鮫島くんのおっぱい

とびらの

おかしな鮫島くん


 ぶらぶら、ゆらゆら、揺れながら、梨太は思考を疾走させていた。

(状況を整理しよう。まず一番最初、構想していく基盤にドンと置いておかないといけないのは――『鮫島くんは僕が好き』という、事実。真実。現実)

 網は柔らかいが、頑丈な布糸に金属ワイヤーが織り込まれたものである。梨太の手で引きちぎるなどもってのほか、暴れてもやぶることはないだろう。吊り下げられている、木の枝が折れる可能性はあるが、そうなると五メートルからの急転直下だ。こうしてつられているのが一番安全だった。

 鮫島もいずれは戻ってくるだろう。助はその時求めればいい。その間の暇つぶしに、梨太は、きわめて個人的なことを考えていた。

(まずはそこを疑わずに受け止める。不動のものにする。それを前提にして――鮫島くんの態度はどういうことだろう?)
(彼は何を嫌がったかを羅列してみるか。えーと、キス、手をつなぐ、抱き着く、裸を見る、一緒に寝る。ひらたく恋人同士の肉体的接触、だな)
(逆に、許容されてるのは何だっけ? おしゃべり、隣に座る、いっしょに食事をとる。虎ちゃんと同じようなことだ。つまり同性の交遊ってことだな)

 フム、と頷く。
 鮫島は、ツンデレではない。照れくさくて、本当は嬉しいのに逃げるということはしないはず。となるとやはり、これが彼の本心ということになる。

 ただの男友達として――

 フムウ、と梨太はうなった。

「……恋人じゃなく、友達になりたいというのは、好意がなくなったってことじゃないのか……?」

 ちがう――のだろう、おそらく。状況から判断すると。
 しかし梨太は、そこに共感が出来なかった。考えれば考えただけ、婚約解消されたとしか思えない。さっき置いたばかりの基盤がぐらぐら揺れる。揺れそうになる気持ちを、体を揺らすことで誤魔化してみた。しかしハンモックで簀巻きにされた状態で大した動きが出来るわけがなく、梨太はまた、大きくため息をついた。

「僕だって、あんまりにもあんまりだと、不安になっちゃったりはするんですよー、っと」

 呟く。――と――不意に、視界に鮫島が現れた。ちょうど、梨太の真下、跳ね上げられた位置に、黒髪の青年が座り込んでいたのだ。その頭頂部に絶叫する。

「鮫島くん!」

 彼は、顔を上げた。

「良かった、戻って来てくれたんだね。えっと、話したいことはアトにする。とりあえず、ここから降ろしてくれない?」

 鮫島は、黙って梨太を見上げていた。純白の肌に青い瞳、いつもの無表情である。高度という距離もあり、感情の機微まではわからない。

「……少し待て。これは獣をとらえるもので、安全だが解除にすこし手間がかかる」
「う、うん。大丈夫、つらいことはないからゆっくりで」

 鮫島の言う通り、罠の解除はなかなか面倒で、時間がかかった。それでも丁寧に吊り下げワイヤーを下ろし、地面で梨太を解放してくれる。せいぜい十分ほどだろうが、猛烈に地面が恋しくなる体験だった。土の上でホウと息をついてから、鮫島に礼を言う。

「ありがと。このまま置いていかれたらどうしようかと思ったよ。いろんな意味で」
「そんなことを、するわけがないだろう?」

 囁く、鮫島の声はこれ以上なく甘く、穏やかだった。そこに奇妙な湿度を感じ、梨太は小首をかしげた。
 手を差し出す鮫島。ありがたく掴って立ち上り――歩きだしても、鮫島はその手を放さなかった。

(……あれ?)

 森の中を、手をつないで、二人で歩く。
 梨太はしばらく、状況が把握できなかった。無言で歩き進めながら、目をぱちぱちさせて、つながれた手を見下ろしていた。

「……ん? あれ?」
「どうした、リタ」
「どうしたって鮫島くん、あーた……。いや何にも文句はないんだけども」

 ぼやく梨太に、鮫島はクスリと小さく笑った。

「お前、可愛いな」
「へっ? はあ、どうも。……?」
「さあもうひと踏ん張り、がんばって歩け。わにの家はもうすぐそこだ」
「鰐? それがこの森の主の名前?」
「……なんだ、言ってなかったのか」

 そう言って、彼はまた笑った。その様子に、なんとなく違和感を覚える。梨太は尋ねた。

「鮫島くん、そのジャンパーはどうしたの? 車を降りた時そんな格好じゃなかったよね」
「ああ……お前とはぐれている間に、鰐を訪ねて借りたんだ。森歩きをするなら、こういうフードのついたもので、首周りを隠した方がいい」
「もう会ってきたって、ずいぶんハナシが早いね。その、鰐さんってどんなひとだった?」

 問われて、彼はしばらく考え込んだ。梨太の前を歩き手を引きながら、淡々と、いつものクールな声で述べていく。

「そうだな。端的に言えば、世界で一番いい男だ」
「……へ、へえ。ふうん」
「まず顔がいい。性格も最高だ。頭もいいし話も面白くて、小さいころからずっとモテまくってきた。美人の嫁と四人の子供もいる、ザ・勝ち組だ。まったく羨ましくってしょうがないよな」
「ええ? ええっと……えっと。鮫島くん、その鰐さんともともと知り合いなの? 幼馴染とか」
「あん? なんだあいつ、それすらも話してないのか。相変わらず口下手というかなんというか」

 梨太の頭の中はもう、疑問符でいっぱいだった。なにかがおかしい。なにかが異様だ。
 改めて、鮫島の全身をまじまじと見つめる。……鮫島、だった。このラトキアで数えるほどしかいないという、艶やかな黒髪。うなじから先はフードで隠されていたが、長髪がそこにあるはずである。
 白い肌、高い鼻、細い顎。端正な横顔に、切れ長気味の青い瞳――

(……あれ? なんか、目の色が違うような)

 鮫島の瞳は、深い紺色。光が届くぎりぎりの深みまで潜った、深海色だ。だが今日の彼はもう少し明るく見える。彼の姉である鯨と同じ、強い水色――夏の天空色だった。

「――ルードは、オレの双子の兄だよ。見た目はそっくり瓜二つ……だけどオレと違って、明るくてイタズラ好きでね。小さいころからクゥのフリをして、周りを混乱させるのが大好きだったのさ」
「……あ……あ、あの……あなた、は」

 『鮫島』は振り向いた。にっこり、満面の笑みを浮かべている。梨太が見たことのない、鮫島ならば決してしないであろう、邪悪な笑みだった。

 戦慄する梨太の手をぐいと引いた。長い腕の中に梨太を閉じ込めて、クスクス笑いながら囁いてくる。

「ついでにもう一つ、オマケの情報。……鰐と鮫、二人はオンナの好みまでもがよく似ている」

 ぞくっ、と背筋が凍り付いた。全身が総毛だち、梨太は反射的に逃げ出そうとした。だが抱擁は力強く、騎士団長にも決して見劣りしない拘束力があった。

 梨太は悲鳴を上げた。
 鰐は、悲鳴もなく倒れた。
 鮫島は悲鳴じみた声で絶叫した。


「なに、やってるんだ、ルゥ! ばか!!」

 目を回して倒れた男の真後ろに、同じ顔の青年が、頭から湯気を立てていた。その手には巨大なフライパン。
 さらに、背中に赤ん坊を二人おんぶして、梨太の愛する鮫島くんがそこにいた。

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