鮫島くんのおっぱい

とびらの

梨太君の真剣全力本気

 鯨よりも、鮫島のほうが復活は早かった。腰を抜かした姉に手を振って、

「大丈夫、だ、鯨。俺は大丈夫っ……」

 声は明らかに狼狽していたが、さすがは軍人、メンタルコントロールは巧みだった。深呼吸ひとつで、とりあえず体を立て直す。

 胸を張り、梨太を見下ろす。男の声で彼は吐き捨てた。

「……相変わらず、可笑しなやつだ。こんなところまで、俺を笑わせにきたのか」

「人生そんなにヒマしてないよ」

 軽口で返すと、彼は皮肉げに口元をゆがめた。

「ふざけやがって。……気持ち悪い」

 梨太の唾液で、わずかに濡れた唇を乱暴にぬぐう。

「見ての通りだ。俺は男になった。もう、あの時とは状況が違う」

「うん」

「……お前に対する気持ちも、変わっている。もうなんの興味もない」

「嘘つき」

 梨太は言った。あまりにも強い言い切りに、一瞬、鮫島がひるむ。だがすぐに表情を消した。

「嘘じゃない。約束とやらも、何のことだかわからない」

「嘘だね」

「待ってなんかなかった。帰れ。もう二度とここには来るな!」

 梨太は鞄から、文庫サイズの書籍を取り出した。『ラトキア人のからだとこころ』。さほど多くないページをベラベラめくる。
 目的の記述を見つけて読み上げた。

「ラトキア人の体には、常に男性器と女性器の両方があります。しかし一方が表に出ている場合、もう一方は機能しません。性転換周期に合わせ、外見だけでなく、内面も、それぞれの性にあったものへと変化していきます」

 ページをめくり、さらに読む。

「恋人や伴侶に対しての気持ちも、異性愛から同性目線へと変化します。しかし、愛情がなくなるわけではありません。ひとそのものへの親愛はもちろん、触れ合いたい、そばにいたいという身体的な欲求もそのまま継続されるのです。恋人が性転換したときには、そのことを理解したうえで、デリカシーのある行動をしましょう……と。
 こちら、ラトキア王都で買った本は嘘っぱちなの? 軍の監修が入ってるらしいんだけど」

 鮫島は一度、鯨のほうを一瞥した。心配そうに男二人を見まわす姉。鮫島は再び胸を張った。

「個人差がある。それは、一般論だ。生まれつき性別が固定の者もいるんだから、あてにならない」

「うん」

「……友達としての好意ならある。……よく来てくれた。会えて嬉しい、リタ」

「うん」

「だがその程度でしかない。俺はお前への興味を失った。お前に触られてももう、怖気おぞけが立つだけなんだ」

「嘘つき」

「……。嘘じゃない。……いや、ほんの数か月前までは、たしかに。……好意は、あった」

「うん」

「五年間――ずっと会いたかった」

「うん」

「……だから……話をしようとして。それで牢に入れられた。それが事実だ」

「うん」

「そして、現状がこれだ。……俺は男になることを選んだ。これからもずっと、男として生きそのまま死ぬ。お前との生活より、俺はそうすることを望んだ――」

「嘘だ」

「嘘じゃない。わかったらもう、ここから出ていけ。お前の望むことにはならない」

「嫌だ」

「帰れ。――近づくな。出ていけ!」

 一歩踏み出す、その距離だけ鮫島が逃げる。梨太は大きく踏み出した。退いた鮫島の背中が、狭い牢獄の壁にぶつかる。
 抱きしめようとした梨太の腕。それより長い、鮫島の手が伸びる。彼の指が梨太の首を掴んだ。

「ぐぅっ――!」

 一瞬で顔色を変えた梨太に、鮫島は呪詛を吐く。

「帰れ!」

 白い指が食い込む。梨太は反射的に、鮫島の手首を掴んでもがいたが、たくましい腕はびくともしなかった。

「く、ぐ……ぅ……っう――」

 ――かつて、指を重ね、手のひらを合わせた。梨太の首に這い、細い爪痕を刻んだ指に、首を絞められて――梨太は笑う。


「――かえら、ない。君が、嘘をついているから」


 さらに圧が増した。じわじわと気管をふさがれて、酸素を求めて梨太はもがいた。
 鮫島が吐き捨てる。

「本当に絞め殺すぞ」

「鮫ッ!」

 悲鳴を上げたのは鯨だった。

「ダメよ、鮫! やめて! 離して!」

 絞めつけられた喉を震わせて、梨太はなんとか、言葉を紡いだ。


「いいよ……そのまま、絞めて、も」


「リタ君!?」

 鯨が叫ぶ。白んだ視界で、鮫島の表情は見て取れない。鯨の口調からして、よほど鬼の形相を浮かべているらしい。
 平常心ではない。だが正気を失くしているかまでは分からなかった。
 咳すら出ない喉、残り少ない酸素を絞りだし、言葉を紡ぐ。

「一生を……君と、過ごす、ために、この星に来たんだ。きみ、に、なら……それを奪われるのも、似たようなものだよ」

「リタ君!」

「あげるよ……」

 鮫島の指が、ゆっくりと緩んでいく。急速に酸素が胸に入りこみ、梨太はむせ返った。悶絶している梨太のうなじを、もう添えられていただけの指が摩擦する。それはほんの一瞬の愛撫だった。

 鮫島が離れる。梨太は一歩、それを追った。
 佇む鮫島に寄っていく。さほど高くはない鼻先が、触れるかどうかという位置で、梨太は足を止めた。
 そのまま――ただ、彼を待つ。
 膠着こうちゃくの時間は、案外短かった。

 鮫島の腕が持ち上がる。ゆっくり、ゆっくりと――垂れ下がっていた両手を上げ、開き、閉じて――鮫島はそうして、梨太を抱きしめ、己の胸に監禁した。


 抱擁は堰を切ったように、深くて強かった。梨太の体を抱き寄せ、鮫島は縋り付いてきた。梨太の肩に押し付けられた彼の鼻先、唇が震えている。その振動が伝わる。五指をめいっぱい開き、梨太の肩にかぶりつく手のひら。その湿度ごと抱き留めて、梨太は彼の背中をさすった。

「もう大丈夫だよ」

 触れている感触もないほどに、優しく。

「任せて。大丈夫……」

 梨太の腕の中で、鮫島はしばらくじっと、身を強張らせていた。青年のぬくもりが皮膚にしみこみ、ゆっくりと、その緊張をほぐし、溶かしていく。鮫島は目を閉じて、無言のまま天井を仰ぎ――笑った。

 声を上げて、高らかに、彼は笑った。

「リタは、可笑しい。面白い奴だ」

 くつくつ、笑いの衝動で振動する鮫島の体。梨太は頬を膨らませる。

「なんだよう。冗談で言ってないよ?」

「わかっている……」

 そして鯨を見やる。
 何もかもをあきらめた、吹っ切れた面差しで。


「……俺の負けだ」


 鮫島はそう言った。
 鯨は膝から崩れ落ちた。
 長い睫毛の隙間から、ぽろぽろと雫が零れ落ちた。

「……なんて、こと。……台無しだ。ラトキアが――鮫が、落ちたら、一体だれがハルフィンの後を継ぐというのよ……」

 鮫島は梨太の腕から離れると、泣き崩れる姉へと歩み寄った。そして姉の肩を抱いた。

「鯨。……ごめん。助けになれなくて、ごめん」

「もうだめよ。終わりだ。終わり……ハルフィンの守ってきた法が、ラトキアの政治が、終わる。これで終わり……!」

 膝を付け、少女のように鯨は泣いた。背中を撫でる弟に縋り付き、気丈な女将軍は声を上げて泣いていた。

「――ごめんなさい、あなた……」

 鯨は床に額をつけ、泣き崩れた。

「泣かないで、鯨さん」

 梨太は笑う。

「大丈夫、あなたのことも救う。鯨さんも、鮫島くんも、このラトキアも。
 ――僕が、ラトキアの星帝になるよ」


 鯨はぽかんと口を開け、涙にぬれた空色の目を見開いていた。隣の鮫島は、やはり同じくぽかんと口を開けていた。
まったく同じ表情をすれば、この姉弟はやはり、よく似ている。

「……ヒック」

 二人は一緒にシャックリした。
 とりあえず鮫島のほうは放置して、現時点、ラトキアの最高権力者に視線を定めた。
鞄から、三冊目の本を取り出す。『ラトキアの政治と経済』――付箋に向けてぺらぺらとめくる。

「えー、……経済や治安維持では今のところ順調なラトキア政府が抱えている問題は、大きく分けて二つ。ひとつ、身分差別問題。赤と青がお互いを憎み合い、スラム出身者は職業選択にかなり不自由で貧困化、治安の悪化に悩んでいる。ふたつめが、後継者問題。
 つまるところ、星帝ハルフィンとその妻である鯨さんは、一つ目の問題を何とかするために、一生懸命政治をやっておりました。いろいろな法案を出し、試行もされておりました。それはとりあえず前向きに、うまくいっているようでした。ところがこれらを不動のものとして成立させるには、次期星帝もまた、おなじ志の者でなくてはなりません。なぜならラトキアでは、星帝二期にわたって施行された法律は以後不動の憲法に格上げして制定することが出来る――そうでなければ、また法律が変わってしまうからです。
 ところがそうしてくれそうな後釜が誰も出てこずに、そのまま星帝は死去、息子もまた死亡。未亡人になった鯨さんは途方に暮れて、いよいよ後継者に困り果てて、弟に縋った。
 ――ここまで合ってる?」

「……合ってる」

 うなずく二人。また動きがそろっている。

 梨太は書籍をしまい、さらにまた別の本を出す。『星帝の歴史』。

「ラトキアの星帝は世襲制ではない。平民が星帝になるための条件は三つ。
 ひとつ、貴族の肩書き。ふたつ、前星帝の承認。みっつ、その他の将軍や有力貴族の推薦と承認。
 その三つをつなげて具体的なルートを言うと、貴族の家に養子入りしてしばらく奉公しつつなんらか功績を立てて貴族称号を頂き、星帝に立候補して、鯨さんプラス何人かの政治家から『まあいいんじゃないか』ってハンコがもらえたらいいわけだ。……合ってる?」

 再び、頷く二人。それを確認し、梨太は再び話し出す。

「ラトキアが侵略者たちから独立して二百年、移り変わってきた星帝の履歴を読んでみたよ。たいていは生まれつき大貴族だけど、平民出のひとや、オーリオウルの血族もいる。この本以外にもいくつか、隅から隅まで読み込んでみたけれど……『地球からの移民』がなれない理由、というのは見つからなかった」

 ぱたん。分厚い本を閉じ、梨太は改めて鯨に向き直った。まだきょとんと目を丸くしたままの鯨。梨太は彼女に命じた。

「僕が、ラトキアの星帝になる。
 そしてあなたの傀儡になってあげるよ。前星帝ハルフィンと、そして鯨さんがやりたかったこと、やってきたことをそのまま継いで、未来永劫それが続くようにしてあげる。
 ……そのために、あなたはこれから、二つのことを確認してください。
 ひとつ。僕が星帝になる、それが本当に可能であるか。ふたつ。可能ならば、それに必要な条件を。
 地球人であることが不利にならないからって、有利な条件は何もないんだ。ライバル候補だっているでしょう。僕が彼らに勝つことができるかどうか――不可能って結論が出たらまた考えるので、とりあえずこの二つを、なるべく早く解答をください」

「は……はい」

 鯨はのそりと身を起こし、夢遊病のようにふらふらと、牢を出て過ぎていく。鍵も、鉄柵の扉すらも開いたままだ。
 そうして彼女は一度、姿を消して――全力疾走で戻ってくると、仁王立ちで絶叫した。

「なんでよ! なんなのこの超展開!! わたし、全然ついていけてないんだけどなにこれなんでこうなったの!?」

 鯨の絶叫に、梨太はキョトンと目を丸くした。何を当たり前のことを聞くのかと、肩をすくめ、こともなげに。


「なんでってそりゃ……これが、あなたと、僕と、鮫島くん、全員の望みすべてを叶える唯一の方法でしょう?
 僕は決して、破天荒なことをやりたいわけじゃない。だけど絶対譲れないことがあるなら、それに向けてなんだってやる。そのための努力は惜しまない主義なんだよ」

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