少年と武士と、気になるあの子。

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僕の中の奇妙な同居人(五)


 じめじめと、空気が肌にまとわりついている。夏に向かって、陽射しは確実に強くなっていることを実感させる時期だった。
 一日の授業も終わって、多くの生徒たちにとって念願の放課時刻となり、九十九折の道は駅へと向かう生徒たちの姿で溢れている。何をするでもなくただ帰宅する者、部活の開始時刻まで余った時間をコンビニへと向かう者、塾や予備校へと通う者と、大別するとこんなものだろう。
 その有象無象の生徒たちに紛れて善貴の姿もあった。いつもなら祐二と共に連れ立って駅まで歩くところを、今日は一人、何をするでもなくややしかめっ面で駅へ向かって歩いていた。普段なら祐二と他愛もない話に花を咲かせるところだが、どうにもそうする気分ではなかったのだ。
 この数日、いたく体の至る場所が筋肉痛になっており、その痛みに時折、体が軋むような感覚すらあった。その痛みに伴って、全身がだるく何もやる気が起きないという、負のスパイラルに陥っているためだった。
 事実、今日にいたっては目の下にクマができているため、朝は両親、登校してからは祐二や内海などの友人、クラスメイトたちから指摘されっぱなしの一日だった。
 先週、あまりにだるさと寝不足が続くために、入院した病院の主治医を訪ねてみたが、現状では寝不足による身体への影響、事故による影響からの睡眠障害である可能性が高いという診断ではあった。
 しかし、どれも決定打に欠ける診断であるが、正直なところ、善貴はもう一つ大きな悩みの種があることを話していないのでは、そんな診断になるのも仕方なかった。
 このような状態が続いてからというもの、善貴はどうもおかしな夢を見るようにもなっていたのである。森の中で一人突っ立っている自分に、どこからともなく誰かがずっと声をかけ続けるという、夢というにはあまりにひどく曖昧としたものであった。
 一日や二日そんな奇妙な夢を見たくらいなら、それこそ変な夢を見たで済む話だが、それがもう数日に渡って続いていた。きっかけは先週の水曜日頃から、時折現実にも声が聞こえるような気がするようになってからだった。
 初めてその声が聞こえたのは、寝坊して遅刻してしまい、急いで自宅を出ようとした時だった。あの時は単なる気のせいだと思ったが、どうも違ったらしい。あの時聞こえた声が、夢の中でも聞こえてくるようになったのである。
 この事実を主治医に話そうものなら、もっと別の診断が待っていることくらい、医学に詳しくない善貴にも分かっているつもりだ。もちろん、本音を言えば正直に話すべきだとは思っていたけれど、この大切な受験の時期に、厄介ごとはあまりに面倒だった。
 善貴にとっては、受験というだけで大きな厄介ごとでもあるのに、そこにまた新たな悩みの種を抱え込むのは賢明ではないことくらい、考えるまでもなかった。
 しかし、それもいい加減限界かも知れない。日に日にだるさが増し、自分に記憶のない時間が増えているという事実に、彼はある一つのことを思いついた。その後に相談しても遅くはないだろう。そう思いついたのがつい昨日のことだった。

 帰宅する学生たちで込み合う電車からホームに降りると、善貴は自転車を飛ばして帰宅した。留守になっている自宅の鍵を開け、ただいまの声かけもなしに、まずは玄関に置かれたデジカメと、リビングの窓はカーテンから庭を眺められる場所に設置した、もう一台のデジカメを回収する。
 それともう一台、自室の隅に置かれたパソコンだ。昨夜はスマホを通じて、記録をパソコンに撮っておいたのである。朝は、この数日の恒例となってしまったけれど、遅刻ぎりぎりだったため確認できなかったが、これから二台のデジカメと合わせて自分の様子を見るために、慌しく部屋へと駆け込む。
 鞄はベッドの脇に放り出し、ベッドの上にデジカメ二台とスマホを置いて、自分もベッドの上に座り込んだ。それらを起動させると、一斉に昨夜の様子を収めたはずの映像を画面に出した。スマホはパソコンと繋ぎ、ハードに記録されたはずの映像を見れるようにした。
 こうして昨晩の様子を収めた映像がスマホの画面に表示された。昨夜、〇時前から撮影を開始した自分の姿が映し出される。二台のデジカメはその前から撮影を始めているため、まだ無人の玄関と庭を映している。撮影の前に三台の端末の時刻は合わせておいたので、ほとんど時間的な誤差はない。
 つまり、スマホ、玄関のデジカメ、リビングのデジカメという順を追って見ていけば、何かしらの映像が撮影されているわけである。母が言うには、毎日のように深夜になって庭に出ているという話だったから、この順序で何かが映ることは間違いないはずだ。
 スマホには電気を消した後、ベッドに潜りこむ僕の様子が映っている。当然ながら他二台の映像に不審な点は見当たらない。僕はじっとスマホの映像を見続ける。
 すると、一〇分ほど経ったろうか、ベッドで眠りについたはずの自分の様子に変化があった。最初は寝返りを打ったのかと思ったが違ったのだ。薄暗い部屋の中、ベッドで寝ていた僕は、突然むくりと上半身を起こしたのである。
「なんだよ、これ……」
 思わず息を呑む善貴。映像の善貴は起き上がると、ベッドからすっと這い出て立ち上がり、消したはずの電気をつけた。そのまま着ていた寝巻きを脱いで箪笥からジャージを引っ張り出すと、それを着こんで部屋を出たのだ。
 そこで一旦スマホの映像から僕が消え、今度は少し遅れてデジカメに階段を玄関に降りてきたジャージ姿の僕が映った。サンダルを履くと、収納から三本の棒を取り出している。
(あれって確か、あの時の)
 間違いない。あれは僕が”僕”の中で閉じ込められていたとき、”僕”が買ってもらったらしい木刀など一式ではなかったろうか。その時になんの偶然か、瀬名川と鉢合わせすることになった、ある意味で縁の品だった。
 善貴は小さく頭を振った。今は瀬名川のことは良い。それよりも映像の”僕”はこれからどうするというのだろう。映像の自分はそのまま玄関を出て、そこで一台目のデジカメから僕が消え、しばらくして今度は庭を映し出しているデジカメの映像に映りこんだ。
 映像の僕は、一切デジカメを気にする様子がない。どうも気にしていない様子なのは間違いないのだけど、”一応”自分が置いたのだから、気にするというのもなんだかおかしな話だ。
 けれど存外人間というのは自分で撮るとすると、きちんと撮れているかを気にしてカメラの方に何らかの意識を向けるものだ。しかし映像の自分には、そんな様子が全く見られないのである。
 庭にやってきた善貴は、抱えていた棒のうち二本を隅に置き、長めの棒を手に庭の真ん中辺りに移動した。僕ではとても振れそうにないほど大きく、ごつい、その棒の長さは竹刀よりも少し短いくらいだろうか。それを握って先端を地面につけたまま、大きく深呼吸している。
 数度の呼吸の後、その重そうな棒をスッと構える。剣道の知識なんてほとんどない善貴だったが、それが所謂中段の構えということは少しばかしの知識があった。
 中段に構えた棒を、ぐっと大きく振り冠るとそれを振り下ろす。また棒を振り冠り、また振り下ろした。振り冠っては振り下ろす。映像の中の善貴は、それを何度も何度も続けていた。
 突っ立つような姿勢から、今度は脚を前後に大きく開き、中腰になると再びその姿勢で素振りを繰り返していた。豪快だけれど、素振りは規則正しく、振り終えるまでの間、一時も休むことなく振り続けている。
 なんとなく、剣道の素振りとは違うな、と感じはしたが経験者でもない僕にそれ以上の判断のつけようもなく、黙って映像を見続けた。
 その後も、様々な構えから重々しい振りを続けている”彼”は一体何者なのだろう。姿形こそ間違いなく自分だけれど、その様子は明らかに自分とは異なる自分だった。
 一通りのことを終えたのか、”彼”は重そうな棒から軽めの木刀に持ち替え、再び素振りを始める。今度の振りは軽めのものを使っているためだろう、同じ構えから目にも止まらぬ速さで木刀を振った。
 袈裟にかけた振りを次の瞬間には切り上げ、善貴の目にもそれが凄まじいものであることくらいは伝わってくる。いや、むしろ素人だからこそ、余計にそう見えるのかもしれない。
 ともかく木刀での振りも終えると、今度は長い棒を使って突きの練習と、棒を立て続けに回転させる練習へと移っていた。その動きを見た時、それが瀬名川をあのナンパ男から救った時の動きだと、すぐに分かった。時折、棒を振るとほぼ同時に上体を低くして、引っ掛けるような動作も行っていたからだった。
 そういえば昔、武道をやってる友人がかたというものをやるんだと言って、少しだけ見せてくれたことがあった。この”僕”がやっているのは、なんとなくそれに似ている気がする。ただ、その動きは友人のやっていたものとは、比較ににならないほどに速い。
 そうして気付けば、二時間半以上も時間が経っていた。途中、ずっとそんな感じの動きの繰り返しで、早送りにしていた善貴の手が止まったとき、収録されたデジカメの時刻はもう、三時ちょっと前になっていたのである。
 早送りの手を止めると、映像での”僕”は汗だくになっており、着ているジャージにも汗が滲んでいるのが見て取れる。動きも速いのだから、それだけ肉体的な負担も大きいことは当たり前だろう。
 そこでようやくひと段落終えたのか、”彼”は最後に木刀を持ち変えて頭上に振り冠ると、それを一気に振り下ろした。
 そのように見えるのだが、動画では一瞬コマ落ちしたんではないかと見紛うほどに速い振りで、いつの間にか木刀が振り下ろされているように見て感じられた。
「……マジかよ、俺こんなことしてたのか」
 道理で疲れるはずだ。しかし、これではっきりした。これは明らかに夢遊病などではない。夢遊病でもこんなはっきりとした動きはできないだろうし、夢遊病とは寝たまま動くから夢遊病なのだ。ここに映る僕が寝ていないことは明らかであり、夢遊病などであるはずがない。
 やることを終えた”僕”は、長棒や木刀を抱えて庭を後にして玄関へ、再び家へと入っていった。玄関に設置したカメラには、二階へは上がらず廊下を風呂場へ直行する自分の姿があった。やや不明瞭な映像越しでもはっきりと分かるくらいにジャージが汗を吸っているので、それも当然だろう。
 しかし一〇分経とうとも二〇分経とうとも”僕”は風呂から出てこない。何をしているのかと早送りを始めて数十秒のところで、ようやく脱衣所から出てきて二階へと上がっていった。スマホの映像でも自室に戻った”彼”が、ベッドに入るところをしっかりと映している。
 ……これで判明した。僕が寝静まった後、”僕”が勝手に僕の体を使っているということが。あんな激しい運動をしたあとなら、全身の至る場所にある筋肉痛にも、全身を覆うこの気だるさにも全てに納得がいく。
 僕はデジカメをベッドの上に放って、ため息をつきながら視線を彷徨わせる。こんなことが起こっていたなんて、そりゃお母さんが心配するのも頷ける。自分の身に覚えのない謂れなんて気分が悪いだけだが、これでは仕方ない。
 まさか、自分の中にいつの間にか自分の知らない自分がいたなんて、おいそれと信じることなんてできるはずがない。むしろ、それを他人に話したところで、信じてもらおうというほうがどうかしている。
(待てよ。これってもしかして……)
 善貴は、思いついたその可能性に、彼自身が強く否定したい気持ちと、半ば受け入れようとしている自分とが互いに拮抗し、彼の中でもたげた。
「まさか、これ二重人格ってやつなんじゃ……」
 専門家ではない僕に、そう断定できる診療眼など持ち合わせていないが、そうとしか思えなかった。否定よりも先に動いた指が、スマホで『二重人格』と検索をかけていた。
 二重人格というキーワードから表示されたのは、元のキーワードから『解離性同一性障害』という項目が表示され、そこに『多重人格』というワードも羅列してあった。
 善貴はそのページにアクセスし、記事の内容を読んでみた。一般に二重人格と呼ばれるのは多重人格のことを差して言い、一つの肉体の中にもう一つ、自分とは違う人格を持つことと、と書かれていた。さらに専門用語には、解離性同一性障害と呼ぶのが正式であるともあった。
 幼い頃に受けた、精神的な障害=トラウマを持つことがきっかけで、ある年齢、もしくは精神的限界に来た時に発症するらしいが、それだけではないらしい。
 幼少期、思春期、はたまた成人後にもこれらは起きうるという。幼少時は親からの虐待が特に大きな要因を占めているようだが、思春期では、いじめや性的な暴行を受けた時に発症しうると書いてあった。
 成人後の場合は、唐突な家族との死別や、精神を患うほどに強い苦しい体験や光景を目の当たりにした時に起こりうるという。
 患者は、自身が障害を起こしていることに気付かない例も見られ、そこには解離性同一性障害であるという自覚もないまま、社会で過ごしていることも多いというのだ。
 また、いくつかの論には、『複数の人格を持っているのではなく、一つの人格すら持てない精神的未熟さが原因』という論者もいるようだった。
 大雑把にそれらに目を通した善貴は画面から顔を上げ、ならば自分はどうかと考える。自覚があるかないかといえば、ある。もし僕がこの障害なら、そうだろうという自覚はあった。その証拠にもなり得るだろう、三台の端末から撮った映像がそれだ。
 けれど、いくつか解せない点もある。なんだってもう一人の僕は、いきなり剣なんて振るようになったのか。それに、先週の日曜日、出かけ先でナンパ男から瀬名川を助けた時はどうだ。僕にあんな真似ができるというのか。
 答えは否、である。これまで武道の経験などない自分が、何事もなく、けろっとした様子であんなことができるはずがない。つまり、多重人格論は自分では否定的な立場をとらざるを得ない。
 もちろん、この方面に明るい人物でもいれば、もっと詳しく話を聞くこともできるだろうけれど、今の主治医に聞いたところでそれは難しいように思われた。何より、もしそんな相談をしようものなら、この受験時期にとんでもなくマイナスになってしまいかねない。
 いつの間にか、ベッドの上で胡坐をかいで脳みそをひねってはみたものの、大した案など思い浮かぶはずもなく一人考えあぐねていたところ、突然あの声が聞こえてきた。
『おい、お前』
 善貴は驚きに体を震わせ、思わずベッドから立ち上がる。ドキドキと心臓が早鐘を打っているのが五月蝿く聞こえるほどに。
 僕は今聞こえたのも気のせいだと思い込ませるつもりで、その声に反応することなく無視を決め込んだ。この声を相手にしてはいけない。そのように思えてならなかった。
『おい、お前』
 少し間が空いて、気のせいかと思って気が緩みそうになったところをまた同じ声が聞こえる。
『おい、無視するでないぞ』
 はっきりと聞こえるその声に、僕は自分の血の気が引いていくのを自覚した。その声は外からではなく、明らかに自分の中から聞こえてきていたからである。




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