白昼夢の終演、僕が見たエトセトラ

些稚絃羽

12.家族というもの

「連れて来ました」

 何度も止まろうとした足を強引な力で無理矢理進まされながら、奥野さんの家までやって来た。ただの民家が、まるで牢屋のような不穏な空気を纏っている。
 僕はここで、警察では裁けない自分の罪を償わされるのかもしれない。多少の痛みは覚悟している。それでもここに来ることを躊躇したのは、全てを破壊するほどの最大の罪を犯してしまうような予感がしたからだ。

 ダイニングキッチンに役者は揃う。集まる視線が肌を流れていく。しかし警察署で浴びた侮蔑と好奇の視線と比べればまだ優しいものだ。
 無駄に時間をかけた規格外の事情聴取で丸一日を削られた。ホテルに帰って眠れたことだけが僕の働きへの報いで、けれど翌朝にはこうして任意を承諾する間もなく裁判員かれらの前に立たされている。

「一先ず座ったらどうかな。お茶でも出すよ」
「いえ、このままでいいです」

 何もかもを終わりにする。今日で全部、僕自身をふりだしに戻そう。

 その時、宙に浮かせた視界にあの瞳が映る。近すぎる距離を認識すると同時に背中に衝撃が走った。床にへばりついたまま、投げ飛ばしてきた男と睨み合う。

「自分が何をしたか分かっているのか」

 息を呑むだけの静寂の中に、しゃがれた声が降り注ぐ。

 イズの声が耳を流れた。
 同族嫌悪? そんな高尚な感情、僕は持ち合わせてないよ。君達が捕まるように算段したのは、僕の知らない場所で風船が割れてしまうのが嫌だっただけだ。

「ちゃんと手柄は警察に差し上げたでしょう」
「そういうことじゃないだろっ」

 感情的に胸倉を掴まれる。初めての経験ばかりだ。感情をぶつけられるのも、暴力的に揺さぶられるのも。細かな皺の一本さえ鮮明な、こんな距離でその表情を見たのはいつ以来だろう。
 きっと、お父さん、と呼んでいた頃のことだ。

「お前が入り込んだのは、一歩間違えば簡単に死ぬような場所なんだぞ」

 それが分からないほど馬鹿じゃない。けれど何を言っても納得してもらえる筈もない。だから本心を率直に言葉にした。

「別に良かった、あのまま死んだって」

 死ぬ気があった訳ではない。でもそうなっても後悔はしないと思った。これまで様々な選択の結果に無駄なほど後悔をしてきた僕だけど、今回ばかりはこれで良かったと思える気がした。
 僕の行動が何かを変える。僕自身とは無関係の何かを僕が変えてしまう。そんな大それたことをしたかった。それが僕という存在の証明になればいいと思った。
 だからそれで僕が終わろうが、構わなかったんだ。

「失うものなんてないんだ。あるとしたらこの命くらいで、それだって」
「……あいつの顔を見て、言ってるのか」

 襟元を握る拳から、布が千切れそうな音が聞こえてくる。
 顔を振れば簡単に視界に入ってくる、母さんの顔。唇を震わせながら赤く充血した目を涙に浸して、それでも泣くまいと力が込められた痩けた頬。
 ひとりリビングの隅で咽び泣いていたあの時も、こんな顔をしていたのだろうか。細かく揺れる背中と漏れる声を覗き見た夜に、駆け寄れば何かが変わったのだろうか。

「見てるよ、ちゃんと見てる」
「それでどうしてそんなことが言えるっ」
「じゃあ、あんたはちゃんと僕のことを見てきたのかよ!?」

 胸倉を掴み返す。さほど厚くない胸板に固めた拳が重くぶつかった。

「傍に居てほしい時に居てくれなかった。でも仕方がない、母さんが居てくれたらいいって我慢して。
 でも母さんが隠れて泣いてるのを見てから、あんたはそれも知らずに他人のために走ってるのかと思ったら悔しくて堪らなかった」

 声が僕の思考を通り抜けて飛び出していく。止められないし、もう止めるつもりもない。抑え込んでいた分を吐き出してしまいたい。

「母さんの傍に居られるのは僕だけだから、ずっと支えていこうって。だから早く大人になりたかった。高校を卒業したらもっとしてあげられることが増える。そうやって明日のことを想像してた、なのに」

 壊れる。今から自分で壊すのだと思うと、怖いようなせいせいするような、それでもまだ他人事のように心の内はぼんやりとしている。

「分かるかよ?
 朝起きて、おはようって入ったリビングの違和感。自分しか居ない家。家族の誰とも会わずに一日が終わって、次の日も、その次の日も、自分の声しか響かない。
 直前まで考えるまでもなくあったものが突然なくなる喪失感が、生きてるか死んでるかも確かめようのない無力感が、あんたらに分かんのか!?」

 眉間の皺。浮き出る額の血管。瞳の複雑な色。
 伝う涙。噛み締める唇。完全なる哀しみの顔。

「僕は、ふたりのことを見続けてた。それでもほとんどが見えてないとしたら、隠していたのはふたりの方じゃないか」

 背中を見るのは嫌いじゃなかった。だけど気付く。背中を見ていた分、知っている表情が少ないことに。
 怒った顔も、泣き顔も、全部見せてほしかった。僕を喜ばせるためだけの笑顔なんて二の次で、不安になっても納得させてくれる表情を知りたかった。

 家族、って何ですか。

「なぁ、ふたりにとって僕は何だった?
 ふたりが築いた「家族」って枠組みの中に、ちゃんと僕は入ってた?」
「歩、そんなの当たり前じゃない……」

 初めて割り込む声。でもどうせなら、僕を頷かずにはいられないくらいに論破してくれよ。

「当たり前? そうかな、僕は当たり前のものなんてひとつもないって知ったよ。どれだけ相手を思っていても言葉にしなきゃ伝わらないことがあるんだ」

――僕には何も、伝わらなかったよ。

 僕だって家族は当たり前にあるものだと思っていた。だけど一夜にして消えてしまうものであると目の当たりにした時、掴んでいなきゃいけないものなんだと理解させられた。そうしてその中で、僕がどれほどちっぽけな存在なのかを思い知らされた。
 母さんが居なくなったのが病気のせいなら、それだって言ってほしかった。ひとりで抱えて出て行かなくたって、僕等が当たり前の「家族」なら一緒に乗り越える道を選んでも良かった筈なのに。

「全部教えてほしかった。苦しんでいたことを隠されて、何も知らされずにひとりにされて」
「それは」
「僕のため? きっとそう言うんだろうね。でも僕は隣に居たかった。それで自分も苦しむことになっても、目の前に居てくれること以上に僕のためになることなんてなかったんだ」

 ただそれだけでいい。そんなことで良かった。誰かのための痛みなら平気だったから。無関係の一線を引かれるよりも、傷付き合いながらでも一緒に居ることを僕は選びたかったよ。


「満足か」

 やっと出した言葉がそれか。つくづく僕とこの人は家族には程遠いらしい。何に憧れていたんだろう。今では欠片を見つけることすら難しい。
 答えずに視線を返すことだけで肯定した。

「お前はいつまで、家族にしがみついているつもりだ」
「学さん、そんな」
「そうやって過去に囚われて、前に進むことをやめようとする。その行為が、これまで出会ってきた人との繋がりを無理矢理引きちぎるもんだと、気付かないのか」

 気付かない訳がないだろ。分かった上で、こうしてゼロにしようとしているんだから。

「あんたの行為だって似たようなもんだろ。あんたのその目に、ちゃんと僕は映ってるか? 母さんのこと、ちゃんと見ていてやったのかよ?」

 何か言いたげにしながらも結局何も言わず立ち上がる。掴まれていたシャツの襟が不自然に形を作って首を撫でた。

 何も変わらないんだな。大事なことは伝えることすらやめて、感情を打ち消して。殴ればいい、そのくらい心の中のものを曝け出してくれたら。そうしたら、少しでも理解できたかもしれないのに。
 そのまま玄関へと向かう背中に、ありったけの声をぶちまけた。

「あんたは誰の味方なんだよっ?!」

 間髪入れず、引き戸が勢いよく閉まる。それは断絶の音だろうか。
――それが、答えなんだな。
 胸の内で何かの糸が切れたような気がした。


「……ガクさんは、弱い人の味方だよ」

 姉川さんがそんなことを言う。 

「被害者だけじゃなくて、それが加害者だろうと、本当に弱い人の味方なんだよ。出会ってからずっと、だけど歩君が家を出てからは余計に熱が入っている気がする」
「どういう意味ですか」

 苛立ちがせり上がる。対等じゃない、僕を援護してくれる人はこの場にはひとりもいないのに。

「ガクさんも、君にしてあげられなかったことがいつも胸に引っ掛かっているんじゃないかな。だからこそこれまで以上に必死になっているんだと俺は思うよ」
「そんなの、勝手な言い分じゃないですか。
 本当に弱い人の味方? それなら味方になってもらえなかった僕は、その価値もなかったってことでしょう」
「違うよ。君は自分を不幸だと思いすぎてる」

 何が分かる、そう思う頭の隅でどこか納得している自分にどきりとする。だって僕はずっと不幸だと信じてきたから。
 だけどあの人は少しだって味方のようではなかった。母さんがひたすら父親の分まで果たしてくれて、そんな母さんが居なくなってからは顔を見せることもなかった。
 また、投げ掛けた言葉を吐き出したくなる。血を分けていてもあの人にとって僕はきっと、他人よりも遠い位置の肩書きのない存在だったんだ。

 しかしそれを姉川さんが否定する。

「自分も離れることを決めたのは、君にそれだけの強さがあるって信じていたからだ」

 綺麗事だ、と思う。出来すぎたシナリオは見ていてうんざりする。

「何の根拠があって、そんな」
「根拠はないけど。でもいつも言ってるよ?
『強い人間は自分の足で立たなきゃいけない、無理にでもそうする努力をすれば他の誰かを支えられるほど強くなれる』って」

 君は強くなったんじゃない? 姉川さんが少し笑った。
 強くなるため、自分の足で立つため。そんなのやっぱり綺麗事だ。どこで何を言おうが、僕に言ってくれなきゃただの文字の羅列だ。もし本当にそう思っていたなら、あの時、説明してほしかった。初めは聞く耳を持たないとしても、理解したいと思えた筈なんだ。
『自分を不幸だと思いすぎてる』。そうだよ、そうやってしか自分を奮い立たせられなかった。不幸な自分を幸せにすることだけが僕の原動力だった。それすらも美談に加えるつもりなら、それは立派な悪だよ。

「歩、誤解しないでね」
「何を」
「学さんはいつも、歩と私のことを、ずっと思ってくれてた。それを伝えるのがとても下手なだけで」

 母さんはそう言って、車椅子を離れた。奥野さんが手を貸そうとするのに首を振って、ひとりで足を引きずりながら歩き出す。

「最初に癌が見つかったのは歩が五年生の時。本当に小さな、初期のものだった」

 独白が始まる。僕が知りたかった真相に向かってゆっくりと、その幕が開く。

「手術の必要はなくて、何度かの治療で腫瘍を消すことができたの。だけどそれからの方がわたしには怖かった。
 再発の危険性。一気に死が近付いてきたような気がして、こんなところで終わりたくないって強く思った。その度に武者震いみたいに涙が出てきたわ」

 その頃だった。僕が母さんが泣いているのに気が付いたのは。あの時には既に病魔が襲っていたことなど知りもしなかった。僕の前では変わらず笑顔を保っていた姿は、母の強さと呼ぶのかもしれない。

「最初の癌のことは、学さんにも言わなかった。ちょうど大きな事件を抱えていて暫く家を空けていたから。それに誰にも言わないことで、なかったことになったらいいと思っていたの。
 だけど、定期検診の時に次の癌が見つかった。再発率の高い時期を過ぎていて、先生も順調ですねって言ってくれた矢先のことで、ついに来たかって思ったわ。
 歩が高校の受験勉強を頑張っているのを見ながら、わたしのことで邪魔をしたくなくて、また言わないことを決めた。今度のは大きくはなかったけど幾つもできていて、学さんに話さない訳にはいかなかったけど」

 当然のことだ。誰もがする選択だろう。そこに父親と息子の差を引き合いに出したって虚しいだけだ。
 母さんはもうそこまで近付いてきている。話す声も止まらない。

「そうしているとね、歩には言わないでおこうって思い始めるの。学生時代なんてその時にしか得られないものが沢山あるのに、余計な負担をかけさせるのは、その方が母親失格だと信じていた。
 できるだけ気付かれないように、手術はせずに治療を続けていたわ。だけどもう限界だった。先生がここの病院を紹介してくれて、後悔しない選択をしなさいって言ってもらった。学さんも、わたしがしたいようにしなさいって言ってくれた」
「後悔、しなかったの」
「沢山したわ。だけどその時のわたしには後悔しない選択なんて分からなかった。打ち明けてもそうしなくても結局何かを背負うなら、歩の進む道の妨げにならない方を選びたかったの」

 倒れるように僕の前に座り込んで、妨げにしかならなかったけど、と寂しそうに呟いた。
 自分が怒っているのか悲しんでいるのか、はっきりしない。やっと自分のこととして話を聞いていたけれど、理解するには多くのものがまだ置いてけぼりだった。

 静かに流れる涙は、それだけで美しい。

 絡み合ったまま蓄積した感情を解いて元通りにするには、相当の時間が要る。時間が経っても元通りにはならないようにも思える。今更どうしようもないことも多くて、だから投げ出してしまいたくなるけれど。

 美しい涙が老いた頬を潤していく。

 今、ここから始められることがあるのかもしれない。そのほとんどを壊してしまっても、欠片を拾い集めて新しい形に変えていけるかもしれない。足りなかったものを知った今なら、歪でも僕等なりの「家族」というものを作っていけるかもしれない。
 何の確証もないけれど、信じ続けてこうして再会できたように、信じることが一歩になるなら。

「歩」

 謝らないでほしい、と願う。いつかはずっとそれを望んでいたような気がするのに。

「探し続けてくれて、ありがとう」

 願いが通じることを家族の証にはできない。だけど、家族になりたいと思うから、俯くのはやめにしよう。
 小さい背中を抱き寄せる。一番言いたかった言葉をここで告げるんだ。

「生きていてくれて、ありがとう」

  

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