少年と武士と、気になるあの子。

B&B

序章


 よろよろと、力なくよろめきながら森のどん詰まりにやってきた彼は、その場に蹲るように倒れ込んだ。あまりの疲労に、もう指の一本だって動かせない。いや、動かすには動かせる。けれど、そうしようとは思えないほど精魂力尽きていた。
 うっすらと開いている眼に映るのは、目を閉じているのと大して変わらない暗闇だけだった。その暗闇の中に息を潜めて紛れていれば、このまま何事も無く過ぎ去っていくのでは……普段なら絶対に思いもしない考えに、自分がよほど疲労困憊していることにすら気付く余裕は無かった。
 そんな彼の無意識下の本能が、まだかすかに踏ん張るよう彼を奮い立たせたのか、自分のものとは思えないほど重い体を仰向けに横たわらせる。
 彼の視界に、遮るものが一切無く天まで突き抜けた満点の星空が映って見えた。深い山中の森、それもその一番奥にありながら、偶然横たわったそこだけが天然の吹き抜けになっていたのだ。
 考える力さえない彼に、一瞬自分はもう死んだのかとすら思わせるには余りあるほど、満点の星空は幻想的に映った。こんな場所で最期を遂げるかもしれないことに、なぜか感謝の念すら沸き起こる。
 誰もいない、侘しい場所という者もいるかもしれない。しかし、彼にとっては願ってもいない絶好の死に場所ではないかとすら思えたのだ。
 これまで誰かを頼って生きるということはしてこなかった。誰かに感謝し、感謝されようという人生とはまるで無縁の人生だった。人を斬ってはまた人を斬り、戦場に出ては数えることすら馬鹿らしくなるほど、人を斬っては打ち倒してきた人生だった。
 満点の星空を薄目にぼんやりと眺めながら、いつ頃からそんなことを繰り返しているのか、ふと脳裏に蘇る。かつて、わずか五〇人にも満たない寂れた集落で生まれ育った彼にとって、戦場で生きることこそが全てだった。戦いの中にこそ人生があったのだ。
 もちろん落ちぶれたとはいえ、祖父が武士であったことが彼の人生に少なからず影響していないわけでもなかった。かの名門、細川氏の第一五代当主だった高国の側近の一人だったそうだが、その高国も没してからはついぞ落ちぶれ、祖父の同僚や配下の者数名とで逃げ落ちた場所が、彼の生まれた集落だった。
 だからこそ彼は、いつも祖父や周りの者たちからも武士として、侍として気高くいるようにと言われながら育った。しかしそんなものは、この乱世においてまるで役に立つものではなかった。落ちぶれ、寂れた集落に逃げ落ちた者たちが、今更どうやって侍として生きれば良いのか。
 その道筋は、図らずも父が指し示した。ある日、修行の過程で森の中で父と打ち合ったあの日。これまでまともに父に打ち勝つことができなかったのに、その時、森という地の利を生かし、ついに父を打ったのだ。
 けれど、たまたま振り下ろした木刀は父のこめかみを鋭く打ち、父はそのまま呆気なく逝った。これが運の尽き始めだった。周囲は父が嫡子ということもあり、祖父の次代として集落のまとめ役でもあった父を打ち倒した彼を、鬼子として扱うようになったのだ。
 もっといえば、別にそれを面と向かって言われたわけではなかった。だが確実に、自身に向けられる目がそう告げているのを彼は感じ取っていたのだ。
 父のことが嫌いだったわけでもない。好きだったわけでもないが、少なくとも自分の一撃で死に至らしめたという自責の念はある。それは父の、果てはそれは祖父の教えに乗っ取った兵法として打っただけだった。
 その一撃がたまたま受け損ねた父のこめかみを一閃しただけに過ぎないのに、なぜ自分だけがこんなにも蔑まれなくてはならないのか、彼にはどうにも納得できなかった。
 もちろん、父殺し、師匠殺しの罪がないとは言わない。けれど、これが兵法というものではないのか。そう強く思って育ってきた彼にとって、それを落ち度にされては、兵法者として有るまじき考えにしか思えなかったのである。
 であるにも関わらず父を、ましてや逃げ落ちて集落を築いた祖父を、未だ神聖がましく見る村の連中には、彼にとって本気でうつけ者としてしか映ることはなかった。それでいて都合の良い時だけは、自分を次期当主だとか囃したてようとする、そんな愚か者たちを。
 祖父も父も、この地に逃げ落ちたこと自体、再び我が家を再興させるための手落ちだったはずだ。なのに、自身たちがその中で生まれ出る存在であることを忘れているのか。鬼子と扱うことはないだろう。
 であるにも関わらずそうとしないのはつまり、もはや彼らに、再興するだけの力が残っていないことを、十分に示すことと言っても良かった。
 ならばやることは一つ。この乱世に武功を挙げて、我が家を再度復興させる。それこそが悲願を成し遂げるための道筋となった。そのためになら、如何なる手を使ってでも生き延びなくてはならない。もし必要とあれば、この家伝の剣術で、業で、それを成しえてみせる。そう強く願ったからこその人生だった。
 結局彼は齢一八にして一人集落を離れ、旅行く先でつわものたちと剣を交えること二十数試合、二八の時ついぞ織田家の剣術指南役として仕官の口に就くまで、戦場を渡り歩くこと三十余度。戦では必ずしも自軍が勝ったわけではなかったが、挑まれた試合、果し合いに一度だって負けることなく戦ってきた。
 しかし、織田家当主だった信長が配下の明智光秀の勢力に討ち取られると、それも夢幻ゆめまぼろしのように終わり、再び武芸者として、全国を渡り歩くことになったのが十年ほど前のことだ。
(その果てがこれか)
 満点の星空を眺めながら彼はそう思う。お家再興という名目があっての旅路に、ようやく見つけた織田の軍勢への剣術指南役。それももはや過去のことでしかない。その旅の果て、長年の武芸、兵法修行の果てに、いつしか自分にとって、家の再興などという大儀はどうでも良くなっていた。
 本当に自分のやりたかったのは、お家という、そんな曖昧なもののためだったのか? いや違う。この修行の最中で、これまでになかった新しい自分、否、本当の自分を見出したのはそんなもののためではなく、もっと根本的な、ただ自分のため、ただ戦いの中にこそあったのだ。
 だから、織田家仕官の口が見つかった時、素直に喜んだ反面で、どうにもそれは違って感じられた。自分のやりたかったこと。それを再確認することを、織田家当主が討たれてからこの十年で良く分かったのだ。
(おれは家のためでもなく、自分のために戦っていたかったのだ)
 そこに大儀名目なんてものはない。ただ戦いの中にだけに在った。だから、それからというもの誰かに仕官を口利きされても、まるで興味が持てなかった。在るのはただ一つ。戦いたい――それだけが唯一の望みになっていた。
 ところがこの数年は、それすらも落ち目になってきていることを実感していた。かつて織田家当主の側近だった、羽柴なる者が天下を取ったと風の噂で聞いた。この羽柴が、武士たちの大願である天下統一を成してからというもの、大きな戦がまるでなくなっているのを実感せずにはいられなかった。
 もちろん、それでも小競り合いは各地いたる場所で起きていた。しかしそれは、これまでの彼の知るものとは少し性格が違っていた。多くの武士同士がぶつかり合うものではなく、武士に対抗するの農民たちという縮図だ。
 名目は様々だが、いつも渦中に農民たちの姿があった。この乱世で農民のことなどいちいち気遣うことなどできないが、そもそも農民だとか武士だとか、明確な線引のないことを持ち出してくるのもいかがなものかもしれない。
 けれど大きな戦がなくなってからというもの、むしろ彼らは自分のような武芸者にとっては、良い雇い主にすら成り得る場合があったのである。
 だからこの数年はいつも、野盗と化した落ち武者相手に、農民らから幾ばくかの食料と鍛錬することを条件に雇われることが少なくなかった。出世の道などある訳でもないが、ただ戦いたいという、道を踏み外してしまったような自分にとっては、良い口実になり得たからだった。
 今回にしたってそうだった。わずか四〇人にも満たない集落を度々襲う、落ち武者どもの討伐を条件に挑んだ闇討ち。集落の長老らの話では、相手は七、八人ほどで徒党を組んでいるということで引き受けたが、実際には倍とは言わず、三〇人近い人数がいたのだ。
 兵法者ならば、一〇人もいないのであれば闇討ちで十分に対処できる人数だ。しかし、三〇人もいるとなれば話は別だった。話を引き受けて、連中の陣中を遠目に様子見に行っていなければ、話を鵜呑みにしていただろう。
 想定以上の人数がいたということは、もしかすると他勢を取り込んだ可能性もあるが、ともかく一人でどうこうできるような人数ではなかった。
 しかも、相手は野盗とは思えないほどに統率が取られており、どこから攻められても良いような陣を敷いていた。おそらく、連中のかしらは戦場を経験しているだけでなく、そうした戦略にも長けた人物であることが窺えた。
 いくら腕が立とうが、付け入る隙がないのでは意味がない。おまけにこちらは一人。どう考えても仲間を募る必要があった。だからこそここは一旦戦術的撤退とし、集落に戻ろうとしたところを、周到に陣中の周辺を見回っていた連中に勘付かれてしまった。
 二人一組で行動していた見回りの内、一人は斬ったが、もう一人を逃してしまったのが良くなかった。仲間を呼ばれた挙句に、集落とは反対方向へ逃げるに逃げて、気付けばこんな場所にいたのだ。逃げる途中、矢に射られ、鉢合わせした落ち武者と交戦して、辿り着いたのがこの場所だった。
 虫の息になっていた肺に、できうる範囲で大きく呼吸すると、徐々に麻痺していた感覚が戻り始めた。どろりと止め処なく流れる血の量は多く、背中に、肩に矢が突き刺さった痛みが襲ってきていた。
 ここまでの激しい痛みは初めてだ。一瞬のことに気を取られたところを、闇に潜んでいた敵に胸から腹にかけて斬られてできた傷からの流血。出血の多さはこれが原因だった。
 それまでは麻痺していたので気にならなかったが、徐々に戻ってきた感覚は非常に危険であることを告げている。やじりは無理に抜けば激しい出血と痛みを伴う。鏃は幸いにも急所を外しているが、それでも背中に三本、肩に二本という重症だ。
 下手に抜けばそれが命取りになりかねないことを彼は分かっていた。であるのに、仰向けになるとはどういうことか。蹲っていたのは岩場で、ちょうど良く二つの大きな岩と岩の間に、背が挟まっているような状態だったのだ。おかげで、奇跡的に矢が体に食い込むのを防いでいた。
 星空を見つめながら彼の投げ出された右手から、握っていたままの刀がするりと抜け、がちゃんと音を立てながら岩に当たって地面に落ちた。もう一方の手は腹のほうにあり、無意識のうちに腹にしこんでおいた二枚の護符、その一枚を握り締めていた。
 一枚は武士ならば誰もが崇敬する摩利支天尊を模したもの、もう一枚は普段持つことのないはずの不動尊を模したものだ。
 武士ならば摩利支天の加護を得ようとするのは当然だが、もう一方、不動明王の加護というのは、自分にとってなんだかおかしなものだった。格段、不動尊の加護を馬鹿にしているわけではない。だが、一番に信ずる摩利支天の加護を得ようとする自分にとって、はなはだおかしく思われたのだ。
 だからかもしれない……今こんな目に合っているのは。幼い頃から普段身につけない物、あるいは普段とは違うことをやろうとするといつも失敗しがちだった経験から、あまり馴染みのないものを身につけるのは止していたはずなのに、今回、完全にその煽りを受けていた。
(こんなものを身につけたばかりに……)
 いくら「お願いだから」と懇願されても、いつものようにすべきだった。きっと、普段は頼らない不動明王の加護も頼ったばかりに、摩利支天の加護が効かなかったのかもしれない。でなければこんなことにはならなかったに違いない。
 そう思うと、このまま死んでなるものか……つい今しがた死についての考えが吹っ飛び、再び生きることへの活力へと変わっていった。つい今の今まで、指すら動かすのも難しかったはずの体に活を入れ、起き上がらせようとする。
 がくがくと、体を起こそうとすると手が震え、握り締めていた手から邪魔になった護符を離そうとしたときだった。森の向こうから、ざわめくものを感じ取った。奴らだ。総出で自分を見つけ出すために山狩りを始めているのだ。
 撒いたと思ったのに、随分としつこい連中だ。いや、しっかりと軍略に長けた者が大将であるなら、こちらの残存勢力についてもある程度の見込みがあってのことに違いない。当然こちらが少ない人数であることはすぐに見通せるだろう。奇襲をかけるということは、それだけこちらが不利であるということを知っているのだ。
 ならばその勢力について、どれくらいの規模かを知っておくために山狩りを展開するのも頷けるというもので、まさにそれを実行したというわけだ。
 もちろん、敵が実質的に今自分一人しかいないことまでは知られていないだろうが、それが知れるのも時間の問題だろう。もし自分が捕まれば、自分を雇った農民たちは連中の怒りを買い、今後二度と自分たちに刃向かわないよう徹底的に蹂躙され、残っている作物も根こそぎ奪われることは考えるまでもなかった。
 ならばここで自分が死ぬのが一番手っ取り早い話だ。そうすれば連中に悟られることはないだろう。だが、連中も馬鹿ではない。ましてや大将は知に長けた者であるに違いないから、結果農民たちに振り被る不幸は変わらないというものではないか。
 絶対に、そうに決まっている。落ち武者どもも飢えに飢えているのだから、その腹を満たすために、どのみち集落を襲わないはずがないのだ。
 結局、自分が死のうと死ぬまいと変わらないのであれば、変に連中に義理立てする必要があるとも思えない。元々なんの縁もない者たちばかりだ。死にかけている自分が、農民たちのためにあれやこれやと命をかける理由は、たった幾分か奉げられる飯しかないではないか。
 そう思うと、きりきりと軋んだ体の節々から、ふっと力が抜ける。そうだ。こんなことで気張ったところで、何の益もない。今はただただ疲れた。
 おれはただ全てが平穏に過ぎることだけを願って、離しかけていた護符を再びぎゅっと強く握り締める。出立前に、不動尊の護符を手渡したあの若い娘のことをふと思い出しながら。
 その護符は、図らずもあの若い娘の手渡してきた不動尊の護符だった――。





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