰りが遅くなることを伝え、次の電車を待つ間スマホをいじった。
 次の電車はもうすぐやってくることを告げるアナウンスがあった直後、ホームに電車が入ってくる。速度が落ちて停車した電車に乗り込むと、小さなため息とともにほとんど人のいない車両の座席の端に腰かけた。
 今度こそ、寝ることなく乗換駅に到着すると、すぐに自宅方面の電車が来る時刻になっていたので、急いでホームを移動した。儀発車時間ギリギリで間に合って、一息つくと動きだした車内に駆け込み乗車を注意するアナウンスが流れる。こういうアナウンスが流れたり流れなかったりするのは、多分駆け込み乗車があったときなんだろうなと思いながら、ドア近くの壁にもたれかかる。
 中にいる彼は疲れて寝てしまっているのか、特に何も言ってこない。本当に今自分だけの意識なんだなと、薄ぼんやり考えていたところ、隣の車両からこっちの車両に移ってきた女子高生の姿を見つけた。
「竹之内?」
 現われたのは最近ちょっと気になっていた瀬名川だった。彼女は、驚くと共に、挨拶もそこそこに空いている席に腰かけると、何故か僕まで座るよう手招きした。それが何だか恥ずかしいと思えるくらいに善貴は嬉しくなって、気のないそぶりで彼女の側まで足を運んだ。




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